逆境からの再起

世界最高峰の自動車レースである「F1」の世界では、ドライバーの実力が高くても必ずしも好成績を残すことは難しいのです。

それは、フェラーリやマクラーレンなどの歴史あるチームに所属しなければ、どんなに実力があっても弱小チームではどうしたって、勝つことは難しいからです。

それじゃあ、平等なレースなんてできないじゃないと思うかもしれませんが、その通りなのです。その違いをどう克服するかが鍵となるのです。

従って無名のドライバーがそうした有名チームに所属するためには、弱小チームにいながらにして、きらりと光るような活躍をする必要があるということ。

そうした活躍が有名チームの目にとまれば、悠々と勝つことができる夢のような環境を手に入れることができるということです。

しかし、それは本当に難しいことです。こうしたことは、人生と同じなのではないかとよく思うのです。生まれながらにして、大変厳しい環境で育ってしまうと、それだけで心のハンデを背負うことになります。

そうすると、その苦しい心に見合った環境がやってきてしまいます。この時点で弱小チームに参加しているようなものなのです。

心が傷ついているからこそ、苦しい環境がやってくるという流れなのですが、それにどうにかこうにか打ち勝って、その環境を打破しなければならないわけです。

それは、傷が少ない心を持った人が、それに見合った楽な環境で生活しているのとは雲泥の差なわけです。

こうした逆境から抜け出るためには、それこそ神の力が必要になるかもしれません。自分の力だけでは、どんなに努力したところでどうすることもできないこともあります。

そのために、神のようにはできませんが、セラピストの存在があると思います。セラピストは人の人生を変えることは勿論できませんが、一発逆転するためのヒントをお伝えすることは可能です。

自分が何の因果か、弱小チームに生まれてしまったとしても、それを悔やむことはありません。必ず、有名チームから声をかけてもらえるような活躍をすることができます。

それには、自分が今まで信じてきたことを一度脇へ置いて、心の癒しを真剣に進めていくことです。そのことによって、新しい可能性が生まれてくるのですから。応援します!

罪悪感の必要性

クライアントさんとのセッションでいつも話題に上がることの一つとして、罪悪感というものがあります。なぜ話題になるのかと言えば、罪悪感は人の幸福を邪魔する諸悪の根源だからです。

罪悪感というのは、自分の事を罰する気持ちであると表現することもできますし、自分を否定的に裁く気持ちのこととも言えますね。

この罪悪感を強く感じるような心の状態で長くいると、自分が幸せになろうとすることを妨害し、罰として不幸になるようにと仕向けるのです。

だからこそ、罪悪感はどんなときでも不要なものであると言えるのですが、このことに関して真から理解できている人は意外と少ないのです。

逆に、罪悪感は時として必要なものであると信じているのです。例えば、何か自分が正しくないことをしてしまったとして、それを悔い改めるためには罪悪感が必要だという論理です。

もしも何をしても罪悪感を少しも感じないでいられるとしたら、人はどろぼうでも、殺人でもどんな悪事でもし続けることができると思っていると言うことです。

罪悪感なしでは、この世界の秩序を保つことはできないという思いです。罪の意識があるからこそ、たとえ悪いことをしてしまったとしても道徳的な行いへと向きを変えることができるということです。

しかし、この論理は一見正しいように感じますが、実は大変な間違いを含んでいます。私たちは本当に罪の意識があるからこそ、どろぼうや殺人をせずにいるのでしょうか。

そういう犯罪を犯す人の心には罪悪感がまったくないということでしょうか。そんなことは決してありません。私たちが犯罪行為を犯さないでいる本当の理由は、そんなことをしたくないという単純な理由からです。

