イベント嫌い

暮れも押し迫ってくると、どういうわけか誰もが何となく慌しい精神状態になるようですね。師走というくらいですから、のんびり歩いてるわけには行かなくなるのかもしれません。

今年やり残したことがないように、きっちりとけじめをつけて気持ちよく来年を迎えようということなのでしょうか。

自分はそういうことが生まれつき苦手な体質なのかもしれませんが、暮れになっても何も変わらずいつもと同じペースで毎日を淡々と過ごしています。

オフィスの大掃除をするわけでもないし、何の変化もない年末年始です。イベント的なことがあまり得意ではないというはっきりとした自覚があります。

幼稚園の頃は、運動会が大嫌いで母親を置いて自分は先に家に帰ってるからと言って困らせていたそうですから相当なものです。

我が家ではもうずっと以前から、大晦日やお正月だからといってそれほど特別なことをするということもありません。

大晦日くらいは家族全員で食事をするとか、お正月の朝だけちょっと御とそを飲む程度で、それ以外これといった慣わし的なことをするということもありません。

変化がなくてつまらないと言われてしまえばそれまでですが、何かの節目というようなものに対する興味というものがないのです。

年間通して世間ではさまざまなイベントごとがあるようですが、人がそういうことではしゃいだり楽しんだりしているのを見聞きするのは嫌いではないですが、自分はどういうわけかあまり気乗りしないのです。

そういった体質というのは生まれ持ったものかもしれませんが、年齢を重ねるたびに益々その傾向が強くなってきているように思います。

自分の中で何かの節目があるとすれば、それは内的な気付きがきたときかもしれません。そしてそういうことは、時間が経っても覚えているものです。

そう言う意味からすると、自分の内的イベントは全く予想できないものばかりです。これからどんな気付きがやってきてくれるのか、それにはとても興味津々です。

報酬

私たちが仕事をするとき、自分が費やした時間や労力に応じた対価(つまりお金ですね)を報酬として受け取るという目的があります。

つまり、自分の労働とそれに見合った報酬をトレードしているということですね。この取引の考え方は実は基本的にエゴの思考体系の産物なのです。

自分の行動に対してその見返りを求めるわけですから、そこには予想される期待値というものがついてまわります。

自分がこれだけの成果を出したのだから、当然これだけの報酬を受け取る権利があるとするのです。そして、その期待値に対して結果が下回るようだと、損をしたという不満が発生してしまうのです。

一番分かりやすい例が野球選手が球団を相手取って、来年の年棒の契約更改をするわけですが、互いの間で交渉が難航することがよくあります。

選手側は、今年の成績を元にしてできるだけ報酬を高くしようとするし、球団側はできるだけ低くしようとする両者の攻防が起きるからですね。

それほどはっきりした形ではないにせよ、一般的な企業の場合でも雇う側と雇われる側の間にはそういった駆け引きのようなものがあります。

取引というのは結果を想定、あるいは期待しますので必ず不満が起こるのです。そこには愛がないからです。

どんな仕事であっても、与えるという気持ちが大切なのです。そうした気持ちであれば、報酬を期待しなくなるからです。

形の上では報酬のように見えているとしても、受け取るお金は単に人生に必要となるものを与えられたとして感謝すればいいのです。

自分の人生において、大きなシナリオで仕組まれている計画を遂行するために必要となる様々なものが自動的にあてがわれるということです。

それは人材かもしれないし、時間や空間、機会など、そしてその一つとしてお金があるのです。自分が受け取ることのできるすべてのお金を報酬として見ないようにすることです。

そうすると、受け取るたびに感謝の気持ちが自然と湧いてくるようになります。そして、仕事は取引の材料ではなく、与えるものとするのです。

この二つを切り離すことで、期待から起こる不満から開放されることになるし、生活の中に自然と愛が入ってくる隙間が増えてくるのです。試してみて下さい。

初心に戻る

クライアントさんの中には、通常のセッションには対応できないような方がいらっしゃるのも事実です。それは年齢的なこととか、身体的なこともありますが、心理的な状態によってもあり得ることです。

初めのうちは、ごく普通にセッションをしていく中で、単にご本人がしんどそうだなという感じが伝わってくるわけですが、そのうちどんなセッションも太刀打ちできないかも知れないと思うことが出てきます。

それは岩のように硬く閉ざした心をお持ちの場合だったり、不都合な自分を頑なに受け入れられない場合などです。何をしても、結局クライアントさんの内奥に浸透して行ってないことを感じてしまうのです。

