人生に対するイメージを変える

自分の人生ばかりに、なぜこんなに辛いことが沢山やってくるのだろう?と疑問に感じている方はいらっしゃいませんか?

もしもあなたが自分は該当するというのであれば、次のようなことが原因かもしれません。

あなたは人生をどのようなものであるべきと思っているでしょうか?

たとえば、平坦な道で歩んで行くのがとても楽で、荷物らしいものも一つも持たずに手ぶらでゆっくりゆっくりと進んで行くお気楽な人生か?

あるいは、重い荷物を背負って、険しい上り坂を頑張って登っていき、達成感を味わえるような厳しい人生がいいのか?

どちらかと言えば、後者の人生の方が価値があると思っているのでしたら、それが最初の疑問の答えです。つまり、苦難がある方が価値があると思えば、辛いことが沢山やってくるということです。

思考が現実を生むのです。苦しみの最中にいる人が聞いたら、すぐには承服しづらいかもしれませんが、辛いことを招いているのはあなたが持っている人生に対するイメージなのです。

どうせ生きて、いずれは死んで丸ごと消滅してしまうのが人生です。それなら、もっと気楽に面白おかしく、思い切り楽しむ人生でもいいと思いませんか?

そのように人生のイメージを変えてしまえば、少しずつ現実もそのようになっていくはずです。

極端から中道へ

あなたは極端な生き方をしていませんか?

極端に頑張る、極端に何かを我慢する。

あるいは、極端に何かに耽る、極端に浮かれすぎる等々。

こういった極端は、いずれその対極にある極端へと持っていかれることになるのです。

それは、極端に何もできなくなる、極端に感情が爆発する。

あるいは、極端に不安な状態に突き落とされる等々。

普段から瞑想を心がけて、意識的に生きる練習をしていると、

決して極端に走ることができなくなります。

それが中道を生きるということ。

無意識をなくしていく

人間の苦しみの根源というのは、自我(エゴ)であるということを訊くと、大抵はなんでそんな面倒なものを作るようになってしまったのか?と疑問を持つ人も少なくないはずです。

そのくせ、自我というのは実在しない、本当はこれが私だと思っている私などいないのだとも言われるのです。なんだかこの世は理不尽なことばかりだと感じずにはいられません。

自我が生まれなければ、我々も他の動物と同じように苦しみからは解放されていたはずです。けれども、一方では意識を手にすることもできなかったのです。

他のすべての動物と同じように、ずっと無意識のままであったということです。私たちは、自我を生み出すという多大な犠牲を払いながらも、意識を持てるようになったということです。

どんな犠牲を払ってでも、無意識から脱出できるのなら、それは価値ある代償だと思いませんか?確かに、人生があまりに苦しい時、無意識で生きている動物になりたいと思っても不思議ではありません。

しかし、それも一時的なことです。正気に戻れば、誰も動物へ逆戻りしたいと本気で願う人などいるはずがありません。無意識はいやなのです。

一度意識を持ってしまったのですからね。さて、ここからが本当に大切なことです。意識を持ったといっても、それほど誇れるような状態にはまだなっていません。

というのも、私たちの意識的部分というのは全体の一割くらいだと言われているからです。残りの九割は、無意識のままだということです。

それが残念ながら私たちの内面の実状なのです。もしもこのままたった一割の意識のまま死んで行くなら、自我を生み出して苦しんだだけ、苦しみ損になってしまいます。

生きている間に、意識の割合をできるだけ大きくしていくこと。最終目標は、無意識をすべてなくして、意識だけにすることです。これが光明を得る、覚醒するということです。

あなたが自分の人生の目標はこれこれだ!と思うのはご自由ですが、人類に与えられた真の目的は無意識を失くして意識だけにすることだと気づくことです。

その時、自我はまるで光が当たった影のように、消え失せていくはずです。

~については誰にも負けない

もう何十年も前のことですが、ある有名なギタリストが「誰が世界中のギタリストの中で一番うまいと思うか?」というインタヴューを受けたときの事です。

彼は次のように答えたのです。「この人が一番うまいと思っても、すぐにもっと上手な人が表れる。だから誰が一番かということに意味はない。」

更に次のように言ったのです。「その代わり、ギターを愛しているということについては、俺は誰にも負けない!」これって、すごく真理をついていると思うのです。

つまり、ギターのテクニックを比べるというのなら、仮に何等かの条件を設定して競争させて、その結果でだれが一番かを決めることはできるかもしれません。(勿論意味はないですが…)

けれども、誰がギターを一番愛しているかということになると、これはどんなことをしても決めることは不可能なことです。なぜなら、愛しているということは主観的なことだからです。

人の内面を外側から比べることは不可能なことですね。このように、他人から客観的に評価できることを競うよりも、主観的(内面的)な部分でだれにも負けないという自負を持つことが素晴らしいことだと思うのです。

