心の中の愛を探す その2

昨日のつづきです。

自分の心の中に、何かとても確かな部分があり、それは自分の今まで生きてきた信念や信条を超越しているというお話しをしました。

私はそれを愛という名前で呼ぶことにしていますが、名前など本質的なことではありません。それの存在に気が付いていないなら、一緒に探してみませんか?

それは自分が何かと戦っていると感じると影を潜めて分からなくなってしまいますので、少しだけ気付くためにはコツがあるかもしれません。

たとえば、自分を小さく小さくしていって、一つの点になるくらいまで縮めてしまうか、あるいは逆に自分を拡大していってこの世界と同じくらいにまでしてしまうのです。

そうすると、自分というものは消えてしまいますが、視点だけが残ります。その状態は自分が攻撃されるという心配がなくなった状態ですね。

ある意味透明人間になったような、あるいはどこかしこに自分があるわけで攻撃のターゲットにはなりえないと分かります。

それは自分を無防備にしてくれるので、その状態のまま周りを見回してみると、比較的それの感覚で周りを見ることができるようになります。

瞑想しながらでも、お風呂にゆっくり浸かりながらでも試してみるといいかもしれませんね。私たちが幼い子供や小動物を愛しいと感じるのは危害を加えられる心配をしないですむからです。

それは上記と同じように、自分を無防備の状態にしてくれるのです。だから心の中のそれが発動して愛しく感じるということです。

それと一つになること、愛の心を思い出すこと、それこそが幸せな状態だと思います。大仰なことではなくとてもシンプルなことですね。

心の中の愛を探す

以前どこかに書いたことがあるのですが、最初に奇跡のコースを読み始めたときに、いきなり大きな壁にぶち当たりました。

それは、あなたが何を真実だと思っていようが、それとは違うところに本当の真実があって、それは信じるかどうかということを超越しているというものでした。

「私が主張していることだけが正しい」と言っているどこかの宗教の教祖様のような口ぶりのように聞こえて、それにはとても反発心を感じました。

興味のある本なのにここで頓挫させてしまうのは勿体無いとは思うものの、自分を偽って読み進めることは自分にはできないことも知っていました。

それでも、自分を越えたところに…というのは何となく分かる気もしました。それは日頃から、自分に分かっているレベルなど、あらゆることの中のほんの塵のようなレベルでしかないという気がしていたからです。

そしてもう一つ、その時にとても大きな助っ人が現れました。それはずっと昔から自分の心の中にあった、ある大きなずっしりとした部分なのです。

いつもは忘れられているのですが、その壁を乗り越えられないと困っていたときに、それを思い出したのです。もしかしたら、これが愛なのかもしれないとも感じました。

確証はないのですが、ずっと以前から心の中にあるのは知っていたのに、どういうわけかそれを使わないように使わないように注意して生きてきたという思いがありました。

この部分は自分の思考によって何かを信じるということとは、かけ離れている感覚なのです。つまり、自分の信念を超越している部分とも言えるかもしれません。

自分はその部分を信じることにしました。それこそが、自分の信念や正しさを超越した真実に近いものかもしれないと考えて、奇跡のコースを読み続けることができたのです。

誰の心の中にもあるはずのこの微動だにしないどっしりとした平安な部分。私の心にはそんなものはないと思っている人は、きっと気付いていないだけです。

お腹が痛くてトイレを探して必死になっているときに、穏やかな深い心のことを忘れてしまうのは仕方のないことですが、それと同じ事なのです。

この人生で何かに翻弄されてしまっている心の状態では、それの存在を感じることは難しくなってしまうのです。自分も本当に忘れて生きて来たという実感があります。

今でなくても、ちょっとした心のゆとりができたときにでも、心の中にその部分を感じてみてはいかがでしょうか?

愛は比べない

私たちは一日として、何かと何かを比べないで生活することはできません。いい悪いということを抜きにしても、これはもう決定的としか言いようがありません。

なぜなら、比べるということをしない限り、区別をつけることができないからです。ここに鉛筆があると認識すること自体、それ以外のものとの区別なしではできないのです。

そう考えてみると、比べるということはこの世界の基盤であるとも言えますね。身の周りに一つひとつの物があると分かるのは、比べるという作業をしているからです。

でも私たちはこの比べるということについて、あまりいい印象を持ってはいません。比べるのはよくないという一般的な共通認識があると思います。

それは比べることによって、何かを値踏みするとか、区別から差別に発展してしまうというようなネガティブな要素が絡んでいると思うからです。

しかし、自分は誰かを批判したり裁いたりもしたくないので、何事も「比べない、比べない」と呪文のように唱えたとしても、それは到底無理な話しなのです。

比べることは一分一秒ごとの自分の生活にしっかりと根付いてしまっているのですから。ところが、比べることをやめようとしなくても、心の中の愛を発動することができれば、おのずと比べるということが少なくなっていくのです。

