「私」は記憶の中にしかいない

誰もが自分自身の人生を生きているのですが、少し考えれば分かることですが、人生というのは生まれてからこれまでの過去の集積のことです。

イメージとしては、未来に向かって伸びているようにも感じますが、実際は過去の体験の蓄積から成り立っていると言えます。

つまり人生とはすべてが過去のものなのです。過去は今現在実在しないので、記憶の中の情報として存在するということです。

結局人生も、その中を生きていると感じているこの「私」も、どちらも記憶の中にしか存在していないということです。

記憶というのは単なる情報です。ということは、この「私」も情報に過ぎないということになってしまいますが、こればかりは承服できかねますね。

「私」は人間としてこうして生きていると思っているのですが、実は記憶の中のデータに過ぎなかったということです。

その証拠に、過去を思い出すことを一時的に停止してしまうと、あなたの中の「私」は見つけることができなくなるはずです。

そこに残るのは、ただ「在る」というあの感覚のみ。それこそが我々の本質なのだと分かります。「私」というデータは、あなたではないということ。

受け入れられるかどうかは、あなた次第ということですね。

全体性の神秘に酔いしれる

何となくですが、スピリチュアルな言い方をすれば、去年の秋くらいからやってきている変化のエネルギーが、更に今月になってより大きくなってやってきているという感じがします。

こうしたことは、私が感じる限りは何年かに一度は大なり小なり起きていて、それに従って人生という物語が進んで行くのですね。

自分はただそうした変化を感じつつ、それがどうなっていくのか、どのような物語を紡いで行くのかを静観している感じなのです。

なぜならこれといって自分にできることもない気がするし、どうしていきたいという願望も特別持っているわけでもないからです。

何か嬉しいことがやってきたら、それをただ楽しめばいいだけだし、悲しい出来事や都合の悪い出来事がやってきたら、それを味わっていればいいのです。

自分にできることはこれ以外にはないとはっきり分かっているので、どんな物語であろうと自分の中心からそれを見ていられればOKなのですね。

それすらできなくなったら、いつかはそのことを思い出すだろうと分かっているので、また物語を見る自分に戻ればいいだけです。

すべてはうまく推移しているのです。うまく行っていないことも全部含めて、すべてOKなのです。思考を使って疑問を持ち出す代わりに、全体性の神秘に酔いしれていればいいのですね。

どんな欲望もいらない

私たちが持っている欲望にはいろいろな種類のものがありますね。あれが欲しい、これが欲しいというような欲望もあれば、こうなりたいという自分に対する欲望もあります。

外側から何かを手に入れたいという欲望については、それがあまりにも強ければ貪欲な人と思われてしまうかもしれません。

一方、より良い自分になりたいという欲望に関しては、あまりそれを悪く言う人はいないものです。明るい未来に向かって、成長していきたいという前向きなエネルギーを感じるからでしょうね。

