不変のものを探す

この世界の特徴的なところを一つ挙げるなら、それはすべてが一過性のもので出来ているということです。

すべてが変化するということでは共通なのです。変化の力の及ばないところは無いかのように見えます。

仮想的なものは勿論例外です。実在するものについては、100%変化の中にあるのです。

誰もがお金を欲しがりますね。なぜかというと、お金はどんな欲しいものとも交換することができる、とても便利なものだからです。

けれども、お金には他のものと違う決定的な特徴があり、そのことでお金は比類ない価値を持つことができたのです。

それが何かというと、お金だけはその価値が崩壊していかないということ。実在するモノは、変化するのでその価値も崩壊していくのです。

無理して買ったクルマも、5年も経てばその価値はゼロになってしまいます。父親が死んだときに、彼のクルマを売却しようとしたらできませんでした。

価値がゼロになっていたので、売却ではなく廃車処理しなければならない状態だったということです。

購入して何年も経っていたからです。それから名義変更して3年以上経ちますが、まだ立派に走ってくれるのでオーナーからしたら価値ゼロにはなっていないのです。

けれども公的な価値は買った瞬間からどんどん下がって行ってしまうのです。食べ物なら腐るので、すぐに価値はゼロになります。

そんな具合に、実在するものの価値というのは所持しているうちにドンドン下がっていくのですが、お金はどうでしょう?

お金の価値は不変なのです。1万円札は、何年経っても1万円の価値を保証されているのです。だから貯金することに意味が出てくるのです。

これがお金の持つ特別な価値なのです。お金は仮想的なものだからこそ、価値を保つことができるのですね。

話しがそれてしまいましたが、この世界に仮想的なもの以外でもう一つだけ実在する不変のものがあります。それは何でしょう?

それを探すことです。あなたの本質はそれで出来ているのですから!!

すべてあるがままで良い

20年近くの間、様々な方々の人生を深く見させていただいて、総合的に感じているのは、「すべてあるがままで良いと知ること」これが大切なのです。

あるがままで良いというのは、一言で言えば自然ということなのです。逆に言えば、こうあるべき、ねばならない、こういう信念を持つことこそが不自然だと理解することです。

この地球上で人間だけが不自然な存在になってしまっているのです。その原因は人間だけが自我を持ってしまったからです。

自我だけが、不自然の権化ということ。何かがうまく行ってないと感じている人、苦悩している人は間違いなく不自然な考え方で生きています。

たとえば、「働かざる者食うべからず」という不自然極まりない考え方を幼い頃から植え付けられたら、のんびりすることが悪のように感じるでしょう。

子供の頃に、何もすることがなくゴロゴロしているときに、それを否定されてしまったら、人間とは何かしら役に立つ存在でなければならないと思うでしょう。

私たちの内面であるマインドは、それこそ世界中にある善悪の元のすべてが盛り込まれています。

あの人は悪人でこの人は善人だと思えるのは、一過性のものに過ぎません。どんな自分であれ、あるがままで良いという理解に到達することですね。

過去と類似した人生がやってくる

生まれながらに感覚が繊細だったり、物事の道理が分かっている子供っているのです。まるで大人のように周りを見ている子。

そういう子に限って大抵は病んだ親に育てられることが多いのです。そうなると、その子は親の見えすいた考えや愚かしい言動に気付いてしまいます。

3〜4歳くらいまでは、何か違和感を感じたとしてもそれを表現できないので、ただ大泣きしてしまったり、怒ったりするのみです。

ところがもう少し成長すると、急にそうした親への対処法を体得してしまうのです。それはたとえば親のことを見下すようになったり、自分の感情を抑圧して冷静に親に対処するのです。