愛は比べるということをしないからです。通常私たちが愛と呼んでいるものは、エゴのレベルの愛なので、比べることを全くしないということにはならないはずです。

それでも、確実に比べることへのエネルギーの使い方が小さくなっていくはずです。そして、その愛が徐々に純粋な愛に近づけば近づくほど、比べることが減っていくことになります。

そして最終的にはもうほとんど真実の愛に近いとなると、比べることができなくなって、それは物を区別することができない状態になってきます。

そうなると、一つひとつの物や一人ひとりの輪郭がぼやけてきて、すべてが一様に見えるようになるかも知れませんね。愛だけの世界を垣間見た人はそんな体験をしているようです。

能力を発揮させない

幼いころは、自分の母親は比較的過保護気味ではなかったかという気がしています。他の友達のお母さんとは違うなというのをはっきりと感じていました。

その頃の自分には言葉で表現することはできなかったのですが、今になって感じてみると母子関係が密着していたように思うのです。

何もできない幼い自分を好いていてくれるのだと感じていました。それは逆に言うと、大人になって何でもできるようになってしまってはいけないという感覚でもあったのです。

あれやこれやと世話をしてくれる母親が大好きでしたし、言葉は悪いですが便利に使っていたのかもしれません。

しかし、小学生の3,4年くらいになると、自立心が出てきて自分でできるようになりたいという思いがはっきりとしてきたと思います。

ところが、その時に母親の世話にならない自分は好かれないのかもしれないとどこかで感じていたのではないかと思うのです。

その思いがずっと心の奥底にあって、人生の中で邪魔をしているように感じてきました。自分にはこんなことができるようになるはずがない、そういう感覚というのはいつもつきまとっていたからです。

これは、自分の能力に自信がないというだけでなく、能力を最大限使ってできるようになってはならないという制限のようなものという気がしています。

幼い頃の快適な毎日にあこがれている心がまだあるのかもしれません。ずっと、一芸に秀でた人にあこがれのようなものを感じていました。

自分は決してそうはなるはずがないという思いの裏返しですね。そして、その奥には一芸に秀でてはいけないという禁止の気持ちが隠れていたのかもしれません。

みなさんはどうですか?有能で何でもできる自分に本当になりたいと思っているでしょうか?自分に対して最大限の能力を使っていいと許可を与えているでしょうか?

一度じっくりとそうしたことについて、心の中を点検してみるのも無駄ではないと思います。

愛の出し惜しみ

自分が持っているお金は確かに有限ですから、それを使うときには後先のことを考えてそうそう何でも買えるわけではありませんね。

無駄使いをしてはいけないと子供のころに親からも言われていますし、浪費癖は敵みたいな感覚というのは誰でも多少は持っていると思います。

ですがいつもいつもそのことばかり考えていては楽しくなくなってしまいますから、ときにはパ~っとお金を使って何かを手に入れるなり旅行するなりして気分転換も必要です。

使うことで減ってしまうものについては、そうしたやり繰りを上手にすることは確かに大切なことだと思いますが、使っても使っても減らないものはそんなことを考える必要はありませんね。

愛はどれほど使ったとしても減らないどころか、使った分だけ増えていくのです。これが愛の法則です。コースではそのように表現しています。

目に見えないもの、たとえば情報なども同じように使っても発信しても減ることはありません。人の思いというものも、いくら相手に伝えたところで減りはしないです。

愛はただ減らないだけでなく、増えるのですから使わない道理はないはずです。それなのに、私たちはどうしたわけか、愛を出し惜しみしてしまいます。

その理由はいくつかあると思いますが、一つには使ったらその分減ってしまうという上記のような固定観念のような考えが浮かんでしまうからではないかと思います。

使ったらそれだけ減るので損をしてしまうという発想が邪魔をするのです。たとえば、相手に心地よくなってもらいたいと笑顔で出迎えたのに、文句を言われたらその笑顔を作るエネルギーを損したと感じるようなものです。

でもそれは愛ではありません。愛を使って、愛を与えて損をしたと感じることはないはずです。それどころか、必ず愛を与え返してもらえるのです。

もしもただ理不尽な損をした思いだけが残ったと感じるのでしたら、それは愛を与えてはいなかったということだと気付くことです。

もしも自分はもっと使えるはずの愛を出し惜しみしているかもしれないと思い当たることがあれば、使うことよりも使わないでいることの方が損をしてしまうと気が付くことです。

みんなで愛を出し惜しみをしないように、逆に愛を与え合う世界にしていけたらいいですね。

幸せ以外は目指さない

人生とはおのれの魂を磨く学びの道だというようなことを聞くことがありますね。何かとても崇高な雰囲気を感じてしまうのは私だけでしょうか?

