エゴ満載のレースゲーム

半年くらい前にドライブシュミレーター(ドライビングシートと、ハンドルとペダルがセットになったもの)を購入してから、ずっとレースゲームに嵌っています。

簡単に言えば、ゲームセンターに行かなくても自室でレースゲームに興じることができるようになってしまったんです。ちなみに、ゲームセンターはあまり好きではないので、行きません。沢山お金もかかるので。

高速サーキットや大自然の中などを思う存分ドライブしていると、とても爽快ないい気分になることができます。爽やかな風を切って走っているように感じることすらあります。

でも、ただ走っているだけではやはり飽きてしまうんですね。そこに競い合うという要素がなければ、退屈になってしまうということです。

人は競い合うことが本当に好きなんですね。相手は一緒にレースに出場している選手だったり、単独走行の場合には自分が出した最速タイムだったり。

とにかく何かと競争して勝ち負けを競うこと、これがなければ面白みは半減してしまうということです。これってどれだけエゴの領域に属することになるのか。

また競争で勝つだけでも面白みに欠けてしまうのです。つまり、ぎりぎり頑張って勝つことが出来たときにこそ、最大の達成感を得ることになるのです。

他のクルマよりも自分の方が圧倒的に速かったりすると、これもまた退屈になってしまいますし、逆にどうやっても勝てないようなレースも全くやる気が失せてしまうのです。

それを考えると自分とは本当に面倒くさいものだなと思います。ちょうど自分にとって自己満足ができる条件が揃わなければ、喜べないわけですから。

頑張って勝負に勝つ、訓練して腕を鍛えて結果を残す、自由自在にクルマを操る、サーキットのコーナーを予想してドライブする、こうしたことのすべてがエゴの真骨頂だと感じます。

与えるという発想が全く欠落してしまう状態とも言えるかもしれません。こうした心の状態にまだ魅力を感じてるということが分かっただけでもよかったのかもしれません。

エゴへの投資にまだまだ未練タラタラというところなんですね。ちなみに、ゲームの中で300km/h 前後のスピードで走りながらコースのワークを唱えるのもおつなものです。

人生の目標

あなたにとって、本当に大切なこと、価値あるモノとは何でしょうか?たった一つを簡単に思い浮かべることができて、それをすでに手に入れられているのでしたら幸運ですね。

答えはとてもシンプルなはずです。なぜなら、真実というのはシンプルなんです。自分の人生を複雑に感じてしまっているのでしたら、複雑にしているのは他でもないあなた自身なんです。

誰にとっても唯一価値のあるモノ、それは幸せです。真の幸福とは、永続的な心の平安、ずっと変わらずに満ち足りた心でいられることです。

これ以外のものを幸せと勘違いしてしまうと、人生は複雑になってしまいます。そればかりではなく、病気や怪我、苦悩、失うことや死ぬことも含めて、すべての苦しみは真の幸福以外のものを求めてしまう結果なのです。

あなたがこれまでの人生で求めてきたものは、真の幸福だったでしょうか?それとも一過性の安心だったでしょうか?

もしも、目標とするものが違っていたなら今すぐにも軌道修正する必要があります。そしてそれは幸運にも、いついかなる時にでも修正することができます。

人生の目標が真の幸せであるとしっかり認識できたら、今度はそれを実現するための手段を考える必要があります。

目標を現実のものにするためには、きっと様々な手段があるのでしょう。そのどれを使っても勿論構いません。しかし一番使うのに自由度の高いものがいいはずですね。

それは今までの生活スタイルを特別変えることなく使える手段です。そして、お金も時間もかからないようなものが最適なはずです。

そんなうまい話しがあるのかと疑われてしまうかもしれませんが、それが実はあるのです。それが「奇跡のコース」の学習&実践です。

コースは日常のごく普通の生活の中で心の筋トレを繰り返していくことによって、心の真の平安を得る方法を教えてくれています。

きっとやってみる価値があると思いますよ。昨年末に日本語版の本も出版されましたので、是非お勧めしたいと思います。

老犬

夕方スーパーに買い物に行ったりすることがあるのですが、そうすると愛犬を連れて散歩をさせている人達を沢山見かけます。

ついつい人間よりも犬たちの方に目が行ってしまうのですが、今日は出会い頭に飼い主のいない犬とぶつかりそうになってびっくりしました。

犬はおおはしゃぎで私の方にやってきたのでちょっと怖かったのですが、そのすぐ後に飼い主さんがやってきてしきりに謝ってくれてました。きっと首輪をはずしてしまったんでしょうね。

