真実にはどんな物語もない

誰だって自分の人生がもっとこうなったらいいのになあと、願いを込めてイメージするのですが、そういうのを夢物語などと言ったりしますね。

特に、実現するのが不可能に近ければ近いほど、夢物語と言われるようです。それと対比されるのが、現実の自分の人生という物語です。

現実の人生で起こるストーリーは、都合の悪いことや悲しいことなどもフンダンに盛り込まれていたりして、夢物語とは大分違ったものであるでしょうね。

けれども、実はどちらにも共通していること、それは物語であるということです。そして、物語とはそれが空想であろうと、現実であろうと、いずれにしてもあなたのマインドの中にあるということ。

そこを見抜くことです。どんな物語であろうと、それは実在するものではありません。あなたのマインドの中にある思考によってでっち上げられたものだということです。

起きていることは、私たちの思考とは全く無関係にただ起きているのですが、マインドが思考を使ってそれを物語として捉える性質があるということ。

真実という実存には、どんな物語性もありません。なぜなら、真理は思考の外側に在るからです。思考の外から世界を見るとき、そこには在るがままのものが、ただ在るがままにあるだけなのですね。

期待せずに待つって難しい

誰でも経験がある事だと思いますが、何かを思い出そうとして喉まで出かかっているのに、どんなに頑張ってもどうしても思い出せずに悶絶するのです。

自分がそれを知っているという事ははっきり分かっているのに、思い出そうと頑張れば頑張るほど思い出せないのです。

そんな時、一度その事を忘れて全く違う事を考えたりしたりしているうちに、ふと思い出せずにいた事が頭に浮かんできたりするのですね。

その理由は、リラックスすることで、思い出そうとして起こしていた緊張がなくなったからなのでしょう。緊張すればするほど、頭の働きがブロックされるということです。

同じようにして、自分の本質を思い出したいと強く願えば願うほど、思い出すことは難しくなってしまうのです。

要するに、期待せずにリラックスして待つという事なのですが、それが一番難しい事なのですね。私たちのエゴは、真にリラックスすることが苦手だからです。

思い出したいという欲望もなくなりそうもありません。

在るがままで在ること

今日もシンプルに…

本当に大事なことは

あなたがあなた自身でいるということ

それ以上に美しいことはない

他の誰かのようになろうとしたり

もっと別の理想の存在を目指したりせず

ただありのままのあなたでい続けること

それ以外にない

以上

どんな目的も持たない

この連休の最中、ユニクロで安売りをしているというのを聞いて、珍しくチャンスだと思って、空き時間に事務所の近くにある大型店舗へと行ってみたのです。

そうしたら、店の中が大変な人出で賑わっていて、内心一刻も早くここから出たいと叫んでいる自分を受け止めながらも、頑張って目指していた品物をゲット。

今度は、レジに並ぶ長蛇の列の最後部へと、何も考えないようにしてただただ瞑想状態。こんな時にも普段の瞑想が役に立つんですね。

案外早く自分の番がやってきて、至近距離で金切声をあげる幼い子のことも、何とかかわしながらも逃げるようにして、お店を後にしたのでした。

人波の中を泳ぐように進んで行くだけで、人酔いするのですね。やっぱり慣れないことは控えたほうがいいのかもしれないと本気で思ったのです。

一つだけ収穫があったのは、大の苦手だったレジ待ちのときに、早く済ませたいという気持ちを持たずに、ただそこにいることができたこと。

未来に対してどんな目的も持たないようにすることができれば、瞬時に楽になることができるのですね。

これを瞑想と呼ぶ必要もない

最近ほんの少しかもしれませんが、瞑想のやり方や心構えなどに変化が出てきたようなのです。表現が難しいのですが、敢えて言えば心構えがなくなったような…。

今思い返すと、かなり気負いのようなものがあったのだなあと思うのです。言うのも気恥ずかしいのですが、目的意識がバリバリだったということ。

それがちょっとずつだけど、減って来て敢えて目的があるとすれば、その目的が落ちてしまうように淡々と、それとなくその状態を維持するというのか。

ほんの少しの目的のようなものも逃さずに、それを脇へ置いてしまう。今までにもいろいろな瞑想への取り組みにおける微妙な変化は経験してきたのですが、今回のは大きいかもしれません。

