神の道

神の道を歩むのに、何を恐れる必要があるだろうか?というのが、ふとやってきました。まさか声が聞こえたわけでもないですが、何も怖がることなどないという思いと少し繋がったのか。

悠々とその道を進んでいけばいいだけだし、自分は神にすべてを明け渡すことでこれ以上安全な状態になることはないのだから。

こういうものがふとやってくるということは、裏を返せば普段は神(もしくは真の自己)を信頼してはいないということなんだなと思うのです。

というよりも、多いに疑っているといったほうが近いのかもしれません。そんなふうな自覚は勿論ないのですが、本当に信頼していたらそのことを日常のいついかなるときでも忘れるはずはありません。

でも実際はというと、たまにしか思い出すことがないわけで、それはやはり信頼できてない証拠ですね。だからこそ、恐れというものがなくならないのです。

自分の身は自分で守らなければどうにかなってしまうと信じ込んでいて、そこから抜け出すことがとても難しいということです。

これでは到底明け渡すなどということはできません。しかし、そうした明け渡すことなど無理だと思っている自分をも含めて明け渡すということなんだろうと。

明け渡すとは信頼するということ。もうそろそろ、この自分の自己防衛機能ばかりではどうにも立ち行かないということは分かってきているはずです。

追い詰められて、断崖絶壁に立つことになって、ようやく分かることがあるということですね。まだまだ十分に信頼できない自分を受容することにしたいと思います。

与えれば与えられる

このブログでも以前から何度もお伝えしてきたことですが、与えると与えられるし、求めれば求め返されるということは事実だということを、自分なりにまた実感しています。

最近少しずつ、与えることによって与え返されるという経験が増えてきたように思います。与えると一口に言っても実際にはどういうことなのか、説明する必要があります。

それは、自分が心からそうしたいと望むことであるということが、絶対的な条件となります。勿論対象となる相手がいる場合もあれば、そうでないこともあるかもしれません。

いずれにしても、その自分が心から望むことをすることに付随して、何の見返りも求めることのない心の状態であるということです。

何らかの見返りを求めてしまえば、その分だけ与えることが目減りすることになってしまうでしょう。そういう意味で、与えるとはある種無邪気さを伴うかもしれません。

そんなことだったら、日常的に与えることなどやってるよ、と言われる人も多いかもしれませんが、それはその通りだと思います。

実は与えるというのは、特別なことでもなければ高尚なことでもありません。ごく普通に私たちがやっていることなのです。

何もしないけど、与えられたことがあったけど、得した感じがするけど、それは例外なんだろうかと思うかもしれません。

しかし、与えることに例外はなくて、上記の場合にはそれとは気づかずに前もって何かを与えていたはずなのです。

赤ちゃんは、ただ生まれてきただけで周りから愛を与えられるお得な存在であって、あれこそ例外だと思うかもしれませんが、実は赤ちゃんはその姿や無邪気な心そのものを周りの大人たちに与えているのです。

だからこそ、沢山の愛を与えられることになるということです。与えるとは単純なことですが、もしも自分は誰からも欲しいものを与えられていないと不満に感じているのでしたら、まずは与える側の人になることです。

自己否定感

自分を否定する思いの強さというのは、人それぞれに違いがあります。自己否定が全くないという人はいないものですが、なぜ人によって大きな違いがあるのでしょうか。

ある人は、自分はだめだなあと思うものの、まあ人間なんてそんなものだから、自分だけが取り立てて駄目なわけじゃないよ、と深刻にならないでいられます。

またある人は、人のことはよく分からないけれど、どうやっても自分はこれでいいんだという思いを持つことができないので、激しい自己否定があったらそのままになってしまうということです。

この両者の違いは一体どこからくるのかを検証してみたいと思います。まず一つ目の違いは、自分だけが駄目だと思うのか、人間みんな似たようなものだと思うのかです。

自分一人だけが駄目で、他のみんなは駄目じゃないということがはっきりしたら、それはどうしたって自己否定が強くなってしまうはずです。

前者の人は、所詮人間とは不完全なものだから、自分が駄目なのは当然だということが分かっているので深刻にならずにいられるわけです。

後者の人は、他の人のことは分からないと思っているので、自分の駄目さ加減だけが目に付いてしまうのですから、自己否定を回避することができなくなります。

また、幼いころに親や家族からしっかり受け入れてもらえた経験があれば、心の深いところに自分は駄目じゃないという思いが残っているのです。

それがあると、自己否定が起きたときに、その駄目じゃないを見ることで自己否定が緩和されたり、なくすことさえできるわけです。

ところが、幼い頃に受け入れられた経験が乏しいと、それだけで自分は駄目だという確固とした思いが心の奥に残ってしまうのです。

したがって、自己否定が起きたときには、それを助長することはあっても、それを緩和したりすることはできなくなってしまうということです。

つまり、自己否定が頑固にまとわりつく人の場合というのは、自分を客観視することが苦手であるというケースと、幼いころの被受容経験の欠乏が原因であると言えると思います。

