私がいるから苦しむ

すべての人の苦しみには共通の思い込みがあるのです。それは、「自分がいる」というもの。

自分がいるから苦しんでいるのです。そこから飛躍して、「私は苦しい」となるのです。それは正にでっち上げなのです。

その結果、苦しんでいる自分がいるということになるわけです。それが継続してしまうと、今度はその苦しみを自分と同化してしまうのです。

そうなると、苦しんでいることで私の存在があるような感覚になり、苦しみから解放されたいと思う反面、そうなったら自分が消えてしまう恐怖がやってくるのです。

だからとても厄介なことになってしまうのですね。ところが真実は、ただそこに苦しみがあるだけなのです。

それを見抜くことができたら、苦しみと私の両方が共に消えていってしまうはずです。

私が消えたときに後に残るのは、単に物理的な痛みに過ぎません。痛みは私なしでも存在できるからですね。

過去や未来に目を向ければ、そこには必ず私がいるのです。だからどんな苦しみも過去と未来からやってくるのです。

もしもあなたが今この瞬間にいられたら、私と苦しみは仲良くその存在はなくなってしまうのですね。

誰もが全体の一部

ある番組を観ていたら、女優さんがインタビューに答えて、時々ふとやってくる悲しみや孤独が何に由来するのか分からないけれど…、のような話しをしていました。

その人の人生の初期の頃を詳細に追っていくことができたら、生後に体験した惨めさや不安や孤独の根っこを見つけることができるかもしれません。

けれども、そこをどれほど掘り起こしたとしても、その向こうにはもっともっと残酷で悩ましい誰にも共通する事実があるのです。

それは、すべての人に例外なく気付いて欲しいと思うことなのですが、自我として生きることの必然となる不安や孤独についてです。

自我というのはすべてから分離した個人として生きているという思考がベースにあるのです。

それはたとえて言えば、根もとから引っこ抜かれた植物のようなもの。大地と繋がっていたはずなのに、宙ぶらりんになってしまった木と同じなのです。

だから大地が恋しくて恋してくて仕方がないのです。私たちに共通の宙ぶらりんな感覚、それが不安感や孤独感なのですね。

けれども幸いなことに、私たちが全体から分離したことなど一度もありません。分離したという思考(妄想)に過ぎないのです。

どう転んだところで、誰もが全体性の一部でしかないのですから。それを一瞬でも感じることができたら、すぐに静かな恍惚感がやってくるはずです。

文句を言いたい自分を炙り出す

思い返してみると、自分の内側に記憶のある限りずっと変わらずにあるものがあります。それは何かと文句を言っている部分。

これまで人生が好きだと思ったことがなかったなあと。中途半端に絶望している何かがあるようで。

でも完全に絶望しているわけではないので、常に文句を言っているのです。気分が晴れない、気持ちよくない、どこかが痛い、つまらない等々。

そいつが私のマインドの中枢を占拠しているようです。勿論短い時間、理由も無く晴れやかな素晴らしい気持ちになるときはあるのですが、またすぐに戻るのです。

せっかくの人生、もうそれほど長く残っているわけではないので、違う生き方をしたらどうなんだろうと思うのです。

で、自分を改善することはできないので、代わりにその「文句言い」の奴を常に見守る練習をしてみようと思います。

大抵はそいつに乗っ取られてしまうことが多いのですが、乗っ取られる前だけでなく、常にそれを見ててあげようと思うのです。

彼が文句を言ってどんな利点があるか、そこに気付いてあげられたらいいかもしれません。

それができたら、私のマインド全体としてはもう文句を言う必要がなくなって、清々しい毎日になるように思います。実践あるのみですね。

真実を見抜く

社会の中でごく平凡な社会人として生きていると同時に、忘れてはならないのは、真実を見抜く目です。

OSHO の言葉で次のようなものがあります。私も誰かとたわいない話しをしている時には忘れていますが、いつもどこかに隠し持っています。

『目的とともに未来がやって来る。未来とともに時間がやって来る。』社会の中で何の目的もなく生活することは難しいですね。

でも忘れずにいて欲しいのです。目的→未来→時間、この流れを覚えていると、日々自我の誘いに乗っていることに気づくことができます。

実際目的がなければ、時間には意味がなくなってしまいます。そして意味がなくなるだけでなく、時間は思考が作ったイメージだと見抜くことになるのです。

ただ心静かに坐していると、深い理解とともに時間はないと分かります。そしてあらゆる現象は無からやってくるということも分かるのです。

ところがあっという間に、自我の生活が戻ってきます。最近はそれでいいと思えるようになりました。

真理と自我の二重生活を今日も楽しむとしますか。

地下室に降りていく

いつもお伝えしているように、マインドには隠された部分、潜伏している部分があるのですが、それは思いのほか大きいのです。

全体の9割以上かもしれませんし、特徴はそのすべてが無意識状態、つまり自覚がまったくないということです。

なぜマインドにはそういった言わば広い地下室みたいな光が当たらない闇の部分があるのでしょうか?

