あらゆる物事はやってくる

この仕事をする以前から、ずっと女性の方が男性よりも優れているということに気づいていました。それは、男性性が攻撃型であるのに比べて、女性性は受容型だからです。

人間だけでなくあらゆる存在の本質は、受け身、つまり受容性なのです。だから女性の方が真実に近いということですね。いつも受け身でいなさいということを言いたいのではありません。

そのような「べき論」ではなく、ただ本質としてあらゆる物事はやってくるということに気づけばいいのです。自動的にやってくるものの中に、自分たちも含まれるのです。

ただエゴは、そうは思いたくないらしいのです。そのことを頑なに否定して、忘れようとしているのかもしれません。けれども、残念ながら私たちの本質に主体性というものはありません。

だってすべては向こうからやって来るだけなのですから。これに反することはすべて自然ではなくなってしまうのです。エゴは自然と対立し続けていたいのでしょうね。

物事の本質は、因果関係の中にはないのです。原因があって結果がやってくると思考することはできますが、本当はすべてが結果なのです。気持ち悪いかもしれませんが、原因というものはないということ。

ただただ結果がずっと起き続けているのです。あなたの意思も決意も感情も、すべてはただ起きていることの中の一つに過ぎません。

すべてを受容するとき、きっと自分は全体性の一部だということを思い出すことになるのでしょうね。

誰でもない自分に気づく

ときとして静かに坐ることがあったら
目を閉じて感じてごらん
自分が誰であり、どこにいるのかを–
深く進んでごらん
すると不安になるかもしれない
なぜなら、深く進めば進むほど
あなたは自分が誰でもなく
ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ

by osho

その不安は最初のうちだけで、何度も繰り返しているうちには不安よりも至福感の方が馴染んでくるかもしれません。そうなってくると、日頃自分は誰かだと信じて生きていることが滑稽に感じられるのです。

誰かのフリをして、平然とした顔で毎日暮らしているのですから。自分自身が誰かではなくなって、誰でもないただの存在だと気づくと、自分以外の誰かもいないと分かります。

つまり誰もいないのです。誰もいないのですが、全くもって満ち満ちているのです。誰でもない、何でもない、ただ実在が満ちている。平和な世界でも、ユートピアでもありません。

もちろん地獄などでもないし、すべてがただ在るということ。時々でいいので、少しの時間を利用して、こうしたことに意識を向けてみることです。普段は忘れてしまうかもしれませんが、それでも大丈夫。

私たちは修行僧ではないので、人生という物語がメインに据えられている感じは否めませんが、誰でもないに気づいているとき、超一流の修行僧であると言えます。

 

 

準備して待つこと

何であれ物事を深く見ることのできる人は、自分が何かを成し遂げたという感覚を持っていないものです。なぜなら、意思の力で成し遂げられるものなど、一つもないからです。

私たちが生まれてから死ぬまでずっと呼吸し続けているのは、決して意思の力ではないのです。どれほど努力しようと、自分の力で眠りに入ることも不可能なこと。

自分の力、意思の力ではどんなこともなし得ないということです。どれほど頑張ったところで、希望が叶う保証などできないことを見れば、結果は単にやってくるものだと悟るのです。

幼い頃に、一生懸命頑張って鉄棒の逆上がりを練習したとしても、それができるようになるかどうかは分からないのです。けれども、練習した結果、できるようになったと私たちはみなすのです。

もちろん、練習しなければいつまでたっても逆上がりはできないままであることも明白ですが、だからといって練習した結果としてできるようになるのではないということ。そんな保証はどこにもありません。

ここは深く理解する必要があるのですが、私たちにできることは練習すること、努力すること、そして結果がでるのを待つことなのです。努力と結果には実は因果関係はないのです。

ではなぜ努力するのかというと、結果がやってくる準備をしなければ、結果がやって来ない可能性が高くなるからです。もしくはやってきたとしても、そのことを取り逃がしてしまうのです。

このことを深く理解することができれば、自分にはどんな手柄を立てることもできないことがはっきりするのです。あとは、準備にのみ勤しめばいいのです。そして待つこと。

この「準備&待つ」こそが私たちにできる唯一のことだし、それに気づけば自然と期待も小さくなっていくのです。

 