親は自分の子供に見下されていることをどこかで感じ取り、嫉妬し、負けまいとして子供を監視したりしてコントローラーになってしまいます。

その子がどれほど賢くても、物理的に親に勝てるはずもなく、病んだ親の配下で不自由きわまりない毎日を生きることになるのです。

その頃に抑圧したネガティブな感情の蓄積が、大人になったときの人生に多大な影響を与えてしまうのです。

その親の代わりになるような他人が周囲にやってきて、まるで過去の親子の関係と同じような状況が生まれるのです。

誰かを見下すと同時に、その誰かから親にされたと同じ激しい嫉妬をされて、面倒な事象に巻き込まれたりします。

もしもあなたの人生に、とにかく面倒なことが多いと感じるなら、その多くは幼いころにあなたが感じていた面倒な人生に類似しているはずです。

解決の道は過去の自分を癒してあげること。これに尽きるのです。過去のことなど煩わしいと思わずに、しっかり向き合ってあげることですね。

惨めという思考を理解する

あなたは自分の惨めさとどう付き合っていますか?いやいや自分は惨めなんかじゃないと思っているなら、それは相当おめでたい。

惨めさを持っていない人などいないのです。なぜなら、人は期待値というものを持って生活しているからです。

惨めさというのは、期待値に対して現実が低いときに、その落差によって作り出されるものだからです。

落差が大きければ大きいほど、惨めさも大きくなるのです。私はこのことをセラピストになってから理解しました。

そしてセラピーというのは、幼い頃から隠してきた自分の惨めさに気づくことだということも分かったのです。

人生というのは、その惨めな自分を隠して、自分は惨めなんかじゃないということを証明しようとする努力の連続に過ぎません。

意識が内側に向かわずに外へ外へと向いてしまうのも、これが理由なのです。期待値に対して起きた現実がその期待を裏切ったという事実と、だから自分は惨めだという思いとは違うものです。

つまり惨めさというのは思考によってでっち上げられた架空のもの。けれども、それによって悲しみが作られてしまうのは事実です。

親に関心を持ってもらいたいという期待値に対して、現実はそうではなかったなら、子供はひどく惨めだと思うわけです。その惨めさがあたかも事実であると錯覚するのです。

あらゆる惨めさはすべて思い込みだという深い理解に至れば、惨めさから逃げる必要もなくなり、惨めじゃないという証明も不要になるのです。

その時初めて、ありのままの自分を丸ごと受け止めることができるようになるのだと思いますね。

否定せずに肯定する技術

昨年暮れのM1グランプリに初出場で決勝に進出した、「ぺこぱ」の漫才がとても秀逸で一人で大笑いしていました。

惜しくも優勝は逃したのですが、個人的には彼らに優勝させてあげたかった。彼らの新しいボケのカタチ、「のり突っ込まない」というボケが素晴らしい。

相方にどんなことを突っ込まれたところで、それを100%の肯定で受け止めるというほとんど天才的な返しなのです。

たとえば、相方の動作が少しスベってしまったときに、「いやスベったみたいな空気になってるけど、空気がなければ俺たちは生きていけない!」みたいな感じ。

タクシーを待っていて、タクシー役の相方に身体ごとぶつけられて、「イテ〜な、どこ見て運転してんだよって言えてる時点で無事でよかった!」とか。

「もう誰かのせいにするのはやめよう!」的なことも言っていました。お笑いなのに、的を射ていて素晴らしいのです。

一般的には、相手の不備を指摘してそれを否定することで場を盛り上げるのですが、否定する代わりにとにかく肯定に持ち込むのです。

自我というのは、残念ながら肯定するよりも否定することに興味があるのです。それは、ゴシップニュースなどを見ていれば分かります。

誰かが結婚したといっためでたいことよりも、不倫したとか不正を犯したといったニュースの方が長持ちするのですから。

他人の幸せよりも不幸話しの方が都合がいいのです。それが防衛から来ているのは明らかです。

もしも私たちがとにかく否定をする代わりに肯定するなら、そしてそれをお笑いに持っていけるなら、世界から争い事が消えていくような気がしますね。

マインドの闇に光を当てる

人間は生まれながらの素の自分のままで生きられたら、それが一番居心地がいいのであって、そこから遠のけばそれだけ生きづらくなってしまいます。

たとえば親が強烈なコントローラーであり、いたいけな子供が恐怖のあまりにその親に盲目的に従ってしまえば、その子の未来はどうなるのか?