それで思い出したのですが、ずっと以前に近所のお宅の犬がやはり首輪をはずして大喜びで飛び回っている現場に出くわしたことがありました。

飼い主さんが捕まえようとするのですが、犬はこの自由を奪われてなるものかとすばやく逃げ回るのでなかなかつかまりません。

たまたま私がその犬を追い詰めて捕まえてあげたことがありました。その後何年くらい経ったか忘れましたが、その犬がよぼよぼの状態になって散歩している姿を見るようになりました。

実はそれまで老いた犬をまじまじと見たことがなかったので、その歩き方があまりに遅くて、一歩足を前に出すのに相当時間がかかっているのを知ってショックを感じたのです。

その飼い主さんが言うには、こんなになっても散歩をしたがるんですよって。ああ、その飼い主さんはその愛犬の気持ちを感じとってあげられるんだなと。

しかし、その歩みの遅さには本当にびっくりさせられたのですが、その犬の速度にじっと付き添って散歩をさせてあげる甲斐甲斐しさを見て、なんだか心温まる思いがしたのを覚えています。

自分だったら、とてもじゃないけれどイライラしてしまって、放り出してしまうんじゃないかと思ったものでした。あくまでも相手のペースに合わせてのんびりと散歩をさせてあげられるのは愛があるからなんでしょうね。

それは相手が動物であろうと人であろうと同じことですね。シンプルなことですが、自分の心に余裕があればの話ですが、人は相手の身になっていたわる気持ちを使うことが出来るんですね。

やっぱり自分の心の状態がよくないと何事も始まらないということかもしれません。ですから、自分に沢山楽しい思いをさせてあげることは大切なことだと思いますね。

忘れずにいる方法

あることから意識がそれないようにして、ずっと自覚できるようにしておこうと思っても、少しすると忘れてしまうことは誰でもよく知っていることですね。

例えば家に戻ったら、真っ先にあの人にメールを打たなければと思っていたはずなのに、気がついたら帰宅してからもう一時間も経つというのにメールするのを忘れていたなど。

こういうケースは困りものですが、この忘れてしまうということは場合によってはとても役にも立っているのです。例えば、いつまでもいやなことが頭にこびりついて離れなかったら辛いでしょう。

また夜寝るときに私たちは寝るということを忘れてしまわない限りは寝ることが出来ません。寝るんだ寝るんだと思っていると、いつまでたっても寝入ることができないわけです。

この自然に忘れていくという人間の能力は、このように困るケースと役立つケースと両方あるということですね。

少しこんがらがるかもしれませんが、逆に言うと意識的に忘れようとしても忘れることはできないということも経験上知っています。

例えば今この瞬間静かにじっと目をつぶっていながら、今自分がそうして目をつぶっているということを意識的に忘れることはできませんね。

何かの思いなり考えなり、記憶なりが心の中にいつのまにやらやってきた時に、その瞬間自分が目をつぶって静かにしているということから意識が離れていくのです。

これを意識的に利用することは可能です。つまり、あることから意識を逸らすために、何か別のことを考えるようにするわけです。そうすると、いずれはそのことを忘れていくことになります。

ですがくどいようですが、そのことを忘れようと意識してそのことを忘れることはできません。なぜなら、そのことに意識が向いているからです。

このことは逆利用することが可能です。つまり、忘れては困るようなことを忘れないようにするために、そのことを意識的に忘れようと頑張るのです。

そうすると、大抵は忘れずにそのことに意識を向け続けることができます。今日一日、それを利用して奇跡のコースのワークの言葉(想念)をずっと忘れずにいようと思います。

分かろうとする心

裁くという言葉は日常ではあまり使わないと思いますが、口語で言うと批判するとか、価値判断するとか、悪口を言うなどということになるかもしれません。

この裁くということの反対は何だと思いますか?それは分かろうとするということです。私たちの心は本来知らないものを分かろうとする性質を持っています。

ですから、分かろうとして物事を見ているときには心はいい状態であるということができるのです。何かにとても好奇心を抱いて見つめるときの子供の邪心のない表情などは見とれてしまうぐらいに可愛いものですね。

