あなたの本質は動けない

久しぶりにクルマを洗ってあげようと思いたって、少しでも楽をしようと考えて自動洗車機を使うことにしたのです。

この時期、外で待つのはしんどいなと思って洗車されてる間クルマの中で待つことにしたのです。

猛烈な勢いで水や洗浄水などが噴射される様を、内側から見ていられるのもちょっとした魅力だったからです。

もちろんクルマはずっと停車したままの状態でいて、周囲を取り囲んでいる洗車の機械が前方からゆっくり後方へと移動するのです。

その時に、クルマがゆっくりと前へ進んでいるとしか感じられない状態になったのです。何となくそんな気がするというレベルではなく、完全に自分が動いているとしか思えない。

一瞬、停止しているはずのクルマが動いて前方の壁にぶつかるのではないかと心配したほどです。

ああ、錯覚だと理解したのですが、まさかバックに進む感じはしないだろうと思っていたら、機械が後方から前方に移動してきた時には、やはりクルマがバックしているように感じたのです。

それもものすごくリアルに。周囲が動いていて、クルマは停止しているのに、その真逆に感じてしまうという錯覚が起きたということですね。

だとしたら、普段クルマを運転している時、自分が動いていて周囲の土地は不動だと思い込んでいるだけかもしれないのです。

実は自分は不動であって、周囲が移動していると。自分の本質が純粋な意識であれば、それは大きさも位置もないので移動するという概念が当てはまりません。

であれば、真実はあなたの周囲だけが動くということです。もしくは全体性というあなたの本質はあらゆるところに遍在しているということ。

やはり動きようがないのですね。

人生のしつこいパターン

もしもあなたが、幼い頃に両親や家族から何かと世話を焼いてもらっていたとしたら、大人になっても世話を焼いてくれる人が現れるはずです。

もしもあなたが、高圧的で正しさを押し付けるような両親に育てられたとしたら、学校であれ職場であれ、必ずや高圧的な先生や先輩、上司に出会うことになるのです。

もしもあなたが、非常に身勝手な親に育てられたなら、大人になっても身勝手極まりない人と縁ができるのです。

もしもあなたが、理不尽だなと感じてしまう家族に育てられたなら、それ以降の人生で何度でも理不尽な人たちに遭遇してしまうはずです。

このような繰り返しを人生のパターンと呼んでいます。そしてこういった不思議な出来事というのは、決して偶然ではないのです。

幼い頃に経験した人間関係は、それを癒さない限りはその後の人生の至る所で繰り返される運命になってしまうのです。

理由は非常に簡単。経験したエネルギーがそれと同じものを再び呼び寄せるからです。こうしたことは、大なり小なり誰でも身に覚えがあるはずですね。

この永久ループから抜け出したいのなら、最も初期の経験をしっかり見直して、その時の思いや感情を味わってあげることです。

自分1人では難しいと感じるのでしたら、プロのセッションを受けることをお勧めします。

子供は大人の父親

私が生まれ育った家の一軒あけた隣の家に、ヨシカズちゃんという同年齢の友達が住んでいました。

彼とは中学校を卒業するまでずっと一緒でした。小学校低学年の頃、夏の暑い日に自宅のベランダで2人でただじっとしていることがありました。

母親はそれを見て、いったい2人はそこで何をしているのだろうと不思議に思っていたそうです。そりゃあそうでしょうね。

ジリジリする太陽の日を浴びながら、そこでただ黙って2人でじっとしていることが私は好きだったのだと思います。

彼は、どういうわけかいつも従順で、私がすることを同じようにする子だったようで、だから特に会話をする必要もなかったのです。

身体を動かすことが嫌いということは決してなく、運動する時には活発な男の子だった私ですが、身体を動かさずにいることの魅力をどこかで知っていたのです。

彼もそれを感じてくれていたのかどうかは、本当のところわかりません。けれども、あの感覚というのは今で言えば瞑想に近いのかもしれないと思うのです。

ある人の言葉で、「子供は大人の父親」というのがありますが、それは子供の頃の奇妙な体験というのは、その後の人生全体について何かを提示しているのだろうということです。

