ずっと夢の中にいたい!

あなたは目覚めなければならない。

目を覚ましているのは骨が折れる。

なぜなら数知れぬ夢が打ち砕かれるからだ。

しかも、これらの夢には、あなたのあらゆる喜び、いわゆる野心や成功のすべてがからんでいる。

まさにあなたの自我全体がからんでいる。

その自我がこなごなになる。

by osho

つくづく思い知らされますね。自我はずっと目覚めることなく夢の中にいて、あらゆる願望、欲望を実現するべく、その未来に期待して生きているのです。

それがなくなってしまったら、エゴは持ちこたえることができないのです。だから目覚めたくないと分かっているのですね。

未来がなくなってしまったら、究極の絶望を味わうことになるのですが、それが「死」を恐れる本当の理由だとも言えます。

死はどんな夢を見ていることもできなくさせられてしまうからです。覚醒する、目覚めるとは未来がなくなるということ。

未来が消えれば、それとくっついて離れることのできない過去も一緒に消えてしまうのです。だから、目覚めれば「今」という実在を見ることになるのですね。

気が遠くなるほどの長い期間、それこそ何千年も何万年も、私たちは目覚めずに夢の中を浮遊しているのですが、それでもまだまだ夢の中にいたいのでしょう。

私は個人的には、目覚めなければならないとは思わないのですが、夢が永遠に続くようにと願うのも、夢の中でだけのことで、どうしたっていずれは目覚めることになるのです。

目覚めた時にはもちろん、どんな長い夢であろうと一瞬にして消えていくこと変わりはないのですね。

物語の外には何もない

人生の中には、たくさんのものが凝縮されています。それは人生の目的だったり、目標だったり、人生の意義、意味、価値、それらが複雑に絡み合って物語を作り上げているのです。

けれども、そうしたものは実在するものではなく、すべてが観念によってでっち上げられたものでしかありません。それは思考によって作り出された物語の中にだけ存在するのです。

その結果、人生の愛憎劇や、嫉妬、執着などが多発して、私たちはそうしたものに日夜翻弄され続けているのです。苦しみはそうした劇中の登場人物と同化することによってのみ起きるのです。

だから苦しみから解放されたければ、人生を物語として観る目を養うことです。物語の外には、ありのままの生だけが実在するのです。

そこには、どんな目的も目的地もありません。生はいたって単純明解なものなので、思考で理解することは不可能です。ただ観ることができるだけ。

エゴは物語の中に埋没し続けることで生き延びようとしますが、それは必ず苦悩と共にあるのです。

一方、生は幸不幸もなく、善悪も正不正も何もない無の世界。物語も消えてしまうので、そこには時間すらありません。真実という永遠だけが実在するということですね。

「昼下がりの背徳」って??

