傷ついた心

催眠療法のセッションの中で、時としてクライアントさんの幼い頃の状態が悲惨な様子で見えてくることがあります。

あるときは、ものすごく傷だらけで身体からは血がたくさん滲んで出ていたり、擦り傷や打撲、骨折していたり赤黒く顔が腫れたりしていることさえあります。

こうした姿というのは、幼い頃のクライアントさんの心の様子を表していると言えるのです。ボロボロに見える服を着て、身体も汚れていてお風呂にもろくに入ってないような場合もあります。

勿論、現実にそうしたことがあったわけではないのですが、心の状態を視覚化することによってそんなように見えてしまうということなのです。

ご本人もそんな子供の頃の自分を見て本当にびっくりしてしまうのですが、どうして今まで気がつかなかったのか不思議な思いに駆られるかもしれません。

そんな悲惨な様子を目の前にして、大人の自分はどうすればいいのか分からなくなってしまうものです。身体に触れたらそのか細い身体が壊れてしまいそうに感じるからかもしれません。

しかし、もっと驚くことがそこには隠されています。それはそんないたいけな傷ついた自分を可愛そうと思うだけでなく、その逆に憎んでさえいる意識があるということです。

そんな惨めな情けない自分など、自分ではないとして無視しようとしているのです。そして、自己嫌悪の元となるために、その子を激しく憎悪しているのです。

ご本人にとって、本当に傷ついた心というのはそのようにして、自覚のないところで切り捨てられてきたということです。

このままでは決して心を癒していくことはできません。一つは、その傷ついて手の施しようもない幼い姿に寄り添って、やさしい愛のエネルギーで包んであげることです。

そしてもう一方では、そうした痛んだ心を憎んでいる意識に対しても、その気持ちをしっかりと受け止めてあげる必要があるのです。

そうしたことを繰り返していく事で、ほんの少しずつ心の奥にしまいこまれて見ることがなかった傷ついた心が癒されていくことになるのです。

人を非難したい気持ち

私達の誰もが幸せになりたいと思っているはずなのに、実はその裏で人を非難したいという思いを隠し持っているのです。

しかも、悪い人を非難しつつ同時に自分は幸せになれるとも思っているのです。なぜなら、自分はそんな人とは違って悪くないとも信じているからです。

しかし、誰かを非難しようとしたり、実際に非難しながら幸福感を味わうなどということが本当にできるのでしょうか?

もしそんなことが可能だと思えるとしたら、それは自分の正しさと幸福感とは同時に手に入れることができると信じているということになります。

奇跡のコースでは、正しさと幸せは二択だと言っています。つまり、どちらか一つしか手に入れることができないと教えてくれているのです。

したがって、自分の正しさ、自分の判断や解釈の正当性を証明するために誰かを非難したり否定しておきながら、同時に幸福を手に入れることはできないということです。

それはコースに教えてもらうまでもなく、誰かを非難するとはその人を裁くということですからそこには愛のかけらもないということが分かります。愛のない心で幸福感を感じることなどできないのは当たり前のことですね。

誰の心の中にもある、誰かを非難したい気持ち、これこそ自分は正しいと証明したいという思いであるに違いありません。

非難するということは相手に罪があるということを意味するのです。それは自分の心の中の罪悪感を隠そうとしてそれを投影した結果であるに過ぎません。

そんなことをすべて手放して、ひたすら相手を愛の目で見ること、愛を与えることを通してこそ幸せな心の状態になることができるのです。

誰かを非難したいという思いにかられたときには、すぐにこのことを思い出して、自分を幸せにするために即刻その思いを手放すことです。

代わりに自分のできる限りの愛で相手をやさしく包む気持ちになるように選択することです。その練習を繰り返すことで正しさに執着することなく、幸せに近づいていくことができるようになるのです。

催眠状態での反応

人と話しをしているときには、相手の話に合わせて相槌を打ったり、ちょうどいいタイミングで次の話を促してみたり、様々なことをして会話がスムーズに行えるようにします。

それが礼儀ですし、その方が自分も気分がいいのです。特に相手のことを考慮してするだけではなくて、自分にとっても相手との関係をよくするという利点があるわけです。

相手が何かを話しても、応答せずに黙っていたり、何を考えているのか分からない感じでじっと相手が話すのを聞いているというのでは、いい気持ちでコミュニケーションをすることができなくなってしまいます。