健康な心の状態では、人を傷つけたり誰かの命を奪ったりすることを望まないということです。そこに罪悪感を割り込ませる必要はないのです。

ただし、心が不健康な病んだ状態では、場合によっては犯罪行為を犯したいと望むことがあるかもしれませんが、それは罪悪感があろうとなかろうと関係ないことです。

お伝えしたかったことは、いかなる場合においても罪悪感があった方がいいということは絶対にないということです。

ですから、もしも今自分は罪悪感を感じているなと自覚する瞬間があったなら、自分は不要なものを感じているに過ぎないと思うことです。

どうしても罪悪感をすぐに感じてしまうという人の場合には、その罪悪感を感じてしまう自分自身に対して、それを裁かないで受容する癖を付けることですね。

罪悪感を根絶させることは難しいかもしれませんが、それを受け入れてあげることによって少しずつ罪悪感によって人生を妨害され難くなっていくのです。

セッション料金について

この一ヶ月くらいの間、セッションの費用について自分の中でしっかりと見直して見ようと思うようになりました。

その時に、自分の生活のためという観点を度外視すると、一体どのくらいの費用設定が妥当なのだろうかと考えるようになりました。

100%クライアントさんの立場から見た場合を想定すると、1万円~1万5千円というのはどうやっても高額だというのを元々感じていたのです。

そして、セッションルームの維持費や自分の生活費などのことを考えて、費用を決めるのは本当は違うのではないかと思うようになったのです。

それで、実は今のところ実際どうしていいか分からないという宙ぶらりんな気持ちのままに、場当たり的にいらしたクライアントさんに次回の費用のことは考えなくてもいいですよ、というようなことをお話ししたりしだしていました。

それが、全員に均等に同じ内容をお伝えしていなかったりしたために、夕べ無料でのセッションをお約束しておいたことを忘れて、正規の額を頂いてしまうという大変失礼なことをしてしまいました。

こうした間違いを今後は決してしないためにも、近々セッションの費用について明確な案を導き出して、なるべく早急に実施するようにしなければと思っています。

自分としては、費用の上限を私の方で決めさせていただいた上で、クライアントさんに自由に費用を決めていただくという方式がいいのではと思っています。

クライアントさんに決めていただくということで、クライアントさん自身の心の負担がないようにしなければいけないということもあるので、慎重に考えてみたいと思っています。

付けが回ってくる

セシウムに汚染された牛肉が全国33都道府県で消費された疑いが濃厚という記事が出ていました。本当に困ったことになりました。

福島原発において、水蒸気爆発や水素爆発が起きた時点で大量の放射性物質が大気中にばら撒かれたのですが、その時政府はただちに健康に影響はないと言っていました。

あの時に危険を察知して、すぐに避難勧告なり何なりを発動していれば、今回の牛肉汚染の問題も起きてはいなかった可能性が高いです。

あの時、わざわざ政府が問題ないという声明を出したことで、牛が大量被曝した藁などを食べてしまうことに繋がっていると断言できます。

あのときの付けが回ってきたということでしょう。今になって政府はこれ以上の汚染牛肉の拡散を抑えようとしていますが、食べてもただちに健康に影響はないと言いたくもなるというものです。

私は食べませんが、ただちに影響はないと言い続けた政府関係者たちは、責任を持って今回の牛肉を毎日食べる必要があると思います。それでなければ、牛肉を生業としている人たちが浮かばれません。

問題を見て見ぬ振りをすれば、それはいつか必ず付けとして回ってくるということは、様々なことで経験しているはずなのです。

理由は様々ありますが、幼いときに感情を沢山溜め込むような毎日を送ってきてしまうと、それが心の奥底に蓄積されていき、必ずその付けは本人が大人になった後にやってきます。

人生が過酷な様相を呈することもあるし、意味もなく感情が抑えられなくなってしまったり、平静に生きることがとても難しくなったりもします。

ご本人はそうした状態が過去の付けが回ってきたとは気づかない場合がとても多いものです。従って、問題が生じたときにはただ現状を見回すだけでは原因を探し出すことはできません。