それは本人が自覚したくないと思う自分、なかったことにしたい感情や記憶、そういったものを隠すために必要に迫られてこしらえた地下室みたいなものなのです。

その上の1階では理性的な自分がわずかばかりの自覚を持って暮らしているのですが、実は地下室に隠したものがあらゆる形で毎日の生活に影響を及ぼしているのです。

臭いものに蓋をしたいのは人情ですが、隠されたものはいつかは表舞台に出てきて本人を翻弄させることになります。絶対に逃げおおせません。

隠したい一心で目を背けていると、地下室のものに乗っ取られることはあっても、決して見守ることはできません。

勇気をもって地下室に降りて行き、どんな自分でも見てあげること。それができたときには、マインドはシンプルになって風通しがよくなるはずです。

そうなれば、人生そのものがシンプルなものへと変化してしまうでしょうね。

自由を享受するために生まれてきた

私たちが受けてきた教育の根っこにあるものは、この社会の仕組みの中で立派な社会人となって、そこで活躍できるような人物になるというもの。

どうやら社会の一員として恥ずかしくない人間にならなければいけないということを教え込まれるわけです。

ところが社会というのはそこに暮らす平均的なマインドの持ち主にとっては、順応できる場所なのかもしれませんが、そうではない人も大勢いるのです。

その筆頭に挙げられるのが、超敏感体質の人たちですね。私も含めて彼らにとって、社会生活はそうではない人には分かってもらえない苦しみがあるのです。

言ってみれば、程度の差はあるものの社会不適合なのです。社会が悪いのではないのですが、かと言って彼らが悪いわけでもありません。

けれども社会不適合は当然のことながら社会からははみ出してしまいます。私自身もそうした経験をしました。

20年以上会社員として働いていましたが、不適合を隠すことができずに病気になって脱落したのです。

この仕事を始めたばかりのころに、あるクライアントさんから「負け犬」と評されたこともありましたね。

あのころは会社を辞めて個人で仕事をしていることが嬉しくて、何と言われようと全く腹も立ちませんでした。

もしもあなたの中に、社会に適合しづらいという自覚があるなら、一旦社会の端っこで生きてもいいのだということを、自分に教えてみることです。

最低限の社会のルールは守るものの、社会の常識とか立派な社会人といったイメージから離れることです。

その上で、もう一度自分にできそうなことを見つける時間を与えてあげることですね。なんだっていいんです。あなたは本来自由を享受するために生まれてきたのですから。

信頼を見出す

自我は信じたり信じなかったりすることばかりで、信頼することができないのです。だから信じるものは救われるというのは、大きな間違いですね。

自我が救われることはないからです。自我が見えなくなっている時、そこには必ず救いがあります。その成分は信頼でできています。

きっと誰でも経験があると思うのですが、理由はないのだけれどなんだかきっと大丈夫だと感じるときがあるものです。

それは信頼が来ているのです。元々信頼にはどんな理由もありません。信じたり信じなかったりするのは思考ですが、信頼は無思考です。

思考のないところには理由もありません。信頼があると、深刻さは消えてしまいます。その二つは共存できないのですね。

信頼は防衛を小さくしてくれるし、その結果緊張も少なくなってリラックスがやってきてくれるのです。

だったら誰だって信頼が欲しいと願うかもしれませんが、信頼は欲望がない瞬間にしかやってきてはくれないのです。

実はあなたという実存は信頼そのものなのですが、自我とその思考に巻き込まれてそれが分からなくなっているだけなのです。

あなたの内奥のどこかに信頼があることを、少しの時間を使って見つける練習をしてみることです。それは必ずありますので。

本当に知るとは…

外側からやってきた情報をただ取り込んでしまうと、それは知識となるのですが、それは自分はそれを本当には知らないということを意味しています。

知識というのは知らないことをただ信じてしまったことを指すのです。ところがそのことに気づくことができなくなってしまうのです。