これはセラピストにとってもクライアントさん本人にとっても辛いことです。今までに幾度かはそういったケースもありました。

そんな時、セラピストというのは本当に無能だなと思い知らされるのです。それと同時に、初心に戻るということを思い出させてもらうのです。

セッションにおいては、人と人との関係性の中にこそ癒しの本質が隠されているということです。策に溺れることなく、シンプルにクライアントさんと向き合うということが大切なのです。

セラピストがどれほどクライアントさんを許すことができるか、どれだけ許しているかということを心から伝える必要があるのです。

クライアントさんは全く自覚のないままに、激しく自分を責めているからです。自分は否定されることはない、自分は受け止めてもらえる、と分かっていただくまで繰り返しそれを伝える必要があるのです。

そして、セラピストとクライアントさんの関係の中で、互いに許すということを感じるようになることができたら、その分だけ癒しが進むのだろうと思っています。

改心

小学生の頃、何年生だったかは定かではありませんが、人の言葉、人の話を聞くというのはこういうことかと分かった瞬間がありました。

自分はどこにでもいる普通の少年だったし、頭も悪くはないし、性格的にも目立った問題はなかったはずですが、きっとその瞬間まで人の話を聞いてはいなかったのでしょうね。

まったく驚くべきことです。それをもう少し深く見つめてみると、自分自身のことと関係のないような言葉はあまり問題なく聞いていたはずなのです。

ただ、自分の心を入れ替えなければならなくなるような、自分の考え方の根本的な部分にかかわるようなことを聞いたとしても、聞こえなかったのだということです。

そしてきっと、その小学生の時に初めて人の言葉を聞いて改心したのではないかと思っています。そのくらい、自分にとって改心するということは難しいことだったのだと思うのです。

性格の素直な人は、人の言葉から自分の考え方を改めることが簡単にできるのかもしれませんが、きっと自分は頑固な気質に生まれてしまったために、それが難しかったのだと思います。

頑固さとは、自分の信念、信条、考え方などを簡単には変える事をしないということです。それは自分の内面に手を入れることを恐れるということです。

人の言葉をふんふんとうなづきながら聞いていたとしても、その内容が心の奥まで届く事はほとんどなかったということです。

自分では、明示的にそうした抵抗をしていたという記憶は全くないのですが、無意識の心の防衛をすでに幼いころからやっていたということですね。

こういった傾向の人は成長すると、自分の正当性で自分を守ろうとするような大人になるはずです。そういう人はセラピスト泣かせのクライアントになる可能性大なのです。

人の言葉は聖霊の言葉だと思って、真摯に受け止める態度がとても大切なのです。そこにこそ、重要な気付きのヒントがたくさん隠されているからです。

見捨てられる恐怖

マザー・テレサの残した言葉に次のようなものがあります。

「ひとりの人間が出会う最大の苦悩は、見捨てられていると感じることにある」というものです。この見捨てられているという苦悩の元は、実は誰でもが心の奥に隠し持っています。

ただ、それを自覚している人とそうでない人がいるのです。その違いは人生の初めの頃の生育環境の差によって起こってくるものなのです。

親に愛されていない、あるいは親の興味が自分以外のところへ向いてしまっている、というような感覚を持ってしまうと、子供はいつか自分は見捨てられてしまうかもしれないという恐怖を持ってしまいます。

そして、その見捨てられるということが確信になったとしたら、それが最大の苦悩だと言っているのです。

そうなると、人生の目標は何とかして見捨てられないように頑張るというところに焦点を合わせることになります。

見捨てられることから自分を救うことだけを考えて生活するようになってしまいます。そのためには、どんな自己犠牲もいとわないという生き方になってしまうのです。

それがまた、第二の苦悩を引き起こしてしまうのですが、本人はそんなことを心配するような余裕がないために、気付かずに自己犠牲を繰り返して生きていくことになります。

それは周りの人からそっぽを向かれることがないように、いい人になろうとしたり、誰からも賞賛されるような結果を残そうとしたり、そういうことに全力を尽くすのです。

それが成功しているうちはまだいいのですが、失敗してしまうとひどい不安感にさいなまれてしまいます。そして、仮に成功したとしても自己犠牲だけが蓄積されていきます。

その自己犠牲とは、自分の本当の気持ちや興味などを抑圧して、人の評価ばかりを気にする生活パターンに陥ってしまうことで、自分が何者なのかという感覚が希薄になってしまうのです。