自分にはどんな過去の付けが回ってきているのか、気をつけてよく見てあげることで本当の問題の解決を見出すことができるのです。

知覚のうそ

子供の頃のことですが、仰向けになっている母親の顔を頭の方から覗き込んでいるときに、とても怖くなったことがありました。

普段見慣れている顔を上下ひっくり返しに見たわけですが、つまりアゴが上で頭が下にあるように見ていたら急に得体の知れない生き物を見ているような感じがしたのです。

まるで宇宙人の顔でも見ているような、そんな気持ちになりました。それは実は、私たちの知覚というのは自分の知っているパターンの中に収めるように自動的にするからです。

人の顔のパターンが常に作られていて、それとの比較によって人間かどうかを判断するという知覚の仕方をしているのです。

そのパターンから逸脱した顔を見てしまったために、今までに見たこともないような顔を見たように感じてしまったわけです。

それだけ、私たちの知覚というものは自分のいいようにカテゴライズしてしまっているということです。あるがままを見ているつもりになってはいても、全くそうではないということですね。

このことをよく味わってみると、何の気なしに見ている外側の世界というのも、自分がこしらえたパターンに沿うように勝手に作り変えて見ているということになります。

ただただあるがままを何の解釈もせずに見ることができたとしたら、一体どんな世界なのでしょうか。とても興味をそそられます。

そしてそれは、自分自身についても言えることです。私たちは、自分の身体というものをいくつかのパターンを含んだイメージとして作り上げています。

だからこそ、右耳と左耳を同時に触って、両者の間がどのくらい離れているかを感じたときに、15cm程度とすぐに答えが出てくるのです。

それは自分の頭の形とそこについている耳というイメージを元にして作られた虚像なのです。本当は、右耳と左耳の間の距離など決して分かるはずがありません。

そんな情報を知覚としては持ってはいないからです。それを解決するのが、パターンからできているイメージなんです。

さあ、本当のあなたの姿とは一体どういうものなのか、興味深いとは思いませんか?あるいは、やや怖くも感じるかもしれません。

でも本当の本当のあなたは、形や大きさや色やその他説明できるようなどんな特徴も持っていない全くの無だということです。それが真の自己です。
.

両親の内在化

心理学では、4歳くらいから5~6歳くらいまでの間を自我確立期というのですが、その時に両親の内在化というのをします。

それは、生まれてからずっと自分に関わってくれた両親に対しての、自分なりのデータベースを作るということであると言えます。

お母さんとはどういう人物であって、自分に対してこのように反応する、こういう場面ではこのように話すというように、今までの経験を元にしっかりとまとまりのある情報を心の中に打ち立てるということです。

なぜこのようなことをするかというと、あらかじめ親の情報を整理整頓しておくことによって、相手の行動を予測したりして、自分の身を守る手立てとして使うためなのです。

例えば自分がこうしたら、お母さんはきっとこのように怒るだろうから、しないようにするといったように、自分の言動に対して規制することで、リスク回避ができるわけです。

幼稚園の園児の頃に、こうして両親というものはこうなのだという確固としたものが出来上がってしまうということです。

この親の内在化による、自分への行動規制というものが厳しいものであると、それは当然不自由で生きづらい人生となってしまいます。

そして、その内在化したものは、子供が大人になっても心の中に歴然とあり続けることで、いつまでたっても心の中に住む親の束縛から逃れることができなくなってしまうのです。

こうしたことは多かれ少なかれ誰でも経験しているはずなのです。たとえ親元を遠く離れて異国で暮らしているとしても、親の内在化されたものはその人の心の中にあるため、いつでも本人を内側からコントロールしてしまいます。

実際の親はその頃の親とは違ってしまっているということがあったとしても、幼い頃に作り上げた情報にいつまでも翻弄されてしまうということが起きます。

両親の内在化されたものから本当に解放されるためには、内在化した自我確立期の頃の記憶を呼び戻して、まさに内在化しつつあるその現場をつぶさに見つめなおすことが必要です。