たとえばこの宇宙は無限に広いと言われて、それを知らないままに信じてしまうと、永遠にそれを知ることはできなくなってしまいます。

地球は丸いということを教えられて、そのままに信じてしまうと知識は増えるけれど、本当はそんなことを知らないということを忘れてしまうのです。

誰かに言われたことを信じてしまい、それをそのまま自分の中に入れ込んでしまうと、それを知らないまま生きることになるのです。

だからもしも本当に知りたいことであるなら、やってきた情報を決して自分の中に入れ込まずにおくことを覚える必要があります。

入れずに自分の周りに置いておくのです。そしてそれが自分にとってどうなのかを検証するのです。

その体験の結果のみを自分の中に入れることでそれを知るという状態になるのです。知ったことは知識ではなく、知恵となるのですね。

あなたが一番知っていると信じて疑わないことは、あなたの本当の姿です。あなたが知っていると信じているあなたとは、ただの知識に過ぎません。

あなたが本当は何者なのか、興味があるなら自分についてのあらゆる信じ込みを捨てて、それを検証するしかありません。

その結果あなたが何を知ることになったとしても、真実を知ることよりも大切なことはないと思いますね。

見守るか乗っ取られるか

クライアントさんとのセッションの時に、多くの人が陥っている間違いに気づくことがあります。

それは、自分の中の否定的な部分を肯定的なものへと変えればいいのだという勘違いです。

たとえば、すぐに自分のことを責めてしまうので、なにがあろうとも責めずにいられるようになりたい。

人を敵のように見てしまうので、それをやめて対立をなくしていきたい。人を見下すクセを直して、対等な関係性を築けるようになりたい。

嫉妬深い自分や人を罰する自分がいるので、寛容な自分になりたい等々。挙げ出したらきりがありません。

これらは全て間違いです。間違いというよりも、その願いは分かってあげられられるのですが、それではうまくいかないのです。

どうすればいいかというと、そういった否定的な自分のことを何とかしようとするのではなく、ただ観る訓練をするのです。

そんな自分が嫌なんだという代わりに、そんなマインドの部分があるということを冷静に認識することです。

そしてその部分に乗っ取られずにいられるようにすればいいのです。そのためには常にその部分を観続けること。

見守るか乗っ取られるか、2つに1つだということを忘れないことですね。見守ることこそが、唯一そこから脱出する方法なのです。

内側にある物語を観る

これから書くことは、あまりうまく説明ができない気がしているのですが、敢えて書いてみようと思います。

これはクライアントさんあるあるの話しなのですが、映画やテレビドラマやそれこそアニメなどでも良いのですが、そういったものを観ていて癒しが起こるということ。

ご本人としては、その物語のある部分が気になって、そのシーンばかりを何度も繰り返し観たりするのです。

そのくせそこがどう気に入ったのかが定かではなかったり、観た後に急に清々しい気持ちになったりするのです。

それはマインドが癒されたということなのだろうと思うのです。傷ついて闇に隠されていたものが、類似した他人の物語を観るうちに気づくということです。

自分自身の闇を直接見ることができないので、抵抗のない他人の物語を通して無意識のうちに闇に光が当たるということかなと。

そういうことは当然クライアントさんに限らず、一般的によくあることなのだろうと思います。

けれども、自分の闇に気づかせてくれるちょうどいい物語を運良く見つけられたとしても、次にまたすぐにそんな経験がやってきてくれる保証はありません。

当然効率が悪いのです。だからこそ癒しの作業が必要なのです。運を天に任す必要がなくなるからです。

具体的には、マインドの仕組みや働きを深く理解し、現在の自分のマインドを特徴づけた過去の環境(家庭環境や親子関係)という物語を観ること。

それによって、外側にある物語に気づかせてもらえるチャンスを待つことなく、癒しを進めていけるということですね。