自分の周りの名優さんたち

私は最近テレビ番組そのものを見なくなってしまったのですが、若いときにはよくドラマを見ていました。そのドラマに関することで思い出したことがあります。

みなさんは、松下由樹という女優さんをご存知ですか?彼女がある番組でドラマ出演している時の逸話を話していることがありました。

随分昔のそのトレンディドラマでは、彼女は姉の恋人を横取りする悪女の役柄でした。ものすごく憎たらしい役だったのを覚えています。

彼女曰く、そのドラマに出演している間、世間から散々な悪口を言われたそうですし、本人もびっくりしたのは彼女のマネージャーさんから、あんたってひどいよね、と言われたのだそうです。

ドラマの中であまりにもひどい役を演じていたために、最も身近なマネージャーさんにまでツンツンされるようになってしまったということでした。

苦笑いしながら女優冥利に尽きるみたいなことを言っていたのを覚えていますが、それだけ迫真の演技だったということですね。

あなたの周りにいる人たちの中で憎たらしい人、一体あの人は何なの?と思えるような人はいませんか?

そう言う人たちは松下由樹さんと同じように、かなりの名優さんたちだということです。あなたの人生と言うドラマの原作、監督、主役、脚本、キャスティングまであなたがすべてをやっていると思って下さい。

そして、周りの人たちはあなたがキャスティングした名脇役さんたちなのです。もしも、あなたが作ったドラマの内容を変えたければ今すぐにでも書き換えることができます。

悪い奴らが出てこないような脚本に作り変えてしまえばいいわけですから。そして勿論ドラマの中の役柄を演じてないときの名優さんたちは、みんないい人たちばかりです。

役を演じてもらっている監督の自分がいることを忘れて、本気になって周りの人に怒りを感じることのないようにしたいものですね。

時間の使い道

奇跡のコースと出会った二年くらい前から急激にセッションの予約が減ってしまいました。そのおかげで収入は激減してしまいましたが、代わりに自由な時間が増えました。

自分の身に起こることは自分が起こしているというのがそれまでの自分の信条だったので、きっと自分は勉強したいんだなというくらいに思っていました。

奇跡のコースを勉強し始めても、やはりそこには自分の現実は自分の内面の投影に過ぎないということが書いてあって、自分が思っていた通りだと分かったし自分がそうしたいからセッションの予約が減ったのだと分かりました。

収入が激減すればそれは困ることも多々あるのですが、まあなるようにしかならないという生まれ持った楽観主義で乗り切るつもりでいました。

ところが、コースを学ぶうちに単なる楽観主義というのとは少し異なる思いが生まれてきました。それは、簡単に言うと、現実は内面の投影ということに対する確信です。

そして今自分にはものすごく自由な時間が与えられています。そのため、2年前と比べて時間の使い道が大きく変わってしまいました。

今後数年間もきっと、毎日3回セッションをするような事態にはならないだろうということが何となく分かるのです。

自分の中で時間の使い道が変わったということです。個人セッションによるたくさんの気づきを通して学べたことは今でも勿論自分の宝物になっています。

その上で、今後は違う形の学びも継続して進めていくことになるということです。その中心となるのが、奇跡のコースであることは間違いありません。

でもそれをどのようにして具体的に学んでいくのかは今のところ分かりません。きっと楽しい時間の使い道が待っていてくれるものと期待しています。

追い詰められると愛が発動する

以前、コラムにも書いたことがあったと思うのですが、もう何年も前にいらした女性のクライアントさんが教えてくれた話しです。当時お付き合いしていた彼との関係がうまく行っていませんでした。

二人の関係というよりは、彼に対して様々な不満があって、それを相手にぶつけても何も解決しないという苛立ちをずっともっていたのです。

ある日、夕食を一緒にとの約束をしていた彼がいつになっても姿を見せず、結局夜遅くなって彼のご家族も巻き込んで警察に捜索願を出すというところまでいきました。

結局、彼は次の日にひょっこり現われて、喧嘩沙汰に巻き込まれて一晩留置所にいたらしいのです。ケータイも没収されて、連絡がつかなかったということです。

クライアントさんは彼が見つかるまでの間、必死に彼の無事を祈ったのは言うまでもありません。その時に、普段抱えていた彼に対する不満や愚痴は一切がどこかへ吹っ飛んでいたということです。