大人同士、そうした違和感をできるだけ互いに感じあわないようにしようと自然と努めるのが常識的な会話の方法ですね。

ところが、催眠療法の中でクライアントさんと会話するときには、かなり様子が違ってくることがあるのです。

まずセラピスト側の質問やちょっとした問いかけに対して、通常の反応をしなくなってしまう場合がかなりあります。

なかなか相槌を打ってくれなくなってしまったり、質問をしても答えてくれるまでに途方もない時間がかかってしまったりということがあります。

また勝手に話しの内容を中断されて、違う場面や違う内容の話しに飛んでしまうといったことも起こってきます。

きっと、催眠の中では幼い意識になってしまっていたりして、通常の大人としての会話をしている相手への配慮というものが欠けてしまうからなのでしょう。

セラピストは決められた時間の中で、できるだけクライアントさんの癒しを進めようとするために、この応答の鈍さが苦痛に感じてしまう場合があります。

そんなときには、相手に対して自分のペースに合わせてもらいたいと思ってしまう自分のエゴを認めて、相手を自由に解放してあげられるような心の余裕を持ちたいものだと思います。

3Dテレビ

先日吉祥寺のヨドバシカメラに買い物に行ったときに、店頭で3Dテレビのデモンストレーションをやっているのを見かけました。

気になったので、さっそく専用のメガネを借りて画面を見てみたら、なんと思っていたよりもリアルな3次元空間を見ているような感じになり、驚きました。

テレビの画面よりも手前に突き出て見えるものもあれば、遠くのものもあって、確かにこれはとても魅力的だと感じました。

私のように普段メガネをかけている人でもその上から専用のメガネを掛けられるので、とても便利でした。本当にすごい時代になったものだと思います。

その昔、私が小学生くらいのときにテレビはカラー放送が始まり、ゆっくりと各家庭にカラーテレビが普及し出したのを覚えています。

それまでは、テレビというのは白黒であることが当たり前で、何の疑問も持っていませんでした。それが突然カラーで見えるようになったときのあの魅惑された思いは今でもリアルに思い出すことができます。

こうして進化を遂げていくわけですが、少し冷静になって考えてみると、驚くのは最初だけでその生活に慣れてしまうと当然当たり前になっていくのです。

カラーテレビで喜んでいたのは多分数ヶ月だけだったと思いますので、この3Dテレビもびっくりしていられるのは、きっと半年か一年くらいのものなのかもしれませんね。

そして結局、どんなに進化してもエンターテインメントはエンターテインメントの域を超えることはないということです。

エンターテインメントが決して悪いのではないのですが、テレビのような受動的な楽しみ方が主なものは、求める心が活性化するはずです。

目先の変化が自分の幸せに影響を及ぼすことはないということを覚えておくことが重要なことではないかと思います。

お笑い欠乏症

子供の頃からテレビでお笑い番組を見るのが大好きでした。昔は今ほどお笑い全盛の時代ではなかったので、そうした番組は自分にとって貴重でした。

笑っている時というのは、自分が自分でいることを少し緩めてくれる、そんな感覚になれるのです。知らず知らずのうちに防衛体制になっている意識の力が抜ける瞬間を体験しているのかもしれませんね。

テレビだけでなく、友達と無邪気に大笑いすることも大好きでした。いつか、小学生のころに珍しく隣の区に住んでいる同い年の従兄弟が遊びに来て、二人で30分くらい腹を抱えて笑い転げてた記憶があります。

大人になって、仕事で外国にそこそこ長く滞在しているようなときに、次第に何かが足りないという欠乏感に襲われてくるのです。

その時に、日本のお笑いを見たいという衝動だったのだと気づいたことがありました。言葉が不自由な外国でのお笑い番組を見ていても不満が解消されないのです。

そこで、日本のテレビ番組をダビングして貸し出しているレンタルビデオ屋にわざわざ出向いて、かなり高額なのを我慢しながら借りて見たりしたこともありました。

外国で暮らしている家内の友人に、家内がお笑い番組をダビングしてDVDにして送ってあげたりしているのを見るにつけ、そのお友達の気持ちがよく分かります。

この数ヶ月の間、ほとんどテレビを見なくなりました。テレビそのものを見なくても問題ないということが分かったのですが、それでもやはりたまにお笑いを見たくなります。

週に一度くらい、録画しておいたお笑い番組を見て、大笑いしているとやはり自分の中心が開放されるような爽快な気持ちになるのが分かるのです。

まだまだお笑いが必要だということですね。笑いが必要ということは、それだけ普段の生活において気を張って生きている部分が多いということを物語っていると思います。

自分にとって、全く笑うことを必要としなくなったら、その時はきっととてつもなく平安な気持ちで生きることができるようになったときなのだろうと想像しています。

嫌いなものは嫌いなままでいい

幼いときに極度の偏食だったことは以前どこかで書いたことがありますが、その頃はほとんど何も口にしたくないという状態でした。

今思い出しても不思議な感覚なのですが、とにかく得体の知れないものを口に入れるということがもういやだというような変な状態だったのだと思います。

その時に、口に入れたくないようないやな食べ物を好きになれたらいいなどとは全く思っても見ませんでした。ひどい偏食だからといって、身体に悪いなどという発想もなかったのでしょうね。