その作業は自分独りでも勿論可能ですが、できればプロのセラピストの手助けを利用することが得策ではないかと思います。

天下り

1978年4月のことですから、今から33年も前になりますが、私は大学を卒業してある企業に就職しました。

東証一部上場のそこそこ立派な電機関係の会社でしたので、当時は退職するまで務め上げることになるのかなと思っていました。

しかし、30歳になる前にひょんなことから全く毛色の違う外資系のコンピューター会社に転職することになったのですが、退職する少し前に会社のえらい人に挨拶に行ったときのことです。

ある重役の人の部屋に入ると、そこにはよくテレビドラマなどでみる風景そのものがあったのです。それは、仕事の時間だというのに、その人は悪びれることもなくゴルフのパターの練習をしていたのです。

実はその方は会社の大切な取引先であった、電電公社(今のNTT)から天下ってきた人として社内でも有名な人でした。

勿論、私が辞めることなどには微塵も興味がなく、「今までお世話になりました」と挨拶しても、ああそうですかと言うだけでした。

その人の役目は、年に一回決まっただけの仕事をNTTから受注できればいいわけで、あとはずっとああしてパターをして一日を気ままに過ごすんだなと。

天下りとは利権そのものです。会社は、そういった取引先の偉い人を天下り先として引き受けることで、今までの取引をある程度は保障してもらえるとのもくろみがあるわけです。

逆にそうした天下りを断ったりしたら、今までの関係が壊れる可能性もあるために、内心では渋々天下りを受容するしかないということですね。

言ってみれば、天下った後のその人の高額な給料を、従業員全員の働きによってまかなっているようなものですから、なんだか理不尽な感じがするのもやむを得ません。

天下った先で、その会社のために一生懸命仕事をする人がいないとは言わないですが、大した仕事もせずに給料だけを貰っている場合が多いのではないでしょうか。

その時の自分は、天下りなどきっと関係のない外資の会社に行くことが決まっていたので、腹も立たなかったのですが、日本の社会の実情を垣間見た気がしました。

もしも、あなたがどこかの会社に天下って何もせずに給料をもらうことになったら、どんな感じがすると思いますか?

いい悪いは別として、各人の心の状態によって反応は様々なのでしょうね。私だったらいたたまれなくなって、すぐにみずから辞めてしまうと思います。きっと貧乏性なのですね。

自分を売り込む

自分を売り込むのが比較的得意な人とそうではない人といると思います。得意な人の代表選手としては、政治家がいますね。

選挙前ともなると、立候補した人たちは自分の名前を連呼したりされたりを続けながら、クルマであちこち走り回ったり、街頭演説でも自分の名前の入ったタスキをかけたりして頑張るわけです。

私はきっとそういうことが得意ではない部類の人間だからかもしれませんが、昔から投票日が近づくと街中に拡声器から聞こえてくるそうした声が氾濫するのが大嫌いです。

なぜ自分を売り込むという行動が必要なのかと考えてみたのですが、やはりどうしてもうまく納得するような理由が見つかりません。

政治家としてこの国のために労を惜しまず働こうと思う志はすばらしいと思うのですが、それなら自分の名前を売り込むことよりも、政策などで他の立候補者と比較して選んでもらうというのが筋だと思うのです。

名前や顔写真が記憶に残ったからと言って、ただそれだけでその人を投票してしまうほど、本当に一般市民はいい加減なのでしょうか。

有名人が当選する場合がかなりあるというところを見ると、確かにそうしたこともあるかもしれませんね。だとすると、我々市民の問題も間違いなくあると言わざるを得ません。

私は政治家として誰を選ぶかとしたら、まず真っ先に自分を売り込むことが上手だなと感じる人をはずすと思います。

その代わりに、その人が自分を脱して国のために働く意志が強いかどうかというところが一番大切であると思うのです。

勿論その人の政策も大切ですが、今までのところ政策がすばらしいと思っても、いざ政治家になると利権に丸め込まれてしまうということがほとんどでしたから。

自分の名前を連呼するような人よりも、自分を脱して働ける人材を目を凝らして探す必要があると思うのです。そうした政治家が出てくることを切に願います。

個人主義の終焉

クライアントさんに、すぐに思いつく信念や信条と言ったら何ですか?と尋ねると、「他人に迷惑をかけないようにする」というのが多くの場合に頂いた答えでした。

勿論こればかりではないのでしょうけれど、この答えがすぐに出されるということは常日頃から頭の中に忘れずにあるということなのでしょう。

私の場合も、長い間この信条を持っていて、生きる中心に置いてあったことを覚えています。この信条が悪いというのでは決してありませんが、もしもこれを第一番に挙げるということになると、問題があると思うのです。

