強迫性障害

出かけるときに家の鍵を閉めたかどうか不安になって、戻って確認してしまうという人は意外に多いものです。これはクセではなくて、不安な心がそうさせてしまう一種の症状だと言えます。

鍵だけでなくて、電気を切り忘れていないかとか、ガスの元栓を閉めたかどうかなど、確認しないではいられない症状は本当に多岐に渡ります。

症状が軽い場合には特に気にする必要もないのですが、何度も繰り返さねばならないとなると、遅刻してしまったりすることも出てきます。

そうなると、本人としてもとても困ったことになったなと自覚するようになるかもしれません。この不安からくる症状は、確認だけではなくて、いくら手を洗っても洗い終えた気になれないというような症状の場合もあります。

お風呂で何度身体を洗おうと、何度シャンプーしてもどうも洗えてる気がしないというようなものです。ひどくなると、何時間もお風呂から出られなくなってしまうこともあるのです。

こうしたものは、精神医学の世界では強迫性障害というように呼ぶこともあるようです。私自身は病名には何の思い入れもありませんので、なぜそうした症状が発生するかということと、どうすればそうしたことが治るのかということにだけ興味があります。

そうした症状をお持ちのクライアントさんと対面していて、私が個人的に感じるのは、どうもそれは満たされない強い不満な気持ちを持った意識が邪魔をしているように思えるのです。

何かをやり終えると本人はすっきりとした気持ちになってとりあえず満足するのです。手を洗い終えたとき、鍵をしっかりと閉めたとき、そうした一種の満足した気持ちになるのです。

ところが、その満たされない気持ちがそれを妨害しようとして、いつまでもやり終えて満たされた気持ちにさせないという症状が出てくるのではないかと感じるのです。

大人の自分だけに満足させてなるものかという感じで、心の奥に潜む満たされてない自分の意識が邪魔をするということです。

したがって、その症状を緩和するためには、満たされていないで文句を言っている昔の自分のことを思い出して、その心を受け止めてあげることが必要なのです。

こうした症状はかなりしつこいものですので、自分一人ではなかなか解決できない場合が多いかもしれません。専門家に相談することも一つの手ではないかと思います。

無価値感の原因

誰もが幼いころに、自分は駄目なんだという間違った思い込みをしてしまうのです。それはきっと思い出せないような2~3歳くらいの時に心の中でやってしまうことのようです。

ですから、多くの人はその自覚すらありません。私たちが自覚できるようになるのは、その後少したってからのことです。

幼稚園に行きだすくらいになると、自分への駄目出しに自覚できるようになる子もいます。その頃になると、駄目出しの理由もはっきりするのです。

しかし、一番最初に駄目出しをするようになった頃の本当の理由は明らかにはなっていません。なぜなら、そこには駄目出しするような本当の理由はないからです。

理由もないのになぜ駄目出しをするようになってしまうかというと、それは何かとても耐え難いと感じるような事態がやってきたと感じているからです。

それは、場合によって異なりますが、たとえば弟や妹が生まれて母親にとっての一番を奪われてしまったと感じることかもしれません。

あるいは、今まで怒られたこともなかったはずなのに、どういうわけか大好きな親からきつく怒られるようになったと感じることが原因かもしれません。

理由は様々ですが、共通していることは気が付いたら急に毎日が辛く苦しいものになってしまったということなのです。

その時に、幼い子はそれはきっと自分が駄目だからに違いないと思い込もうとするのです。そうすることで、苦しさに理由付けをして何とか自分の気持ちをやり繰りしようとするということです。

そしてそんなことは、すっかり忘れて成長していくわけです。そして後に残るものといえば、理由がはっきりしている自分への駄目出しだけなのです。

それは勿論後付けの理由であるわけで、大元の駄目な理由は隠されたままになってしまうのです。その大元の駄目な理由は実は何もないので、結局自分の存在自体が駄目なのだという苦し紛れの理由をでっち上げるのです。

それが、自分の存在価値に気づかない心、つまり無価値感というものを作ってしまうのです。もしも、心当たりがあるときには、自分を駄目出ししている幼い気持ちに寄り添ってあげることが癒しの第一歩になるのです。