自分がこうしないと絶対に見捨てられてしまうというありもしない錯覚を持ち続けている限り、自分の人生を生きることができなくなってしまいます。

それはビクビクしながら、一時の安心ばかりを求める愛のない人生になってしまいます。本当の自分は与えることのできる愛のかたまりなのだと気付くことが必要なのです。

豊かさと欠乏感

自分の人生の豊かさとは自分の心の豊かさ、言葉を変えて言えばどのくらい困窮していないかということで表現できると思います。

つまり本当の豊かさとは、心の中の欠乏感がどのくらいあるのかということと反比例するのだろうということです。

自分は足りてない、欠乏しているという感覚が大きければそれだけ豊かではないということになるのです。それ以外に実は豊かさのレベルを実際に図る術はありません。

豊かさは自分以外の誰かと比較することはできません。内的な満足度の問題だからです。私たちはどうしても物質的なことに惑わされてしまいがちです。

しかし、それは表面的なものに過ぎず、あくまでも比較するための材料でしかありません。客観的に見ることができるものというのは必ずそうした性質のものなのです。

比較できるものは、大抵数値で表すことができます。心の満足度はとても数で表現できるようなものではありませんね。

とても月並みなことで言えば、コップに水が後半分しか残っていないという見方をするのか、まだコップに水が半分も残っていると見るかということです。

その違いこそが、その人の心の豊かさによるものだと言うことができます。毎日の生活のために、お金の余裕がなくてギリギリで生きていると思う場合には、豊かな気持ちではありません。

しかし、自分が生きていく上では飢え死にするようなことは決してなく、そのことに感謝をしつつ心はいつも穏やかだというのであれば、心は豊かであると言えるのです。

この両者の場合に、物質的には全く同じであるということがあり得ます。結局、豊かさとは選択することができるものだということです。

であれば、あなたはどちらを選択したいと思うでしょうか?勿論どちらでも自由に選ぶことができるのです。

損をしたくない その3

損をしたくないと思っている自分にとって、本当に損をしてしまうときというのは愛を与えられてない時なのだということがようやくはっきりと分かってきました。

損をしたくないという気持ちと愛とはちょうど真逆なのだということです。つまり、損をしたくないと思って、その気持ちに従って行動すればするほど、損をしてしまうということです。

自分のプライベートな時間を他人の都合で潰されるのは損だと思って、相手の気持ちよりも自分の時間を守ることを優先してしまうことが、結果としては時間を損することになるのです。

おつりが足りない場合に、このままでは損だと思って文句を言いにいって相手と押し問答になることが一番損をすることだということです。

損というのは物質的なことを想定しがちですが、実は内面的なものなのです。自分の気持ちが怒りで荒れてしまったり、損をしたと憤慨したりすることが本当の損なのだと気付くことです。

もしも、物質的な損を被ったとしても心が晴れやかであったとしたら、それは決して損をしたことにはなりません。

以前、セッションの予約の時間になっても一向にクライアントさんが来なくて、15分待ってからお聞きしていたケータイ番号に電話をしたら、面倒臭そうな声で今日は残業が入ったので行かれないと言われたことがありました。

セッションに備えて部屋を掃除したり、気持ちを中立に保つために瞑想したりして準備万端整えてクライアントさんを待っていた自分が情けなくなりました。

そしてとても損をしたという思いに怒りが湧いてきたことがありました。しかし、よくよく考えてみると別に何も損をしてはいないのです。

期待を裏切られたということで損をしたと思い込んだだけなのですが、損をさせられてしまったと怒りの中で思ってしまったことそれ自体が損だったのです。

今また同じようなことがもしも起きたとしても、自分は以前ほどは動揺しないで済むと思っています。自分の心さえ穏やかでいられたら、もうそれは何の損も発生しはしないと分かったからです。

愛を与える

ほんの少しでも与えた愛は必ず返してもらえます。それは勿論返してもらえるということを期待して与えることはできません。

愛には期待という概念がないからです。単に、後でやっぱり返してもらえてるということを実感できるのです。そしてその逆もまたしかり。

自分ではどうにかこうにか、気持ちをやり繰りして愛を与えているつもりになっていたとしても、結果がはかばかしくない場合があります。

愛を与えられていたかどうかは、いやと言うほどはっきり結果となって出てしまいます。そこは絶対にごまかすことができません。

さきほど、テレビでイルカのセラピーの番組をやっていました。生まれつき右半身が動かないで育った子供が、イルカに触れて急に右手右足を動かすことができるようになったという実話です。

イルカに限らず、動物は人間ほどのエゴを抱えていないために、より純粋な愛を与えることができるのでしょうね。

最近では犬や猫もお年寄りや心を病んだ方々の癒しの目的で一役買っているのをよく目にするようになりました。

愛を与えることが難しいと思えるときというのは、よく自分の心を見つめてみると昨日のブログの内容とも関係しますが、損をしたくないという気持ちが邪魔をしているように思います。