正直に言って、私はあの頃の少年の頃の自分に戻っている感じがするのです。あのヨシカズちゃんとは、その後会うことはなくなりましたが…。

◯◯上戸は危険信号

会社員だった頃の同僚の男性で、飲み会の席でいきなり赤ちゃん言葉になってしまう人がいました。

最初のうちは、本人も周りもただふざけているだけだという認識でいたのですが、そのうちそれが止まらなくなって初めて、ちょっとした異常を感じるのです。

本人は翌日になっても、それをうっすらと覚えているらしく、朝非常に低姿勢で職場に現れるのです。

何度かそれを経験しているこちらとしても、明日になったらまた後悔するだろうからやめた方がいいと飲みの席で注意するのですが、その時にはもう止まらないのです。

そして案の定次の日は決まって、しょぼんとしたうつむき加減で出社するのです。当時は一体彼の中で何が起きているのだろうと思っていたのです。

今ならわかるのですが、彼はきっとなんらかの理由で幼い頃に自由に言いたいことを言えない状況にいたのでしょうね。その不満がアルコールによって解放されるわけです。

お酒を飲むとこのように、普段とは違う態度になってしまう人というのはどこにでもいます。

笑い上戸になったり、泣き上戸になったり、はたまた怒り上戸等々。それは、それらの感情を十分に表現することができなかった過去があることを物語っているのです。

ただし、逆は必ずしも真ではありません。つまり、お酒を飲んでも変わらないからといって、自分は感情を抑圧していないと考えるのは間違いです。

そこのところは、体質が関係しているので、安易に決めつけることはしないようにしてください。その上で、続きを書きますね。

かつて、ある女性のクライアントさんで、アルコールが入ってくると、周りにいる人を殴ってしまうという人がいました。これは怒りが溜まっているのですね。

もしも◯◯上戸の傾向があるという自覚があるなら、過去溜め込んでしまった感情があるということを理解することです。

その上で、しっかりと癒しを進めていくことですね。さもないと、感情は思いもよらぬタイミングで爆発してしまうことになるかもしれません。

さらには、溜め込んだ感情は、その波動と似たエネルギーを持った現実を惹きつけることになるので、人生が台無しになってしまう可能性があるのですね。

母親の影響が大

これは一般論ではあるのですが、多くの場合に子供が直接的に影響をより強く受ける相手というのは、父親ではなくて母親だということ。

もちろん父親と母親の関係性の中で、父親の影響が母親に行き、それが間接的に子供に降りてくるということはいくらでもあります。

ただ、直接的にという点では、母親なのです。父親と一緒にいる時間の何倍も母親と共にいる時間が長いというのもあります。

それにもかかわらず、父親からの影響が大きかったと感じている人は少なくありません。それにも理由があるのです。

それは、父親の方が母親に比べて分かりやすいというのがあるからです。父親は単純で、怒ったら怖いけど機嫌が良ければ大丈夫と言った具合。

ところが母親というのは、なかなか複雑なのですね。父親のようにはっきりしていないどころか、よりわかりづらい点はネガティブなエネルギーで絡められるから。

何があったとか、どうされたということよりも、一緒に暮らしている時間、母親のエネルギーにずっと侵されてしまうということがあるのです。

それが嫌なものであっても、子供は何が嫌なのかを表現できないし、ただ闇雲に怒りを溜め込んでいくしかないのです。

敏感タイプの子供であれば尚更です。こうした事実に気がつけば、よりピンポイントで癒しを進めて行けるはずですね。

擬人化に興味がない

何年か前のことですが、知り合いの男性があるときポツッと、「神はいると思うんだけどなぁ」と呟いているのを聞いたことがあるのです。

独り言のようでいて、それでも周りにいた数人に聞こえるように言ったのだと記憶しています。

彼は、クリスチャンでとても真面目に教会関連の集会などに赴き、いろいろなボランティア活動などもこなす、ナイスガイなのです。

その時の私の反応はというと、「……」でした。というのも、肯定も否定もなくて、ただ言葉を見つけられずにいたというのが正直なところ。

本当はちょっとしたショックというか、こんなに身近なところにまだもって神を擬人化してる人がいるんだなと知って、びっくりしたのです。

私はどうも擬人化というのが苦手のようで、子供の頃から神をどこかにいる偉大な人物のように例えるのを聞くと、馬鹿馬鹿しいと感じていたのです。

それもあってか、仏像などにもこれといった興味がなく、もちろん芸術作品的な見方はできるのですが、それは仏とは何の関係もないと見なすのです。

お寺の奥に御本尊が鎮座ましましている姿を見ても、なんだか偉そうな感じはしても、そこにどんなご利益も感じないのです。

バチが当たると怒られそうですが、それは仕方がない。ただただ興味がないということですね。

家族ぐるみの宗教漬け

私はいわゆる宗教というものとは縁遠い人生を生きてきました。それでも若かりし頃は、どんな教義があるのだろうかという、ちょっとした好奇心はあったと思います。

でもなぜか深入りするようなこともなく、逆に宗教という言葉に若干の異物感を感じる、ごく一般的な日本人だったわけです。

ところが、この仕事をするようになって、意外なほど多くのクライアントさんが、何らかの宗教団体に属しているという事実に出会ったのです。

そしてそれが理由で人生をひどく苦しい状態にしてしまっていることに気付かされたのです。その理由もいたってシンプル。