昔から気になっていたことの一つに、洋画の題名が内容とあまりに違うことがあるということ。洋画の場合には、勝手に日本語の題名が付けられてしまうんですよね。

原題がそのまま使われるケースもあるのでしょうけれど、原題とはかけ離れた題名になってしまっているケースが多々あるのです。

最近ネットである映画を観たのですが、自分としてはすこぶる気に入ったのか、珍しく観終わってすぐにもう一度、始めから見直したくらいの映画だったのです。

実はその映画の邦題は、「昼下がりの背徳」っていうちょっと怪しげなもので、これじゃあわざわざお金を払ってレンタルビデオ店で借りないでしょうと思うのですが…。

フランス語での原題をそのまま直訳すると、「美の王国」くらいになるのですが、それにしても題名によってあまりにも印象が違いますね。

私の見立てでは、原題でさえ本当に伝えたいことを表現してはいないと感じたのです。きっとそこには、隠された作者の意図があるのではないかと。

期待して解説文を読んでみたのですが、これまたひどすぎる。ただ、出来事を列挙しているだけで、これを読んで是非観てみたいと思う人は皆無なのではないかと。

この映画を見ながら最も共感したのは、人も羨むような生活を手にしたとしても、真に満たされることはないというところです。これが、人間の最も不幸な部分なのですね。

きっとこうしたことに人は気づきたくないのです。邦題を決めた人も、解説を書いた人も、作者の意図を汲み取らずに、上っ面をサラッと観ただけだったのかなと思うのです。

ハートがアートを創り出す

↑ これは、数日前に家の近くで撮った虹の写真です。クルマで帰宅途中に空を見てびっくり!思わずクルマを止めて、パノラマモードで撮ってみました。

虹を見たことはもちろんこれまでにも何度もあるのですが、虹の両方のふもとまでこれほど綺麗に見えたことはありませんでした。

写真では虹の径が小さく見えますが、実はすごく広くて、とても普通にシャッターを切っていたら、このようには写っていないはずです。

私が写真を撮り始めたときには、私以外にはその辺りには誰の姿もなかったはずなのに、数枚の写真を撮り終えてクルマに乗ろうとしたら、結構な人数の人たちが立ち止まって虹を見ていました。

誰でも自然が作り出すアートには、一瞬我を忘れて見入ってしまうのでしょうね。不思議なものです。

けれども、空にアートが描かれているのではないのです。実は、アートはそれを観る私たちの内側にこそあるということです。

どんなものにでも美しさを感じる感性があるなら、この世界が丸ごと美術館にでもなったように感じることもできるかもしれませんね。

何をどう感じるかは、私たち一人ひとりのハートがどれだけ開いているかにかかっているのです。

「ただ観る」ことの難しさ

夏のギラギラする太陽が雲隠れしている時を見計らって、近くの公園に散歩に行ったときのことです。池の周りをいつものように歩いていたら、足元の土にきれいなまん丸の穴が空いているのに気づいたのです。

↑ のような直径1cmもないような小さな穴なのですが、踏み固められた土にきれいな形であいているのです。それもあちこちに沢山あるのです。

最初のうちは、子供が傘の先端を突き刺して遊んだ後かなとも思ったのですが、それにしては丹念に開けたなあという感じがするのです。

何かの虫が出てきた後かとも思ったのですが、あれほど踏み固められた土の中に虫が入っていたとも思えないので、不思議に思いつつも分からずにいたのです。

散歩を終えて戻ってからネットで調べてわかったのですが、どうやらあの穴は蝉の幼虫が這い出てきた穴だったようです。

個人的には、もっと端っこの誰も歩かないような、比較的柔らかな土の中にいると想像していたので、びっくり。なんで土の中にいる幼虫は踏み固められた土の中でも潰れないのだろう?という素朴な疑問。

自然界で生きているものというのは、見た目以上に逞しくて強いものなのかもしれないですね。勝手にか弱い存在だからかばってやらねばと思うのは、違うのかもしれません。

私たちは、自分の思い込みで対象物を判断する習慣があるようです。例えば、子供は幼いので何も知らないものだと思っていても、場合によっては大人以上に気を使っていることもあるのです。

どんな先入観も持たずに、判断や解釈なしにただ観るということがどれほど難しいことか、思い知らされますね。ただ観ることができるなら、どんな疑問も起きることはないということです。

マインドが育ってない無邪気な幼子の目であの蝉の穴を見るとき、きっと疑問が生まれる代わりにただジーッと見るだけなのでしょうね。

エゴと問題は一卵性双生児

問題というのは実在するものではありません。問題について対処しようとすれば、問題はより確固としたものとして映るのですが、一方で問題を受け入れるなら、問題は消えて行くのです。