明日は明日の風が吹く

以前にも確か書いたことがあるのですが、小学生のころの自分はこの「明日は明日の風が吹く」という言葉が大好きでした。

どうにもこうにも準備というのが苦手で、明日のために今何かをしなければならないというのがとても億劫に感じてしまうのでした。

100歩譲って復習はできても、予習というのはとてもできませんでした。だから、オルガンとかヴァイオリンなどを習ってたりしたのですが、予習しないので全く上手にならずに終わってしまいました。

どうも未来のことを考えるのが苦手なのです。発表会があっても前日の夜にギリギリになって親から言われて練習するというような状態でした。

何かに困ったら、その時に対処すればいいじゃないという生き方とも言えます。未来の自分が困らないようにと考え出すと、きりがないくらいに不安の種が生まれてくるからです。

この傾向は実は今でも変わっていません。ただ、それをうまく使いまわす方法を体得してきたようには感じているのです。

それは、元々この言葉は、明日のことを思い悩んだり不安になって憂いたりせずに、今に集中しようよと言う程度のことなのです。

この点は子供のころから結構できていたと思います。問題は、明日のために今日やるべきことをやらないという点だけなのです。

ここを何とかすればいいわけです。明日の準備のために今の貴重な時間を費やすという考えではなくて、それは今の自分が今やることだという発想に転換することにしたのです。

つまり明日のためにというニュアンスを捨てて、あくまでも今の自分のために今やることがあるという考え方に変えたのです。

なんだそんなことかと思われてしまいそうですが、自分の中ではそこそこ効果をあげています。ただ当日の自分に対して、頑張ってねという他力本願的な思いはしぶとく残っていますが。

受け入れられない思い その2

昨日は、受け入れられないという心の状態こそが、苦悩を作り出す唯一の原因だというお話しをしました。だから苦しみたくなければ、何でも受け入れてしまえばいいということになります。

でもそれができないからこそ苦しんでしまうのですから、一体どうしたら受け入れることができるようになるのかということを知る必要がありますね。

そもそも受け入れない心とはどういうものなのかについて考えてみます。受け入れないということは拒絶していることを意味します。

拒絶するのは恐怖がそこにあるからなのです。そして恐怖とは自分が傷つけられてしまうかもしれないという危機管理の機能が発動した状態で起きるのです。

つまり、受け入れない思いとは、それが自分にとって危険だと感じる心から生じるのだと言うことが分かります。

結婚したいと思っている人にふられたら、自分の人生に危機感を持ってしまうということです。本当は危険ではないと気づけばいいのです。

その後にもっと素敵な人とめぐり合えるかもしれないのですから。入りたい学校の試験に落ちたら、やはり今後の人生にとって危険だと感じるのです。

しかし、本当はそんなはずはありません。どこの学校に行ったかなど、後になったら人生レベルでは大した重要なことではなかったと分かるからです。

健康でいたいのに病気になってしまったら、やはり危険だと思うわけです。ですが、病気になって気づくことも沢山あるわけですし、一概に傷つくとは言えないのです。

こうして見ていくと、受け入れない思いにはある一つの共通したところがあると分かります。それは事態を近視眼的に見てしまっているという態度です。

後で考えたら笑い話になってしまうということはよく聞くことですね。すべてを人生レベルで捉えるようにできたら、大きな視点で見ることができたら受け入れることは比較的たやすくなるのです。

受け入れられない思い

どうせ長くてもせいぜい100年以下の人生であるならば、笑って楽しく毎日気持ちよく生活したいものですね。これに異論がある人はあまりいないはずです。

ですが現実はというと、そうそういつもいつも笑顔で喜びに満ち溢れて生きていくわけにはいかないと思っているのです。

現実はそれほど甘くないということかもしれません。自分がどう望もうが、身の回りに起きてくる現実をコントロールすることはできないわけですから。

求めていたことと異なることが起きれば、それは喜んではいられなくなるということですね。つまり、期待と起きることの食い違いが私たちの苦悩の原因だと思っているのです。

結婚したいと思っている人にふられるとか、入りたいと願っている学校の試験に落ちるとか、健康でありたいのに病気になるとか、すべてこのパターンです。

しかし、私たちが本当に喜べない理由、苦悩してしまう原因とはそれではないのです。起きていることを受け入れることができないという事こそが、本当の苦しみの原因だということです。