与えると減るので損をするという根強い感覚を我々は持ってしまっているようです。しかし、与えると減るのは、愛を伴っていない場合に限るのです。

愛を伴って与える場合には、必ず与え返されるのです。この法則を一度でも実感してみると、次からは比較的楽に与えることができるようになるはずです。

損をしたくない その2

昨日のつづきです。

人と関わることで何かと損をしてしまうと感じている人は、自分を守ろうとするあまりに自ら自己犠牲を強いてしまうということでした。

そうしたことに思い当たる人は、是非とも嫌われる恐れに立ち向かって自己表現をする訓練をする必要があるというお話しをしました。

そして今日は、損をするという感覚は一体どこからくるのかについて見て行きたいと思います。私たちは、昨日のブログの例のような場面以外にも、いくらでも損をしたと感じる体験がありますね。

一つは人と自分を比較することから発生します。いわゆる不平等さの感覚というものです。対等であると思っているのに、そこに平等ではないと感じたときに損をした感覚が生まれます。

おやつを兄弟みんなで分けるなどのときに、喧嘩がつきものなのもこの不平等だという感覚から来るものですね。

また、当然のこととして受け取ることを期待していたのに、それが叶わなかった場合にも損をしたと感じるものです。兄弟喧嘩の例もこの場合にも、どちらも期待との不一致がそこにあるわけです。

つまり、損をするという感覚は、期待したとおりに受け取ることができなかった場合に発生するということが言えるのです。

ですから元々期待してない場合には、損をするという体験をすることができないのです。そしてもう一つ、手に入れる、受け取る、という状況ではない場合にも損をするということはあり得ません。

こうして見てくると、与える側に立っている人は何があろうと損をしたという感覚になることはないということが分かります。

結局、損をしたくないという思いは、受け取る側にいる人の意識から発生するということが分かります。一生損をしたくないと思うのでしたら、与えることに専念することだということです。

与えるとは勿論物質的なことだけではなく、そこには愛を伴っている必要があります。その時に限り、人は損をするということから完全に開放されることができるのです。

損をしたくない

お店で買い物をしてお釣りをもらったときに、正規の額より多ければちょっと嬉しい気持ちになるか、気になって返しに行くかもしれません。

でも、そのお釣りが足りないと気付いたら、とても損をしたようないやな気分にさせられますね。これは誰であろうと例外はないのではないでしょうか。

その時にきちんと足りなかった旨を店員さんに申し出る事ができる人と、なかなか言えない人といるのです。言えない人は損をした悔しさに翻弄されることになってしまいます。

誰だって損をしたいと思っている人などいないわけですが、額が少なければまあいいやと思える可能性もありますが、実際にはこれは額の大小の問題ではないのかもしれません。

損をしてしまったというこの感覚自体を嫌っているのです。お金に関してだけではありません。人間関係において、様々な場面で損をしたと感じることが発生します。

例えば、大皿でパスタを頼む形式のお店に行って、みんなで各自順番に自分のお皿にパスタを取っては食べるという場合、他人のことを考えるあまり遠慮がちになってしまう人がいます。

そうかと思うと、その逆に人のことをあまり気にせずに食べたいだけ自分のお皿に取ることが普通にできる人もいますね。

前者の場合、誰にも強制されたわけでもないのに、何となく遠慮してしまい食べたいだけ食べれないということが起きてしまうかもしれません。

そんなとき、その人は心のどこかで平気で好きなだけ取れる人を羨ましいと思うのか、怒りを感じてしまうのかのどちらかになります。

結局、そのような人は人と一緒にいると何かと損をしてしまうと感じるようになって、人間関係を疎ましく感じるようにもなってしまうのです。こんなことだったら、一人で食べに行くか、最初から一人ずつのお皿でオーダーしたほうがよっぽどいいと思ってしまうわけです。

ここでは気付く必要のあることが二つあります。一つは、損をしたと感じたときになぜしっかりと自己表現することができないのかということです。

あるいは、もともと損をしないように不必要な遠慮をしないということがなぜできないかということです。それは、嫌われたくない、見捨てられたくたいという自己防衛の働きによるものです。

このような自覚のある人に必要なことは、少しずつ嫌われる恐怖を感じながらも自己表現をしていく訓練をすることです。

そうやって、自ら自己犠牲を強いてしまう人間関係のパターンを少しずつ改善していく必要があるのです。そうすれば、人と一緒にいることが辛くなくなるのです。

そしてもう一つ、気付く必要があるのは、損をするという感覚はどのようにして発生するのかという点です。

つづく