ある意味分かろうとする心は愛だともいえるのです。とても気になる異性がいると、その人のことを知りたくなるものですよね。

興味を持つということは、それを知りたい、あるいは分かりたいという欲求だと言い換えてもいいかもしれません。だからそれは愛と親戚関係にあるはずです。

逆に興味のないものには、人は無関心でいられるわけですが、それは知りたいという思いが生じていない状態なわけです。

分かろうとしているときの心は、それを受け入れようとします。従って、それは裁いたり、批判したりする心とは正反対だということが分かるはずです。

分かろうとする心が愛に近いとすれば、裁く心とは愛の反対、つまり恐れと親戚関係にあると言ってもいいですね。

私たちは何かを批判したくなるときには、このようにして対象のことを分かろうとはしていないのだということに気づく必要があります。それは拒絶であって、その大元には恐怖があるのです。

従って、何かを批判しようとするときには、愛から一番遠ざかった心の状態になっているということをよく覚えておくことです。

そして、もしも自分は愛を選びたいとするのなら、対象を知りたいという思いで見ることです。その時には心は正常な状態になっているはずだからです。

誰かのことを否定したくなったら、その人のことを分かろうとはしていないのだと自覚することです。分かろうとすれば、必ず肯定的な思いというものが芽生えるのです。試してみて下さい。

知覚の本質

知覚するということは一般的には身体の感覚器官を使った五感によるものとされています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚とあります。

私たちはいつもこの五感からの情報を頼りにして生活しているわけです。しかし、実は知覚とはこれだけではありません。

自分自身を知覚することもできるからです。自分とはこういう存在だという自覚は自分を知覚した結果であるわけですね。

この場合は、自己イメージというものを結果として作り出すわけですが、それはやはり知覚することによって作り出すものであるのです。

私たちの誰もが抱く根本的な疑問である、自分とは一体何者なのかという問いに対して、明確な答えを出せる人はきっと一人もいないのでしょうけれど、それにも関わらず自分を知覚しているのです。

そして知覚の領域はまだあります。それは何かの意味を解釈するということです。もしも、そのことを本当に分かっているという状態であれば解釈は必要なくなります。

ということは、意味を解釈するということも知覚するということに入れることができます。実際、身体の五感を通して知覚した情報は、必ず何らかの解釈がなされます。

つまり元々知覚というのは解釈とは切っても切れない関係にあるということです。こうしたことのすべて、五感、自己イメージ、そして解釈の全部が知覚ということだと思えばいいのです。

ところで、この知覚に頼らなくなったらどうなると思いますか?それこそ生きてはいけないと誰もが想像するはずですね。

それは、五感からの情報に反応しなくなることだし、自己イメージを手放すことだし、解釈を全くしなくなることでもあるからです。

でもその状態とは、確実に愛に満たされた心になるように思えてなりません。それこそが、不確実な知覚から完全なる神の知識へ戻ることなのだと思うのです。

生まれながらに罪深い??

人は生まれながらにして罪深いという教えがありますね。この考え方をアホ臭いと言って一笑に付して放っておくのは簡単ですが、なぜそんなことを言うのかを考えてみるのは意味があるかもしれません。

実はこの表現を少し訂正するだけでなかなか的を得た言葉にすることができます。それは、「人は生まれながらに罪深いと思い込んでいる」とすればいいのです。

つまり、客観的な事実であるという事と、単なる思い込みであるという事との違いだと思えばいいわけです。でもなんでそんな思い込みをしているのかを見てみる必要があります。

思い込みというのは事実ではないにしても、それを頑なに信じているわけですから本人にしたらそれは真実となってしまうのです。

ただその思い込みをはっきりと自覚してはいないために、「生まれながらに罪深い」と言われると反発したくなるということです。

コースによると、「神との分離」という妄想をしたときに、神を裏切っている自分というものに罪の意識を持つようになったとのこと。勿論その罪の意識も妄想の中でのことですが。