親にとって都合のいい自分になろうと頑張ることによって、子供はオリジナルの自分から遠ざかることになるのです。

その方法は至ってシンプル。親にとって都合の悪い自分、たとえば怒る自分とか、言いたいことを言う自分、反抗的な自分、そういったマインドの部分を抑圧してしまうのです。

そうやって残ったマインドの部分によって、親が満足しそうな自分を作ることになるのです。素の自分とは程遠い自分となるわけです。

ところが、どれだけ努力したところで親が満足することはありません。その上、抑圧されたマインドの部分は、あらゆる手段を使って人生を邪魔してきます。

もしもあなたが自分の人生はうまくいかないと感じているなら、気づかずに抑圧してきてしまったマインドの部分があると見た方がいいのです。

そしてどんな手段を使ってでも、その抑圧を解放してあげる必要があります。癒しを進めることによって、人は少しずつ抑圧を減らしていくことができます。

抑圧されてきた部分が顔を出すたびに、そんな自分がいたのかとびっくりするかもしれませんが、その時は喜ぶべきでしょうね。

抑圧された闇の部分のすべてに光が当たる時、人は闇から解放されてその光によって自我も溶けていくのです。

生に身を委ねる

最近 YouTube で可愛いペットちゃんたちの動画を観ることがあります。ペットといっても主にワンチャンとネコちゃんですが。

先日観た動画が印象的だったのですが、それは保健所から貰われてきた生後一ヶ月くらいの子犬が、恐怖に怯えてケージから出てこないのです。

丸い小さな身体で、身を縮めて震えていて、餌をやっても見向きもしない。一体これまでどんな目に遭ったのだろうと思って、心が痛い。

動画の投稿者は、とても辛抱強く毎日毎日少しずつ距離を縮めていって、ようやく餌を食べるようになるのです。

人間が近くにいると怖がって食べないので、餌を置いて遠くから見るというのを繰り返すのです。

そんなことをずっとやり続けて、ケージから出てくることができたときの喜びは想像に難くありません。

途中を端折りますが、結局最後にはその子犬が飼い主さんに心を開くようになって、朝になるとベッドの上に乗っかってきて顔を舐めて起こす姿がありました。

その姿を見て、それって人間と同じなんじゃないかって思ったのです。私たち人間もずっと長い間、生に対して心を開くことなく警戒しながら過ごしているのです。

それはもう、無数の生に渡って長いこと続けてきたのです。もしもあの子犬のように心を開いて、生に身を委ねることができたならどれほど豊かな毎日になるのか。

生を信頼してひっくり返ってお腹を撫でててもらうことができたら、きっともう二度と生まれ変わってくる必要もなくなってしまうのでしょうね。

信用の共有に気づく

あの人は信頼できる、という表現は厳密には間違っているのです。それはなぜかというと、あの人は信頼に足る人物だという意味合いが含まれているからです。

つまり、あの人のこれまでの言動を見てきた結果として信頼できると結論付けたということ。これは信頼ではなく、信用できるということを言っているに過ぎません。

信用するのは、何らかのそれなりの理由があってのこと。だからその人がもはや信用できないような言動をしたなら、即刻信用できないことになるのです。

これは信頼とは全く異なるものなのだということは、これまで何度となくこのブログでお伝えしてきました。信頼にはどんな理由も不要なのです。

ところで今日お伝えしたいメインテーマは、信頼と信用は違うということだけではありません。

私たちが生きているこの社会のシステムというのは、実は「信用」が根っこにあるということです。その信用をみんなで共有することで成り立っているのです。

そのことに気づかなければ、信用と事実を間違えてしまうことになります。そもそも経済の大元を担っているお金には価値があるというのも信用の共有なのです。

信用することをやめてしまえば、紙幣はただの紙切れだし、硬貨もそれに見合う価値などありません。

ですがみんなで貨幣の価値を信じ合うことで、貨幣経済が成立して便利な社会が出来上がったのです。

自我が作られていくときに、こうした信用の共有をたたきこまれたわけです。それが身近過ぎて、事実として理解しているのですね。

所有という概念も信用の共有によって成り立っています。あなたが長年の夢だったマイホームを買ったとしたら、それは自分の所有物だと思うはずです。

けれども、それは事実ではありません。この家は私のものだというとき、この家は他の誰のものでもないということを同時に主張しているのです。

だからそれも含めてすべての人がその信用を共有して初めて、所有が担保されるのです。所有というのは決して事実ではないということです。

もしもこの世界にあなた一人しか存在しなかったなら、あなたがその家を所有していると主張しても、そこには何の意味もないはずです。