あなたの存在あるいは存在価値を他人は評価することができません。その存在価値については、誰にも負けないという自負を持つことです。

それができるなら、無駄な自己防衛がなくなり、安心や安全を求める人生が、より楽しむための人生へと転換していくことになるでしょうね。

マインドは独創性がない

自分の中での勝手なイメージなのですが、過去が左側にあって、未来が右側にあるのです。そして、目の前の地点が現在というようになっています。

きっと、時間の流れが左側から右側へと進んで行くというイメージなのでしょうね。目を閉じたときに、これをよくイメージします。

左右に過去と未来が無限に広がっているのですが、最近ようやく未来が切り詰められてきた感じがします。つまり、左側に比べて右側がない感じ。

右側だけがスパンと切り取られてしまって、先が見えない、先が無い感覚。未来に意識を向けないというのは、比較的安易にできるのかもしれません。

それに対して、過去はとても難しいのです。その理由は、どんな小さな思考であろうとも、必ず過去のどれかの記憶にアクセスしているからです。

思考が働いていて、記憶を使わないということは不可能なことだからです。だから、瞑想して思考が緩んできたとき、まず先に未来が落ちて行きます。

そしてしばらくしてようやく過去も徐々に落ち始めて行くといった感じです。私たちのマインドというのは、過去の情報なくしては生きられないのです。

それくらい、ずっと連続して過去の記憶を使い続けているのです。だから、マインドが作り出すもので本当に新しいものというのはありません。

どれほど斬新に見えたとしても、所詮は過去のアレンジでしかないのです。思考は、独創的なものを生み出す能力が完全に欠落しているのです。

だから真の芸術はきっとハートが関係しているのでしょうね。

愛は何も必要としない

自分にとってかけがえのない大切な存在を失ったとしたら、人は途方もない喪失感に打ちひしがれてしまうでしょうね。

その事実を、そう簡単には受け容れることもできなくなってしまうかもしれません。けれども、その痛みから一歩も逃げずにただそこにいられるなら、新しい世界が開けてくるものです。

逆にいつまでも受け入れることができなければ、人生はそこで停滞してしまうことになりますね。自分にとっては絶対必要な人だということは、それが愛ではないことは明白です。

愛は何かを必要とはしないからです。愛はひとりで充足している状態が基本にあるからです。

「僕は君を必要としない。僕は君を愛しているから。」

変に聞こえるかもしれませんが、これが真実です!

目を開けて瞑想する

私の瞑想のやり方には、大きく二つの方法があって、それは目を閉じる従来からやってきた方法と、もう一つは目を開ける方法なのですが、後者がちょっと自分の中では流行りなのです。

目を開けて行う方法だと、イメージとして外側から見ればどこか遠くの虚空を見つめているように見えるかもしれません。

その方法のいいところは、意識が内向きになるのがはっきりと分かるし、更にもっと奥へ奥へと向けて行く感覚もより感じやすくなるのです。

欠点はどうしてもまばたきしてしまうので、開いたままでいられるようになったら、物凄く深く入っていけるような気がしています。目に悪いかもしれませんが…。

また、これは以前よりやってきたことですが、目を開いていても閉じたときと同じような感覚を作るのです。閉じたときの暗闇がバックグラウンドとして、いつも見えている状態です。

これまでのクセなのですが、瞑想している間に起こる身体のあらゆる変化を、どうしても期待してしまうのですね。それはいらないとはっきり分かっているのですが、なかなかやめられません。

身体の変化に意識を向けずに、どれだけ意識的になれているのかをチェックするようになるといいのですが、これにも練習が必要のようです。

瞑想は奥が深いです。死ぬまでにどのくらいの深みまで行けるのか、楽しみです!

思考は意識の静謐さを邪魔する

写真を撮る時によくあることですが、手ブレによってピントがぼけたような写真になってしまうということがありますね。誰でも経験があると思います。

我々の身体はいつも動いているため、完全に手ブレを起こさないようにするというのは、至難のワザです。緊張によって力が入って震えることもあるかもしれません。

あるいは、いくらリラックスしていたとしても呼吸もしていますし、あるいは心臓の鼓動だって、身体の動きを微妙ですが起こしてしまうからです。

それと同じようなことが瞑想中にも起きている気がします。瞑想して思考が小さくなってくると、微妙に今この瞬間に対して手ブレのようにズレがあることに気づきます。

そして、ものすごく繊細な感覚でそのズレを修正できるなら、今という永遠と一つになった感覚がやって来てくれます。実際に身体の微動も邪魔になります。

思考こそが、幻想ですが時間の流れというものを感じさせているということです。思考は、意識の静謐さを邪魔するものなんだとはっきり分かります。

そのくせ、私たちは日ごろからずっと思考まみれになっているんですけどね。

具合の悪さを見る

風邪をひいてしまい、明らかに具合が悪いのですが、そんなときにも内側に意識を向けることはできますね。これまでの記憶では、そこそこ健康な時にはできていたのですが、少し具合が悪くなるとできなかったのです。

ジ~ッとその具合の悪さを内側から見ていてあげると、明らかに見ている自己は具合が悪いということはないと分かります。具合の悪さがそこにあるという感じ。

せっかく具合が悪いので、それをとことん味わってみようと思います。本当の自分がその具合の悪さの中にはいないということが、もっとはっきり分かるまで。

とはいうものの、早く治って欲しい気持ちでいっぱいです!

内側にも光がある…

五感の中でも目(視覚)というのは、特に重要なものですね。聞いた情報ですが、視覚は全体の感覚の中の八割を占めているそうです。

つまり脳が処理する外からの情報の内、八割は目から入ってきたものだということです。だから、瞑想するときには目を閉じる人が多いということです。

目を閉じるだけで、八割の外側からの情報をシャットアウトすることができるのですから。だから、視力を失うということがどれほどのことか、想像もできないくらいです。

会社員の頃に、ストレスのために一時的に視力を失ったと言っていた人がいました。しばらくして回復したからよかったものの、先がどうなるか分からない状態では凄まじい恐怖だったでしょうね。

ところである有名な詩人が、あるとき失明してしまうのですが、彼はその後、それ以前とは比べられないくらいに素晴らしい詩を書いたそうです。

目を失ったことを受け容れるまでは大変だったのでしょうけれど、受け入れてからは内側がどんどん見えるようになって、決して内側は闇ではないことに気づいたのだとか…。

目を閉じて瞑想を続けても、すぐに眼を開いて外を見ることができてしまうので、瞑想の効果があっという間に消えて行ってしまうのかもしれません。

だからといって、光を失うのはやっぱり怖い、当り前ですね。