教義の中で、より良い自分になれ!ということを教わるのですから。裏を返せば、今のままのお前ではダメだ!という事を毎日仕込まれるのです。

私はいつもこのブログでも触れているように、より良い自分、より正しい自分を目指すなら、いつか病気になるという事に気づいて欲しいのです。

幼い頃に、その目標と現実の自分との間の落差に辟易して、惨めさをたくさん溜め込む事になるのです。

と同時に、目標である理想の自分になろうと虚しい努力を積み重ねた結果がウツになるのですね。

こうしたことを見つめると、正しさを教える宗教がどれほど人の人生を破壊してしまうのかが分かるというものです。

日本の家族制度の中で、親がそうした宗教にはまり込んで、家族ぐるみで正しさを押し付けられた子供は、どうすることもできません。

成長して、家の環境が劣悪だったことをしっかり認めて、必要な癒しを進めて行くしかないですね。

ルールや正しさから離れる

私のこれまでの人生の中で、2度ほど生きるのが楽になった時があったのです。一つは小学5年生の頃であり、もう一つは会社員を辞めた45歳の頃です。

小学4年生の頃までの自分は、真面目で正義感が強く、毎晩寝る前に1人で反省会をしているような子供でした。

その日一日の自分の言動を思い出しては、どこかどういけなかったのか、もっと正しい生き方がなかったのかをレビューするのです。

先生と友達との間に挟まれて苦しかったことを覚えています。先生の正しさも理解できるし、でも友達の気持ちも分かるといった具合に。

そのせいなのか、5年生くらいになってから次第に正しいこと、正義にあまり興味を持てなくなっていったのですね。

その結果、ひとり反省会は消滅して、代わりに気持ちのいい自由さを手に入れたような気がしました。正しさから解放されたということです。

ところが社会人になって、根っこにあった真面目さがまた顔を出すようになり、知らぬ間にどんどん社畜のようになっていったのです。

正確に言えば、社畜のように見えて実は単に自己防衛が強くなっていってしまったということです。

その結果が大腸癌という病を引き起こし、小学5年生の時に感じた自由をもう一度取り戻したくなったのだと思います。

自分が家族の大黒柱として働かねばという正しさから離れる覚悟を病気がプレゼントしてくれたのでしょうね。

自分を癒すというのは、培ってきた正しさやルールを傍に置いて生きるようになるということです。

今となっては、もうすでにだいぶ自由に生きてはいるのですが、できたらもう一度くらいどでかい自由を手にするチャンスがやってこないかなと思って、楽しみにしています。

その愚かしさを見る

この世界には悪いことはありません。罪悪とか劣悪とか、とにかく「悪」の字が付く言葉は沢山あるのですが、その悪がないのですから。

それは単なる思考、イメージなのです。その代わりと言ってはなんですが、くだらないこと、馬鹿馬鹿しいこと、愚かしい事はたくさんあります。

その代表格が、「自分はダメだ」、「自分はこのままだと価値がない」という信念ですね。

この間違った愚かしい思い込みがあるおかげで、人々はより立派な自分になろうと奮闘努力をするのです。

その目標に近づいていくことが成長だと勘違いしているのですから、本当に愚かしい限りです。

本当の成長とは、自分の間違いに気づくこと。自分のままではダメだという愚かしさに気づいて、目標に到達しようとするあらゆる努力を落とすこと。

実際、気づいてしまえば落とすなどという作業は必要なくなります。あるがままの自然な姿にOKを出せれば、目標など自ずと消えてしまうからです。

善悪があると信じていること自体が愚かしいことだし、その馬鹿馬鹿しさ全体を丸ごと見てしまえば、それだけで事足りるのです。

そのあとは、自動的により気楽な自分になっていることにびっくりするでしょうね。誰のマインドも全部その仕組みも働きも同じだと見抜くこと。

そうしたら自我が大好きな「ランク付け」も全くもってくだらないことだと一掃することになるでしょうね。

公的自己と私的自己

公的自己というのは、他人との関わりの中で養われていく自分のことです。社会の中で生きて行くには、必要なものですね。

じゃあ、独り部屋で過ごしているときには、私的自己になるのかというとそんなことはなく、あくまでも公的自己のままでいるのです。

それはとても面倒臭いことになってしまっているのですが、あまりにも公的自己のことを自分自身だと強く信じ込んでしまったために、それが外れなくなったのです。

あまりにも長く一つの仮面をかぶっていたら、自分の素顔のことを忘れてしまったということに近いかもしれません。

この公的自己のことを、一般的には自我(エゴ)と呼ぶわけです。どうですか?あなたには、公的自己である自我の他にも私的自己というのがある、と言われてもピンとこないでしょう?

それもそのはず、私的自己のことは幼い頃に次第に忘れていった残念な経験をしているからです。

最初は少しずつ、私的自己から徐々に公的自己へとグラデーションのように移り変わり、気がついたときには私的自己は奥深くへと葬り去られたのです。

公的自己である自我にとって、私的自己を思い出すことは危険を伴うことになると感じるからでしょうね。

そんなこんなで、私たちはみんな自我として毎日生活しているのです。そして時々は私的自己を垣間見る体験をする人もいるのです。

私的自己とは、私たちの本質、純粋な意識、全体性、どんな呼び方でも同じです。それに気づかずに死ぬのは、本当に勿体ない。

いずれは公的自己が落ちて、代わりに元々の私的自己が出現することになるのでしょうけれど…。