不自由さの原因は自己防衛

もしもあなたが今自分は不自由だと感じているとしたら、それは周りの誰かのせいでもなければ、社会のせいでもありません。

自分を不自由にしているのは、勿論自分自身なのです。自分のマインドの中にいる自我こそが、自分を不自由にさせている張本人なのです。

まずはこのことに気づく必要があります。生きにくさを誰かのせいにしている限り、死ぬまでそれは続いてしまうでしょう。

より具体的に言えば、不自由さの原因は自己防衛にあります。自己防衛は自分にどんな犠牲を強いても、自分を安心させたいと望むのです。

だからそこにはあらゆる自己犠牲がついて回るのです。その一つが自由を犠牲にするのです。思ったことを自由に表現できない、感じたことを自由に感じられない。

やりたいことを自由にやれない。こうした不自由さを容認しておいて、なんとかして不安を安心に変えようとするのです。

加えて言えば、不自由な人は自由に生きている人を否定する傾向にあります。勿論嫉妬してしまうからです。怒りも感じるかもしれません。

自由を求めるのか、あるいは安心を求めるのか、両方を同時に求めることはできません。二者択一なのですが、自由を求めないなら人生は手厳しくあなたを打つでしょうね。

そして求めて手に入れた安心は一瞬にしてまた不安へと戻ってしまうのです。不自由な人は、勇気を持って選択し直すことですね。

正しさは不要

人はこうするべきとか、こうあるべきという正しさを多く持てば持つほど、神経症的になってしまいます。

しかもその考え方生き方というのは、知らず知らずのうちに親などの周囲から与えられてしまうので、気づいたときには身についてしまっているのです。

それは躾のような形で仕込まれることもあるだろうし、ただ一緒に暮らしているということだけでエネルギーとして伝搬してしまうこともあるのです。

だから子供はそれを避けることは事実上不可能なことなのです。物心ついたときには、その正しさの上に毎日の生活が出来上がってしまうわけです。

神経症的な人生になってしまう理由は簡単で、生身の人間というのはそんな作り上げた正しさの中に収まるはずがないのに、無理矢理自分を強いてその中で生きようとするからです。

当然の結果として、自己犠牲を繰り返すことになるのです。そしてそんなルールはお構いなしとばかりに自由に生きている人のことを嫌うようになるのです。

嫉妬するだけならいいですが、怒りと共に憎むようになることもあるかもしれません。ところが親からもらってしまった正しさを簡単には手放すことができないのも事実。

なぜなら正しさは自己防衛の本丸として使われてしまうからです。正しくあれば、否定されないし嫌われないし、価値ある自分でいられると錯覚するからです。

あなたの中にある正しさを一度じっくり眺めてみることをお勧めします。どんな正しさ、どんなルールであれ例外無く不要であることを見抜けた時、生はあなたに優しく接してくれるようになるはずです。

紹介制度の中身を変えます

今年から紹介制度を開始するということは、このブログでもお伝えしたのですが、その後何名かの方々から友人知人などを紹介していただきました。ありがとうございます!

その中のお一人から、制度の中身を改善した方がいいのではないかというご指摘をいただきました。素直にその方の案の方がいいなと思ったので、次のように改訂しようと思います。

紹介制度の変更は2月11日より有効となります。

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紹介者と紹介された方の双方に以下のような特典をご用意しました。

セッション費用9,000円を5,000円にさせていただきます。一度のセッションに限ります。

条件:

