<存在>は同じものを創らない

この宇宙には、厳密に言えば全く同じものというのは存在しないのです。ほとんど同じに見えたとしても、必ず違いというものがあるのです。

たとえば、地球上にあるバラの花の一つひとつをすべて比較しても、どれとどれを比べてみても、それぞれは完璧なまでにユニークなのです。

一つとして、色や形や大きさなどが同じものはありません。地球の歴史上どのバラを比べても同じことです。それほどに、<存在>は同じものを創造しないのです。

海岸にはそれこそ無数の砂粒がありますね。あの砂粒にしたって、地球上にあるあらゆる砂粒同士を比べてみても、やっぱり完全に同じものというのはありません。

それほどまでに、この世界はユニークなもので埋め尽くされているということです。それは勿論、あなたという存在についても言えることです。

宇宙の137億年の歴史の中でも、そして今後宇宙が存続する限りにおいても、あなたと全く同じ存在は決して現れることはありません。

あなたという存在は、奇跡的な現象として起きたのです。その完璧なまでにユニークなあなたを、もしも否定的に捉えるなら、それは見当違いというもの。

違いがあるということは、本当に素晴らしいことです。同じはつまらない。もしも同じものばかりだったなら、この世界はひどく陳腐なものになってしまうでしょう。

ユニークな自分を誇りに感じて生きることですね!

真理は非論理的

世の中で起きていることをよく見てみると、それには必ずはっきりとした説明ができるような理由があるものです。つまり、原因があってそれに対する結果が起きるということです。

たとえば、何かの植物の種が芽を出して、それが最終的にどんな樹になるのか、どんな花を咲かせるのかは、決して偶然決まるわけではないですよね。

その種の中には、精工な設計図が入っていて、その通りに花を咲かせるわけです。どんな単細胞な生物でも、人間のような複雑な生物でも、DNAという設計図通りに成長するのです。

科学者は、宇宙で起きていることはすべて原因を究明することで、その説明ができるとして頑張っているのですが、その一方で、決して理由を見い出せないこともあるのです。

私は、以前どんな理由もないのに感謝の気持ちがやってきて、どうしようもなくなった経験をしたことがありました。ただただ感謝がきて、圧倒された経験です。

それはごく普通に「○○してもらって感謝です。」というのとは全く違った経験でした。何かに対する深い信頼の気持ちも、理由を見つけることができないはずです。

理由のない感謝や信頼は、愛の別の呼び方です。本当の愛にも、それが湧き起る理由を探すことは不可能なことですね。それは突然やってくるのですから。

理由のないことは、マインド(思考)にとって非常に扱いづらいことなのですし、それこそが真理の一つの大きな特徴と言ってもいいのです。

理由があって、論理的に説明ができるものは、何であれ一過性のものであり、それは真理とはまったく異なるものなのです。

真理にはどんな理由もないし、非論理的なものです。だから、マインドは真理の中では息絶えてしまうのでしょう。真理ほど不条理で矛盾をはらんでいるものはありません。

それはただそう在るように在るのです。

幸福とは不幸との比較でしかない

世の中には、人も羨む幸せそうな人って沢山いるものですね。あの人は、才能にも恵まれているし、性格も外見もいいし、天は二物以上を与えてると。

自分もそこそこ幸せだけど、あの人には到底かなわない。そんな人がきっとあなたの周りにもいるはずです。けれども、その羨望や嫉妬は的を得てはいません。

たとえ、その本人が自分は今ものすごく幸せだと言ったとしてもです。それは、幸福感というものが、どこから来るのかということに目を向ければ明らかになります。

もしもあなたが、幸福感を持っているとするなら、それはあなたの中に不幸の種があるということを物語っているのです。つまり、幸福とは不幸との比較だということ。

比較なしには、何も感じないのです。あなたの身体が完全に健康であれば、あなたは健康を感じることはできなくなるのと同じことです。

頭が痛いときにしか、頭の存在を感じることができないのと同じこと。達成感は、まだ達成できてないときの感覚と達成した後の自分を比較するから起きるのです。

過去を見なければ、達成感はすぐに消失してしまうはずです。もしもあなたが、幸せを求めているというなら、それは間違いなく今の自分に不満を抱えているからです。

その不満は、実は求めている限り続いてしまうのです。結局、不満から解放される唯一の方法とは、何かを求めることをやめること、それ以外にはありません。

それでも求めてしまうのが私たちの実情ですね。それでも少しずつ求めるのを減らしていくことはできるようです。そして、あなたが過去や未来のあなたと今を比較しなくなったとき、幸福も不幸も消えてしまうでしょう。

それを至福と呼んだりしますが、それはあなたが至福を感じているという意味ではなく、あなたが消えて至福そのものが在るということ。

同化を解除する

私たちは、本当は自分がどこにいるのかを知りません。身体と同化しているので、大抵は身体の中にいるというように錯覚しているだけです。

で、私の場合は頭の中のちょうど目の後ろ辺りにいて、身体をコントロールしているというような感覚を持っているのですが、これは人によって様々なはずです。

ところが、あることをするとその感覚に変化が起きることを先日知りました。少し前に風邪をひいてしまい、その後遺症の咳が少し残っているのです。

その咳が出だしたときに、それを静める目的でハートのあたりに手を置くようにしていたときのこと。急に、目の後ろ辺りにいたはずの自分がハートの辺りにいるように感じ出したのです。

