防衛と攻撃は表裏一体

子供が友達にたたかれたりして泣いて帰ってきたら、きっと男の子であったとしたら親はやられたらやり返しなさいと言って子供にげきを飛ばすこともあるかもしれませんね。

それは私たちの信念として、攻撃はいいことではないけれど、防衛は仕方のないことであり、攻撃と防衛は根本的に違うと信じているということです。

その証拠に正当防衛という言葉があるくらいですから。防衛は正当なものだという認識が世間に広く行き渡っているということです。

過剰な防衛は正当かどうかという議論はあるにしても、通常防衛というと、攻撃し返すパターンや、身を固めて防御する方法、そして逃げるという概ね三つのやり方があります。

どんな防衛の仕方であったとしても、攻撃に対して否定的な反応をしていることに違いはありません。そして、よくよく考えてみるとこの防衛というのは攻撃と表裏一体なのです。

コインの表と裏のような関係と言えばいいのでしょうか。100円硬貨は表になっていようが裏になっていようが100円硬貨として何の違いもありません。

それと同じように、防衛と攻撃は「恐怖」というコインの表と裏だと思えばいいのです。防衛にしても攻撃にしても、どちらも恐怖における違う形、あるいは違う側面を表しているだけのこと。

ところが、最初に攻撃したほうが悪いに決まってる、その攻撃に対する報復としての攻撃は正当防衛だと思っているのです。

兄弟喧嘩を裁くときに、どっちが先に手を出したの?といって、親が先に攻撃したほうを悪者とする裁き方をするのは、防衛は正当だという考えからきたものですね。

でも喧嘩両成敗として、喧嘩をしている両者ともにいけないことだよと叱る親もいます。私はこの喧嘩両成敗というのが大嫌いでした。

自分は何もしていないのに、相手から一方的に理不尽な攻撃をされてしまったがために、防衛の一手段として報復しただけなのに、なぜ責められなければならないのかとても不服だったからです。

しかし今になってよく分かってきたことは、実は相手が攻撃してくるのは、元々自分の心の中にあった攻撃的な思いが単に形となって投影されて外に表れたに過ぎないということです。

このことが本当に分かってくると、正当防衛などという言葉がとても怪しい響きを伴って聞こえてくる感じがするようになってきました。

だから、防衛とは攻撃なのです。その防衛がどんな形をとろうとも、それは攻撃に違いありません。この防衛を続ける限り、必ず攻撃を受ける事態になるということです。

攻撃されなくなる防衛の仕方はたった一つしかないのです。それは「許す」ということ、それも相手に罪はないとして許すという方法。

これだけが、真に自分を守ることができる唯一の防衛方法だということです。でもこれには通常、激しい抵抗を感じるはずです。

相手が悪いのになぜ自分を守るために相手を許さねばならないのかと。この反論は常識的には最もなことですが、この常識のままでは攻撃を免れることはできません。

疑うなら試してみることです。誰かに攻撃的な言葉や態度をされたときに、今までどおりの防衛をするのではなく、相手のその態度は自分の攻撃心の投影だとするのです。

そうやって、相手そのものは無罪として許してみるのです。それがうまくいったときには、きっと相手の態度が急変するはずです。

是非、実践することを強くお勧めします。できなくて当然、できたらそのことを喜んで自分を褒めてあげればいいのですから。そしてそれが継続すると、結果として攻撃されない人生を手に入れることができます。

本当の自由とは

子供の頃は何をするにも一人ではできなくて、大抵は親のサポートを必要としています。それが徐々に一人で電車に乗れるようになったり、自分の意思で学校を決めたりするようになります。

そうやって、自立していくことで自分は自由なんだと感じるというわけです。自分には○○ができる自由があるという感じで自由というものを認識しているのです。

確かに犯罪を犯して牢獄に繋がれている人よりも、外を好きに歩きまわれるほうが自由だと言えそうですが、本当の自由とは目には見えないものなのです。

つまり内面的なものだということ。そして、明確に表現すれば、自由とは過去から開放されている心を持つことであると言えるのです。

なぜなら過去と繋がっている意識というのは、必ず未来を制限してしまうからです。過去が罪であれば、未来はその罪を償うためにしか使えなくなってしまいます。

また、過去に様々な思い残しを持っている人は、それを何とかして未来で解決しようとしてしまうために、未来の自分を縛り付けてしまうのです。

実際、そのようにして過去と未来は繋がっているのです。過去への縛りがない心だけが真の自由を手に入れている状態であるということはそういうことなのです。

そうした心は未来のことを白紙として見ることができます。つまり、興味の対象は未来ではなくて今現在だけに絞られているのです。

それが自由というものです。そして、その状態では未来における恐怖というものがなくなってしまうので、愛に満ちて生き生きとした心でいられるのです。

自由とは、自立によって勝ち取るのではなく、過去をないものとして開放することができた心だけが感じられるものなんですね。

過去は今現在にはないということを繰り返し自分に教えてあげることです。過去と今は何の繋がりもありません。過去の何かを隠しておいて、このことを体得することは不可能です。

