自分も知らない自分の本音

他人のことっていろいろ目に付くものですが、逆に自分のことってなかなか分からないものですね。自分のことを集中的に見つめて気づこうとしてもうまく行かないことが多いです。

それは、自分にとって気づきたくない部分というものを自分に対して隠そうとする無意識の力が働いているからです。それは抑圧と呼ばれるような強くて深いものから、わりと浅いものまであります。

こういったことは、実は自分が自分をどう思っているかということに対して言えるだけではなくて、他人が自分をどう思っているかということにも当てはまるのです。

ここが今日のポイントです。私たちは、自分をどう思うかということと同じように、相手が自分のことをどう思っているかということも心の中に持っていますね。

そしてここにも、気づきたくない都合の悪い、相手から見た自分の像があって、それを隠そうとする力というものが働いているのです。

勿論、あの人は自分のことをよく思ってないに違いないとか、嫌われてる感じがする、という具合に一見都合の悪いようなことでも隠すことなく感じることもあります。

しかしそれは表面的に都合の悪いということであって、それとは違うもっと深いレベルで都合の悪いことというのがあって、それは隠されてしまう場合があるのです。

例えば、少し込み入った話になりますが、自分の本心は相手のことが好きなんだけど、その人が自分を嫌ってくれたら諦めることができると思っているとします。

そうすると、本当は相手は自分のことを好きだと思っているということがあったとしても、そのことが自分にとっては都合が悪いことになってしまうので、そんなはずはないと否定するのです。

このような自分の本心というものを、私たちは毎日隠しながら生きているといっても過言ではありません。少しでもそうした本音を知りたいとは思いませんか?

そのようにして隠された自分の本音を暴き出す一番いい方法は、自分が相手に対して質問したらどう答えてくれるだろうかという問答を自分一人でやってみることです。

思いつく限りの様々な質問をしてみて、それに相手だったらきっとこう答えるはずという具合に答えを出していくのです。

そうすると、以外な答えが出てくることにびっくりすることがあるはずです。相手はこう答えてくるだろうという類推の中に、自分の本音が隠されているからです。

もしも、興味があったら試してみてください。そして、自分一人でやるのはどうも、という場合はセラピストのところで一緒にやってみるとより効果的だと思います。

痛みに寄り添う

痛みや苦しみというのは、それが心の苦痛であっても身体のものであったとしても同じように独りであるというところから来るものなのです。

孤独というのは、自分のことを分かってもらえてないという惨めな思いです。独りぼっちで誰にもかまってはもらえてないという幼いころの悲しみと同じものです。

だからその苦痛を緩和してあげるためには、それを感じている人にできるだけ寄り添ってあげることが大切なんですね。

そうやって、あなたは独りではないよ、丸ごと受け止められているよということを少しずつ気づいてもらうことが大事だということです。

痛みを感じている本人の自覚としては、そんな孤独感はまったくないと思っていることも多いものですが、心の中を紐解くと必ず独りで寂しいというものが奥に詰まっています。

だから寄り添うというのは大切なことですね。言葉よりも何よりも寄り添うことです。これが先天的にできるのは、人間よりもペットなどの動物かもしれません。

動物は余計な言葉をしゃべることもないために、ただ寄り添うということが必要であることを生まれながらに知っているのでしょうね。

本来人間も動物と同じはずですが、言葉を話せるようになってしまったために、それが逆に災いとしてただ寄り添うということの大切さを忘れてしまったのかもしれません。

何とか力づけようと言葉で励ましてみたり、やさしい言葉をかけてみたり、確かに愛のある言葉は癒しの効果があります。

でもそのために寄り添うという根本的なことを忘れてしまいがちです。セラピードッグのようにただ寄り添って相手を見つめることを忘れないようにしたいと思います。
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ルーツ

誰にとっても自分のルーツというのはとても大事なものであるようです。それはそもそも自分は誰から生まれたのか、そしてどんなところで生まれ育ったのかというようなことです。