自分がどれだけ彼のことを愛しているかを思い知ったし、どれだけ大切な存在だと思っているのか、その気持ちにも気づくことが出来たそうなのです。

その気持ちはあまり長続きしなかったそうですが、人の気持ちというのは追い詰められると隠していた部分が表出したりするということです。

いつもは相手に求める気持ちばかりが優先してしまっていたのでしょう。そうすると、あれもしてくれない、これも分かってくれないという不満ばかりが出てきます。

しかし、相手を心配することで、本来の与えるという愛の気持ちが飛び出してきたわけです。人は自分のことより、大切な人のためには比較的簡単に愛を発動できるということです。

どちらの心の状態が自分にとっていい気持ちでいられるのか、それは考えるまでもなく明らかなことですね。与えるとはそういうことなのです。

何も分かってはいない

右も左も分からないような幼子と、成長した私達とで、一番の違いはどこでしょうか?それは幼子は自分が見ているものが分からないということに気づいているということです。

その分からないものばかりの中で、自分に対していやな感覚をさせるものについて恐怖を抱くようになるということです。

私は幼いころに、テレビでボクシングの試合を放送しているのを見ると、「喧嘩じゃないよ、ボクチング」とよく言っていたそうです。

きっと、初めて殴り合っている姿をみて何事が起こったのかと怖くなって、親に聞いたのでしょうね。その時の親の台詞を聞いて安心したため、見るたびにその言葉を唱えていたのだと思います。

このように幼子は自分が理解できないということに気づいているために、素直に教えを請うわけです。そして上の例のように本当のことが分かって恐れなくなるのです。

一方私達は、通常自分が見ているものを理解できているという認識で生活しています。それは幼い頃から何度も体験し教えられることによって学習してきた成果ですね。

それだけでなく、自分は正しく理解していると思い込んでもいます。そんなに自分を過信してはいないと思っている人であっても、これは同じなのです。

地球が太陽の周りを回っているのか、その逆なのかはよく分からないという人であっても、人とはこういうものに違いないという独自の確信を持っているのです。

ところが学んで来たその学習の内容が歪んでいたとしたらどうでしょうか?認めたくないですが、その場合は自分が当たり前だと思っていることを訂正せざるを得ません。

私達が学習してきた事象というのは、自分自身の内面を外に向けて投影したものばかりです。ですから、自分に都合のいいものばかりを題材として学習してきてしまったということに気づくことです。

全く公平とは言い難い学習過程ばかりを経験してきてしまったのです。もう一度、幼子の頃の素直な自分に戻って、自分の解釈を白紙に戻すことです。

本当は自分は何も分かってはいないという意識に戻るのです。そうして、自分の親の代わりにすべてを正しく見ることができる聖霊(自分の中の愛の心)に聞くことです。

本当のことを理解することができれば、幼い頃の私のように、作りこんで来た恐怖を手放すことができるようになるのです。

肉食

子供の頃はひどい偏食で、玉子焼きと乳製品以外は食べられなかったということは以前このブログで書いたことがありました。

少しずつ肉類や魚、果物、野菜などを食べられるようになっていったのですが、大人になると肉が主体の食事となり、たしか40歳くらいまでの間、自分の記憶では肉ばっかり食べていたと思います。

