自我はトンチンカン

人間とは欲深いもので、願いが叶わなければ否定的な気持ちになるし、願いが叶ったところで嬉しいのは一瞬であり、泡のようにその気持ちは消えていってしまうのです。

そしてすぐにでも次の願いが叶うようにと目先を変えて頑張りだすのです。そして心のどこかで、次はそんなことはないはずと思いたいのです。

これが実現した暁には、もうそれ以上を求めるようなことはないだろうと思っているのですが、残念ながらそれも束の間、すぐにまた飽くなき挑戦を始めるのです。

結果として自我が満たされるということはないのです。この繰り返しのうちに、人生という時間が尽き果てていくわけです。

私たちが求めているものとは、永久不変の満足感なのです。それをこの現象界で追い求めていること自体がトンチンカンなことだと気づくことですね。

要するに不可能に挑戦し続けている愚かな行為だと分かればいいのです。ではどうすればいいかと言えば、私たちの本質に気づくことしかないのです。

自我として、悲喜こもごもの人生をまだまだやりたい人はそれもよし、けれどももうそろそろ飽きてきたという人は、自分とはなんなのか、どこにいるのかを検証することです。

そして自分の本性がこの世界のどこにもいない、あるいは全てだということに気づくなら、全く違った人生の風情がやってくることになるでしょうね。

当事者意識はホントに減るの?

今日は昨日の内容の続きのような感じなので、昨日の記事を読んでいない方はまずそちらを読んでからまた来てください。

当事者意識を薄めるためには、一に見る、二に見る、三四がなくて五が見る、というくらいにとにかく見ることを練習する必要があるのです。

この「見る」というのは、外側の世界で何が起きているのかを見るということではなく、その反対に内側を見るということです。

とは言っても、自分の内面を見るとか、内省するということとは全く違うので注意してください。

内側という言い方は、意味を取り違えてしまう悪い表現ですね。内側ではなく、外側に向いていた視線を180度ひっくり返すということです。

向こうではなくこっちを見るということです。すると突然、こちら側には何もなく、ここには捕まえられるどんな自分も発見できないと気づくはずです。

感覚としては、透明で、大きさや形もなく、要するに何もなさをただ見つけることができるのみなのです。

こうした感覚には個人としての当事者感覚などは全くありません。この感覚が新しく追加されるわけです。

その結果、当事者意識が減るような感じがするのでしょうね。それ自体が減るということではないようです。

体のどこかが痛かったり、何かショックな出来事があったりすると、すぐに当事者としての自分が活躍を始めるので、透明な自分は消えてしまいます。

それが当たり前だと割り切って、また新たな気持ちで何もなさを見る練習を再開すればいいのです。とにかくめげないこと。

一つ付け加えると、こちら側に見えているその何もなさの中に、今あなたが見ている外側だと思っていた世界全体がすっぽり収まっていることにも気づくかもしれません。

楽しそうでしょう?是非試してみてください!

全てを楽しむ方法

今日のお話しは、もちろんわたし自身もそのレベルには達していないのですが、楽しみ方を極められたらいいよね、ということです。

通常私たちは、楽しいことが起きたらそれを楽しむことはできるのですが、そうでない場合には楽しむことはできないのです。

当たり前過ぎて、この先読み進めていく気がしなくなってしまうかもしれませんね。でも本当に大切なことなのです。

どんなことでも楽しむ方法を見つけてしまったら、きっと人生は様変わりしてしまうでしょうね。

だって何があっても楽しんでいることができるのですから、自分が楽しくないと思っていることすら楽しめるわけですから。

ドラマの中の登場人物って、なかなか大変なことが起きていたりして、毎日面白おかしく楽しんでばかりということはないはずです。

それなのに、私たちはそうしたドラマを見ることを楽しんでいるのです。これはどうしたことでしょうか?ここに何かヒントがあるように思います。

ドラマの中の人に何が起きても楽しめるのは、ひとえに当事者ではないからです。私たちは当事者として渦中にあれば、それに飲み込まれてしまうのです。

だから辛いことがあれば楽しめないのです。つまりは、あなたがあなたの人生の当事者意識を減らしていけたなら、ただそれを見る側に回れるなら、きっとどんな人生であれそれを楽しむことができるはずなのです。

観照者であれというのは、そうしたことでもあるのですね。さあ今日から、当事者意識を減らす練習をすることにしませんか?