この言葉はややもすると誤解を生みやすいのではないかと思います。私たちは誰もが幸せになるため、あるいは幸せだと気付くために生きているのです。

目的はただそれだけです。そのことに徹するべきだと思うのです。他の目的を持つと、本来の目的が知らず知らずのうちにないがしろにされてしまう可能性があるからです。

親切な人になることを目的としない方が得策です。なぜなら、親切な人が必ずしも幸せとは限らないからです。しかし、幸せな人はみな親切な心になってしまいます。

やさしい人になることを目指す必要はありません。やさしい人が必ずしも幸せとは限らないからです。しかし、幸せな人は100%やさしい人であることは間違いありません。

魂を磨いて崇高な自分になろうと努力する必要など全くないということを分かって欲しいと思います。ただ、幸せに気付くように心がけて生活することだけです。

幸せとは満たされていると気付くこと、ただそれだけなのです。何の努力も必要ありません。自分をどうにかしようと躍起になればなるほど、この大切なことに気付くことが難しくなるのです。

ピアノの練習を沢山してテクニックを磨いてより上手に弾けるようになろうとするのは、自分がより楽しむためであって、より優れた自分になるためではないはずです。

もしも、人からの評価やコンクールなどで優勝することを目的とするなら、この限りではありませんが。人生もそれと同じなのです。

この生を思い切り楽しむこと、満たされること、そうして幸せに気付くことこそが唯一つの生きる目的なのです。それ以外の目的を持ってしまうと、人生は空回りして幸せは手に入らないのです。

当たり前の幸せ

夕べ、セブンイレブンで買ってきた安い日本酒を冷やして飲んでいたのですが、そのお酒のビンのラベルに次のように書いてあるのを見つけました。

「奥多摩には奥多摩の酒がある
そんなあたりまえが幸せに思える時もある
あたりまえを今夜も飲む」

なんだか飲みながらほのぼのとした気持ちになりました。あたりまえが幸せに思えるとは、慣れ親しんだことに感謝の気持ちを感じることができるということだと思います。

以前コラムか何かに書いたことがあるのですが、蛇口をひねれば飲める水がいくらでも出てくることにとてもありがたいと思ったことがあったのです。

雨風をしのげる家や寒い冬にタイヤを転がして自分を運んでくれるクルマも本当にありがたいものです。今この仕事ができるのもインターネットの普及のおかげです。

そういうことは普段忘れてしまっているのですが、何かの拍子にふと感じることができます。いつもあたりまえのようにいてくれる家族や友人もありがたい。

人は誰かの手助けや支援などがなければとても独りでは生きていくことが出来ません。どんな人でも、生きている限り誰かの世話になっているのです。

当たり前すぎて分からなくなっているだけですね。そして、もっと本質的なことを言えば、私たちは生まれたからには生きていく力を何か大きなものから授けられています。

働かないと生きては行けないと思っているのは単なる思い込みなのです。生きていけることを保証されていることに気付くことです。

それが分かると、今日自分が生きているということの当たり前が本当に幸せな気持ちに導いてくれるはずです。感謝しかなくなってしまいますね。

罪悪感の海

気が付いていようといまいと、私たちの心は深い海の中に沈んでいるようなものだと思って下さい。それはとても重みのある、ずっしりとしたまるで水銀のような海水でできています。

実際は水銀などではなくて、罪悪感という思いで作られた海なのです。その海の深いところに私たちは見たくない自分自身を隠しているのです。

罪悪感とは自分への駄目出しをする意識ですから、その中には否定せざるを得ないような自分ばかりが入っています。未熟さや情けなさ、惨めさや醜さなど、あるいは憎しみや絶望などです。

そうしたものを他人からも自分からも隠そうとして、その罪悪感の海の中に沈めてしまったのです。その中には、とても言ってはいけないような本音も含まれているかもしれません。

そうしておいて、海上に出ている自分がニコニコとして周りの人達とこの社会で暮らしているのです。海上に出ている表面的な自分と海の中深くに沈まされている自分とはかろうじて、細い管のようなもので繋がっています。

その管を通して、空気やエネルギーを送りつつ、互いにほんの少しだけのコミュニケーションを気付かない程度にはしているのです。

海上の自分が理不尽な思いをしたときには、腹も立つのですが、怒りを露わにしてはいけないという罪悪感の力によって、自分の言い分と怒りはその海の中にある心の中へと伝送されてしまわれてしまいます。

海上にいる自分が何食わぬ顔で淡々と生活ができるのはこうしたメカニズムが働いているからです。このような生活を何年も続けていると、海の中に沈められて隠したつもりになっているネガティブな自分が肥大してきます。

いやな思いを我慢するたびに大きく成長してしまうからです。そして、時期がくると、それは爆発するように海上へと向かうのです。但し管が細いために一度に出てくることはできません。