本当に毎晩のように肉を食べていましたし、その割には野菜などを豊富に採るということもなかったかもしれません。

今でも肉が嫌いというわけではありませんが、40歳を過ぎるころから少しずつ肉食に偏っていた食事が変わってきました。

身体に悪いからというような健康志向でそうなったわけではないですから、勿論気が向けばその後も沢山肉を食べる機会はありました。

今は一般的な日本人の食事と比べてどうなのかは分かりませんが、自分としては肉を食べない暮らしに大きく変わったように感じています。

その変化は会社を退職した10年位前から徐々にそうなってきたように思います。勿論そうはいっても菜食主義者になったわけではありません。

先日機会があって、本当に珍しく家族とステーキを食べに出かけてきました。普段の食生活からはあり得ないくらいの高価な肉ということもあってか、確かにおいしいのです。

ところがおいしいのは口のあたりでそう思っているというのか、心ではおいしいということに殊更の意味がないというのも感じていました。

いつごろからそういう意識が増えてきたのかはわかりませんが、豪華な食事というものに本当に魅力を感じなくなってしまったということですね。

食べ物がおいしいと感じることよりも、心が何かにおいしいと感じることのほうが遥かに嬉しいことだと分かったのかもしれません。

心がおいしいと喜ぶものとは、何なのでしょうか?それはきっと私達が心のそこから望んでいるものであり、それを思い出すことこそが本当の幸せへの道なのかもしれません。

人を恐れる意識 その2

昨日のつづきです。

昨日箇条書きで書いてみた、人に対する怖れる気持ちは、ムカデのような苦手な虫にもそのまま該当するということでした。

そのほかにも、例えばゴリラとか人食いサメなども、「見下されてる感じ」を除くとそのまま該当してしまいますね。

怖そうな宇宙人なんかは、丸ごと当てはまるかもしれません。こうして見ていくと、自分と同じ人間である周りの大人に対して、幼い自分は本当に得体の知れない恐ろしい生き物でも見るように感じていたのかもしれません。

そして更に気づいたのですが、どうもその箇条書きに挙げた言葉は自分自身に対する隠された思いなのかもしれません。

なぜなら、自分が外部に見るものはすべてが自分の内面の投影であるからです。そうすると、自分は幼いころからムカデやゴリラ、サメ、恐ろしい宇宙人のように自分のことを感じていたということになってしまいます。

そう考えてみると、自分に対して本当に愛のかけらも持っていないということが分かってしまいます。実際はどうなのでしょうか?

私達の心の中にあるエゴの部分は、確かに愛を知りません。だから、自分自身のことをそのように認識しているとしても不思議なことではないのです。

そしてそれが私達が心の奥深くに隠し持っていて決して見ることのない罪悪感の正体なのかもしれません。

そんな愛のない心で自分を見つめるエゴの部分を、同じ心の部分である愛の光によって明るく照らして溶かしてしまいたいものですね。

そうしたら、周りのすべての人を本当に愛の目で見つめることができるようになると思います。それこそが真実の幸せな心になる唯一の方法なのです。

人を恐れる意識

自分の心の奥底にずっと昔からある他人に対する恐れの気持ちをじ~っと見つめて言葉にしてみました。すると、次のようなものが浮かんできました。

・変な奴らばかり
・人相が怖いし、気持ち悪い
・何を考えてるのか分かったもんじゃない
・とにかく醜いし、怖い
・傷つけてきそう
・見下されている感じ
・危ない
・嫌いだし、必要ない
・何の役にも立たない

これはどう考えても、大人の自分ではないということがすぐに分かります。きっと、相当に幼い感じがしてきます。

この中で、他と異質なのが、「見下されてる感じ」というものですが、これだけほんの少し違う年齢の意識が言っている感じがします。

人に対してこんなことを感じているんだと少々びっくりすると同時に、確かに心のどこかにこういったものを抱えていると薄々知ってもいたと思うのです。

これでは、やさしい愛の気持ちなどあったものではありません。自分で書き出してみて、そして何度も眺めてみて気がついたことがあります。

それは、自分が苦手な気味の悪い虫、例えばムカデとかそういった類のものにもそのまま当てはまる言葉だということです。

「見下されている感じ」だけは例外ですが。ということは、かなり幼い自分は見ず知らずの大人たちのことをムカデと同じくらいいやがっているということです。

特に最後の、「何の役にも立たない」というのは、いる必要がないという、これ以上の否定はないというくらいの思いが見て取れます。

愛をもって周りの人を見つめるということをいくら実践していても、心の中にこういった気持ち悪い虫でも見るような意識がいるのなら、愛を使ううえで相当なブレーキになってしまうでしょうね。

しっかりこうした意識を受け止めて、それ自体を愛で包んで安心させてあげる必要があるということを改めて気づかされました。

癒されていない癒し手

「奇跡のコース」を読んでいると、「癒されていない癒し手」という言葉が出てきます。つまり、癒されてないセラピストのことです。

病んでいるセラピストがクライアントの癒しの作業をやっていると言っているのです。だから、癒しなど進むはずもないと…。

何のよどみもなくはっきりと言ってのけています。最初読んだ時に、随分と痛烈だなと思ったのですが、しかしこのことはかなり真面目に考えるべきことだと分かりました。

それは、心の癒しと称してやっていることが、本当の癒しになっていないとしたら、それは何もしないでいるよりもたちが悪いということになるからです。

高額なセッション費用を取って、大変な時間と労力をクライアントさんにも強いておきながら、癒しができないとなると、これこそ問題ですね。

私が今の仕事を始めた10年近く前には、ネットで「催眠療法」で検索してもそれほどの数があるわけではありませんでした。

それが今では、何百倍にも膨れ上がってしまって、自分のHPなどすぐには見つけられなくなってしまいました。

それくらい、急激に癒しということに対して世間の注目度が上がってきていると言っていいのかもしれません。

だからこそ、癒しができない癒しの場がもしもたくさんあるのでしたら、それは何とかしたいと思ってしまいます。

そして自分自身はどうなのだろうかと見つめてみました。はっきりとこうだとは言い難いのですが、一つ分かっていることはクライアントさんを見つめる目に愛があればいいのだということです。