マインドは裁き、ハートは共感する

人間は生まれて間もなく、五感を成長させるためにハートを成長させていくのです。ハートを使って私たちは感じることができるようになるからですね。

その後、エゴの芽生えと共に今度はマインドを成長させて行き、社会の一員として生きていくようになるのです。

エゴとはマインドの中で生きているものと思ってもいいくらいです。だから、エゴが強くなり過ぎてしまうと、ハートに比べてマインドばかりが使われるようになって、バランスが崩れてしまうのです。

ハートが無防備なのに対して、マインドは防衛から成り立っているのです。ハートが瞬間瞬間の感性であるのに比べて、マインドは論理や正しさを武器として成り立っているのです。

だからマインド優位の人は、ルールや倫理、こういった決め事を最も大切なこととして生きていくことになるのです。だからすぐに人としてどうなの?という目で他人を裁くことになるのです。

マインドは裁き、ハートは共感するのです。両者のバランスが崩れると、人は殺伐とした人生を生きる羽目になってしまいます。

先日、ある宗教を題材にした映画を観たのですが、主人公の看護師さんとその恋人とその家族がある宗教の信者という設定で、輸血はご法度という宗教の教えがあって、そこで心が揺れるのです。

その恋人が白血病で輸血しなければ命がないと分かっていても、恋人もその家族も輸血を拒否するのですが、そんな宗教に愛想を尽かして、彼女はその一家から離れていくのです。

彼女自身も輸血が必要なある患者さんに対して、唯一適合する血液型だったため、迷った挙句に自分の血を輸血する決意をするのです。もしも彼女がマインド優位で生きるなら、輸血はできなかったはず。

何か大きな決断を迫られた時に、マインドの縛りから離れて、臨機応変にハートの声に従うことができれば、バランスのとれた人生へと舵を切ることもできるということですね。

物事の正しさに依存せずにいられるなら、閉じていたハートが次第に開いて行き、マインドの代わりにハートを優先して生きることができるはずです。そのときには、より清々しい人生が迎えてくれるはずですね。

誰でもない自分に戻る

私たちは、普段自分のことを記憶の塊とは思っていません。自分とは一人の人間、一人の人格を持った人物だと思っているのです。ではそれが本当なのかどうか、よく見てみることです。

どうすればいいかというと、今この瞬間に生まれたかのように自分を見るのです。人生をどのように生きてきたのかということを抜きにして。なぜなら、過去の事象はすべて記憶データとしてしまわれているに過ぎないからです。

自分が記憶の塊ではないなら、それ以外の一体なんだろうと見るのです。だから、今発生した感じになればいいのです。そうすると、自分のことをどのように感じるでしょうか?

残念な気持ちになるのか、爽快な気分になるのかは分かりませんが、いずれにしても自分は誰でもないということを理解することになるはずです。記憶へのアクセスを止めてしまえば、そこに人物などいないと分かります。

人物とは歴史なのです。人物とは何を手に入れたのか、何を成し遂げたのか、自分の身に何が起きてきたのか、そういうあらゆる過去の歴史の集大成が自分を形作っているのです。

それらが自分自身ではないことは、誰だって知っていることですね。あるいは、自分はそうした体験、あらゆる経験をしてきた存在なのだというなら、それも過去データに過ぎません。

あらゆる体験は過去の中にのみあるからです。どうですか?何か清々する感じがしませんか?今生まれたばかりなら、どんなしがらみもないのですから。誰を恨むこともできないし、何に執着することも不可能です。

過去データと切り離されると、その瞬間に未来からも切り離されることに気づくはずです。未来に関する思考は、すべてが過去データを基にしているからです。

欲望がすべての苦悩を作り出すことが分かったからといって、欲望を捨てようとしないことです。欲望を捨てようとすること自体が新しい欲望だし、欲望を意志力で捨てることは不可能です。

