慢性的な酷い疲労について

他の人はみんな元気なのに、自分はどうも体力が続かなくて、いつも疲労気味だという自覚のある方はいらっしゃいませんか?

平日に仕事をするのが精一杯で、週末ともなると外に出ることも煩わしくて、一日中部屋の中で横になっているという方はいらっしゃいませんか?

もしもそのような症状があるのでしたら、それは体力の問題では決してないということに気づく必要があるでしょうね。身体が弱いのではありません。

疲労しているのは、あなたの内面なのです。自覚があろうとなかろうと、あなたは日頃からずっと精神的に無理を強いてきたということです。

無理が続くと、そういう極端の真反対である何もする気がおきなくなるという極端へと持っていかれるのです。それが、身体の疲労となって顕われたということですね。

問題を解決するためには、まず初めに自分は一体何を無理しているのか、どんな我慢を強いているのかということを、じっくりと見つめてみる必要があります。

そしてそれが自分を守るためにしていることだったと気づくことができるなら、そこから癒しを進めて行くことができるはずです。

ご自分独りでは時間がかかるようなら、専門家の力を借りることも検討することですね。

どこにも行先などない

きっと2~3歳の頃、私たちは親によって間違った方向へと引っ張られ、間違った方向へと自ら進みだしてしまったのです。その方向とは?

それは、自分から遠ざかる方向です。自分のままではいけない、もっと何かができる別の誰かに向かって突き進み出してしまったのです。

だから、進めば進むほど辛くなってしまったのです。誰かのようになろうとしたり、何かになろうとすればするほど、そのままの自分を否定することになるのです。

一度思い切って、ただ在るがままの自分に戻ってみようとすることです。これまで突き進んできた方向を180度変えて、振り出しに戻ればいいのです。

そこには、何者でもないただ在るがままの自己が残っているはず。それを真正面から見ることです。もしかしたら、それは物凄く怖いことかもしれません。

なぜなら、これまでの投資が全部無駄になってしまうかもしれないからです。それでも、起点に戻っていくなら、そしてあるがままの自分も通り越したその先には…。

そこには広大なる虚空が在ると分かるはず。その気づき自体が私たちの本質に違いないのでしょうね。私たちには、元々進んで行くような方向などなかったということです。

良い習慣と悪い習慣

健康にいいとされる早寝早起きとか、野菜をたっぷり食べるとか、毎日の軽い運動やストレッチなどは、きっと良い習慣ですが、そういう習慣というのはすぐにやめてしまうことが多いものですね。

その一方で、夜遅くに食べる習慣、食べ過ぎる習慣、寒い朝などはゆっくり寝ていたいからいつまでもグズグズしている習慣、こう言った悪い習慣は逆になかなかやめられません。

それならば、ずっと続けた方がいいと思っていることは、積極的に悪い習慣にしてしまえばいいのです。私の場合は、瞑想を悪い習慣にしてしまいました。

つまり、病みつきになったということ。何にせよ、病みつきになるということは悪い習慣ぽくないですか?そうなったら、もうなかなかやめられません。

病みつきにしてしまうためには、余程いいことがあればいいのです。私の場合だと、独りきりになって誰かのケアをしないで済む。

疲れた目を休ませることができる。身体が温かくなって、温泉に浸かっている気分にもなれるので気持ちがいい。あとは、言葉で表現できないアレがやってくるのが嬉しい等々。

こうなったらもう病みつきです。そうなってしまった瞑想は、自分にとっては悪い習慣なので人には積極的に言うことができなくなるという欠点もありますが…。

どんな条件付けもいらない

幼い頃に親からもらった条件付けというものが、その人のその後の人生にいつまでも影響を与えることになるということを、多くの人は知らな過ぎです。

たとえば、親の反応が次の二つであったとします。一つは、自分に都合のいい子供であれば優しく接するという面。そしてもう一つは、子供の言動が少しでも都合が悪ければ、烈火のごとく怒るという面。

この二面性で育てられた子供は、どうやっても親の優しい面を求めて、親の言いなりになるように仕向けられてしまいます。

親の気持ちを悪くしない、親の話しを聴いてあげる、親と一緒にいてあげる、自分の気持ちを親に言ってはいけない、そうしたルールを死守することで優しい親でいてもらうようにする。

こうした条件付けは、大人になってもはっきりと残るものです。そして、その条件付けのとおりに、今度は親以外の周囲の人たちに対して関係性を作ろうとしてしまうのです。

それがどれほどの自己犠牲を生むか、どれだけ怒りを蓄積することになってしまうか、それでもその条件付けはそう簡単にはなくならないのです。

それは、その条件付けによって人と関係を結ぶことしかできないマインドの部分が出来上がってしまって、それ自体が消えたくないと思っているからです。

条件付けは全く消し去ることは難しいことですが、癒して行くことでそれをできるだけ使わないような生き方に変えて行くことはできるのです。

人はどんな条件付けも絶対に必要ありません。

エゴは消えたくない

エゴが落ちたら、自分という個人は消えてしまいます。それは決してあり得ない話しではありません。なぜなら、自分という個人がいるというのは、単なる思い、思考に過ぎないからです。

