「私」を探すこと

人は誰でも不安を抱えて生きています。なぜなら、生そのものが不確定要素から成り立っていると言ってもいいからです。

明日どんな不都合が降ってくるか、分かったものではありません。生にはどんな保証もないのです。そんな未来を考えて、不安がやってこないはずはないのです。

だから、何とかして安心を手に入れようとするのですが、それ自体が間違いだと気づくこと。安定、安心を求めることこそが、不安を増幅することなのです。

けれども、そんな言葉に耳を傾けることもせずに、○○を手に入れたらきっと安心できると信じて、飽くなき闘いを繰り返してしまいます。

お金、評価、パートナー、家族、仕事、どれほど頑張って何を手に入れてもダメだと気づいた人は、今度は目に見えないもの、精神性へと希望を向けるのです。

誰もが欲しがっている世俗的なものから離れて、何かもっと崇高な精神性を手に入れたらと考えるわけです。それは勿論、対象が変わっただけで安心を求めるその生き方は何も変わっちゃいないのです。

精神性あるいは神性を求める、探究するのが「いわゆる」宗教なのかもしれません。この世でうまくいかなければ、今度はあの世で幸せになれるようにと思って、一心不乱に祈るのです。

私に言わせれば、世俗のものが神へとすり替わっただけで、本人は一切変わってはいないし、決して安心を得ることもできません。

神性を探してはいけないのです。その代りに、「私」を探すこと。神のことを何も知らずにどうやって探すつもりなのでしょう?それは不可能なことです。

最も身近な「私」を内側深く深く探しに行くこと、そのことに人生のすべてをかけてもいいと思えるなら、いつか「私」が消えたその先に神性が顕わになるのでしょうね。

ハートセンターを活性化させる

私たちの存在のセンターは、ちょうどお臍の辺りに位置しています。胎児は、臍で母親と繋がっており、そこから生のエネルギーをもらっていたのです。

赤ちゃんが生まれると、存在のセンターからハートセンターに向かってエネルギーが流れるようになります。ハートを開いて、感じることができるようにするためです。

赤ちゃんの無邪気さはハートセンターからやってきます。ところが、自我が目覚めだして自分を守る必要があると感じ出すと、ハートからマインドセンターへとエネルギーが移り出すのです。

どうやって自分を守るかということを考える必要があると同時に、辛く苦しい感覚を麻痺させて分からないようにするためにも、ハートセンターを閉じ気味にするのです。

つまり、マインドが優位になって逆にハートが閉じるようになっていくということ。これが現代人に起きている平均的なエネルギーの状態です。

ハートセンターが閉じ気味でいると、ネガティブな感覚や感情をあまり感じずに済むため、本人にとっては一面では都合がいいのですが、そのつけがジワジワとやってくることになるのです。

それは、感動や喜びのような素晴らしい感覚も分からなくなっていくのです。こうなると、もう生を楽しむことはできなくなってしまいます。

マインドセンターに傾いてしまったエネルギーを、もう一度ハートセンターへと戻すためには、例えば音楽とかダンス、あるいは絵画その他なんでもいいので芸術に触れること。

あるいは、大自然の中でそのエネルギーを全身で感じてみるとか、五感をフル活用するような体験を自分にさせてあげることです。

ハートが優位になってくると、自動的にマインドが静かになってくるのです。そうなったら、なるべく瞑想をするようにして、マインドが再び優位にならないように気を付けることです。

ハートセンターが活性化されたなら、すぐにでも存在のセンターも活動を再開してくれるはず。そうなれば、自然と自分の本質に気づくチャンスがやってくるのでしょうね。

どんな物語も実在しない

物語というと、日本昔話のような童話や平家物語、あるいはテレビドラマや映画のように何となく架空のストーリーをイメージさせる感じがしますね。

けれども、大きくとらえれば、宇宙の歴史、地球の歴史、人類の歴史だって物語とも言えるわけです。私たち一人ひとりの人生にしても、正真正銘の物語なのです。

そのようにして、この世界はすべて物語で出来上がっているとも言えるのです。さて、その溢れかえる物語のどれもが、実在しないものだとしたらどうでしょう?