目を閉じる必要が一段となくなってきてしまいました。というか、目を閉じていても開いていても、どちらでも構わないということ。

あらゆるルール的なものが排除され、できるだけ目的を持たずに、それとなくただここに在るという状態。それを瞑想と呼ぶ必要もないかもしれませんね。

私は座禅というものを知らないのですが、伏し目がちで行うということだけ聞いたことがあるのですが、瞑想というよりもそっちに近いのかも。

それとなく心がけているのは、「個人が瞑想をする」というイメージから、なるべく離れるようにするということ。全体がただそれを起こしている、それを深く深く浸透させる感じ。

個人である自分を解き放つ

普段私たちは、身体と同化することによって、自分の身体へとエネルギーを凝縮しているのです。それこそが、自分という個人はここにいるという感覚を作っているのです。

そのエネルギーの凝縮は、何か辛いことがあったり、苦悩を感じていたり、怒りや悲しみなどのネガティブな感情を持つときにより強力になるのです。

つまり、深刻になって人生を悲観すればするほど、凝縮が強まることによって、より個人としての自分が明確になるということです。

逆に、ゆったりとくつろいで、気持ちにゆとりがあって、穏やかであるなら、そして悦びや歓喜の中でそれを謳歌しているときには、エネルギーの凝縮は弱まることになるのです。

つまり、個人としての自分の境界は曖昧なものになるということです。こうしたことは自動的に起きることですが、それを逆手にとって、実験をしてみるのです。

たとえば、特別に何かがあったということがなくても、意識的に自分という個人であることを維持するのをやめてみるのです。

個人にまとまろうとすることを自らやめてみるのです。ちなみに、過去の体験を思い出そうとすると、個人へと戻されるし、未来のことを思い描いても、個人が復活してしまいます。

代わりに、今この瞬間にじっとしていられれば、個人に収縮せずに済むはずです。それはまるで中心のない、広がった雲のようなイメージかもしれません。

その感覚に慣れて来ると、どれだけ普段の生活そのものが、自分は個人だということを色濃く強調することになってしまうかが分かってきます。

エネルギーの収縮に気づいたら、すかさず意識を今に戻して、個人としてのスペースが虚空に変わるようにそれとなく意識するのです。

興味があったら是非検証してみて下さい。自分という個人が希薄になることで、幸不幸を超えた何かに気づかせてもらえるかもしれません。

過去誰かの弟子だった記憶?

人のマインドの一番奥底には、無数の誰かの人生の記憶が、いにしえの記憶が隠されています。それを私たちは自分の過去世と思ったりするのですが…。

その記憶は、何かのきっかけによって表面に上って来ることもあるでしょうね。場合によっては、夢の形となって顕われることもあるかもしれません。

私の中にもそれを感じることがたまにあります。私はこの人生においては、どんな宗教とも無関係の人生を生きてきました。どちらかといえば、科学よりの考え方がベースにあるのです。

ところが不思議なことに、導師(マスター)と弟子の関係について思いを巡らすと、突然ものすごく熱いものが込み上げてくることがあって、自分でもびっくりするのです。

導師と弟子などというものは、この人生では全く縁のないものであり、少し前まで全くそんなものに興味も持ってはいませんでした。

けれども、この数年の間に、どうもそれに関係するような記憶らしきものが奥深くに眠っているのではと感じるようになったのです。どこかで知っているのです。

導師を完全に信頼している自分をイメージし、それを見つめていると、何とも言えない深い愛の中でくつろいでいる感覚がやってきます。

それと同時に、またそれを体験したいという強い衝動のようなものがやってきます。この人生では、自分が誰かの弟子になるということはなさそうですが…。

一体どんな導師の弟子だったのだろうと思いをめぐらしていると、とても暖かな気持ちになれます。きっとその時の記憶のおかげで、今内面への探究が起きているのだろうなと思うのです。