人間の心とは、あらゆるものを含んでいるということ、いいことも悪いことも織り交ぜて持っているということをしっかり理解することがとても重要です。

その上で、幼い自分(インナーチャイルド)を徹底的に受け止めてあげるという作業を繰り返すことです。それによって、自分は駄目だという頑固な思い込みを手放していくことができるのです。

この二つを実現することができれば、たとえ自己否定感がやってきても、それをみずから緩和し、流し去ることができるようになるのです。

母親からの洗脳

もうかなり前のことですが、オーム真理教に入信してしまった娘さんを、力づくで奪い返しに行った父親がいましたね。

そんな強引なことをしてもいいのか、あるいはできるのかと思ったことがありましたが、結果としては奪還できて本当によかったということです。

自分がその親の立場だったら、どうするだろうかと考えさせられてしまいます。クライアントさんの中には、実の親に洗脳されて育ってしまった人が時々いらっしゃいます。

親といっても、大抵の場合は母親であると言えます。それはきっと、父親よりも母親との結びつきが子供は圧倒的に強いからでしょうね。

母親からの洗脳というのは、そんじょそこらの宗教などよりもよほど強力な洗脳をすることができるのです。それは生まれたときからずっと一緒にいて、子供は親に100%依存せざるを得ないからです。

セッションの中で、クライアントさんがどのくらい深い洗脳をさせられているかということを見極めるのは、そう難しいことではありません。

しかし、クライアントさんご自身が洗脳されているという自覚がない場合には、癒しを進めるのは至難の業となってしまいます。

なぜなら、洗脳の結果が今の人生の苦悩や不自由さを作っているということを、分かってもらえないからです。

ご本人が自分が受けた洗脳を客観視することがある程度できる段階までになっている場合には、少しずつですがその洗脳を解いていくことができます。

ただし、幼い頃から一貫して受けてきた洗脳は、心の奥深くにあって強烈に大人の理性的な自分をコントロールしようとしてきますので、自由になるのはそう簡単なことではありません。

でもあきらめずに、心の中の様々な声に耳を傾けて、洗脳された沢山の意識を受け止めてあげることが大切です。そうやって、一つひとつ自由を勝ち取って行くことです。

ドラマからのヒント その2

先日も YouTube で見た古い日本のドラマのことを題材にして、このブログを書きましたが、そのドラマからもう一つ題材をいただくことにします。

そのドラマは一貫して「愛」について語っているのですが、最後の最後にきて、主人公が「愛とは、冒険だ!」と言うシーンがあります。

私は本当はもっと違う言葉を期待して、じっと待っていたのですが、それでも冒険という言葉を聴いていやな感じはしませんでした。

「愛は冒険」というよりも、一人ひとりの「人生こそが冒険」なのではないかと思いますね。私たちの人生という冒険は、生まれたときに始まるのではありません。

その開始は、自分というものがここにいるということに気づいた時であると言えます。それまでは、人として生まれてはいるものの、明らかに動物と同じレベルです。

なぜなら、自分というものを意識してはいないからです。自分が外の世界を眺めているという意識がないのですから。

しかし、健康な幼児は必ず、ある時期がやってくると、自然に自分がここにいるという気づきを作り出してしまいます。

それは本当に仰天するような出来事なんです。なぜなら、今の今まですべては一体として見ていたものが、小さな自分と大きな外の世界とに分かれてしまうのですから。

そこからが本当の冒険のスタートです。弱くて卑小な自分を受け持つことになってしまったということが、非常に危うく苦しい冒険の始まりなのです。

自分がここにいるという気づきの代償はあまりにも大きすぎて、何と表現していいか分からないくらいです。それを、冒険という言葉で表現するのは、これ以上の肯定的な言い方はないのではと思うくらいです。

そのようにして、人生という冒険は3歳くらいのときに、突如として開始することになります。そして、愛の代わりに人生こそが冒険だということになると、愛とは何かということが残ります。

真の愛には、ある決まった形が必要となります。それは、冒険をスタートさせたときにやってきた、ここに自分がいるという思いを手放すこと。

自分はここにいないという状態こそが、真の愛が起こる大前提だということです。従って、私たちの大冒険とは、「自分がここにいる」から始まり、「自分はいない」で完結することになるのです。