・紹介者は、セッションを一回以上受けたことがあるルシッドのクライアントさんであること。

・紹介者の特典有効期間は、紹介された方(被紹介者)の一回目のセッション実施から一ヶ月以内を目安とします。

・被紹介者は、ルシッドのセッションを受けたことがない方。

・被紹介者の特典は、一回目のセッション時とします。

・本特典制度は何度でも使っていただけます。

自分自身を覚えておく

私たち人間が他のどの動物とも違うのは、ほんの少しだけ意識が目覚めていることです。そしてそれと同時に自我が作られたこと。

個人的にはきっと自我が作られたことがきっかけで、意識のごく一部が目覚めることができたのではないかと思っています。

そういう意味では自我というのは奇跡的な現象だと言えますね。自我が個人としての一人称を生み出したおかげで、意識という本質的な一人称を目覚めさせたのです。

ちょっと前置きが長くなりましたが、人間と他の動物との違いは歴然としていますが、それはほんの少しの意識の目覚めのなせる技なのです。

私も含めて多くの人が未だに外側にばかり意識を向けて生きているのです。だからこそマインドのほとんどはまだ無意識状態のままなのです。

現代人の役目があるとするなら、動物と同じ無意識の部分をそのまま保つのではなく、できるだけそこに光を当てるようにすること。

つまり常に自分自身を覚えておくようにすることです。そうして自分自身の中心が据わるようにするのです。

その結果、ほとんど動物に近い状態にいる私たちは、一瞬にして真の自己への気づきを得ることになるのだと思うのです。

孤独を味方にする

人間は独りであるということ。正確に言うと、自我は独りであるということ。人間以外の動物には自我がないので、独りではありません。

勿論動物であっても寂しい感覚というのはあるのですが、自我が持っているような孤独感はありません。

自我はどこまで行っても孤独なのです。個人だからですね。このことを嫌がらずに深く見つめて認めること。

ひとたびあなたが独りで生きることの覚悟を持ったなら、そのときには何かが変わることになるはずです。

所詮は独りなので、必要なのは覚悟と受容だけ。もしもあなたがどんな理由もなく、自分の単純な存在を楽しむ方法を会得したら、人生は変わるでしょうね。

孤独を味方につけることができたなら、他のあらゆる依存がすべて落ちていくはずです。

依存のない人生を生きる気持ちよさは、一度味わったら二度と手放すことはできなくなってしまうはずです。

自我の解体は最大の恐怖

12〜13歳の頃から人間には潜在意識というものがあって、自分では自覚できない内面の領域があると知って、すごく興味深く感じたのを覚えています。

潜在意識という言葉の響きも何となく魅力的だったし、とにかく自分は自分のことを全部分かっていると思い込んでいたので、潜在意識の存在はショックでもありました。

今になって思うに、潜在意識という言葉は正確ではなくて、要するに自覚できずにいる潜伏しているマインドの部分ということですね。

意識という言葉の意味を正確に掴んでいない誰かさんが、そんな名前をつけてしまったのだと思うのですが、意識ではなくてあくまでもマインドのことです。

結局この潜伏しているマインドの部分と自覚できているマインドの部分とがあって、それぞれが互いのことを知らずに勝手なことを考えているのです。

この分離こそが人間を不幸にさせているし、その一方でそれがあるからこそ自我は生きながらえているのです。

自我はこの部分を見られたら解体してしまうという場所を密かに日の当たらない地下室に隠しているのです。

そしてそこを見ようとすると、最大の恐怖を感じるようにマインドの仕組みを作ったのです。

だからもしもあなたがその恐怖にめげずに、マインドの全部に光を当てて見てしまえば、自我は消えて即座に覚醒することになるのです。

今地球上にいる人の誰もがその恐怖に負けて何千回何万回と生まれ変わってきたのですね。自我の防衛は凄まじいものがありますね。

今回も負けちゃうのかな。

一番不要なのは自我

これを書いている日のお昼前の出来事です。いつものようにスポーツクラブから事務所に向かうクルマの中で、なんの理由もないのに急に満たされた気持ちになったのです。

筋トレをしてサウナで汗を流して、それなりに気持ちいい状態で運転しているのですが、それは毎日のことなのでそれが原因ではないと思うのです。

ただいつもは前後にクルマがいるのに、その時だけなぜかどこにもクルマが見えない状態になったのを覚えています。

で周りが静かになった感じがして、これ以外にどんなものを期待できるだろうという気持ちになって、ああ満たされていると分かったのです。

あの感覚は以前にも何度か経験したことがあるのですが、ふいに自我が活動を停止している状態になるのかもしれないですね。

そうなると、すべてが満たされていて自分は何もする必要がなくて、ただそのままに在るだけでOKというのが分かるのです。

あの感覚は、いつも混んでいる交差点に差し掛かったときに終わってしまったので、きっと数十秒程度の短い間のことだったのだと。

これが自分だと思い込んでいる自我が何かの拍子にその働きを停止してしまうと、きっと誰もが似たような感覚になるのだろうと思うのです。

この世界で一番不要なのはこの私(自我)なんですね。残念ですが、もう疑いようのない事実です。

鏡のような眼

鬼束ちひろさんの月光という昔のヒット曲があるのですが、メロディが大好きなだけじゃなくて、出だしの歌詞も気になりますね。

『I am GOD’S CHILD(私は神の子)
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろというの?)
こんなもののために生まれたんじゃない』