そうした罪深さが心の深いところに隠されているということです。この妄想による罪悪感は誰の心にもある人類に普遍的なものだからこそ、「人は生まれながらに罪深い」という表現ができたのでしょう。

これを取り去ることはできません。なぜなら、それは妄想だからです。思い込みですから、実体があるわけではないので、取り去れないのです。

思い込み、妄想の産物だということに気づくこと以外に、それから逃れる術はありません。気づくためにはその闇の部分に光を当ててあげることです。馬鹿馬鹿しいと放って置くだけでは、心の奥の罪悪感を手放すことはできません。

まじまじと見つめることをしたら、妄想などあとかたもなく消えてしまうでしょうね。それをさせないようにするために、「生まれながらに罪深い」という決め付けた言い方をするのです。

それこそがエゴの策略です。エゴはその闇の部分を暴かれて、そこが空っぽだったと知られることを最も怖れているのです。

なぜなら、ばれたらエゴは消滅してしまい「神との分離」という妄想が終ることになるのですから。そして、それこそが神と一体である真の自己を思い出す唯一の方法だとも言えるのです。

愛するためにやってきた

今、地球上にいる69億人の誰もがたった一つのことを目指してやってきたと思ったら、とても嬉しい気持ちになれますね。

一人ひとりの人生がたとえどんなものであろうと、みんなが一様に「愛するためにやってきた」ということに気づけたらいいのにと思います。

それ以外には何も目的などないはずなのに、どうしたわけかそれとは違う目的を沢山作って大人になっていきます。

愛することを忘れてしまうと、そのままでは心が辛くてしかたなくなってしまうので、何か目標を作ってそれを目指すことで何とか辛さから逃れようとしているかのようですね。

本当は何も特別な目標など必要ないはずです。なぜなら、愛するためにやってきただけですから。そのことさえ思い出したなら、一体他に何を頑張らねばならないことがあるのでしょうか。

私たちは、嫌いというより愛していると言うほうが難しいような感覚さえ持っているかもしれません。これって、やっぱり正気じゃないなと思います。

生まれた後、どういうわけか、そしていつの日からか好きな人だけではなくて嫌いな人がいるようになってしまいます。

愛することを忘れてしまうと、攻撃的な思いが生まれてしまい、それに慣れてしまうと更に愛することから遠ざかってしまうのです。

私たちは誰もが愛したいという欲求を強く持っているはずです。ただ忘れているだけで。自分自身もいつも愛するというよりも、ただ生活するということに意識が向けられていると気づいています。

寿命が尽きるまで人生をまっとうすることが目的ではなく、愛することが目的だとはっきりさせようと思います。きっと、全体の過半数である35億人の人がそのことを意識したら、世界は全く変わると思います。

毎朝、目が覚めたときに「愛するためにやってきた」ということを思い出して、なるべく愛を与えられるように実践していこうと思います。

真の自己

どんなに記憶力のいい人でも、生まれた瞬間から今日までのすべての記憶を持っている人はいませんね。幼いころになればなるほど、記憶は曖昧になってしまうものです。

それとは逆に年齢を重ねていくと、今度は記憶力そのものが悪くなってくるのか、昨日のこともはっきり覚えてないというようなことも起きてきます。

ただどれほど記憶が曖昧になったとしても、この自分が自分なのだという自覚はずっと続いているというのは間違いないところです。

人生のどこかで自分が別の自分になってしまったということはないわけです。そして、今いるこの自分とは、生まれたときからの様々な経験の積み重ねの結果であると思っているのです。

だからこそ、例えば10年タバコを吸い続けてきたという記憶がある人は、禁煙するのがとても大変だということになるし、昨日初めてタバコを吸ったという記憶のある人は、タバコを今日吸わないでいるのは簡単なはずです。

ここでちょっと奇想天外なことを考えて見ます。寝ている間に自分が生まれてから今日までに経験したすべての記憶を作られたものとします。

目が覚めたときには確かに数十年前に生まれて、こういう両親に育てられて…という記憶があるのですが、それは昨晩寝ている間に作られた記憶だとします。

そうやって作られた記憶が本当の記憶と同じであれば、何も問題なくいつもと変わらぬ今日を生きることができるのですが、もしも違う記憶が仕込まれたとしたら今の自分は違う自分として生きることになるはずです。