なぜなら隠したものを手放すことはできないからです。過去に意味はないとして、あらゆる部分に光を当ててしまいましょう。

残るは今を楽しむ、喜ぶことだけが自分を歓迎してくれるはずです。それこそが、本当の自由なんだということを忘れないことですね。

平安か戦いか その2

私たちは心の底では平安を求めています。それは平安こそが本当の幸せだとどこかで知っているからです。でも残念なことにそれを手に入れようとして戦いをし続けて来てしまいました。

戦うということは勝ち取るということですね。ところが、いくら戦って勝ち取ったとしても、それは必ずあっという間に打ち砕かれてしまうのです。

だからこそ、延々と戦いの歴史を繰り返しているということですね。そのことに、本気で気づかなければならないと思います。

平安を求めるということは、危険から自分を守ることを意味します。それを防衛と呼びますが、その防衛のやり方が今までは戦いであったということです。

戦いによって自分を守ろうとする行為は、それがどれほど正当なものであったとしても結果は平安にはならないということです。

戦いとは攻撃を意味しますから、相手を攻撃しておいて真の平安を手に入れられるはずはないからです。そして攻撃による防衛は、益々自分を危険な状態へと追いやってしまうのです。

コースでは、戦いによって平安を手に入れようとする防衛法ではなくて、全く危険のない真の防衛法によって、平安を手に入れられると教えてくれています。

その防衛法とは「許し」です。許しだけが、攻撃を使わない唯一の防衛法だということです。ただ、残念ながら私たちはその方法が自分を防衛できるとはまったく信じていません。

許しなどという悠長なことを言ってる間に、悪意のあるものに騙されたり、脅されたりしていたのでは到底自分を守れないと信じ込んでいるからです。

確かにここは難しいところですね。それは自分を守ることは身体を守ることだと思っているからです。身体こそ自分の主体だと思えば、そうなってしまうのは当然とも言えます。

でも本当の主人は身体ではなく心です。心は攻撃ではなく、許しによってのみ癒されて、その結果として本当の平安を手に入れることができるということです。

平安か戦いか

私たちが求めていることを大胆に二つに分類するとしたら、それは平安なのか、それとも戦いなのかということになってしまうのです。

心の平安というのは、目に見える状態としては世界や身近なところの平和になるんですが、それじゃあ誰だって平和を求めているに違いないと思うかもしれません。

でも本当はそうではないのです。世界のどこかではいつも戦禍が絶えないのですが、それに比べれば今の日本は確かに平和そうに見えます。

しかし、これは目に見える戦渦がないだけで、冷戦状態が続いているともいえます。それはきっと私たちの心が日々戦っているからです。

つまり、平安(平和)を求めているという自覚の裏には、戦いを求めている心があるということです。百歩譲って、それは平和を手に入れるための戦いだと言えるかもしれません。

戦いに勝つことで安心できるからですね。地球のあちこちで起こっている戦争だって、当事者にしてみれば相手が悪いので自分たちが安心して生活できるようにと戦っているだけだと言うでしょう。

それは実は不正を暴いて自分は正しいと証明しようとする行為であり、結局これも安心を手に入れようとする行為であるといえます。

ところがこの安心がクセモノなのです。実は、この安心とは戦ってしか得られないものだと私たちは信じてしまっているからです。

これは心の中にいるエゴの策略なのです。そして、エゴは安心することが目的ではなくて、その目的を達成するために戦う心を維持させようとするのが本当の目的なのです。

私たちはそれとも知らずに、日夜戦いの日々を過ごしているということです。分かりやすい例で言えば、中東の方で起きている戦争は、宗教戦争や土地争いがほとんどです。

宗教戦争とは、自分たちが信じる神だけが本当の神なので、他の人が信じている神はニセモノだとしてナキモノにさせようとするのです。そうやって自分たちの正しさを証明することで、安心を得ようとするのです。