けれども、欲望のターゲットが何であれ、欲望であることには違いがないのです。欲望という言葉が否定的な響きがあるというなら、言葉を変えてもいいのですが…。

願望、希望、望み、夢、どんな肯定的な言葉に変えたとしても、所詮は同じことです。社会的な見方をすれば、良さげに思えることでも一皮むけば欲望なのです。

そしてどんな欲望であれ、それが未来にエネルギーを向かわすのです。だから欲望があるときには、今この瞬間にいることはできません。

これが手に入ったら、こんな自分になれたら、あの人がこうなってくれたら、こんな世界になったら、どんな望みも未来を連れてくるので、エゴのペースに嵌るのです。

自分のマインドがどんな欲望を持っているのか、あるいは隠し持っているのか、よくよく見てあげることができれば、少しずつそこから離れていくことになるはずです。

物語の演者か、観照者か

この仕事を始める前に、催眠療法のとあるスクールに通っていたことがあるのですが、その時に同期の友人が別の何かのトレーニングに参加して意気揚々と戻ってきたのです。

その時に彼が「人生はゲームのようなもの」と笑いながら話しているのを聞いて、何だか若干腹が立ったのを覚えています。

当時は何故腹立たしい気持ちになったのかは、深く見つめることもなかったのですが、今ならその理由がはっきりと分かるのです。

それは、サラリーマンを辞めて、これからの人生をどのようにやっていけばいいのか、少なからず深刻に考えていたからでしょうね。

ゲーム感覚で今後のことを考えることなどできなかったからなのです。今でも人生はゲームだという表現が妥当かどうかは定かではありません。

けれどもその代わりに、私がよく使っている表現は、人生という物語という言い方です。その物語の中で悲喜こもごもがあるわけです。

そして何が起きても所詮は物語だと分かれば、仮に深刻になったとしてもそう長続きはしなくなってしまうのです。

ゲームのプレイヤーなのか、つまり物語の演者なのか、あるいはそれをただただ見ている意識なのかという点こそが一番大切な気づきなのですね。

途方に暮れる自分を見る

16年前にサラリーマンを辞めて、この仕事を始めたときにどうしたらより多くの人に知ってもらえるかが最重要課題でした。

来ていただけたら、セッションはできるという気持ちがあったからです。これはどんな商売でも同じですね。けれども宣伝、広告などに多くのお金をかけることはできません。

たまたま幸運にも、ちょうどインターネットが世界的に普及しつつあるときだったのです。1円もかけずにホームページを作って、それを見てもらうことができたのです。

それがなければ、自営でセラピストなどやっていけるはずはなかったのです。だから、ネット社会が私を救ったと思っているのです。

けれども、それもマンネリ化していて、毎日ブログは書いているもののホームページにはほとんど関心がなくなってしまい、勝手に見てもらえてればいいと思っていたのです。

そんなおごりの気持ちに気づかせるようなとんでもない事態が起きました。先月いっぱいで、ずっと使っていたサーバーが使えなくなったのです。

調べて見たところ、一年前から告知されていたようなのですが、チェックを怠っていたためにまったく気づかずに今日まで来てしまったのです。

さあ大変、この仕事を始めて以来の大ピンチがやってきてしまいました。別のサーバーを急きょ借りて、ホームページは閲覧できるようにはしたのですが…。

当分の間は、ネット検索でヒットすることは難しい状況となってしまいました。途方にくれるとはこのことですね。

とはいうもの、どれほど図太くなったのかと思うほど、しばらくしてもうどうにでもなれ!という気分の方が大きくなっているのです。

こんな事件でも、ただ見ているということの練習に使えるんですね。

以下が新しいアドレスですので、お気に入りなどに登録されていた場合には、登録し直していただけたら嬉しいです。

瞑想の二つの意味

セッション中に瞑想の話題になることがたまにあるのですが、そのときに瞑想ってそもそも何なのですか?と質問されることがあります。

私なりに瞑想というときに、二種類のことを意味しているのです。この二つのことを明確にしておくと、混乱せずに済むはずです。

一つは誰もが知っていることですが、「マインドを静かにする」という意味です。無念無想などと呼んだり、雑念を払うなどの表現がありますね。

要するに、マインドの中でクルクル動き回っている思考を静かにさせるということ。これができるだけでも相当に気持ちよくなるはずです。

そしてもう一つは、「マインドから抜ける」ということ。「マインドを静かにする」という場合には、マインドの中にいることが想定されます。

それに対して、「マインドから抜ける」のですから、マインドの外側からマインドを見るということになりますね。

そして実は、この二つ目こそが真の意味での瞑想なのです。一つ目の瞑想というのも、この二つ目の状態になるための準備みたいなものなのです。

マインドがざわついて騒がしいままでマインドから離れることが難しいので、まずはマインドを静かにさせることから入るわけです。

マインドから抜けるとは、マインドとの同一化がはずれるということも意味しますね。つまり、真の瞑想とは、思考が動いているのを見ている状態です。

だから歩いていても、誰かと話しているときでも可能なのです。そしてそれこそが意識的であるということですね。

お知らせ!!

突然なのですが、1月31日(火)をもってこれまで使っていたHPのサーバーが使えなくなってしまいました。

代わりに、以下のアドレスにてこれまでどおりにアクセスすることができるようになりましたのでお知らせいたします。

ご迷惑をおかけしますが、今後ともよろしくお願いします!

———
Lucid URL: http://healing-office-lucid.com   ← 新しいアドレスです!
———

大澤

意識的であれ!

このブログというのは、どんな内容であれ間違いなく自分自身のために書いているんだなとつくづく思うのです。

もちろん、それが自分の知らないところで、予期せず誰かの役に立ったり、ちょっとしたヒントになってくれたらそれはそれで嬉しいのですが。

それでも結局は自分のためだというところに戻るのです。だから自分のために書く必要を感じなくなったとしたら、書くのをやめるんだろうなと。

最終的には、「見る」ということ、意識的であり続けるということ以外には、どんな言葉も回り道だと分かっているのです。

そんな中でブログを書き続けているのは、常に意識的であることが自分にとってとても難しいことだと自覚しているからですね。

一体一日のうちで、どれだけの時間を意識的に過ごしているのだろうと思うと、正直に言えば相当に残念な結果であることを認めるしかありません。

ただしそれができている時間だけは、マインドから抜け出ていられるということも知っているので、日々実践する喜びというのはなくなりません。

こうして徐々にブログの内容がシンプルになっていくのかもしれませんね。