よく処世術として、あきらめるということを使って、期待に反することを受け入れたつもりになることはできるのですが、それは実は本当の願いを抑圧したに過ぎません。

抑圧して感じなくすることで、もう大丈夫とするだけなのです。そして、その抑圧された渇望する思いは、いつか投影となって自分の身に降りかかってきます。

つまり同じように、渇望しても手に入れられないという体験を作りだしてしまうのです。こうしたことは、抑圧を解放するまで人生のパターンとして繰り返すことになります。

自分の苦悩の原因は一重に事態を受け入れない頑なな自分の心にあるのだということを一度しっかりと考えてみることです。

そしてできるところからで構いませんから、あきらめるのではなく、受け入れようとする練習をしていくことが大切なのです。

しっかりと受け入れられたなら、その時には気分は爽快になるはずです。もうわだかまりがなくなった心の状態になれるからです。

何が起きたとしてもこうした受け入れる心を養っておくと、苦しみは少なくなるはずです。その代わりに、笑顔で気持ちのいい人生に変えていくことができると思います。

スイス銀行に100億円

今日気づいて欲しいことがあります。あなたはスイス銀行に100億円相当の預金を持っているということを。今まで手付かずで全く使ってはいませんでしたが、確かにあるのです。

日々の生活で金銭的にきついなと思っても、手をつけずにとってあるのです。誰にも知られずに、預けてある額はそのままに保存されているのです。

誰かにそのことを話したとしても、きっと笑って取り合ってはくれないでしょう。だから誰にも言う必要もないのです。でも事実としてお金はあります。

そして、自分が本当に困ったときには、その口座から必要な額のお金が自分に与えられるような仕組みにもなっているのですから、今後の人生は心から安心できますね。

将来お金がなくなって餓死するようなことは絶対にないということです。少しぐらいの困り方ではその仕組みは発動しないことになっていますが、本当に困ったときには自動的に振り込まれてきます。

それなら、これからの人生何だってできると思いませんか?そのことにさえ気づいてしまえば、頑張らなくても生き続けられるという保証をもらったようなものですね。

もうあなたは、今日から胸を張って明日を憂うことなく、自信に満ちた心で穏やかな毎日を過ごすことができるはずです。

これからは何を心配すればいいのでしょうか?今後はどんな不安があなたを苦しめることができるでしょうか?そこを少し考えていただきたいのです。

これほどの安泰な状態が約束されたとしても、もしもまだ心配の種や不安がどこかに残っているとしたら、それは経済的なことではないということですね。

その部分をしっかりと見つめることが大切です。もしも、もう不安はないということでしたら、思い切り安泰が約束された自分の人生をエンジョイしてください。あなたの隠し口座には100億円があるのですから!

値踏みする気持ち

何かを購入しようとするときに、自分にとっての適正な価格というものがありますね。こういうグレードのクルマならこれくらいとか、このブランドの服ならこの程度はするというような目安があります。

その想定された価格よりも高いと感じると、それを購入するのは何か損をしたように感じるはずですし、また思いのほか安いと感じれば、得したように思うものです。

思ったよりも低価格だと心の中で喜ぶ時には、静かにしているかもしれません。しかし、逆に意外に高いなと感じたときには結構な理不尽さを味わってしまうでしょう。

そのときには、もっと安くならないんだろうかと正直値切りたい気持ちにもなったりするのです。実際にそうするかどうかは別として、心の中ではきっと文句を言うことになります。

そのようにして、私たちはいつも何かを値踏みしています。それには大きく分けて二つの要因があると考えられます。

一つ目の要因は、自分がその対象物にどれだけの価値を見いだしているかということに大きく影響するのです。

レア物の古着のジーパンに数十万円の値が付いていても、それに価値を感じる人は平気でそれを購入するのでしょうし、欲しくもないジーパンを何か必要に迫られて買うなら、三千円でも高いと感じるかもしれません。