領地戦争にしても、この土地は先祖代々自分たちのものなんだから、お前たちは侵略者なので出て行けという論理であって、出て行かないなら攻撃するということですね。

もう気づいたほうがいいと思うのですが、安心を得るための戦いは、実は戦いそのものが目的だったということです。

安心を得たいのなら、その方法を決して使わないように放棄することです。安心とは心の平安のことですから、それは戦いを放棄することでしか達成できません。

大音量でロックを聴くことが平安を求めていると言えるでしょうか。絶叫マシンに乗ってスリルを味わうことが平安でしょうか。

クルマのレースでスピードを競ってみたり、政治討論をすることが本当に平安を求めていることだと思うでしょうか。

もうそろそろ分かりましょう。私たちは決して平安を心から求めてはいません。戦いの中にいたくて仕方ないということです。

しかし、本当の幸せとは永続的な心の平安なのです。まずは、平安を求めてはいないという実感を毎日の生活の中で感じるようにしてみてはどうでしょうか。

そしてそれが理解できたら、戦うことを少しずつ手放していくように意図的に生活するよう工夫していくことです。本当は誰もが心の平安を願っているのですから。

分離は不可能

一つのりんごを包丁か何かで真っ二つにすることができますね。みかんでも、梨でも、柿でも同じことです。果物ばかりではなくて、もっと大きなものでも二つに分けることができます。

原理的にはとてつもなく大きな地球でさえ、二つに分離することができます。勿論それはイメージの中でのことですが。

ところが、大きさが無限大のものがあったとしたら、それを分けることはできるでしょうか?いいえ、それは不可能です。

なぜなら、大きさが無限大ということは大きさの概念がそこにはないからです。つまり、大きさのないものを分離して二つにすることはできないということです。

分かったような分からないような変なお話しですが、実は大切なことが含まれています。私たちが常識的に一つのものを二つに分離することができると考えているのは、有限である世界でのことなのです。

コースは実在とは無限であると言っていますので、分離することは不可能なのです。無限ということは、すべてであるということでもあるので、すべてを分離することもできないのです。

私たちの本質である実在も分離してはいないのです。いま、便宜上私たちといいましたが、私たちはバラバラな個人だと思い込んでいるだけで、実在は分離することなどできない唯一の存在だということです。

それはつまり、自分以外は何もないということ、自分とはあらゆるものの一切合財であるということです。だからこそ、それを分けるということは不可能なのです。

すべてであるからこそ唯一である自分を分離して、一人、二人と数えることもできません。それなのに、私たちの自覚はみんなが別々の心を持っていると信じています。

本当は、誰もがたった一つの心を分かち合っていると言うこともできます。その唯一の心が分離してバラバラになったとしたらという妄想を抱いているだけなのです。

すべてが一つであるなら、攻撃することは不可能になります。なぜなら、ターゲットは存在しないからですね。自分を失うということも不可能です。

自分だけでできる唯一のことは、ただ愛するということだけなんです。だから、本当の私たちは愛することだけが出来る存在だということです。それ以外は、丸ごと全部幻想に過ぎないのですね。

この話し事態が幻想なにか、この分離の世界が幻想なのか、どちらの方が自分にとって都合がいいと思いますか?それはきっと幸せになれるほうを選ぶはずですよね。

愛は気長

子供の頃に比べて、外を歩いているときに野良猫に出会う機会が少なくなったように思うのは私だけでしょうか?

飼い猫なのか、野良猫なのかは分からないのですが、道で猫に出会ったりするとついそ~っと近づいていって、様子を見てしまいます。

ほとんど撫でさせてはくれないと知ってはいるものの、できることならと思ってゆっくりゆっくり寄っていくのですが、やっぱりどうしても逃げてしまいます。

とても残念なのですが、仕方ないなと思って次のチャンスを狙っているのですが、なかなかどうして触れさせてはくれないようですね。

自分が子供の頃というのは、野良猫がきっと今よりも沢山いて、ごく普通に撫でたりして一緒に遊んだりしていたことを覚えています。

ということは、昔は野良猫たちはそれほど人を恐れてはいなかったということになりますね。学校から帰ってくる道すがら、いつもいる猫たちと何だか挨拶するような感じで撫でてたと思います。

猫たちが人を恐れて逃げるようになってしまったのには勿論理由があるのでしょうね。それは本当に悲しいことだと思います。

お腹が空いてそうな猫であったとしても、何か食べ物をあげようにも決して寄ってはこないのですから、どれほど人間のことを危険なものとして見るようになったか分かると言うものです。

こちらがどんなにやさしい気持ちで接しようとしても、逆に怒りを露わにして攻撃してくるかもしれません。自分の思いは伝わらないのでしょうか?