実はどんな物語であろうと、それは決して実在するものではありません。私たちの思考の中に繰り広げられているに過ぎないからです。

ひとたび思考から脱するなら、そこにはどんな物語も見出すことは不可能なことなのです。このことの気づきは、とても大切だと思います。

今日、あなたは職場に行って仕事をして、夜に友達と夕食を共にしてから帰宅したとします。こうした記憶に残っている一連の流れのことを、物語と呼ぶのですから実在すると感じます。

ところが、思考を使って過去の記憶にアクセスすることをストップし、たった今この瞬間に強烈に意識を向けることができるなら、そこにはどんな物語も存在しないと気づくはずなのです。

私たちが「事実」と呼んでいるものと、実在とは残念ながら一致しないということです。実在は時間との関わりが全くありません。それは瞬間であり、同時に永遠だから。

どんな物語性も排除してこの世界を見ることができるとき、騒音でごった返していた我々のマインドは、静寂そのものとなるのでしょうね。

やっぱり鍵は勇気かな?

世の中には、物凄く怖がりの人もいるし、その反対に人から命知らずと言われるようなことを平気でする人もいますね。人によって、恐怖感の大きさにはそれほどに違いがあるのです。

私は間違いなく怖がりの部類に入るのですが…。生というものは、本来危険なものですね。明日はどうなるのか、何の保証もないままに生きていかねばならないのですから。

恐怖からできる限り遠のいて生きていこうとすれば、活躍の幅は小さくなってしまうのは当然のこと。安心できることにしか、触手が動かないのですから。

その一方で、勇気のある人は恐怖を感じながらも、そこから逃げずに向かっていくことができるのです。それは決して恐怖をあまり感じないということではないはず。

恐怖を感じつつ、それでも安心を求めずに勇敢に向かって行くということです。だからといって、無謀なことをわざわざするという意味では勿論ありません。

勇気が必要なのは、この社会で生きていくためだけではなく、セッションでやっているような心の癒しについても同じことが言えるのです。

癒しには、どうしても勇気が必要です。なぜなら、自分が最も見たくない、逃げ続けてきた都合の悪い自分と対峙しなければならないからです。

「惨めな自分」をできるだけ真正面から受け止めることができるなら、その勇気を持ってマインドの奥底に光を当てるなら、必ずや身体も気持ちも軽やかになるのです。

なぜなら、隠し続けねばならなかった重荷、自分を騙し続けてきた疲労から解放されてしまうのですから。日頃勇気をどれだけ使っているのか、一度自分を点検してみるのもいいかもしれませんね。

どちらでもないが究極

何かを買いに行って、どちらにするかなかなか決められない時って誰にでもあることですね。一緒に付き合ってくれた人に、優柔不断だなと嫌味を言われたりして。

けれども、実は優柔不断というよりも、選んでいるものに対してのこだわりが強いために、なかなか決断ができないという現象が起きるとも言えるのです。

逆にこだわりがなくて、どちらでもいいという場合には、スッと決断できるのです。どちらにしても、それほどの違いを感じられないからですね。この、どちらでもいいという心の状態は、人生を清々しくしてくれるのです。

私たちは、大抵自分自身に独自の考え、独自の主義主張を持ちなさいという教育を受けてきたはずです。それが、社会で生き抜くためには有利に働くと思えるからですね。

そういうところからも自分のアイデンティティが確立されていくように考えられているのも事実です。こだわりを持っている方が、何となく人生をしっかり生きているという印象を与えるのも事実ですね。

けれども、こだわればこだわるほど、それだけ苦しみが増えるということにも気づく必要があるのです。こだわった結果が、望むものとなればそれだけ喜びも大きいのですが、その反面、望まない結果がやってきたときには苦しむことにもなるのです。

信じるものは救われるという言葉がありますが、信じれば必ず信じないが一緒についてきて、いつかは信じないが表面化して裏切られたような気がするのです。初めからどちらでもない状態であれば、結果に対して無頓着でいられるのです。