元々身体のどのあたりにいるかというのは想像でしかないのですから、変わったとしてもあり得ることではあるのですが、手を置く位置が影響するというのは面白い現象ですね。

試しに、先ほど存在の中心とされている下腹部の辺りに手を置いたところ、しばらくするとやはりその辺りに自分がいるような感じがやってきました。

興味があったら一度試してみて下さい。その感覚の変化は、すぐにはやってこないかもしれませんが、しつこく手を置きつづけていると、きっと体験できるはずです。

このことからも、身体との同化はなかなかしぶといものがあるということが分かりますね。マインドとの同化はもっと強力なはずです。

その二つの同化が解除されたとき、あなたは自分の本質に気づくことになるのでしょう。

事実とは思考の中にのみある

私たち人間の思考というものは、ずっと昔から変わらずにこの宇宙を説明しようとし続けてきたのです。思考の性分として、分かっていたい!というのがあるからですね。

そして不思議なことに、確かに思考による理解というのは可能なのです。ニュートンが発見した万有引力の法則だって、アインシュタインが見出した相対性理論にしても、なるほどという法則があるわけです。

そして今の所は非科学的なことであっても、ある程度の法則のようなものがあることは薄々分かっています。たとえば、思考が現実を作るとか、与えたものだけが与え返される法則とか…。

占いが当たるというのだって、考えてみれば不思議なことです。それでも、実は神の立場からすると、そんなことは知ったことではないのです。

思考がどれほど努力して、この宇宙を解明できたとしても、宇宙の統一理論を人類がいずれ発見できたとしても、依然として神にとっては無に等しいのです。

そしてそのことは、あなたが深い瞑想状態にあるときにも、まったく同じことが言えるのです。思考による理解は、ただそこに独自に物語を作り出しているに過ぎないからです。

私たちが事実だと信じて疑わないことも、本当は思考の中で物語として位置付けられているに過ぎません。地球が太陽の周りを回っているというのは、思考の中での事実です。

思考が落ちたとき、太陽も地球も存在しなくなるのです。ただ在ることへの気づきが在るのみ。きっとそれは神と同じ気づきなのだろうと。

覚醒できなかった先達の思い

どんな人であっても、幼い頃に与えられた親からの影響を色濃く持っているものですね。それは、遺伝とはまた別の育てられ方から来るものです。

けれども、そういう影響でもなく、遺伝でもなく、不思議なことに誰からも影響を受けたはずもないのに、なぜか特別な何かに興味を持っていたり、独特の感覚を持っていたりします。

生まれる前に、誰かの経験が自分の記憶システムの中に組み込まれたかのように。はっきりとした体験としての記憶はないのに、何故かこだわりを持っていたり…。

私が中学一年生のときに、教室の前にある大きな黒板の上のところに、額縁に入った「無」という文字が飾ってあったのを憶えています。

それは、担任の先生の趣味だったらしく、自分の作品を誰の目にも見える一番目立つ場所に飾ったのでしょうね。その「無」をぼんやり眺めていた自分を憶えています。

その時に、「無」は最強だと分かっていました。何か一言でも口に出せば、それだけ堕落する。沈黙していることで、議論の土俵を遥かに超えてしまう。

また、「無」だけが変化することがなく、時間の外にあるものだということを、感覚として知っていました。それは、今この瞬間に感じているものと全く同じものです。

だから不思議なのです。誰かから学んだものでは決してないのですが、とにかくそのことを知っていました。でも表現方法が分からなくて、口に出したことはなかったかもしれません。

さらに、年齢は定かではないのですが、「死んだら目覚める」という感覚が自分の中にあることにも気づくようになりました。

最近それが確信のようになってきたのは、新しいかもしれません。きっと、かつて誰かが自分の本質に気づきつつ死んで行ったように思うのです。

その記憶が私の記憶システムの中に入れられたように感じています。この感覚は、体験として確かに知っているというものです。

だから、全体性というものにも馴染があるのでしょうね。気づきつつ死んで行ったのに、覚醒できずに残念な思いをした先達のためにも、残された人生をそのことに捧げようと思うのです。

尊敬と畏敬の違いは?