そして、三千円のジーパンでも値切りたいような気持ちになるのなら、自分にとってのそのジーパンの価値を下げることになってしまうのです。

ジーパンならまだしも、自分の人生にとってとても大切な意味があると感じるものに対して、それを値切りたい気持ちになるとしたら、それは自分の人生の価値をも下げることになってしまうと気づくことです。

私たちが何かを値踏みするときのもう一つの要因とは、必ず自分自身の価値との関係を考慮しているということなのです。

極端な貧困でないにもかかわらず、身の回りのものを常に高すぎると感じている人は、自分の価値を低く見積もっている可能性が高いのです。

経済的な豊かさというのは、自分の価値をどの程度に値踏みしているかということに関係している面もないとは言えないということです。

これは大切だと思うものに対しては、値踏みしないほうがいいくらいなのです。そしてそれを購入するときには、代金を支払うというよりもお金を与える気持ちになることです。

そうすると、それからより多くの大切なものを得ることができるのです。与えることは与えられる結果を起こすことになるからです。

自分の中の確かなもの その2

その部分と繋がると、不安が消えていくのが分かります。このままだと困ったことになるなあという事態に陥ったとしても、その部分が安心をくれるからです。

昨日もお話ししましたが、その部分は必ず誰の心の中にもあるはずです。長い間、人の心ばかりを扱ってきて分かるのですが、誰の心も本質的には全く同じなのです。

自分の心は他の人のそれとは明らかに違うと感じているのは、そう信じているからです。実は何の違いもないのです。

信じたことがその人の真実となってしまうだけです。自分は人とは違うと思い込んでいる心の部分、それをエゴと呼びますが、私たちはその部分を意識して生きていると言うことです。

だから自分は誰とも違う一人の人間だと信じているのです。そして、誰の心にもある確かな部分こそが、実は本当の自分だということです。これは信じるということとは違います。

そして驚くべきことに、その部分は誰もが持っているというよりは、すべての人が共有している一つのものだということです。共通の属性ということではありません。

全人類60数億人全員で共有しているということです。したがって、それと自分の意識が繋がると、みんなは自分だということに気づいてしまうことになります。

だからそこでは争うということも比べるということもなく、したがって裁くということもできなくなってしまいます。なぜなら、すべてが自分であるからですね。

対象物がないのですから、自分が傷つけられるという心配がなくなってしまいます。だからといって、独りという感覚とは全く違います。

あまねくすべてが自分だいう大きな心です。だからこそ、不安や恐怖から開放されて、それと繋がると安心がやってくるのです。

誰もがそれと繋がることができます。そのことを否定する気持ちが強いと邪魔されてしまうかもしれませんが、それでもいずれはみんながその部分のことに気づくことになるはずです。

なぜなら、その部分こそが本当の自分の姿だからですね。気づくために必要となるのは、それに対する否定的な思いをやわらげてあげることだけです。

他には何も必要ありません。努力することも修行のように何かをひたすら実行することもいらないと思います。ただ、心を静かにしてその部分を意識してみようと心がけるだけでいいと思います。