そしてその練習をしている自分のことも楽しんじゃえばいいのですね。

家庭内パワハラを暴く

子供の頃、イジメという言葉は確かあったと思うのですが、パワハラとかセクハラという言葉はなかったと記憶しています。

もしも親が子供に対して、親が稼いだお金で食べていけるのだから、ありがたく思えだとか、親の言うことを聞け、などというなら立派なパワハラですね。

あるいは、親の方が子供のお前よりも世間というものを知っているのだから、親の言いつけを守れ、というのもパワハラです。

さらに、親の家に住まわしてやっているのだから、家を出るまでは親の指示に従って口答えするな、これもパワハラです。

親が我が家のルールだ、親はいつも絶対的に正しいのだから、素直になって良い子でいなさいというのもやっぱりパワハラですね。

パワハラというのは、その内容が正しいかどうかは別として、何らかの危険な感じがして恐怖から従わざるを得なくさせることです。

力技のコントローラーということです。コントローラーには、そのほかに子供の罪悪感を利用する方法などもありますが、いずれにしてもそこに愛はありません。

もしもこうした家庭内でのパワハラを受けた心当たりがあるなら、そこから逃げずにしっかり見つめ直すことです。

そしてその時の被害者としての自分の苦しい感情などを味わってあげることで、人生が生きやすくなるのです。

そのままにしておくと、ほぼ間違いなく実際に職場などでパワハラに遭遇してしまうことになるでしょうね。

自己表現の目的はそれ自身

私たち人間は独りでは生きていけない生き物ですね。だから、他の誰かとコミュニケーションを取る必要があるのです。

そのやり取りにおいて、自分の言いたいことを言うという当たり前のことを自己表現と呼びます。

この当たり前のことができなくなってしまうと、人は心を病んでいくことになるのです。なぜなら、言いたいというエネルギーが溜め込まれていくからです。

トイレに行きたくなったら、トイレで用を足すのと同じで、言いたいことは表現させてあげなければ、糞詰まり状態と同じになるのです。

ところが、さまざまな理由によって自然な自己表現を押さえ込んで生きてきた人は沢山いるのです。

その人たちの多くは、自己表現したところで聞いてはもらえない、分かってももらえない、場合によっては反発されてしまうなどと思っているのです。

どうせ分かって貰えないのなら、黙っていようと思ってしまうのも頷けるのですが、それでも頑張って自己表現はして欲しいのです。

自己表現の目的は、相手に分かってもらうことが大半かもしれませんが、実は自己表現をしたという証が自分自身に対して必要なことも事実なのです。

言いたいことが言えたということだけでも、糞詰まりは解消されるからです。相手に伝わるかどうかは、あなたの責任外のことだと気づくこと。

あなたは自己表現をすることだけが、あなたの自分自身に対する責任だと理解することですね。

その責任を果たしてあげていれば、心が病むということはないからです。分かってもらえなくても、そのことには拘らずにいればいいだけなのですね。

少しの時間坐ってみよう

一日に一回くらいでいいので、できればなるべく静かな空間にいて、少しの時間ゆったりと坐ってみるのです。

そうして、毎日人生物語を生き続けている自分を一旦降ろしてみるのです。自分とはこうだと思っている自分の姿を脇へ置いてください。

過去も未来もなく、そのちょうど真ん中の今この瞬間にだけいるようにするのです。そうすると、自分は誰でもないということに気づくはず。

誰かでいたいという不安がやってくるかもしれませんが、それも脇へ置いてしばらくの間、その誰でもなさを満喫するのです。

そこには幸不幸もないし、快不快も苦楽も何もないのですが、それなのになぜか満たされているということに気づくかもしれません。

それこそが、自我が活動を緩めている状態なのですね。自我(マインド)が鎮まれば、あなたは自分は透明だと感じるかもしれません。

場合によっては、身体から解放されて広がりを感じることもあるでしょうね。それが全体性だと思えばいいのです。

こうした練習を少しずつ繰り返していくことで、見守るという態度、意識的であるということにも馴染んでいくことができるのですね。

傷つくことは悪くない

私たちは誰でも、できることならなるべく傷つきたくないと思っているのです。傷つくことは辛いことだし、悪いことだとも思っているのです。

だから傷つきやすいということも悪いことだと感じるのですね。できることなら少々のことでは傷つかない強い自分になりたいと願っているのです。

けれども、もしも傷つきたくないとして頑丈な鎧を身につけてしまったら、動きが鈍くなるし軽快な気持ちで生きていくことができなくなってしまいます。

分厚い鎧は安全ですが、不自由で生きづらいという面もあるのです。もちろん鎧というのは心の鎧のことで、それが心理的防衛ということです。

危険を察知すると貝は閉じて殻の中に身を隠しますが、人が心を閉ざしてしまえば何も感じないロボットのようになってしまうのです。