生まれてからずっと変わらずに両親と一緒に暮らしている場合や、生まれた場所でそのまま生活を続けている人にとっては、このことは気づきにくいことかもしれません。

でも、生まれ故郷を後にして都会や海外に出て生活している人もいますし、結婚などで両親とは別れて暮らしている人の方が多いかもしれませんね。

自分が戻る場所というのか、そういったものがあるというのは何だかホッとすることができるような気もします。

私が生まれ育った家は川のそばに建っていたのですが、その川幅を広げる工事のために自分が中学生のときに強制立ち退きさせられました。

ですから今その場所に戻っても、家もなければその跡すらなく川になってしまいましたので、少し寂しい感じがしますね。

中学生のうちに今の家に引っ越したのですが、その後に高校生だったころ、夢の中でその高校から引っ越す前の家に戻ろうとして道が分からなくなったことがありました。勿論高校から生まれた場所に戻ったことはなかったので、当然なのですが。

表面的には生まれた家のことなど普段全く思い出すこともなかったのですが、そうやって夢の中では当たり前のように出てくると言うことは、心の中に強くその家への思いが残っていたということですね。

人がルーツにこだわりを持っているのは、自分が何者なのかという問いに対する答えをずっと捜し求めているからなのではないかと思うようになりました。

誰もが持っている心の奥にある本当の自己、それに気づくことが出来たら、それこそ本当のルーツ、真の源のことを思い出すことができるように思います。

その時に、きっと今まで一度も感じたことのない深い平安な心に戻ることができるような気がしています。そして、そのルーツはきっとすべての人に共通のものであると感じています。

信じてるもの

何かを信じて一直線に突き進んでいくということには二つのことが考えられます。一つは、信じたものが自分の幸せに貢献できるものであった場合には、益々幸せに近づいていけます。

しかし、それが自分の幸せには貢献できないものであった場合、これはとても悲惨な結末を迎えることになるはず。実は、これが今の私たちと言っていいと思います。

私たちが共通して一心不乱に信じてきたものとは何だと思いますか?それはこの世界そのものです。何とは言わず、今見て聞いて体験しているものすべてです。

いやいやただこの世界という現実の中で生きているだけであって、それを信じているわけではないと普通は思うでしょうね。

ですが、よ~く考えてみると、すべては自分の知覚によって得た刺激を自分なりに解釈しているに過ぎません。その知覚を信じているからこそ、この世界があると思っているのです。

それが当たり前過ぎてしまうために、自分が信じているということを忘れてしまったのです。だから本当は、現実とは自分が信じているものの総称でしかありません。

もしも自分の知覚を信じることをやめたらどうなるか、考えることを拒絶してしまうくらいに困ってしまうはずです。

もしも今とても幸せだと感じるのでしたら、何の不安も悩みも何もないというのでしたら、それはとてもありがたいこととして、その幸福を享受していればいいですね。

しかし、何とはなしに閉塞感があるとか、鬱々とした気持ちを感じていたり、真に満たされているとは思えないというのであれば、冒頭書いたことを思い出すことです。

つまり、信じてきたものが間違っていた結果だということを思い出すのです。自分が心底信じてきたものは、自分を幸せにするものではなかったのだと。

そのことを潔く見つめることができた人は、自分を幸せにしてくれる全く別のものを信じることができるようになる可能性があるということです。

そのことについて、「奇跡のコース」では詳細に教えてくれています。興味があれば、読んで見ることをお勧めします。自分で読むのは面倒という場合には、講座にいらして欲しいと思います。

幸せの形?