欲望(=未来)は、自分が過去データから切り離されれば、自然と落ちるということです。今生まれたばかりの誰でもない自分なら、どんな欲望も持ち得ないということですね。

何かと忙しい毎日でしょうけれど、1日のうちに何度となくこの感覚に戻ってくる練習をしてみて下さい。少しずつですが、誰でもなさが自分の中で定着してくると思います。

選り好みがすべてを分離させる

誰にとってもとても難しいことの一つは、選り好みをしないということです。選り好みをして何が悪い?と思うかもしれませんが、いい悪いの問題ではなく、それが分裂を生むということです。

あれはいいけど、これはいやと思えば、もうそこで分離が起こるのですから。けれども、自分の毎日の生活を振り返ってみれば、選り好みをしないということがほとんど不可能だと分かります。

私たちが共通して持っている不安や孤独感は、自分と世界の分離感からやってくるのですから、このことがいかに重要なことか理解できるはずですね。でも選り好みはやめられない。

それをやめてしまったら、自分の個性そのものが消えてしまうと感じるかもしれませんね。確かに、それが「私」というエゴの個性を存続させているという事実もあるのでしょう。

個性がなくなってしまえば、「私」そのものも消えていく運命にあるのですから、それこそ必死になって選り好みをし続けようとするのも頷けるというものです。選り好みはエゴの生き残るための作戦なのです。

それなら、今日からはなるべく選り好みをしないようにしてみよう、そう思うならそれこそが新しい選り好みをしているのです。つまり、選り好みをしないという選択をしたということ。

いつも言っているように、本当に大切なことを意思の力で達成することはできないということを思い出して下さいね。意志力で選り好みをしないようにすることは不可能です。

じゃあどうしたらいいかといえば、これも毎度お馴染みのことですが、選り好みをする瞬間の自分をただ観るということ。年がら年中選り好みしていることに気づいていてあげること。

このことに意識的であること、これだけが時間はかかるかもしれませんが、少しずつでも選り好みが小さくなっていく唯一の方法なのです。

過去のせいにしない

セラピストの立場として、いつも絶対に言わないことを書いてみます。それは、あなたがどんな過去を持っていようと、どのように親に育てられたとしても、それはもう過去のこと。

そんなことをいつまでも引きずって生きていても、なんの足しにもなりません。だから、速やかに過ぎたことは水に流せばいいのです。

許せないものを許し、執着を手放し、ただ今この瞬間にだけ意識を向けていればいいのです。過去のことに拘らなければ、必然的に未来への期待も薄れてしまうのです。

だからキーは過去に対してどのような態度で生きるか、これがすべてなのです。ところが、そうは簡単には行かないのが私たちのマインドなのですね。マインドは過去に生きているからです。

過去を死なせるなら、マインドも一緒に死ぬ運命にあるのです。マインド自体がそのことを一番理解しているのです。だから、過去にこだわることをやめようとはしません。

そのことをしっかり理解してあげることです。過去という実在しないものを後生大事に取っておいて、少しずつ拷問のように自分の人生を否定的なものにし続けようとするのです。

誰が?それがエゴという名の私です。こだわって、こだわって、自分以外の誰かのせいにしたいのです。そんなあなたにとっておきの呪文があります。

毎日、次のように繰り返し真剣に唱えてください。それは、「自分の人生は◯◯のせいでひどいものになってしまった。絶対許さない!」これを嫌という程、繰り返すのです。

ヘドが出るくらいに繰り返したら、もう二度と言いたくなくなるはずです。そうなったら、もう何にせよ過去のせいにしようとは思わなくなるはずです。ぜひ試して下さいね。

相手への期待が自分の首を絞める

誰だって嫌われるよりは好かれたい、愛されたいと思っていますね。でも残念なことに、相手の心をコントロールすることは不可能ですので、そこはどうすることもできません。

ただし、相手が自分のことをどう思っているのかということについて、すごく気になる人と、それほど気にならないという人がいるのも事実です。この違いはどこからくるのでしょう?