それは決して死ぬことではなく、生きながらも自分を脱するということを意味します。それこそが、愛が起きる形としての必要条件なのです。

確率のうそ

受験生のときに、模擬試験なるものを受けると、自分の志望校に合格する確率がパーセンテージで教えてもらえるというのがありました。

きっと、今でもそうしたものはあるのでしょう。それが、80%以上であれば、喜ぶこともできますが20%程度であれば、もっと頑張らなければということになるのですね。

もうすぐ入試というときに、担任の先生がクラスのみんなに模試による合格率の数字など意味がないということを教えてくれたのを覚えています。

それはつまり、本人にとっては合格すれば合格率100%になってしまうし、不合格であれば0%ということになって、模試の結果による確率など意味をなさないというようなことでした。

担任の先生は数学の教師ということもあって、何となく説得力があるような気がして聞いていたのを覚えています。

そして、今そのことを思い出すと、それは確かに真実だなと思えるのです。私たちは時間の中に暮らしているという思い込みがあるために、確率というものがまことしやかに取り扱われるのです。

もしも、時間という概念をなくして今この瞬間だけしかないということになれば、確率というものには何の意味もなくなってしまうと分かるはずです。

例えば、サイコロを振ってそれぞれの目が出る確率は同じように六分の一です。それは時間のなかにおいて、繰り返しサイコロを振って沢山の結果の集計をした時にその確率に意味が出てくるということ。

たった一度きりだけサイコロを振るということであれば、そのときにたまたま出だ目が100%ということになり、決して確率を持ち出すことはできません。

私たちの本質は、決して時間の中にいるものではありません。従って、何かをしようとするときには、その結果について確率的な考えを取り入れないことです。

自分にとっては、常に100か0のどちらかに過ぎません。11年前に大腸癌を患ったたときに見付けた本に、むこう5年間の生存率が出ていました。その病気になった患者さんたちの過去の統計なのでしょう。

でも自分はその数字を無視することにしました。自分の人生を確率の中になど置きたくなかったからです。生き続けることができれば、それは100%ですし、そうならなければ0%の生存率となるだけです。

今に生きるということは、必然的に確率に影響されない生き方になるのだろうと思うのです。確率に支配されずに、やりたいことを思い切りやれる人生を選びたいものですね。

すべての人生は一つの目的のためにある

私たちはみな、誰一人として自分以外の誰かと同じ人生を生きることはありません。みんながそれぞれに固有の人生を生きているのです。

人類のすべての歴史を通してみても、どの人も違う人生を生き、そして死んでいったわけです。それでも、その全部の人生を貫いている一つの目的というものがあるのです。

それは、結局自分とは何者か?ということを思い出すということ。人生の表面的な目標は、それぞれに違いがあるように見えますが、究極的には自分とは誰かという深遠な問いに対する答えを求めているのです。

そして、その答えを得るために、あらゆる人々が違う人生を生きて、そして死ぬのですが、人類はいつかその目的を遂げることができるはずです。

たとえ、自分の短い人生がその目的に到達する前に終わってしまったとしても、自分が生きた結果が必ず何らかの影響を未来の子々孫々へと受け継がれていくのです。

私たちは知らず知らずのうちに、そうした一つの目的地へと向かう旅を共にする同士であるということも言えます。

誰一人として、その旅にとって不要な人はいません。誰もがこの壮大な旅の目的地に到着するための働き手として役立っています。

だから、自分の人生を否定してみたり、自分そのものを非難するようなことはしないことです。誰もがこの旅の主役であるし、必要な役割を持たされているわけですから。

人生の表面的な部分だけを見て判断するのではなく、全員がたった一つの目標を持った共同推進者であることを忘れないことです。

そういう観点からだけ人生を見れば、くだらない人生などあり得ないし、不必要な人生もないと分かります。すべては目的を達成するために計画された完璧な旅であることを常に胸の中に置いて忘れないことです。

ドラマからのヒント

ふとしたきっかけから、10年以上前のものと思われる、あるテレビドラマを Youtube で見る機会があったのですが、「誰かのために生きる」ことが人生の活力になるという内容でしたので、ちょっとご紹介させて下さい。

それは、自分の人生に生きがいを見出せない男性が、うつうつとしたやる気のうせた毎日の中で、仕事もせずに浮浪者のようにしていたときのこと。

路地裏で食べ物を漁っているときに、捨てられていた赤ちゃんを見付けてしまいます。その赤ちゃんがあまりにも可愛かったので、家に抱いて帰って育てることにしたのです。

それからというもの、その男性は生きる目的ができたおかげで重労働にも耐えて真面目に働くようになったのです。

これはまさしく、自分以外の誰かのため、何かのために生きるという、脱私の状態になることができたということなのでしょうね。

それからは、貧しい暮らしであっても心は満たされて、二人で仲睦まじく幸せな生活が続くのですが、子供が中学生まで成長したときに、突然その子の本当の親だと言う人が現れます。