エゴの好みは、実在しない問題を見出してはそれを解決すること、それを乗り越えて行くこと。だからエゴは決して問題を受け入れようとはしないのです。

問題が実在しないのは、物語が実在しないのと同じことなのです。問題もエゴそのものも物語の中にしか、見つけることはできないということです。

したがって、問題から離れたければ、ひたすら物語をただ観るようにすればいいのです。物事が起こる様を、物語を観るように観るということ。

一つはっきりしていることは、実在しないものと戦えば、いつか必ず負けをみることになるということです。実在しないものに力を与えているのはエゴの愚かさです。

エゴと問題は一卵性双生児のようなもの。エゴあるところに問題があり、問題があるところにエゴがいるということです。だからこの世の中は問題だらけなのですね。

けれども、ひとたびすべては物語だと理解するなら、その時にはエゴからも問題からも離れていることができるのです。

自分で自分に問うてみてください。問題が好きかどうかを…。きっと何も問題が起きない人生なんて、退屈過ぎて死にそうだと気づくはずです。

タヌキ一家との遭遇

↑ これはご存知タヌキですね。ちょっと可愛らしい感じがしますが、みなさんはどう感じるでしょうか?実は先日、自宅の近くの路上でタヌキの家族と遭遇してしまいました。

あまりにも突然のことだったので、そのときにはタヌキだとは分からなかったのですが、とにかく犬でも猫でもない何か見慣れない動物を見てしまったという感じでした。

7〜8匹くらいの家族?で、私に見つかったとばかりに、大急ぎで逃げていくところでしたが、一番最後にいた小さめの奴がふと立ち止まって、私の方を振り返ったのです。

5秒くらいのことでしょうか?互いにじっと見つめ合った状態でいたのですが、先の方を走っていた大人のタヌキたちが戻ってきて、早く行くぞとばかりに促されて、その子は行ってしまいました。

自宅に戻って家人にそのことを話したところ、1匹だけだけど家にも来たとのことで、幸運にも説明するまでもなくタヌキとの遭遇を分かってもらえたのです。

きっと檻の中でペットのように飼われていたものが、全員で脱走してきたのだろうと思っていたのですが、ネットで調べてびっくりしました。何と、東京には沢山の野生のタヌキが棲息しているのだとか。

自宅近くでも目撃情報があったようで、これまでまったくそんな情報も知りませんでしたし、遭遇体験もなかったので、まさか東京の住宅地で野生のタヌキの家族と鉢合わせするなんて…。

タヌキなんて動物園かよっぽどの田舎に行かなければ見ることはできないと勝手に思い込んでいたので、ちょっとした衝撃でしたね。

自分の家と同じエリアにタヌキの家族の住まいがあるなんて、それを想像しただけでちょっといい気分になったのです。また会えないかな〜と思っているのですが、あれ以来見かけることはありません。

タヌキも可愛らしいのですが、タヌキになりたいと思う人は誰もいないでしょうね。なぜなら、タヌキにはエゴがないからです。一度エゴを持ってしまうと、エゴのないことを想像するのもいやなのです。

だから私たちのエゴは、決して動物になりたいとは思わないのです。どれほど人生が辛くても、エゴはエゴのままでい続けたいのですね。

だって、タヌキにはエゴの持つ苦しみはありませんが、苦しみがないという自覚を持つことができないのですから。

瞑想によって砂鉄がはずれる

 

↑こんなの見たことありますよね?これは、磁石とその磁力に惹きつけられた砂鉄の写真です。きっと小学生の頃に、理科の実験か何かで習ったはずです。

私は子供心に、磁石というものが不思議で不思議で仕方ありませんでした。目に見えない力が働いているということに、驚きを感じたのでしょう。

この写真から連想してしまうのですが、私たちが抱え込んでいる思考も、これと似たようなものなのではないかと思うのです。

磁石は、そこそこの年齢になるまでに凝縮した思考の塊であるマインドを連想させるし、そのマインドに引き寄せられた砂鉄は、日々抱え込んでいる思考をイメージさせます。

きっとこんな感じで、浮遊している無数の思考を引き寄せながら、生活しているのです。どんな砂鉄(思考)を引き寄せるかは、それまでに作り上げた磁石(マインド)によって異なるのです。

そこは磁石とマインドの違いですね。磁石は一律に砂鉄を引きつけますが、思考群であるマインドは、それに見合った、つまり同じ波動の思考(と現実)を引きつけるというわけです。