それは人の場合も同じなのではないかと思うのです。こちらが愛を持って接したとしても、深く傷ついてしまった心には、そう簡単に信頼してもらうことはできません。

だからといって、相手を責めないで愛を持続させられるようにしたいものですね。猫だって、繰り返してやさしさを持って接すれば必ず応えてくれるようになるのです。

愛は瞬間的なものではなくて、いつまでも安定して与えられるものです。そして、できるだけ期待しないというのも愛の特徴です。愛は気長でいられるんですから。

最大の勘違い

自分の心の中にある思いというものが、外側の世界とは独立してあると信じきっている事が私たちのする中で最大の勘違いだと思います。

この思いが自分の身体の内側にだけあると誰もが思い込んでいるのですが、実はどんな思いであろうともそれがすべて反映された結果がこの世界なのです。

自分一人でこっそりとある思いを持つことは不可能だということですね。自分の思いがすべてであり、それが常にリアルタイムで外にあるように見える世界を形作っているのです。

ずっと以前からこのことをどこかで感じてはいたものの、でも本当には分かっていなかったと思います。勿論、今もどこまで分かっているのかは怪しいものです。

それが、コースと出会ってから徐々に自分の中で明確になってきたのですが、またここに来てより鮮明に、よりリアルな感覚を持って自分に迫ってくるようになりました。

今これを書いている瞬間も、自分の思い以外には何もないし、それなくしては何事も起こるはずもないということ。そしてこの思いは、常に平安か戦い、もしくは愛か怖れのどちらかであると。

何事もない思いというものは決してなくて、必ずどちらかの要素から成り立っているのです。どんなに些細な取るに足りない思いであろうとも、この原則が成り立つのです。

自分の思いについて、よ~く味わってみると、そのほとんどが愛ではなくて怖れをベースにしているということに気づかされてしまいます。

そうなると、自分の心の中の密かな思いなどとは言ってられないということですね。この思いこそが、この世界のすべてを左右していると言えるわけですから。

私たちは自分の言動には責任を持たなければならないと分かっていますが、自分が内心どんな思いを持っているかについては、その限りではないと信じています。

ですが、本当にこの世界のすべての原因となるものとは、自分の思いでしかないということ。こうしたことを日々気づこうと意図的に生きることが、自分の本質、この世界の本当の姿を見ることに繋がるのだと思うのです。

現在という瞬間

過去と未来のことをあまり意識しないで済むときって、どんなときがあるかなと考えてみました。自分の場合には、レースゲームに夢中になっている時がもっとも身近です。

それと、お笑い番組を見て大笑いしている瞬間ですかね。実は大笑いできるのなら、別にテレビなどの映像に限らず、気のおけない友人たちと一緒の時もありですね。

あとは、自分なりの瞑想らしきものをしているときも、うまく行くとそうなることが時々あります。他にもあるのかもしれませんが、今思い出せるのはそんなところかもしれません。

逆に過去と未来を意識してしまうときはどんなときかも考えて見ます。過去については、大抵は誰かのことについて思い出している場合だと言えますね。

最近は、いやなことを回想することが少なくなってきているので、あの人こんなこと言ってたなあという他愛のないものを思い出すことが多いです。

一方、未来について意識をめぐらすときというのは、もうほとんどが何か不安なことを感じている場合だと思いますね。

経済的な不安や、病気などの身体の具合の悪さからやってくる不安を感じているときに、何となく近未来のことを思っているように思います。

総じて今よりも会社員だった頃のほうが、圧倒的に多くの時間を過去や未来に向けていたんだろうなというのは自覚できます。

ということは、以前よりもだいぶ過去と未来へ注ぎ込むエネルギーが減ってきたと言えるんでしょうね。だからそれだけ心が平安でいることが増えてきたということだと思います。

癒しの本質は、過去を手放すことです。過去を切り離すことができると、自然と未来も見ないでいられるようになります。

過去は必ず未来を限定してしまうからです。そして、過去への思いというものは、自分を限られた未来へと縛り付けてしまうのです。

私たちの本当の自由とは、過去から開放されることなのです。そしてそれはそのまま未来からも開放されることになるのです。

時間というものを、過去→現在→未来というような流れの中で意識してしまうと、いつまでたっても過去と未来という牢獄から抜け出せなくなってしまいます。

それは一番大切な現在というものを体験できなくしてしまうのですから。現在だけが、時間という牢獄から自分を解放することのできる唯一の瞬間なのです。

瞬間とは、一瞬で終わるものではなく、もっとも永遠に近い体験ができるときなんです。私たちの本質とは、現在という瞬間の連続でできているんですね。

時間は現在という真実を体験することを妨害するものでしかないということに気づくことです。できるだけ工夫して、過去と未来を意識からはずせるときを作るようにしたいものです。