信じなくても構いません。それはきっと信じる心よりももっと大きな何かだと気づかせてくれるはずだからです。

自分の中の確かなもの

私たちは何かを信じることもあれば、また他の何かを信じないこともあります。信じていることは、それがその人にとっての真実となりますし、その逆もまた言えますね。

たとえば神の存在とか、この宇宙はビッグバンで大爆発して今も膨張し続けているとか、人によって信じている人もいれば全く信じられないと思っている人もいるでしょう。

UFOや宇宙人の存在にしても、信じる信じないはそれぞれ人によって違いがあります。また、ある人が信じているものが変化してしまうことだってあります。

昨日までは全く信じてなかったのに、今日になったら信じられるようになってしまったとか、その反対のことだってごく普通に起こりえます。

そのくらい、信じる信じないということについての人の心とは、いつも流動的なのです。私は長い間ずっと無神論者でした。

今でも実は神様というような擬人化した言い回しは好きではありません。敢えて言うと、神というのはすべてという意味くらいに考えています。

この世界で絶対というものはもしかしたら、一つたりともないのかもしれませんね。常に物事は変化し続けていますし、何もかもが時間の流れとともにあるのです。

どんなに信頼できる人であったとしても、その人が気が狂って殺人を犯してしまう可能性がゼロであるとは言えないはずです。

そういう意味では、私たちはある意味「不信」の中で暮らしていると言えます。100%確証のできるものなど探さないほうが無難なのです。

そんな中で、自分の心の中に一つだけ確かなものがあるように思うのです。私はそれを頼りに生きているのではないかと思うようになってきました。

それは自分が今までに学習してきたどんなものよりも確かなものです。生きていくための知恵でもないし、何かの能力でもないし、人から聞いた崇高な考えでもありません。

でもそれは、確かに自分の中にあって奥の方から自分を見つめていてくれるのです。生活の雑多なことに翻弄されてるとそれを見失いがちになりますが、落ち着くとまた存在を感じることができます。

それは自分が何かを信じるということを完全に超越しているのだろうと思います。信じるかどうかということではなくて、ただ分かっているのです。

これを書いている今もそれをしっかりと感じることができます。きっと、それこそが本当の自分に近いのではないかと感じるのです。みなさんはどうですか?きっと誰の心の中にも同じようにそれはあるはずです。

愚痴を言わない聞かない

私が10年前まで勤めていた会社で一番いやだったのは、人の悪口でした。仕事を終えて仲間同士で飲みに行く楽しい時間なのに、誰からとも知れずに社長その他の管理職の悪口が始まるのです。

悪口というよりも、愚痴を言い合って互いに傷の舐めあいをしているような、あるいは自分は彼らほど馬鹿じゃないという見下しをしているようで、そこにいるのがとても苦痛でした。

そういうときには、いつも「会社がいやだったら辞めれば」と言ってたと思います。そうすると、また楽しい話題に切り替わるのですが、しばらくするとまた始まるという具合でした。

つまり、愚痴を言っている人はあまりその意識がないままに言い出してしまうわけです。よほど、鬱憤が溜まっているということでしょうね。

愚痴を言い合って日頃の憂さ晴らしをすることで、その時はスカッとしたいい気分になるのかもしれません。しかし、それは麻薬のような一過性の快楽を得ているに過ぎないのです。

愚痴を言い続けている人とは、麻薬を投与し続けて何とか生き延びているような人だということです。辛らつに聞こえるかもしれませんが、本当のことです。

ですから、相手の愚痴を聞き続けてあげている人は、麻薬の打ち手だということになってしまうのです。あまりに相手が辛そうなら麻薬の注射でも打ってあげたくなるのが人情ですね。

親は子育ての過程で子供の話をよく聞いてあげることがとても大切なのですが、それが現実には親子が逆転してしまって、親自身の愚痴を子供に聞かせ続けてしまう場合もあるのです。

幼い子供はやさしい心を持っていますから、いやだなと思っても辛そうな親を見捨てることができないために、自己犠牲を強いてまで親の愚痴を聞き続けてしまうのです。

自己犠牲の蓄積は必ず怒りの塊へと変化します。その怒りが、後々今度は自分が誰かに愚痴を聞いて欲しくて仕方ないという現実を起こしてしまうのです。

そうした悪循環を断ち切るためには、自分自身がまず人の愚痴を聞かないという態度を作り上げることです。この決断はとても重要です。

私が個人セッションでクライアントさんのお話を聞くのは愚痴を聞いているのではなく、癒しを進める上でヒントとなる大切な情報をキャッチしたいからなのです。

愚痴を言いたい気持ちが悪いのではなく、それを独りで開放しないことが問題なのです。セッションでは怒りのワークの方法をお伝えしています。それを繰り返すことで、少しずつ愚痴を言いたい衝動が減っていくはずです。