成長するにつれて、あれも食べられないこれも食べられないでは少々不便だなと思うようにもなったのですが、それでも嫌いなものを好きになりたいとは思いませんでした。

誰でも大嫌いな食べ物を大好きになりたいとは思わないものではないでしょうか?もしもそう思うとしたら、それはきっと何か不都合があって好きになった方が都合がいいような事情がある場合に限ると思います。

こうした、嫌いなものをわざわざ好きになる必要などないという気持ちは、誰にでも思い当たることがあるはずです。

ゴキブリがとにかく嫌いという人に、ゴキブリが大好きになれる薬があったら飲みますか?と聞いたらほとんどの人が嫌いなままでいいと言って断るでしょう。

対人関係の例をあげれば、ものすごく憎んでいる相手のことを愛しく感じるようになりたいとは決して思わないはずです。

このように、私達は自分が嫌ったり拒絶したりする対象を愛しく思うようになりたくないという思いを持っているのです。

それはどこからくるのでしょうか?実はそれこそが、相手を否定的に見ようとする、あるいは罪があるとしたい知覚の特性なのです。

相手を許そうという意欲を持つことを許してやるものかという思いが妨害するのです。だからこそ、許すということ以前に、許したいと願う事自体がとても大切なことだと言えるのです。

記憶とイメージ

私達は実際に起きた出来事のことを事実と呼んでいます。そしてその対極にあるものがイメージした事だとも言えますね。

事実とは動かしがたいものであり、それを変える事は勿論できません。一方、イメージというのは空想の中で自由に作り出すことができるものなので、どのようにでも勝手に変えることができます。

昨日宝くじを買ったが、全部外れてしまったという事実があれば、それを変えることは誰にもできないことは明白ですね。

しかし、イメージの中では、昨日宝くじを買って、全部外れてしまったと作ることもできますし、1等が当たったというように作る事も可能です。

過去起こったこと、自ら体験した事実は記憶として残されます。事実を変えることはできないので、その記憶も変えることはできませんね。

ところが、この記憶の中身というのが実はかなり曖昧なものだということが分かっています。特にずっと昔の幼い頃に体験した記憶というのは正確さに欠けるということが研究によって分かっています。

本人の自覚のないままに、都合のいいようにその記憶は改ざんされている場合があるということです。それでも私達は自分の記憶を基本的には信じています。

ですので、記憶がかなりいい加減な可能性があると言われたとしても、簡単には自分の記憶への信頼を手放すことはしません。

それは空想の中で作り出す勝手なイメージとは比べ物にならないくらいに確固としたものだと思い込んでいるのです。

しかし、催眠療法の中で思い出していただく過去の記憶と、過去こんなことがあったかもしれないという自由なイメージとは、基本的には変わりがないのです。

とても不思議な感じがするかもしれませんが、イメージしていただいたことは結局本人の心の中に残されているものがベースとなっているために、事実に即した記憶でないとしても本人にとってはとても重要な意味が込められているのです。

こうして、過去の記憶と自由に作り上げたイメージとの間の違いがぼやけてきて、その違いを議論することに意味がなくなってきてしまうのです。

それは心の問題というのはすべて本人の思いが元になっているからこそ言えることなのです。そして、過去の記憶も作ったイメージもそれ自体は単なる思いの現象化したものだとも言えるのです。

現実逃避 その2

昨日も少し触れましたが、現実が辛すぎたりしてどうにも生きていくのがしんどいので、スピリチュアルな方面へ意識を向けて目の前の現実を見ないようにするという場合があるのかもしれません。

そんなふうに表現されてしまうと、スピリチュアルな世界というのはかなりまがい物的な捉え方をされてしまう可能性が高いですね。

しかしそれはとても大きな誤解なのです。私の解釈では、スピリチュアルなものの見方というのは、この現実は自分の思い、想念を具現化したものであるということなのです。

ということは現実から目を背けてしまうのとは正反対の生き方とも言えるのです。つまり、現実を原因としてその結果が自分の人生を形作るのではなく、自分の思いそのものが原因となって、目の前の現実を起こすという考え方なのです。

したがって、目の前の現実から逃れることはできないとも言えるのです。なぜなら、それを作った大元が自分の思いであると言っているのですから、どこで何をしていても自分と現実を分けることは決してできないということなのです。