子供の頃に尊敬する人は誰ですか?と聞かれて、歴史上の偉人を名をあげたり、場合によっては自分の親だと言う人がいたりしたのですが、私はずっと誰もいないと言うしかありませんでした。

誰もいないというより、もっと正確に言えば、尊敬するという意味が本当のところ分かっていなかったのかもしれません。誰だろうかと、探すようなこともありませんでしたね。

そしてそれは、この歳になるまでずっと変わらずなのです。生まれてから一度も誰かを尊敬したことがないのです。勿論、あの人は凄いなとか、羨ましいとかは普通に思うのですが…。

尊敬となると、どういうわけかマインドが閉じてしまう感じがするのです。最近思うに、尊敬の中には嫉妬の部分も多分に含まれているために、見て見ぬふりをしているのかもしれません。

自分に正直に向き合えば、嫉妬の部分は沢山あるのですが、人物丸ごとを嫉妬するということはやはりないようです。能力とか、一部の何か外見など…。

それで分かったのですが、尊敬ということになると、その人物全体がターゲットになるように思っているらしく、そうなると該当者はいないということになるのです。

一方で尊敬とは似て非なるものに、「畏敬」というのがありますが、それはありたがいことに一人だけ該当者がいます。では、尊敬と畏敬の違いは何か?

畏敬する人に対しては、自分と比較することがないために、嫉妬というものが起こり得ないのです。尊敬の場合には、もしかしたらいつかは競争して勝つことができるかもしれないと思うのでしょうね。

だから尊敬には嫉妬が含まれるわけです。尊敬は、もしも何かが起きたら終わってしまうこともあるかもしれませんが、畏敬に関しては間違いなく永遠だと分かります。

「親は絶対」という思い込み

クライアントさんとセッションでお話しをしていて気づくのですが、子供の頃に「親は絶対」という感覚を持って生活していたという場合が意外にも多いのです。

まっさらなマインドの状態で生まれてくる赤ちゃんが、一体どういうわけでこの「親は絶対」という考えを持つようになるのでしょうか?

確かに、親がいなければ子供はどうすることもできないし、親に見捨てられたら生きてはいけないのも事実ですが、だからと言って誰でもが「親は絶対」を持つわけでもありません。

この「親は絶対」というのは、もう少し分かりやすい言葉で補足するなら、「親はいつも正しい、親の言うことを聞いておけば間違いない」のようなものですね。

そのように親のことを見るようになってしまう一つの要因として、それを親自身から教わったということが可能性としてあるかもしれません。

けれども、子供もバカではありませんので、ただそう言われたからといって、いつまでもそれを信じていられるはずもないのです。

クライアントさんによっては、ある程度の年齢になってもまだ「親は絶対」を持ち続けていたという場合もあるくらいですから、別の要因を考えてみる必要がありそうです。

他にどんな要因が考えられるか?実はその考えを作ったのは、親というよりも子供自身だったと考えることもできるのです。その理由は、自分を危険な目に遭わないようにさせる目的で。

つまり、親に逆らって自分の正直な気持ちを言うことが危険だと感じていたとすれば、逆らうような気持ちがそもそも浮かんでこないようにさせればいいわけです。

だからこそ、一度「親は絶対」を作ってしまえば、自動的に親の言いなりになる自分でいられるということですね。自分でこしらえたこのような命がけの思い込みを一旦作ってしまうと、後で解除するのが大変です。

自分一人で解除するのが難しいと感じる場合には、専門家の力を借りる必要があるかもしれません。お心当たりがあるなら、セッションを受けてみることをお勧めします。

E-girls / Dance Dance Dance がいい!

昔懐かしいノリのいい楽曲を見つけて、年甲斐もなく今嵌っています。
きっと、それなりに有名なんだろうけど、私はつい数日前に知りました。

すごくノスタルジーを感じて…

歌詞もいいんだな、「感じるままに」とか、「自分らしく、ありのままに…」とか、「ルールなんてない、最高にFree」等々。

なぜ人は自由でいたいと思うか知ってる?それは何かに束縛されてるから。

一度も束縛された事がなければ、自由など求めないし、自由の意味すら理解しないはず。

今日はこんなブログです!たまには息抜き。

E-girls / Dance Dance Dance

 

相手の内面を見透かす

誰だって、他人から否定されたら嫌な気持ちになるものです。できることなら、肯定的に扱われることを常に期待しているのが本当のところですね。

ただし、否定されることをどの程度嫌がっているのか、どのくらい不安になったり恐怖を感じたりするのかという度合いについては、人それぞれなのです。

あまりに、否定されることを恐れてしまうなら、その人は自己表現を抑えるようになったり、辛いので人と接するのを控えるようになってしまうはずです。

そうなったら、専門家の力を借りて、内面の癒しをする必要があるでしょうね。けれども、そんなに極端に落ち込んだりはしないけど、ダメージをもっと小さくしたいと感じている人は沢山いるはずです。

そんなときには、次のようにして自分を否定した相手の内面を見透かすことです。相手が自分を否定するのは、その内容の如何に関わらず、自分にはまったく関係ないことだと分かるまで…。

相手があなたを否定する本当(唯一)の理由は、その人自身が自分のことを肯定したいという思いが強いからなのです。

「お前がダメだ!」と言うとき、それを言っている当の本人はダメではないが言外に含まれていることに気づくことです。それが自分を肯定することになるということ。

ではなぜ、相手はあなたを否定することで、自分を肯定したいのでしょうか?それは、その人の深いところで自分を否定しているからに違いありません。

ということは、誰かがあなたを否定したとき、その誰かの中で自己否定を払拭しようとしているということであって、あなた自身とは何の関係もないということに気づけばいいのです。