あなたが日本人だというのだって、事実ではありません。なぜなら国籍というもの自体が信用の共有によるものだからです。

この世界に一人しかいないとしたときに、意味が失せてしまうものはすべて互いの信用の共有によるものであり、事実なんかじゃないと気づくこと。

なんでこんなことを言うのかというと、信用の共有が自我をしっかりと下支えしていることに気づくと、それだけで自我は足元が揺らぎ始めます。

自我の足場である信用の共有に気づくなら、自我と自我が作った社会の脆さが露呈してきます。

この時に、社会の中にいて社会に染まらない生き方ができるようになるのです。社会にすがるのも自我だし、社会を忌み嫌って離れようとするのも自我なのです。

今日から、ただ信用し合っているだけだったと気づきながら生きてみて下さい。自我の繁栄のカラクリが分かって、きっと生きやすくなるはずです。

思考停止が瞑想ではない

瞑想とは、ただ思考を止めることだと思っている人がいますが、実はそうではありません。

思考が停止していても無意識の状態では瞑想とは言えません。瞑想とは、意識が覚醒している状態のことだからです。

自分の本質が意識であること、ただ観るものであるということを思い出せたら、その瞬間あらゆる緊張が取れていくはず。

自分はこの身体ではないということの解放感、自分は心(自我)でもないということの無類の平穏。

私たちが苦しむのを誰かのせいにしたり、社会のせいにするのはお門違いです。苦悩の唯一の原因は身体やマインドとの自己同化にあるからです。

じゃあ何で癒しを目的としたセラピーなんかやってんの?という声が聞こえてきそうです。確かに…。

それは例えて言えば、急がば回れなのです。自分に意識を向け続けて下さいと言ったところで、それを実践し続けられる人がどれほどいるかってことです。

あまりにも長い間、マインドがこんがらがってしまっている時、強く自我に巻き込まれてしまっている状態では、その立ち位置から始める必要があるのです。

意識的でい続けるためには、自我のパワーをある程度は鎮めておく必要があるということです。でなければ、瞑想もやる気が起きないはずなのです。

意識的であろうとすることと癒しの両方に効果的なのは、自分の内側にはどんな自分がいるのか、都合が良くても悪くてもそれを見てあげる習慣をつけること。

マインドのあらゆる部分を見てあげることができたなら、自動的に癒しは進むし気がつけば意識的になっているでしょうね。

意識的であり続けると…

ようやくお正月が終わろうとしています。イベント事が苦手な私としては、なるべく早めに変わったことのない普段の生活に戻りたいのです。

で、遅ればせながらですが、今年の抱負としてはこれまでよりももっと強烈に「意識的である」ことに焦点を絞って生活していきたいと思っています。

意識的であり続けることが、このブログでお伝えしたいことの全てと言っても過言ではないくらい、最も重要なことなのです。

それがなぜなのかをもう一度復習しておきたいと思います。意識的であるということの意味は、明確な自覚がある状態のことです。

意識的でないとき、私たちは無意識状態になっているのです。寝ている間にみる夢は無意識状態だというのは理解できると思います。

夢の中の自分は、いつだって無自覚だからです。ところが、無自覚なのは夢の中だけではなくて、目覚めている普段の生活でも概ねそうなのです。

目の前の人と話しをしているとき、そのことを自覚しているかというと非常にあやふやなのです。食事しているとき、食事していることに意識を向け続けているか、よくよく思い返してみれば分かると思います。

私たちはすぐに無意識状態へと移ろってしまうのです。ではなぜ無意識が問題なのかというと、その瞬間一番力を持っているマインドの部分に乗っ取られてしまうからです。

たとえばあなたが激怒するとしたら、それは完全に無意識のうちに起きるのです。意識的に激怒することは不可能だからです。

つまり激怒するというのは、怒りを持っているマインドの部分に乗っ取られてしまっている状態なのです。

その時充分に意識的であったなら、怒りはあっても激怒はできないのです。意識的であるなら、どんなマインドの部分にも乗っ取られずに済むということ。

そして意識的であることだけが、本当の意味で私たちを変えてくれるのです。努力の力で変わるのはほんの表層の部分だけだと知ることです。

意識(見ること)は直接的にはどんな手立てもしてくれませんが、いずれは変えようとする意志の力など全く届かない未知の力によって変わっていくことができるのです。

また意識的であるとき、思考は自然と不活性の状態へと推移していきます。思考を止めようとするのではなく、意識的でありさえすればいずれは思考は緩んでくるのです。

そして最終的には、意識的であることがずっと続くようになったとき、自我は根負けしてあなたの本性にその場を譲ることになるのですね。