幸せというものには定義はないと言うのが定説になっていると思います。つまり、幸福感というのは人それぞれに違いがあるから、幸せとはこうだと客観的に定義できないと言っているのです。

ある人は大好きな人と結婚できたので自分は幸せ者だと思っているでしょうし、念願の仕事を手に入れることができたので幸せだと言うかもしれません。

友達が沢山いて毎日が充実しているので幸せだと言う場合もあるでしょうし、子供がすくすく成長している姿を見れるだけで親としては最高の幸せを味わっていると言うかもしれませんね。

どれもこれもみんな素敵なことです。それを否定する必要もありません。もっとすばらしい幸福があるよなんて言わなくてもいいとも思います。

ですがここで立ち止まって一つ考えてみて欲しいことがあります。それは、そうした幸せがいつ何時奪われてしまうかもしれないという不安があるはずだということです。

いつまで今の幸せが続くんだろうか、もしかしたらそれがある時消えてしまうかもしれない。その可能性が完全になくならない限りにおいては、心の中の不安がなくなることはないということです。

その不安を内在したままでの幸せについて語っていたということです。人間である限り未来を知ることはできないし、そんなことを言っていたら幸せなんてどこにもなくなってしまうと思えます。

こういった幸せというものが、不安と隣り合わせになっている理由は、それが何かを手に入れたことによる幸せだからです。

上の例で言えば、理想の結婚相手であり、念願の仕事であり、気の合う友達であり、愛しい子供の姿なわけです。願っていたものが手に入ったということは、それを失う怖れがいつも付きまとっているということにもなるのです。

こうしたことを考えていくと、未来永劫不安な思いから完全に開放されることが本当の幸せなのだろうと言うことが分かります。

それは何か足りないものを手に入れることでもなければ、それをずっと保持しようと頑張ることでもありません。ずっと不安のない心、いつも平安な心とは、結局のところ外側のことに翻弄されない心を持つことでしか実現しません。

なにはなくとも、今この瞬間に心が満ち足りているという思いこそが、ずっと変わらずに平安な気持ちでいられることを保証するものです。

それは外側ではなく、内なる自分と繋がるという抽象的な言葉で表現することになってしまいますが、何も求める必要がなくなったときに感じる深遠な心の状態なのかもしれないですね。

そして必ず誰もがその状態になることができるはずです。なぜなら内なる自分は誰の心の奥にもあるものだからです。まずは目の前にあると感じる不満を手放すことからやっていきましょう。

その奥にある満ち足りた本当の自分への気づきを邪魔しているのは、もっとこうしたい、もっとこうなりたいという尽きない願望だからです。願望は必ず不満を生み出すのです。

心をできるだけ静かにして、ゆったりとした気持ちを作り出して、その奥に感じる何かどっしりとした自己を探してみることにしましょう。

その自己は何も足りないものなどないときっと教えてくれるはずです。何一つ、怖れるものなどないということを分からせてくれると思います。

原作者

昔誰もが知っている「巨人の星」というアニメがありましたね。ずっと前に、その作者の方がアニメの主人公である星飛雄馬が勝手に動き出してしまうと言ってたことがありました。

どういうことかというと、物語の中での主人公がどういう行動をするかとか、次にどんなことをしていくのかということが、まるで本人が生きている人物であるかのようになってきたということ。

だから原作者と言えども、主人公に勝手な振る舞いをさせることができなくなってきたということなのでしょうね。

ここにはとても大きなヒントがあると思います。主人公のキャラクターが明確になればなるほど、作者の手を離れて勝手に動き出すということ。

彼は勿論架空の人物なわけですが、彼はもう沢山のアニメファンの心の中で動き出してしまったわけですね。それを作者が感じてしまうために、自由に筋書きを書けなくなったということでしょう。

実は、星飛雄馬は私たちなのです。私たちにも同じように自分たちの原作者がいるということです。それを真の自己と言ってもいいかもしれません。

それなのに、そのことをすっかり忘れて自分で自分の人生を生きていると思いこんでしまっているということですね。

飛雄馬が頑張って巨人の星になっていくように、自分だって自分の頑張りと努力によって何かを成し遂げることができるのだと思っています。

でも彼の活躍は、作者の想像と筆から出てくるものなんですね。そして作者は彼がどうあれ彼のことをとても愛しています。

私たちの作者もきっと私たちのことを深く愛しているものと思います。生きる力とか、様々な能力とか、愛の心とか、全部その作者から授かったものだと言えます。

でもどこからか、私たち自身で動き出してしまったのです。私たちの作者はたった一人ですが、それをみんなで共有しているわけです。

物語は動き出して自らを止めることができなくなってしまったかのように感じます。でも本当の作者のことをいつか思い出せるような気もしませんか?