人生が冒険だとすると、この信条はあまりにも消極的過ぎるという印象をまず持ちます。冒険を計画する際には、冒険の内容について考えるのが当然であるからです。

迷惑をかけないようにというのは、善良な生き方であると言えるかもしれませんが、それは明らかに身を守ることを第一に考慮するという姿勢であって、はじめからあまりワクワクするような冒険にはならないと感じてしまいます。

それはきっと退屈な冒険になってしまうはずです。誰にも迷惑さえかけなければ、自分は何をしてもいいというのは、ちょっと聞くと理屈的には合っているように思いますが、実は自分さえよければいいという個人主義的な匂いがします。

従って、「他人に迷惑をかけないようにする」という信条は、実はとても利己的な生き方を示唆するものでもあるということに気づく必要があります。

人間一人生きていれば、気づいていようがいまいが、いずれにしても何らかの迷惑を周りにかけてしまっているということを認めることです。

冒険旅行の始めから自分を防衛することが頭から離れないのであれば、大した冒険にはなりそうもありませんし、それでは本当の満足を得ることは難しいでしょう。

大きく言えば、私たち人類はそろそろこの個人主義の生き方というものを本気で見直す時期に来ているのではないかと思います。

迷惑をかけてしまうことを心配するよりも、どんなワクワクする冒険をしようかということに意識を向けることが大切ですし、それができたらきっと冒険の成果を独り占めしようなどという発想もなくなるはずです。

個人主義に陥らないようにするには、冒険旅行を興味深いものにするためには、どのように心がけたらいいのかということをしっかり考えてみる必要があると思います。

自分の役割と自己価値

私たちは誰でも何らかの役割の中で暮らしています。職場での役割、家庭での役割、学校での役割、国民としての役割など、ありとあらゆる役割を持っています。

持っているというよりは、より正確に表現すれば役割を与えられているとも言えますし、自分で勝手に何かを自分の役割だと決め付けている場合すらあります。

この世界では役割というものは、否定的な言葉ではなくて、むしろ肯定的な言葉として捉えられているふしがあります。

それは、与えられた役割をきちっとこなす、というようにある人を評価する場合にはその人がどれだけその役割を果たしているかということが重要な要素ともなるからです。

ではもしもある人が何の役割も持っていないとしたら、我々はその人をどのように評価すればいいのでしょうか?評価の対象とはなり得ないと感じるかもしれません。

だとすれば、役割を持っているということがとても大切なことだということにもなるわけです。だからこそ、みずから役割を探してそれを立派にこなすことで自分の価値付けをするということにも繋がるのです。

こうした役割の重要性というのは、大人ばかりではなくて、幼い子供でもそのことを知っていて、理不尽ともいえるような役割を自分に課して、何とか親に愛されようと頑張るのです。

勿論そこにあるのは愛ではなくて恐れであるため、頑張れば頑張るほど自己犠牲を強いることになってしまいます。

奇跡のコースでは、我々一人ひとりの存在価値を決めているのは神であり、我々自身にそんな能力はないと明言しています。

自分の自己評価が低いと言って嘆いている人はとても多いものですが、それは神の代わりにみずからの価値を判断できると錯覚していることになります。

自分たちの存在価値については、そのすべてを神に一任することにしませんか?そして、きっと神はこの上ない価値を我々に与えてくれているはずだと信頼するのです。

そうすれば、この世界に氾濫している役割を必要以上に重要視して、それを果たすことで自分の価値を高めようともがくこともなくなるはずです。

我々の唯一の真の役割は、自分は何者かということを思い出すことだけです。