自分は神の子なんだけど、こんな酷いところに産み落とされて、一体どうしろって言うの?冗談じゃない。的なことを訴えているようで。

人生が上手くいかなかったり、不自由で仕方なかったり、苦しみばかりがやってくるようなら、確かに神を恨みたくもなりますね。

私たちは嫌なことがあると、自分を恨むか他人を恨むかのどちらかになるのです。上の歌詞はどちらかというと、後者の方かもしれませんね。

けれども、人生がトラブル続きだったり、不自由で生きづらかったり、苦痛に喘ぐとしたら、それはどちらのせいでもありません。

それは自我のせいなのです。自我と自己を同一化したことによるのです。世界が腐敗したように見えるのは、自我の眼によるもの。

もしも自我の眼の代わりに、鏡のように目の前に来たものをただそのままに写す眼を持っていたなら、この世界に良いも悪いもないと気づくことになるでしょうね。

ただあるがままのあなた

私たちはいつも理想を追い求めているものですね。理想という言葉を使わずとも、本来あるべき姿のようなものを何に対しても無意識に持っているのです。

たとえば、理想の夫婦とはこうあるべき、理想の親とはこうあるべき、理想の人間とはこうあるべき等々。

嘘をつかない、人に優しい、寛大な心、勇気ある行動、愛に溢れた人、何となく無造作に挙げてみたのですが、こんな人が理想の人物像の一つかもしれません。

その反対に、理想からかけ離れた場合だってあるのですが、もしかしてこちらの方が挙げ出したらキリがないかもしれません。

で、最近よく考えることなのですが、理想的とかあるべき姿とかというのはただ自分や社会にとって都合がいいということではないかと。

自然の中にはあるべき姿もそうでないものもないなと思うのです。人間だけがそうした分離を生み出す張本人なのです。

何かと生きづらい人というのは確かにいて、でもそれは単にこの社会に適合していないというだけで、あるべき姿ではないとは言えないのではないかと。

社会の多数派とか社会における正しさを物差しにしてあらゆるものを裁くのをやめたなら、あるべき姿なんてものは最初からなかったと気づくはずなのです。

今あなたがただあなたのままで在ること、それ以外にはどんな価値も正しさもないと気づくなら、すべての問題は消えていくことでしょうね。

ブログタイトルの意味

このブログの題名である「癒しから覚醒へ」には、どんな意味があるのか?それを今一度確認しておきたいと思います。

私自身が自分で経験した実体験から言えば、マインドを癒していくことはこの複雑な社会で生きている人々にとっては必要不可欠だと思うのです。

誰もが大なり小なり心を病んでしまった状態で生きているからです。私たちがこれが自分だと思い込んでいる自我というのは、社会によって作られたのです。

だからどんな社会かによって、人々が病む平均値のようなものが変化するのです。仏陀が生きていたころは、きっともっともっと社会は単純だったはず。

だから誰もがちょっとの努力によって、深い瞑想に入っていくことができたのです。ところが現代人はそうはいきません。

社会の中で防衛しながら生きていくためには、必死で思考を働かせていなくてはならないのです。だから瞑想が苦手になってしまったわけです。

つまりは各々が充分に瞑想の中に入っていけるレベルになるまで、癒しの作業を継続して進めていく必要があるのです。

けれどもそれだけでは、満たされることもないと知ったのです。癒しというのはマインドを癒すことであって、マインドから解放されるわけではないからです。

マインドを相手にする癒しをどれほど進めて行ったところで、マインドはマインドのまま君臨するのです。

どこかでマインドを観る側になって、マインドとの距離を作り出す訓練が必要になるということ。それが覚醒への道なのです。

私たちはマインド(自我)から離れて、自分の本質に気づくことでしか、つまり覚醒することでしか真理を知ることはできないのです。

あなたがあなた自身に気づいたとき、死ぬことからも生まれることからも解放されることになるのでしょうね。