知覚はご都合主義

反原発とか、反体制とかいうように、反○○という言葉があります。これは、最近はあまり聞かなくなりましたが、アンチ巨人というのと意味としては同じですね。

けれども、私にはそこに若干の違いがあるように感じられるのです。つまり、アンチ巨人の場合は、巨人軍は嫌いという中にも昔であれば、王や長嶋は好きというのが内在していたのです。

アンチ巨人は決して全否定ではないということです。日本を代表するチームだし、なくてはならないチームであるけれども、強過ぎて、あるいは人気がありすぎて嫌いというようなニュアンスがあるのです。

巨人軍は憎い敵チームだけれど、なければないで、それは野球がつまらなくもなるということを十分に知っているのです。

でも、反○○にはそうした愛を全く感じることができません。○○に相当する対象を全否定することが前提のようにさえ感じてしまいます。

日本維新の会の代表となった、橋下さんのことを攻撃する人たちのことを冷静に見ていると、彼らはまさしく「反橋下」であると思うのです。

どうも人格的な面での否定が根底にあり、その上で政策や政治的な手腕その他を全面的に否定しているように見えるのです。

普段知的で冷静な判断ができると思われる人であっても、一度でも「反橋下」になってしまうと、本人には自覚できないままに全否定に向けて突っ走ることになるのです。

それが見ていてとても奇妙な感じすらしますが、これが人間の知覚というものなのでしょうね。それと全く逆のケースでも同じことが言えるのです。

大好きな人の臭いオナラは、確かに臭いのだけれども、そこに反○○のような拒絶感がこないぶんだけ、受容できてしまうということがあるのです。

方向は反○○と真逆ですが、まったく同じ知覚による身勝手な操作がそこにあるのです。どっちにしろ、知覚は都合のいいように操作されてしまうのですから、愛が含まれる知覚ができるといいですね。