それこそが本当の幸せに気づくことができる方法なのですから。

非現実感

何歳くらいの頃からなのか、はっきりとは覚えていないのですが、自分はどうもある時から現実感が乏しくなってしまったのではないかという気がしています。

それは正確に言葉で説明するのはとても難しいのですが、簡単に表現すると自分と外の世界との間がしっかり密着していないで、隙間があるような感覚とでもいうのか。

だから外の世界で起きていることが直接に自分に伝わって来てはいないような感じがいつもしているような感じなのです。

もうそれが当たり前になってしまって、慣れてしまっているのでどうということはないのですが、そのことをじっと感じようとすると、やはりこのままではいやだなと思うのです。

生まれつきそうなのだとは思えなくて、うんと幼い頃はきっとこんなことはなかったのではないかという気がするのです。

これは自閉していると言ってもいいのかもしれません。目立たない自閉症ですね。自分を閉ざして外の世界との交流を遮断しているということです。

それはきっとこの世界で生きていくことに不安や恐怖を感じて、それから逃れるために徐々にそんな状態に無自覚のうちにしてしまったのかもしれません。

病的なレベルではないにせよ、自覚できるレベルのものですから何とかしたいと思っているわけですが、一度閉じた心は完全に開くことは難しいのでしょうか。

ただ、大人になってから激しく感情を開放した後には、現実感が戻っていたようなときもあったかもしれません。だとすると、抑圧が強いとやはり現実感が乏しくなるのかもしれないですね。

コースでは外の世界というものは存在しないと教えています。つまり、外の世界に見えるものも、実は自分の心の一部であるということです。

ということは、自分のように外の世界との間に隔たりを感じている場合は、自分の心の中に亀裂が入ってしまっていると言うことになります。

これを本当に元通りにするためには、すべては一つという愛の想念を思い出すこと以外には方法はないのだと思います。

自分の心の亀裂が修復されたら、きっと自分の知覚をもっとダイレクトに感じるはずです。きっとそれは何とも言えない安らかな気持ちになるのでしょうね。

二種類の階段

我々人間にだけある特徴として向上心というのがありますね。誰もが現在の自分よりも、もっとすばらしい自分になりたいと思っています。

だから向上心のないものは駄目だということにもなるんですね。いつも切磋琢磨して、少しでも自分をより理想の自分に近づけようと努力する人が高く評価されます。

産声をあげたときから、死ぬ直前まで進歩したいのです。そして、目の前にある階段を一段づつ上がって行こうとします。

進んでいくことのたとえとして、この階段がよく使われると思います。私もセッションでよく言うのですが、階段の遥か先を見て大変だなと思わなくてもいいですよ、今日自分が上がれる一段だけあがればいいですからと。

これは癒しを進めていくときのイメージを階段で表したものです。そして、この階段は通常私たちが目指してきた進歩しようとして上がっていく階段ではありません。

実は誰もが向上しようとしてのぼっているつもりになっている階段は、本当に価値のある癒しの階段とは全く正反対のところにあるのです。

そして、向上心の階段は癒しの階段があることを自分に隠すためにあるとも言えるです。私たちは向上心の階段を頑張って上がって行ったその先に、幸せがあると思っています。

でもそれは残念ながら間違いです。向上心の階段は、見た目は上にあがっていくように見えても、その実体は横ばいか、悪くするとさらに下に向かって行ってしまう可能性すらあるのです。

本当の幸せは向上して手に入れるものではなく、本来の自分に気づくことなのです。癒しの階段の先にはまさにその本当の自分が待っていてくれます。

イメージして下さい。ずっと昔に癒しの階段をすべるように落ちてきた自分がいるんだと。そして、落ちてきたことを忘れようとして、向上心の階段を作ることで癒しの階段を見えないようにしたのだと。

癒しとは、幸せになっていくことですが、それはこの自分が落ちてきた階段をまず見つけること、そして向上心の階段をこれ以上のぼらないようにすることなのです。

自分が落ちてきた癒しの階段こそ、本来の自分の姿を思い出すためにあがっていくべき階段なのです。それは勿論自分を向上させるのが目的ではありません。

ただ、本当の自分に気づくのが目的であり、それが真の幸せに繋がる唯一の方法だと言うことですね。みなさんは、その価値ある階段をもう見つけることができましたか?