真に中道を生きる人とは、どちらでもない状態にあるということです。自分は自由でも不自由でもない、自分に対してそういった観念がないということです。

こだわりを減らして、どちらでもないを増やしていくことができれば、それこそが究極の生きる極意を体得していくことなのだと思うのです。

ただ自分自身で在ること

この世に生を受けて、しばらくは無邪気でいたはずなのに、いつの頃からか、「この自分のままではダメなんだ!」という間違った思い込みをしてしまったのです。

その独りよがりの思い込みこそが、その後の人生のすべての苦悩の始まりだったわけです。独りよがりとは言え、その時にはそう思い込む以外に道はなかったのですから、仕方ありません。

他の選択肢というのは、後になって考えればあり得たと思えるだけで、その当時としては無理もないことだったのです。だから、誰も間違ってなどいないのです。

けれども、思い込んでしまったことは完全なる過ちでした。「自分のままではダメなんだ!」によって、あらゆる方策を尽くして、ダメじゃない自分になろうと頑張り出すのです。

自分じゃない誰かになろうとして、奮闘努力をしてしまったのです。頑張れば頑張るほど、あるがままの自分を否定して、その存在を心の奥へと隠したのです。

余りに強く隠されると、そのエネルギーはいずれ何等かの形となって表面化することになるのです。それは、感情の爆発だったり、鬱症状だったり、あらゆる種類の問題行動だったり。

そして、そんなダメダメな自分のことを、頑張る自分が大否定してしまうために、さらなる悪循環を起こすことになるのです。こうなったらもう手が付けられません。

こうしたとんでもない生き方を根底から見直して、そもそものあるがままの自分を心の奥から呼び戻し、彼(彼女)に光を当てることができたら、人生は突然軽やかな清々しいものへと変化するでしょう。

なぜなら、自分以外の誰かになろうとして、途方もない重荷を背負ってきたからです。その重荷を降ろして、ただ自分のままで在ることに感謝する日が、一日も早く来ればいいのにと思うのです。

マインドをコントロールしようとしない

誰でも、必死になって寝ようとすればするほど、寝付けなくなるということを経験上知っていますね。一生懸命リラックスしようとすれば、決してリラックスできないのと同じです。

マインドを直接的にコントロールしようとすれば、その反対がやってくるということです。瞑想とは、思考を止めることだと知って、頑張って思考を止めようとするのです。

結果は明らかですね。止めようとコントロールすれば、思考は決して止まりません。止まるどころか、その勢いを増して、あなたを翻弄することになるはずです。

怒ってはいけない、いつも穏やかでいなければならない、そうマインドに命令すれば、必ずや怒りがやってきて、願いとは反対の状態になってしまうのです。

本当かなあ?と思う人に今からある実験をします。よく聞いて下さいね。

「空飛ぶピンクの象」 ………のことをイメージしないで下さい、と言われたらどうでしょう?勿論そんな象は実在しないのですが、それでもイメージするなと言われれば、少なくとも何等かのイメージが湧いてきてしまうはず。

マインドをコントロールしようとすれば、必ず反逆に遭うのです。だから、賢い人は決して自分のマインドをコントロールしないようにしているはずです。

マインドを手なずける最も有効な方法は、コントロールする代わりに見ることなのです。マインドと闘わずにただ見ることで、マインドは力を失っていくのです。

マインドはただ見られることが一番苦手なのです。徹底的に見ることを続けていれば、マインドはいずれは小さくなって取るに足りないモノへと変わり果てるでしょう。

その時、あなたは自分はマインドではなかったということに気づくことになるはずです。

褒められたい症候群

誰だって、他人から否定されたり侮辱されるよりは、肯定されたり褒められる方が気持ちがいいものですね。中には、強く褒めて欲しいと願っている人もいるでしょう。

褒めて欲しいが強ければ強いほど、それだけ侮辱されることを強く恐れてもいるのです。なぜなら、褒められることと侮辱されることは、一つのコインの表と裏の関係にあるからです。

褒められたくて仕方のない人(私はそういう人のことを褒められたい症候群と密かに呼んでいるのですが)に、是非聞いて欲しいことがあるのです。

実は、自分のあるがままをある程度受け容れるマインドの状態にあるなら、とりたてて褒めて欲しいとは思わないはずなのです。

なぜなら、褒められるにはそれなりの理由があるわけで、その理由がなければ決して褒めてはもらえないということが、透けて見えるからです。

100点取って褒められたら、20点取ったらけなされるがくっついてくるのですから。それはコインの表と裏の関係なのです。対極にあるもの同士は、必ずペアとなってやってくるのです。