その時になって初めて自分の心に何か大きなものが隠されていると人は理解します。薄々は感じていたものの、それは都合の悪い自分であるために気付かないでいられたのです。

そこで人は癒しが必要なのだと気付くのです。癒しは二つのことを同時に平行して進めていきます。一つは罪悪感を感じてしまう裁く心が拠り所とする自分の正しさを手放していくのです。

そうすると、罪悪感でできた海水の圧力が減少するために、その中に置かれて固まっていた自分の心が少し緩んできます。そして、二つ目の癒しは、その緩んだ心の中の怒りや本音を開放してあげるのです。

この二つの相乗効果によって、比較的無理なく本来の自分が海上に出てきてくれるようになるのです。それは言葉では表現できないくらいに、気持ちのいいものです。

そうやってようやく、自分は生きているという実感を得ることもできるのです。本来の自分で生きるとはそういうことなのです。

自分の正しさを手放すということが本当に大切なことだということが分かっていただけると思います。

急ぐ心

早くしないと学校に遅れてしまうとか、急がないと会社を遅刻してしまうと思って焦ってしまった経験は誰もがもっています。

日々、クライアントさんと向き合っていると早く癒しを進めて楽になりたいと強く思ってらっしゃる気持ちを感じるものです。

それは確かに当然のことなのですが、実はこの急ぐ心というのは意識が未来に飛んでいってしまっていると言えるのです。

早くもっとこんな自分になりたい、できるだけ早くこうしたい、こうありたいなど、常に急ぐ心には今の自分を否定する気持ちが隠れているのです。

今を肯定しつつ、よりよくなりたいということであれば決して急ぐ心は発生しないのです。ここで盲点となるのは、急ぐ心は今をないがしろにしがちになってしまうということです。

今というこのときを大切に生きるよりも、未来のことを思って生きてしまうのですから、エネルギーを浪費していることになってしまいます。

全エネルギーを今に集中することができたら、私たちはもっともっと充実した気持ちを感じることができるはずなのです。

自分が何かにせかされているように感じるとしたら、それには必ず自己否定や罪悪感の気持ちがそのバックに隠れていると思って間違いありません。

私たちは、どこへも急いで行く必要などないのです。明日は急がなくても淡々と巡ってくるのですから、今日に意識をしっかり向けることです。

今日がいい日であることこそが、明日もいい日であることを保証するのです。それは、真の心の平安は永続的なものであるからです。

明日のために今日を犠牲にすることのないように、自分の気持ちと常に向き合って急ぐ心をしっかりとたしなめることができるといいですね。

言いたいことを言おう

誰一人として理由もなく相手を攻撃したいと思っている人はいないはずです。もしも自分が相手を傷つけてしまったと感じたら、私たちは大抵は罪悪感を感じてしまいます。

自分の言った一言で相手の顔が曇ってしまい、明らかに悲しい気持ちにさせてしまったと分かったら、悪いことをしたなと思うのです。

これはとてもやさしい、相手をいたわる気持ちの表れだと言えますね。しかし、そのことを恐れるあまりに、伝えるべきことを抑えてしまうことが続くと今度は自分の心を傷つけることになってしまうのです。

一度や二度ならばいいのですが、こうしたことが日常的に繰り返されてしまうと、長い間にはとてつもない自己犠牲の塊ができてしまい、それは必ず大きな怒りへと変化します。

私たちは自分が相手を傷つけようとしていない限りは、本来何を自己表現してもいいのです。不幸の始まりは相手を傷つけたいという憎しみだけです。

そのつもりがないのであれば、恐れずに伝えるべきことはしっかりと伝えるべきなのです。それができないのは、今度は相手をいたわる気持ちではなく、自分を守ろうとする意識だといえます。

自己防衛は必ずや自己犠牲を伴うのです。ですから、防衛のし過ぎは人生を破壊してしまうことになると覚えておく必要があります。

このことは何度言っても言い過ぎることはありません。そのくらい、私たちは自分を抑えることに慣れてしまっているからです。

自己表現するというのは、自分の言いたいことをストレートに言う、自分の本当の気持ち、本心を相手に伝えるということですが、それには感情表現も含まれます。

人前では冷静でいられなくなってしまうのは、とても不本意だと思うのが普通の感覚ですが、相手にぶつけるようなことをしなければ、感情を表現することもとても大切なことです。

遠慮のない自己表現は子供っぽくて嫌いだという人がいますが、それはその人自身が自己表現を抑えているからなのです。

そうした自己犠牲を手放し、勇気を出してただ素直に表現しようとすれば、周りの人たちはかならずそれを受け止めようとしてくれるのです。

あなたはしっかり自己表現できていますか?こうしたことをよく見つめてみることはとても大切なことだと思います。