他の誰かの記憶を入れ込まれたら、自分は別人として生きることになるわけですが、それを不思議とも何かが変だとも思わないのです。

なぜなら、その記憶でずっと今まで生きてきたと信じているわけですから。もしも、毎晩まったく違う人の記憶を入れ込まれるとしたら、毎日完全にその人になって今日を生きることができるわけです。

そうなると、この自分とは一体何者なんだろうかと考えてしまいます。この自分とはそうした記憶の結果出来上がる意識なのか、それともどんな経験をしても自分は変わらずにいるのでしょうか?

私はまったく違う自分のパーソナリティになってしまうと予想します。なぜなら、自分のアイデンティティというのは、経験から作られるものだからです。

自分とはその程度のものなのです。自分が目の前の人の記憶を寝ている間に入れ込まれたら、その人のパーソナリティになってしまうということです。

でも誰の記憶を入れ込まれても決して変わらぬ自分というものがあるとしたらどうでしょうか?それこそが本当の自分、だれにも共通にある真の自己だと思います。

その自分は何があっても変化することはありません。すべての人と分かち合っているその自分は永遠の中で生きているからです。その自分を思い出すことができたら、何事にも動じない圧倒的な平安の心でいられるのでしょうね。

誘惑に強くなる

恐怖という感情は罪悪感からやってくるのですが、その形はまさに七変化すると言ってもいいのです。ある時には不安に、またあるときには怒りや憎しみに、そして悲しみや絶望など、ありとあらゆる苦悩に関連する感情に変化します。

こうした恐怖グループともいえる感情の中で、誘惑という言葉を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはり怒りですね。というのも、怒ろうかどうしようかという迷いを自覚することが多々あるからです。

いきなり感情がすごい力で押し寄せてきてしまうのであれば、それはもう手の施しようがありませんので、理性はその威力が静まってくるまで使うことができなくなります。

しかし、怒りの場合にはその多くのものはリアルタイムに自分で誘いに乗ってしまおうか、それともやめておこうかという選択ができるような気がします。

といっても、我慢するということでもありません。勿論我慢してしまうこともありますが、今の話しは我慢とは違う選択のことを言っているのです。

例えば、目の前に大好きなケーキがあるけど、もう夜も遅いし胃腸のことを考えて明日食べることにしようと思うことは一概に我慢とは言えません。

理性で食べてしまうか、明日にするかを選択しているのですから。それと同じように、怒ろうとする誘惑というのが心の中にあるのです。

そのケーキ食べてしまえ!という自分をそそのかす声と同じように、相手に怒りをぶつけてしまえ!という誘惑の声が聞こえるわけです。

その時に、その誘惑に負けてしまうと相手に怒りをぶつけてしまいます。しかし、その誘惑に負けずに意識して心の平安を作るようにすることで、穏やかな気持ちでいられることも知っています。

怒っている自分と平静な自分とを比べたら、それは平静でいられる方がより幸せに近いということは誰でも知っている事実ですね。

それなのに、怒りという誘惑に負けてついつい文句を言ったり、愚痴を言ったり、直接相手に怒りをぶつけたりしてしまうことになってしまうのです。

誘惑に負けてしまうことがあったとしても、決して自分を裁かないことです。その上で、自分はいつでも平安を選ぶことができるということを、その都度確認することです。

誘惑をしっかりと感じつつ、その威力を見てあげればいいのです。逃げる必要はありません。そうやって向き合ってしまうと、かえってその誘惑から開放されるように思います。

具体的には、「今自分は怒りの誘惑を感じてる!」と心の中でつぶやくといいです。そうして、誘惑の力を認めてあげるのです。

十分にその強さを感じたら、それと同じだけの強さで平安を選ぶことができると意識するのです。こんなまどろっこしいことを、その都度やっていると結果としてその誘惑に負けないでいられるようになることもあります。

興味を持っていただけたら、是非毎日それを実践して効果のほどを試してみることをお勧めします。うまくいってもいかなくても、誰も何も損することはないので安心して何度でも試してみて下さい。