その作者こそが、本当の自分であるということがいずれは分かるようになるのだと思います。

完璧を求める

何かを着々と築き上げていく時の充実感と言うか喜びというのは、誰もが経験しているものだと思いますが、それとは真逆の何かを手放していくときの爽快さというのもありますね。

いらなくなった本やCD、着なくなった服や靴、そういったものを古本屋に売ったり、リサイクルショップなどに出したりして整理するととても気持ちがいいものです。

なんだか一緒にいて辛いことが多いのだけれど、どうにも独りきりになってしまうのが怖くて別れることができずにいた恋人と、とうとう別れてしまうと、思いのほかさっぱりとするものです。

収入が減ってあるとき一文無しになったとすると、実際困り果てることになるだろうなとは思うのですが、何か守るものがなくなった気持ちよさのような感覚があるようにも思えます。

何かを守らなくていいというのはとても楽ですね。欲を出さずに現状を維持するだけでいいと思っても、それでも守るものはあるわけです。

どうも自分には破壊願望があるように思います。破壊といっても暴力的な意味ではなくて、作り上げてきたものを一旦壊してしまいたいという願望のようなものです。

もしかすると、自分が関わってきたあらゆるものに対してそうした願望が心の奥深いところに隠されているようにも感じます。

この気持ちは一体なんだろうと見つめてみたのですが、完璧ではない自分に対する嫌悪感なのかもしれません。

完璧さを求めている限り決して満足するということはないのですが、そうした自己否定が原因となって、駄目な自分が作り上げたものを壊してしまいたいと思うのかもしれません。

そうしたものに、自分の駄目さ加減が見えてしまうとでも思っているのでしょうか。完璧でないものは破壊して、再度完璧を目指して作り直したいということなのかもしれないです。

年齢を重ねるごとにこうした傾向は減ってきてはいると思うのですが、まだまだ心の奥に残っているようです。人の心とは面倒くさいものですね。

でもそんな自分も全部丸ごと認めて受け入れてあげたいなと思っています。それも許しですよね。しょうもない自分というものをやさしい眼差しで見てあげることで、気持ちも楽になりますね。

自己評価

よく自分は自己評価が低いと言ってる人がいます。自分はこんなんだから駄目なのだとか、どんなに頑張っても所詮自分なんてと感じているということでしょうか。

それは自分の存在価値についての感覚とも言えます。ここにこうして生きていていいんだという確固たる思いがないと、自分の存在価値を感じることができなくなっているということです。

ところで、存在価値とは誰が決めるものなのでしょうか。自分の存在価値は自分が決めるものなのか、それとも他の人たちによって決められるものでしょうか。

もしも自分や他人である人間によって存在価値が決められるのだとすると、そうした存在価値そのものはとても変化しやすい曖昧なものだということになってしまいます。

なぜなら、人ごとに評価の尺度も違うし、ある人の評価そのものが時として変化してしまうことだって多いに考えられることだからです。

しかし、存在価値とは変化しないものだという強い思いが自分の中にあります。みなさんはどうでしょうか?ということは主観的にも客観的にも決めることなどできないものだということになります。

あなたが何を行い、何を考え、何を願望し何を作るか、そういったこととあなたの存在価値とは何の関係もないものだということです。

それは、私たちの真価というものは、「神」によって確立されたものだからです。このことが信じられないでいると、いつまでも恐れの中で戦い続けなければなりません。

なぜなら不安定な評価を常に高いところにと保っていなければならないと思うからです。いつ下落してしまうか分からない存在価値など、意味はありませんね。

自分で自分や人の存在価値を決められるとの思い込みほど、傲慢なことはないということです。自分の存在価値はこの世に生まれるずっと前から決まっていたし、これからも変化することはないのです。