その片一方だけが、その時に表面化しているに過ぎないということを見抜くことです。幼い頃に充分に受け止めてもらった体験があるなら、その人は褒めてもらうことに無頓着になるのです。

場合によっては、褒めて欲しくないと感じることもあるはず。コインの裏側が見えてしまうからですね。人を褒めるということは、何等かの成果なりに対する評価に過ぎません。

その人の存在を褒めることは不可能なことです。そして比較することも評価することもできない「存在」こそが、この世界で本質的に価値のあるものだということ。

自分の存在に常に目を向けて、それを充分に味わい、そこに肯定も否定も何もないことに気づくなら、褒められたい症候群から脱却することになるはずです。

そのときに、初めて人からの評価に対して、無頓着な状態になることができるのですね。

自分のマインド年齢

ここ数年ずっと感じていることなのですが、風呂上りに髪を乾かすときに鏡を見るのですが、その時に自分の顔って、こんなだったっけ?と不思議な感じになるのです。

というのも、自分の外見をほとんど気にせずに毎日やってきて、内面は少しも変わってないのに、鏡に映った自分の顔形があまりにも年齢とともに変わって来てしまったからです。

まともに鏡を見るのは、一日に一回だけなので、しかも髪を乾かすのが目的なので、それほどじっくりとは自分を見ているわけではないのです。

それで、ふと気が付くと、自分の外側と内側が大きく隔たってしまったことに驚くのです。肉体は自動的に老いていくのですが、内側はどうすればいいのでしょうか?

私のマインドは老いるということを、なぜか知らないようなのです。自分でもはっきりと自覚しているのですが、実年齢とは程遠いマインドの状態なのです。

他の人たちは一体どのようにして、マインドの老いというものを進めて行くのか?是非誰かに聞いてみたいと思ってしまいます。

もしかしたら、誰もが私と同じように感じているのかもしれません。誰も自分が年相応にマインドの老いを感じてなどいないのかも…。

そう考えると、何となく面白くなってきました。この世界には、内面まで老いた人はいないのかもしれない。じゃあ、せいぜい死ぬまで無邪気なままでやってやろうっと!!

自分のマインド年齢、平均するときっと17歳ってとこかな。

ストーカーのような親

ストーカー行為を繰り返す人の気持ちって、何だか気持ち悪いし分からない、と思われるかもしれませんが、実はそれほど複雑でも特殊でもないのです。

要するに現実を受け容れることを嫌って、自分に都合のいいように考えるというマインドの働きに過ぎません。ごく一般的な自己防衛の一つですね。

ただそれが度を越えてしまうと、ストーカーのような行動をするようになるということです。誰だって好きな人から嫌いと言われたくはないわけです。

そんなときに、相手の気持ちを無視して、自分はこれだけ好きなのだからという部分だけを取り上げて、まるで相手には気持ちがないかのように扱うことができるのです。

当然対等な人間関係を築くことはできなくなってしまいます。相手の気持ちを無視するのですから、相手をまるでモノのように扱うということです。

これは最も醜いマインドの状態と言えますね。けれども、実は多くの病んだマインドを持った親が、それと同じようなことを自分の子供に対して繰り返していることは、あまり知られていないかもしれません。

子供を溺愛する、あるいは子供のことが心配過ぎて過保護、過干渉になったりして、我が子をまるで自分の所有物のように扱う親は沢山いるのです。

子供は幼いので、いろいろしてくれる親が自分を愛してくれていると錯覚しますが、いずれはその化けの皮が剥がれることになるはずです。

なぜなら、子供自身の気持ちが全くないがしろにされているということに、気づくことになってしまうからです。そういう親に限って、子供が自分から独立して離れていこうとすると、力づくで妨害してきたりするのです。

結局、あなたのためなんだからという決め台詞を言いつつ、本当は子供の幸せなどこれっぽっちも考えてはいないのです。親自身が安心できればいいのです。

もしも、自分はそのような親に育てられたかもしれないという自覚があるなら、一刻も早く親から離れる必要がありますよ。