だから思考は自分のものではないし、独自の思考などというものもないということです。どこかに浮遊している思考をキャッチして、自分の思考だと思い込んでいるに過ぎません。

磁石にくっついた砂鉄は簡単に指で取ることができますね。同じようにして、静寂の時間を作ってあげれば、こびりついた思考をマインドからはずしていくことは、それほど難しいことではありません。

本当に難しいのは、自分はマインド(磁石)だという思考をはずしていくことです。これはもちろん、意思の力ではずすことは不可能です。

いつも言うように、意識的であり続けることによって、凝縮した思考(マインド)も少しずつ緩んでいき、終いには砂鉄と同じようにはずれていくのです。

そして後に残ったもの(何も残らないのですが)、その無こそが私たちの本質なのですね。

カラクリはいつか消失する

私たちはいつもカラクリを知りたがるのです。人間はなぜ生まれてくるのか?人生にはどんな目的があって、それにはどんな価値があるのか?

そもそも宇宙のカラクリはどうなっているのか?解明したくて、謎解きをしたくてウズウズしているのです。カラクリが分かったときのあの爽快感がたまらないのです。

それを探究心と呼ぶこともあるし、好奇心と言うこともありますね。とにかく知りたがり屋なのです。幼い頃は、きっとどんな子供でもその傾向が分かりやすく出ていたはずです。

けれども大人になっていくにつれて、日々の生活の中に没入することで、次第に謎解きに興味を失っていく人が多いのも事実です。そんな人でも、年老いてこれといった目標や生き甲斐などがなくなると、突然思い出すのです。

なんで生きてるんだろうって…。その一方で、生活の奥に隠しながらも、密かに継続してこの壮大な宇宙や自分という存在のカラクリを探究したいと思ってきた人もいるでしょう。

私はどちらかというと後者の部類だと思います。そして今は自分のそういう気質に感謝するようにすらなっています。というのも、年齢を重ねてから突然カラクリが気になり出しても、手遅れになるケースが多いと感じるからです。

最後の方で、宇宙のカラクリよりもそれを解明しようとする探究者を探究するというフェーズに来れたからです。そして最後の最後では、探究そのものが落ちることで、探究者そのものが落ちていく…。

カラクリそのものも消失していくということですね。

本当の自由とは?

私たちは、自分のことも他の人のこともみんなそれぞれに自律的な存在だと思い込んでいます。自律した存在だと捉えているということです。でも本当は、単に自律しているように見えるということ。

あたかも誰もが能動的に人生を生きている、他と連携をとりながらも、究極的にはそれぞれが別々の意思を持って、自由に動ける存在なのだというわけです。

誰からの圧力にも屈せずに、独自路線を貫き通せるなら、その人は本当の自由人だと思われるのです。確かに、誰かのいいなりになったり、自己表現もできないなら、それは奴隷のような人生になってしまいます。

そんな理不尽な牢獄にはまり込んでしまった人にとっては、もっと自由に生きていけるなら、夢のようだと思うでしょうね。あなたのエゴを表面に出しても生きていけますよと、伝えたくなります。

そのようにして、不自由の真っ只中からもっと自由で、自律した人生へと変えていくのが一般的にいう癒しなのですね。だから人は癒されていくにつれて、重苦しさが消えて、清々しい気持ちになっていくのです。

それはそれで素晴らしいことなのですが、完全に自律的に生きて、自分は自由だと感じたとしても、どこか真の自由ではないのではないかという、何か歯がゆいような物足りなさを感じることになるのです。

自律によって得られる自由は、まだ本当の自由ではないからです。真の自由とは、自分の中にいる「私」から自由になることだからです。

「私」というエゴから離れることによってしか、真の自由になることはできないということです。だから癒しの先にあるものは、癒しの延長ではなくて、癒す対象から離れることなのです。

それを覚醒と呼んだりするのです。