生身の人間でいるためには、鎧を脱ぎ捨てて傷ついてもいいやという気持ちで生きることです。

長らく心を閉ざしてきたクライアントさんが、ゆっくりとそれを開いて見せてくれる姿に触れると、とても感動させられます。

なぜなのかなと思うのですが、きっと私たちは無防備で自然な姿を愛しいと感じる習性があるのですね。

私はセラピストの仕事をするようになって、人は傷つきやすい状態で生きる方が遥かに素晴らしいという確信を得ました。

傷つくことを恐れなくなったら、人は自分の本性が愛だったのだと気づくことになると思います。

変化を受け容れる

この現象界では、あらゆるものが常に変化し続けています。このことは、どうしようもない事実ですね。

それなのに私たちは、明日になっても今日と同じものを期待してしまうのです。明日もこの幸せが続いてくれることを願っているのです。

誰かを好きであることは、嫌いであることよりも心地いいものですが、それがいつ変化してしまうのかは誰も知りません。

ずっと好きでいられたらいいのにと、あるいはずっと好きでいてくれたらいいのにと願うのです。

どんな人間関係であれ、必ずや変化していくものなのに、永遠の友情を信じてしまったりするのです。

その結果、やれ裏切られたとか、約束が違うなどと言って相手を否定したり怒りをぶつけてしまったりするわけです。

全てが変化していくことを受容することでしか、あなたのマインドを大人しくしておくことはできないのです。

諸行無常を深く理解することができれば、あなたの不満は消えていってくれるはずなのです。

中立な目で子供時代を見直す

誰でも幼い頃というのは、とても狭い世界で生きています。大抵は、家庭の中の人間関係がほとんどだからです。

つまりは外の世界のことをほとんど知らないわけですから、家庭内でのことが当たり前のこととして身についていくのです。

私の場合だと、父親がどんなものにでも醤油をかけて食べていたので、それ以外の食べ方を知らなかったのです。

カレー、コロッケ、メンチ、カツ、天ぷらなどにも醤油をかけていました。そういえば、今でもお好み焼きにたまに醤油をかけると美味しくいただけます。

小学生くらいになって、ようやく友達の家に遊びにいったりして、うちと違うということを覚えて帰ってくるのです。

また特に親との関係性は、とても大きな影響を子供に与えることになります。それがとても不快なものであったとしても、子供はなるべくそれを否定したくないのです。

自分の家族、家庭を悪いものだと思いたくないので、外の世界と比較するのをやめてしまう場合もあるかもしれません。

あるいは薄々気づいてはいるものの、その疑いを否定しながら、うちの家族は素晴らしいと思わせようとすることもあるでしょうね。

実はそれが大人になって、癒しを進めていく上での障害になったりもするのです。なぜなら、いいも悪いも忘れて、ただあるがままを見る必要があるからです。

癒しは、大人の自分が冷静にそして客観的で正直な目で、自分の子供時代を見直してあげることが大切なのですね。

それをすることによって、子供時代の隠されていた自分の本音の部分が顕れて来てくれるのです。

ゴミをゴミだと理解すること

私たちの行動で一つはっきりしていることがあるのですが、それはゴミだなと思ったものは捨てるということです。

ゴミというのは、本人にとって用無しになってしまったもの。持っている如何なる意味もないと感じたもののことです。

だからすぐにでもゴミ箱に捨てたくなるのです。ところが、私たちの周りにはゴミだと思われるものをずっと持ち続けている人がたくさんいるのです。

たとえば、誰もがあんなクズ男と言いたくなるような、しょうもない男性といつまでもぐずぐずした関係をやめられない女性がいますね。

あるいは、時々テレビ番組などで紹介される、いわゆるゴミ屋敷と言われるような家に住んでいる人がいます。

彼らは悪臭を放つ山盛りのゴミの中に暮らしているのです。綺麗さっぱり掃除したら、どれほど気持ちがいいだろうと想像してしまいます。

なぜこうしたことが起きるのかというと、本人は決してゴミだとは認識していないからなのです。

癒しというのは、これまでに培ってきたあらゆる教えやルール、そう言ったものを捨てていく作業なのですが、これがすごく難しいのです。

セラピストの目からすると、親や社会から押し付けられたそうした教えのほとんどは、我々を幸福にはしてくれません。

だからそのほとんどはガラクタなのです。でも現実はどうかというと、本当に多くの人がなかなか過去培ってきたものを手放すことができないでいるのです。

その理由は、本人にとっては心のどこかで価値あるものだと思っていたり、手放すのが怖いと思っていたりするからです。

自分が満ち足りた人生を生きる上で、障害となるあらゆるものをゴミだと認識することこそが、とても大切なことだと分かります。

その深い理解に至ることさえできれば、後は自動的に不要なものは落ちていってくれるのです。自分で捨てる必要すらないのですね。