無防備な生き方を発見する

クライアントさんとお話しをしていると、本当にどうやって生きて来れたのだろうと思ってしまうこともあります。ご本人は極めて淡々とされているのですが。

かえってそれを伺っている私の方が、ハートが苦しくてどうしようもなくなってしまうこともあります。私が一人で泣いても仕方ないのですが、どうしようもない場合もあります。

そんなクライアントさんは、大抵が人生と闘っているのです。そうでもしなければ、やはり生きては来れなかったからなのでしょうね。

その闘いによって、生き延びることができたその一方で、繰り返し自分自身に犠牲を強いることにもなってしまったのです。

子供のころには選択肢はありませんでした。だから過去を悔いる必要はまったくないのですが、少しずつでも闘うことから足を洗っていくことが大切なのです。

闘っていることに気づいていなければ、まずはそのことを認識することが癒しの第一歩となりますね。気づいている場合には、どうしてそれがやめられないかを見ること。

すべては子供の頃に必要に迫られて、無自覚に作ってしまった自己防衛の回路を発見して、それを緩めていくことです。

そして、その回路を稼働させている原動力となっている、過去のネガティブな感情を真正面から味わって、消化してしまうことです。

新しい無防備な生き方を一瞬でも体験することができたら、もうその味わいを忘れることはできなくなるはずです。

できないよりできるに価値がある?

何かをやり出すと、そのことに夢中になるあまりに、自分がどれだけ無理をしているのかということが分からなくなって、後でそのツケがやってくるという人がいます。

もしも、それが本当にやりたいことであるなら、後でやってくるツケは単に身体の疲労だったりするわけです。たとえば、じっと凝視するあまりに目が疲れるなど。

けれども、その一方で精神的な無理がそこにある場合には、間違いなく精神的なツケがやってくることになってしまいます。

たとえば、あまり気乗りしないことだったり、仕方なくやることになったことなど、普通なら嫌だなということが頭から離れずにいるはずなのに、それを忘れてしまってやってしまうと、その無理は内面を傷つけることになるのです。

それはきっと、自分の能力が存分に発揮されている、自分はきっと誰かの役に立っているという思いが価値を生み出して、その安心感に後押しされて頑張ってしまうのでしょう。

私たちのエゴは、できないよりもできるということに価値を見い出す性質を持っているからですね。できてもできなくても、どちらでもいいという本質に気づくことができるなら、この問題は起こりません。

そして、いつも自分のマインドと行動を観ていることができるなら、やはりこのような問題からは解放されることになるでしょうね。

腹痛をただ見るのは難しい

今日は久しぶりに、なぜか腹痛がやってきて翻弄させられてしまいました。仕事を始めるまえには、ほとんど回復してくれたのですが、終わったらやや戻り気味になって…。

その腹痛の最中に、面白いことに気づきました。苦しんでいる自分をじっとただ見つめている存在がありました。それも、非常にはっきりと。

そのただ見ている自分の方に、普段はいられるようにしているのですが、その時ばかりはどうしてもそっちには行かないままでいるのです。

つまり苦しんでいる自分から抜け出せないままに、ただ見ている自分の存在も隠しようがないという状態だったということなのでしょうね。

苦しんでいる自分からすると、ただ見ている自分は助けてくれるでもなく、苦しみを分かち合おうとするでもなく、淡々と私の奥から私を見ているに過ぎません。

それが分かって、ちょっと憤慨してしまいました。なんて役立たずなんだと…。けれども、問題はそこにあるわけではなくて、そっちの側になることができないことこそが問題なのです。

で、頑張って腹痛の中、何度か観ている側に行くのですが、やっぱりすぐに戻されてしまうのです。誰かさんが、苦しんでいる側の方を好んでいるということなのかもしれませんね。