それがセラピストとして必要なすべてだと思うからです。逆にそれができなければ、どんな洗練された手法を身につけていたとしても癒しにはならないからです。

恐怖を作り出す

ずっと以前にまだ会社員だったころ、その職場が高層ビルの中にオフィスがあったのですが、確か35階くらいだったと記憶していますが、そういう場所で仕事をしている時がありました。

とても見晴らしがよくて、入社して間もない頃にはこんなすばらしい景色のところで毎日仕事ができるなんて幸運だな、くらいに思っていました。

ただ、人間ていうのはすぐに慣れてしまうもので、職場の人の誰も外の景色のことなど言わないし、自分も全く興味がなくなってしまっていました。

そんなある日、仕事のことから頭が離れてふとこう思ったのです。自分は今、地上百数十メートルの高いところにいる。

このビルが全部透明なものでできていたら、さぞ怖いだろうなと。元々高いところはあまり得意なほうではないのですが、そうイメージした途端に何だか椅子に腰掛けていられないような、床に這いつくばってしまいたいくらい危険な感覚になってしまったのです。

自分でもそんな馬鹿なとは思うのですが、その恐怖の感覚からどうしても逃げることができなくなって、ある場所の一点をじっと見つめることで何とかその場をしのいだと思います。

気持ちが落ち着いてきてから、もう二度とさきほどのような感覚になりたくないと思って、夢中で仕事の方に意識を持って行ったのです。

そんなことになったのは、後にも先にもその時のたった一度だけだったのですが、自分としては全く意味もなく本当に唐突に恐怖を経験したわけです。

今思い返すと、その時は仕事のストレスで心が病んでいたのだろうと思うのです。理由はともかく、人間というものは、特別何もなくても恐怖体験をすることが可能だというのを思い知ったのです。

恐怖だけではなく、不安や喜び、実はありとあらゆる感情を自分次第で作り出すことができるということです。それなら、出来る限り気持ちのいい自分を作り出したいものですね。

自分に対する人の評価

私達は、自分の周りにいる人たちとの関係において、それぞれの相手が自分のことをどのように評価しているのかということについての自分なりの情報を持っています。

それは普段あまり表面化することはないのですが、それでもよく心のうちを見つめてみればある程度は分かるものです。

ところが、その時に出てくる情報というのは、大抵の場合自分に対するあまりいい評価ではないものばかりが出てくることになっています。

なぜなら、そういった情報が相手を否定的な存在であるとすることに繋がるからです。それはつまり、相手を否定的に見たいという欲求があるということです。

それが自分にとって都合のいい見方であるということです。一般的には、相手を肯定的に見ることができたほうが気分がいいと思えるのですが、実は否定的に見たいという強い心の力があるのです。

そのために、そうした情報はかなり偏ったものとして出てきてしまうのです。例えば、自分が嫌っている上司がいたとして、その上司が自分のことをどのように評価していると思うかと聞かれたら、それはやはり否定的な見方をされてしまっていると感じるわけです。

そのように感じることが自分にとって何かと都合がいいからです。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?

セッションではそういったことを深く見ることによって、実はそんな否定的な見方ばかりを相手がしているというわけではないということが分かる場合がとても多いのです。

上の例で言えば、その上司は自分のことを信頼できる部下だと思っているとか、仕事のできる有能な部下だという評価をしているということが出てきたりするのです。

そうやって、相手は自分を否定的に見ているばかりではなく、肯定的に評価してくれてもいるのだということが分かったりします。

それが分かるだけで、相手への気持ちが暖かいものに変化したり、相手への攻撃的な気持ちが薄らいできたりということが起きてきます。

自分は相手にどのように見られているのか、そのことが気になる人はその相手になったつもりで自分のことを評価してみるのです。

今まで気づかなかった自分への評価がいろいろ出てくるはずです。それはとても意外な体験となるはずですので、是非一度試してみて下さい。