それは相手への期待の度合いが違うということです。好かれたいという期待が強ければ、それだけ相手の気持ちを気にすることになるのは当然のことです。逆に期待が小さければ、気になりません。

「どうでもいいこと=気にならない 」と言ってもいいのですから。10代〜20代の若い女性が、彼氏に向かって、私のこと好きなの?好きならそれをもっとわからせてよ!って言ってる姿をイメージできますね。

それはまさしく、好きと思われているという実感が欲しくて思わず出た言葉なのでしょう。その実感を欲しがるのは、それだけ期待が大きいからなのです。それなら今度は、なぜ期待が大きいのか?

愛されてる実感が乏しいのは、マインドの奥深くに、「私は愛されるに値しない存在だ」という思い込みが隠されているからです。いくら愛してると言われても、少し時間が経つと猜疑心が顔を出してくるのは、そういう理由です。

そしてまた明日も同じ質問をしなければならないことになるのです。実際にそういう質問をしなくても、猜疑心がある限りは同じことです。その状態が長く続くと精神的に参ってしまい、結果別れることになったりします。

本当は相手の問題ではないのですから、相手を質問責めにしたところで何の解決にもなりません。幼い頃の存在価値の欠如に気づいて、そこをしっかり癒していくことが必要ですね。

感情は不健康なマインドの特効薬

以前、父親が歳を重ねて涙なんか枯れてしまったと言っているのを聞いたことがあったのですが、その時はそんなものなのかなあと思っていたのですが、みなさんはどうですか?

人は様々な場面で涙を流しますね。悲しくても泣くし、悔しくても泣きます。痛くても泣くし、寂しくても泣きますね。恐怖でも泣くだろうし、また嬉しい時や感動したときも泣きますね。

私自身の記憶では、高校生くらいから泣くことがなくなり、サラリーマンを辞めるまでそれは続いていたと思うのです。つまり、長い間涙とは無縁の生活をしていたということです。

それでもそのことになんの違和感も感じていませんでした。なぜなら、泣くようなネタが自分にはないのだから、泣く必要もないと思っていたのですね。

けれども、会社を辞める時期に同期して、自分癒しを始めた頃には驚くほどに涙を流すようになりました。そのとき初めて分かったのは、それまで自分の感情と関わらないようにしていたのだろうということ。

正直に自分の感情と共にいられるようになったときに、それまでのツケがいっぺんにやってきたという感じで、多くの涙を流しました。涙は浄化だとよく言いますが、確かにそうですね。

どんな感情がやってきたとしても、分け隔てなくすべてをあるがままに感じてあげること。こんな当たり前のことができなくなってしまっている男性の実に多いことか。

女性はそれほどひどくはないですが、それでも我慢を得意としている人は大勢見てきました。癒しの第一歩は、感情から逃げないこと。感情というのは、不健康なマインドを修復してくれる特効薬なのです。

それが見える形で表現してくれるのが涙なんでしょうね。

意識とは注意深さのこと

私たちは、日常的に「無意識」という言葉を使いますね。あるいは、寝ているときには「意識がない」といった表現もします。けれども、実際には意識がなくなるということはありません。

意識は永遠不滅です。実存=意識と思っても間違いではありません。ですから、意識は常に存在するのです。意識だけが真実だといってもいいくらいです。

では意識がないというのはどういうことかというと、意識には二つの状態があると考えればいいのです。一つは覚醒状態、もうひとつは眠っている状態です。

無意識とか意識がないというのは、意識が眠っている状態を指すということです。そしてもう一つ、両者の中間的な状態もあります。それは半覚醒状態とも呼べるもの。

半分目覚めていて、半分寝ている状態。なぜこうした中途半端な状態があるかというと、意識というのは別の言葉で言えば注意深さなのです。だからこそグレードがあるわけです。

100%の注意深さがあれば、完全に覚醒していると言えるし、50%の注意深さであれば半覚醒状態だということです。ちなみに、私たちの標準的な注意深さは10%程度です。

マインドの90%くらいは無意識の領域だからです。こうしたことに気づけば、誰もが眠りながら生活しているという本当の意味を理解できるようになるはずです。

みんなが90%眠りこけているのです。意識的であれとは、十二分に注意深くいなさいということ。それが結局、90%の無意識部分を目覚めさせることにつながる唯一の方法なのですね。