そして、その子を返して欲しいといわれてしまうのですが、当然生きがいであるその子を手放すなど考えられないのですが、あるときその子が怪我をして輸血をしなければならなくなります。

珍しい血液型であったため、仕方なく育ての親は本当の親に連絡して、無事輸血してもらうことができるのですが、結局それがきっかけでその子を本当の親の元へ返すことになってしまいます。

また独りになってしまったその男性は、生きる望みがなくなってしまい、赤ちゃんを拾う前のような浮浪者のような生活に戻ってしまうのでした。

つまり、誰かのために生きるという真の愛の状態から、まったく意欲の出ないうつうつとした精神状態に簡単に戻ってしまったということです。

依存(自己犠牲)⇔自立(自己愛)⇔明け渡し(自己脱)のように、この三つの状態は常に行ったり来たりして、固定されたものではないということですね。

このドラマでは、依存(自己犠牲)⇔明け渡し(自己脱)のように動いていて、真ん中の自立(自己愛)の状態を飛ばしてしまっていたのが一つの問題なのではないかと感じます。

やはり、自立(自己愛)の状態を経由する必要があるということなのかもしれません。ドラマはあまり見なくなっていますが、見方によってはとても参考になるものですね。

脱私への転換

私たち人間の普遍的な目標の一つは、依存状態にある幼い心を成長させることによって、立派な自立した大人になるということです。

それそのものが目標というよりも、大人になって仕事をするにしても何にしても個人の目標を達成するためには、心の自立というものが前提条件とも言えるわけです。

なぜなら、精神的な自立を達成することができなければ、人としては半人前であり、成熟した大人同士の対等な人間関係すら築くことができなくなってしまうからです。

自立を達成するためには、心の中にある自我が年齢に応じて発達する必要があります。自我によって、人間として持っている様々な能力を自分のために使えるようになるからです。

ところが、自我の本質というのは自分を守るための心のメカニズムであるとも言えるわけで、そのためには物事を解釈したり、判断したり、場合によっては裁くこともするのです。

物事の善悪や正不正、真偽などを理解し、認識する能力が絶対的に必要となるのです。従って、自立しているという自覚のある人は、こうした能力についてある程度自信を持っているはずです。

しかしながら、最近のこのブログでも何度もお伝えしているように、自立を達成しても残念ながら心の満足を得られるわけではないのです。

人間というものの最終形は、自分のためだけに生きるのではなく、自分を脱して誰かのため、何かのために生きるように設計されているのです。

その状態に近づかなければ、決して満たされるということはありません。純粋な愛にしても同じことが言えるのです。

無私の愛というのがそのことです。自分(自我)が真ん中にあって、その自分が誰かを愛すると言う場合には、自我の愛であるに過ぎません。

その愛では人は決して満たされることはないのです。人は、無私に近づかなければ満足できないように作られているからです。

自立の状態とは、自我を最大限発達させた状態でもあるので、その状態から無私(脱私)の状態へと変遷することは相当に難しいと感じるかもしれません。

何となくなのですが、私たち全員がそうした無私の方向へと生き方を転換する時期にさしかかっているような気がするのは私だけでしょうか。

子供は救世主

昨日、ミクシーの日記に書いたことなのですが、どちらかと言えば、こちらのブログに書くべき内容だったかなと思い、そのまま転載することにしました。

ミクシーの方ですでに読んで下さったかた、重複してしまいますがご容赦下さい!

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クライアントさんとのセッションを通して感じていることですが、子供というのは親の救いとしてやってくるんだなあということです。

この世的に見れば、成熟した大人の親が未熟な子供を育て上げていくという形をとっているのですが、内情はいつも逆転しているように感じます。

子供が生まれることで、両親の心の癒しが必ず進むように見て取れるからです。だからこそ、親子でセッションを受けられると、自分は親よりも子供さんの方と、気持ちが通じ合うことが多いです。

更に言えば、二人以上の子供が生まれたときには、一番最後に生まれた子供が親だけではなくて、その家族全体を救うことになると思います。

家族の中で一番幼い末っ子が、家族全員の救いの神であるなんて、そんなおかしなことがあるものかと思われるかもしれませんが、本当なので仕方ありません。

勿論、私が知っている限りということなので、100%確実に言えるということではありません。きっと例外もあるのでしょうけれど、明らかな例外というものに出会ったことがありません。

従って、私の目からすればそのご家族の末っ子さんが何か問題を引き起こしているとしたら、もうすでに救済活動が始まっていると見えるわけです。

本人はそんな自覚があるわけではないですから、とても辛いかもしれませんし、家族のみなさんにしても苦労させられるとは思えても、それが家族全員の救済に繋がるなどとは思ってもみないわけです。

事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものです。家族の中の問題児は、救世主だということを忘れないで欲しいと思います。

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