少し堅苦しい表現を使えば、どんな現実でもそれに関して全責任を自分が持っていると言ってもいいのかもしれません。

責任という言い回しがそぐわないのなら、あらゆる現実の生みの親は自分の思いであるという言い方になるかもしれません。

こうしたことは、一般常識的な考え方からすると、受け入れがたいと感じられるかもしれませんが、冷静に考えてみると心がとても楽になれる考え方であるとも言えます。

なぜなら、自分の思いが現実の生みの親であるのであれば、自分が好ましいと思える現実を自分の思い一つで実現することができるということだからです。

そしてそれは確かにその通りなのです。私達は自分の「思い」通りの現実を毎日体験しているということです。そうは思えないという場合には、自分の思いについてその全貌を認識できてないと言うことを考えてみる必要があるのではないでしょうか。

現実逃避

私達は現実にしっかり腰を据えて、生きていかねばならないとよく言われますね。到底あり得ないような夢を追いかけてみたり、実現不可能な計画を立てたりするのはある意味現実逃避だと言われても仕方ないのかもしれません。

現実が辛すぎて、どうにもこうにも生きていくのがしんどいので、今流行のスピリチュアルなこと、精神世界の方へと意識を向けていく人も多いかもしれません。

そういった精神世界系のことが苦手な人にとっては、それこそ現実逃避に違いないと思ってしまうかもしれませんね。

現実逃避というのは都合の悪い現実から目を背けるということを意味していますが、では現実にしっかり腰を据えるということが本当に現実を直視していることになるでしょうか?

私達はとかく見えるもの、形態などに捉われてしまうものです。つまり、与えられた辛い仕事から逃げずに一生懸命働いている人を現実逃避だとは思いません。

現実と向き合って頑張っているわけですから。逆に仕事が辛いので、会社をやめてフラフラしながら何かいいことないかなと物色している人は現実逃避してるといわれるかもしれません。

しかし、本当にそれは正しい判断でしょうか?形に捉われずに人の内面を見つめてみると、そう簡単に判断する事はできないと言う事が分かります。

もしかすると、前者の頑張って仕事をしている人は、自分が本当にいやな思いをしてることとか、自己犠牲を強いていることを見ないようにしているかもしれません。

もしそうだとしたら、私にとってはこれこそが現実逃避だということになります。逆に、仕事が辛くて会社を辞めてしまった人は、自分の本当の気持ちをごまかしていないことになります。

もう分かっていただけたかと思いますが、本当の現実逃避とは自分の内面を誤魔化して生きることを言うということです。

このことを理解したうえで、自分が現実逃避しているのかどうかじっくりと見つめてみることはとても大切なことだと思います。

印象的な昔のテレビ番組 その2

自分がまだ幼稚園に行ってるころか、あるいはせいぜい小学生の低学年になっていたくらいか、その頃に見ていた西部劇があったのです。

主人公は若かりし頃のスティーブマックィーンで、「拳銃無宿」という邦題がついていました。彼はいわゆるおたずね者を捕まえては、懸かっていた賞金をもらって生計を立てる、いわゆる賞金稼ぎだったのです。

つかまえる相手は極悪非道な悪者ばかりで、当然捕まったら死刑になるかもしれないので命がけで攻撃してくるわけですから、毎日が危険と隣り合わせなのです。

捕まえた悪者の手を縛って馬に乗せて、自分も別の馬にまたがって一緒に長旅をしているシーンがよく出てきていたのを覚えています。

彼の名前はジョッシュ・ランドールというのですが、ライフル銃を短くしたような何とも魅力的な銃を腰に下げているのです。

その銃は、彼の名にちなんでランドル銃と言っていました。あまりに欲しくて、買ってもらった記憶があります。自分にとっては、売っていたことが奇跡でした。

そのドラマの中では、どういうわけかそのランドル銃をすぐに奪い取られてしまうのです。そしていつもヒヤヒヤさせられていました。

その特殊なランドル銃が彼の強さの象徴であったわけですが、幼い自分が自分のか弱さをよく知っていて、そうした強くなれる武器に憧れていたんだなということがよく分かります。

幼い頃からすでに男の子と女の子の志向の違いがはっきりとあるのですね。武器に興味があるというのは、立派なエゴのその後の発育を思い知らされます。

自分は卑小で本当は弱虫で痛がりですぐに泣く、そう言う自分をきっと責めていたのだと思います。今ではあまり気付かなくなりましたが、なくなったわけではありません。

そういう意識というのは陰に隠れて自分を必要以上に防衛しようとします。そうした自分を恥ずかしいと思っている昔の意識を今の自分がしっかり受け止めてあげることは大切なことだと思います。