自我はトンチンカン

人間とは欲深いもので、願いが叶わなければ否定的な気持ちになるし、願いが叶ったところで嬉しいのは一瞬であり、泡のようにその気持ちは消えていってしまうのです。

そしてすぐにでも次の願いが叶うようにと目先を変えて頑張りだすのです。そして心のどこかで、次はそんなことはないはずと思いたいのです。

これが実現した暁には、もうそれ以上を求めるようなことはないだろうと思っているのですが、残念ながらそれも束の間、すぐにまた飽くなき挑戦を始めるのです。

結果として自我が満たされるということはないのです。この繰り返しのうちに、人生という時間が尽き果てていくわけです。

私たちが求めているものとは、永久不変の満足感なのです。それをこの現象界で追い求めていること自体がトンチンカンなことだと気づくことですね。

要するに不可能に挑戦し続けている愚かな行為だと分かればいいのです。ではどうすればいいかと言えば、私たちの本質に気づくことしかないのです。

自我として、悲喜こもごもの人生をまだまだやりたい人はそれもよし、けれどももうそろそろ飽きてきたという人は、自分とはなんなのか、どこにいるのかを検証することです。

そして自分の本性がこの世界のどこにもいない、あるいは全てだということに気づくなら、全く違った人生の風情がやってくることになるでしょうね。

2 Replies to “自我はトンチンカン”

  1. ここ最近そういうことをまさに感じていました。自分の望みが叶うまでは喉から手が出るほど欲していたのに、いざ叶うことになると、とたんに叶う前の状態が恋しくなるのです。決して継続して満足することはなく、まさに無い物ねだりの繰り返しであり、自我の分離感そのものを感じているのです。
    結局は真実を見つめて変わらない本質を感じること、それだけが揺るがない安心感のようなものを感じさせてくれる唯一のものであり、それさえ忘れずにいれば、幻想の中で何を選んでもどの場所にいようとも、それ自体を楽しんでいれば何でも良いのだなと。
    ただ決まっていることの中で、突き動かされ、大きな流れに乗るだけなのですよね。

    しかし‥全てが恋しくなるというのは全てが自分であるいうことの現れなのかもしれませんね。と言ってもどこにもいないのですが笑

  2. 願いが叶ってしまうと、叶う前の状態が恋しくなるというのはすごく的を射た表現だなと思って、感心しました。確かに私もそんな経験があります。手に入る直前が最高潮で、手に入ってから少しずつ落ちていく、そんな感じがします。このことに早く気づいて、そこから少しずつ離れていけるといいですね。

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