そして、誰の存在価値もみんな同じもの、一つのものだということに気づくこと。なぜなら、私たち全員が「神」によって創造された一つの実在だからです。

崇高な自分

私たちは大抵現状の自分のままでいいとは思っていないものです。もっとこうならなければいけないとか、すぐこうなってしまうのはよくないなど、改善すべきところを沢山持っています。

そうした反省をベースに年齢とともに着々と自分をより高いところへと進化させるということが目標になっていたりします。

より親切な自分、よりしっかりとした自分、より自立した自分、より崇高な自分へと改革していきたいと思っているのです。

しかし、こうした思いが強ければ強いほど、実はそれと連動して自分への駄目出しも強いはずであることにはあまり気づいてはいません。

よく言えば向上心ともいえるものが、実は自分に対する罪悪感にその原動力があったということを、一度しっかりと受け止めることは悪いことではありません。

もしも、より崇高な自分を求めるとしたら、そこには崇高ではない自分への否定的な眼差しが隠されているということになります。

そして、その目標とする自分と現状の自分との落差に気づいて、またさらに自分を責めてしまうということを繰り返してしまうのです。

なぜ崇高な自分を求めようとするのかというと、本当はそうした崇高な自分が本来の自分の姿だということをどこかで知っているからかもしれません。

問題はその求め方にあったのです。ただ、本来の自分を思い出すということに専念するだけでよかったのに、自分の努力でその目標を勝ち取ろうとしてしまったために自分を否定することになったというわけです。

これこそがエゴの策略なのです。決して実現しないことを求めさせておいて、それができない自分を責めさせるというやり方なのです。

このからくりは分かってしまえばいたって単純なものですから、その作戦にこれ以上のらないようにしてあげることです。そのためには、よりよい自分という目標を取り下げるのです。

そして、自分の能力や努力によって勝ち取るかわりに、できるだけ素の自分というものを心の中に探してあげるのです。

そこにはきっと、本当に崇高な自分が見つけてもらえるのをただじっと待っているはずです。その出会いはきっと感動的だと思います。誰の心の中にもそれはいます。早く遭いたいものですね。

解釈しない

ある人と電話でお話しをしている時に、「神は光であり、自分はその光の中で見る。」という言葉(想念)を心の中で繰り返していたら、何かすごく変な感じになりました。

相手の言葉を聞いていながら、こんな発音を互いにすることでコミュニケーションをとっているつもりになっているだけだという感覚になったんです。

他の動物も同じように鳴き声などによってある種のコミュニケーションをとっていますが、それがやや緻密になったものが人の言葉だということですね。

でも残念ながらそうした言葉を使って相手と意思の疎通ができると思っているのはただの思い込みに過ぎないのです。

本当に分かるというのは分かち合うことが必要であり、それは一つになること以外にはあり得ないわけですから、互いに別々の個体だということを信じている限りは真のコミュニケーションはできないのです。

話しを元に戻して、電話の向こうで何かを一生懸命発音している人がいるという、一見とても冷ややかに聞こえてしまうかもしれませんが、そんな感じになったんですね。

意味をつかもうとすればそれもできるのですが、ただの音の集まりだと思えばそのようにも感じることができました。意味の分からない外国語を聞いているのと同じですね。

何か聞きたくない言葉、自分にとって都合の悪いような言葉を理解できないようにするのは、いわゆる防衛機制の一つとして心のメカニズムの中に明確にあるのですが、それとも違っていました。

相手の言葉から自分を守ろうとすることもなく、ただ淡々と聞いているうちに言葉がただの発音として受け取ることができた感覚です。

それは言葉の意味だけではなくて、相手の気持ちや感情なども一緒になって単なるエネルギーとして分かるだけになったのです。解釈しないというのはこうしたことなのかもしれませんね。

解釈しないでいられると、自分の心が波打つことがなくなります。なぜなら、解釈しないでいると何事にも反応する必要がなくなってしまうからです。これはある意味とても気持ちのいい体験でした。そこに幸せへのヒントがあると思います。