ただし、その思いは物凄く固くて、本人にとっては動かしがたい事実のように感じているので、よほどのことでもない限りは、自分が消えるということはありません。

とはいうものの、自分が消えたらどんな感じなんだろうと考えてみたことはありますか?もしも自分がいなければ、当然のことながら相手もいないと分かります。

自分が居なければ、この地球上には他の誰もいないということが瞬時に分かるはず。私たちは、自分がいるので周りにも他人という個人がいると感じているに過ぎないからです。

自分がいなくなったら、きっと、それまで自分に起きていたあらゆることが、他人に起きているかのように感じられるようになるでしょうね。

それまでの自分の経験が、全部丸ごと他人のした経験であるかのように感じて、傍観することになるはずです。自分が怪我をしても、誰かが怪我をしたように感じる。

残念ながら、怪我による痛みはその肉体には自分がいたときと同じようにあるはずですが、それでもその痛みを感じている自分はいないのですから、楽なものです。

ただこの肉体のある場所に痛みという感覚があるということです。自分がいなくなると、個人的な欲望や望みのようなものは消えてしまうでしょう。

当然のことですが、守るべき自分がいないのですから、苦しみの根源である自己防衛の必要がなくなり、無防備になっていくはずです。

それは間違いなく愛が活性化することになりますね!自分がいないと、こんなにいいことばかり。それでも、私というエゴは消えたくはない、そう言っているようです。

気分を悪くしていたい奴

私は昔から、ちょっと体調が悪いなと感じると、すごく気分が悪くなるのです。子供の頃からそうした気分の悪さを隠すことができなくて、すぐに表へ出てしまうのです。

だから、大人になって失礼のないようにしなければいけないと思った相手の前で、気分の悪さを隠さねばならないのが、本当に嫌いなのです。

そして、この気分(機嫌)の悪さというのは、自分の中では絶対的なものであって、何よりもそれが優先されるようにできているようなのです。

それがやってきたら、もう大抵のことはおざなりになってしまうし、大切な人にも辛く当たってしまうことも多々あります。簡単に言えば、子供のままだということかもしれません。

けれども、そんな絶対的と思っていた気分も、何か物凄く嬉しいことなどが起きれば、たちどころに変化してしまうことも経験上知っているのです。

もしも、宝くじで一億円当たったとなったら、きっとあっという間に上機嫌になるだろうし、身体の具合の悪さなどどうでもいいと感じるはずなのです。

ということは、気分(機嫌)は変えられるということ。それが可能であるのに、なかなかそうしないでいるということは、そうしたくないという奴がいるということですね。

つまり、気分を悪くして、機嫌を悪くしている状態でいたいと思っているマインドの部分があるということです。きっと、彼は何等かの文句を抱えているのでしょう。

かといって、安易にその気持ちを受け止めようとしても、簡単にはその手には乗らないぞ!という意固地なところもあるようで、誠心誠意の対応が必要のようです。

手が焼ける内面なのですが、やはりもう少し手厚く見てあげることも大切なことなのかもしれません。気分が悪くたっていいよ、と言ってあげることにします!

人生に対するイメージを変える

自分の人生ばかりに、なぜこんなに辛いことが沢山やってくるのだろう?と疑問に感じている方はいらっしゃいませんか?

もしもあなたが自分は該当するというのであれば、次のようなことが原因かもしれません。

あなたは人生をどのようなものであるべきと思っているでしょうか?

たとえば、平坦な道で歩んで行くのがとても楽で、荷物らしいものも一つも持たずに手ぶらでゆっくりゆっくりと進んで行くお気楽な人生か?

あるいは、重い荷物を背負って、険しい上り坂を頑張って登っていき、達成感を味わえるような厳しい人生がいいのか?

どちらかと言えば、後者の人生の方が価値があると思っているのでしたら、それが最初の疑問の答えです。つまり、苦難がある方が価値があると思えば、辛いことが沢山やってくるということです。

思考が現実を生むのです。苦しみの最中にいる人が聞いたら、すぐには承服しづらいかもしれませんが、辛いことを招いているのはあなたが持っている人生に対するイメージなのです。

どうせ生きて、いずれは死んで丸ごと消滅してしまうのが人生です。それなら、もっと気楽に面白おかしく、思い切り楽しむ人生でもいいと思いませんか?

そのように人生のイメージを変えてしまえば、少しずつ現実もそのようになっていくはずです。

極端から中道へ

あなたは極端な生き方をしていませんか?

極端に頑張る、極端に何かを我慢する。

あるいは、極端に何かに耽る、極端に浮かれすぎる等々。

こういった極端は、いずれその対極にある極端へと持っていかれることになるのです。

それは、極端に何もできなくなる、極端に感情が爆発する。

あるいは、極端に不安な状態に突き落とされる等々。

普段から瞑想を心がけて、意識的に生きる練習をしていると、

決して極端に走ることができなくなります。

それが中道を生きるということ。

無意識をなくしていく

人間の苦しみの根源というのは、自我(エゴ)であるということを訊くと、大抵はなんでそんな面倒なものを作るようになってしまったのか?と疑問を持つ人も少なくないはずです。

そのくせ、自我というのは実在しない、本当はこれが私だと思っている私などいないのだとも言われるのです。なんだかこの世は理不尽なことばかりだと感じずにはいられません。

自我が生まれなければ、我々も他の動物と同じように苦しみからは解放されていたはずです。けれども、一方では意識を手にすることもできなかったのです。

他のすべての動物と同じように、ずっと無意識のままであったということです。私たちは、自我を生み出すという多大な犠牲を払いながらも、意識を持てるようになったということです。

どんな犠牲を払ってでも、無意識から脱出できるのなら、それは価値ある代償だと思いませんか?確かに、人生があまりに苦しい時、無意識で生きている動物になりたいと思っても不思議ではありません。

しかし、それも一時的なことです。正気に戻れば、誰も動物へ逆戻りしたいと本気で願う人などいるはずがありません。無意識はいやなのです。

一度意識を持ってしまったのですからね。さて、ここからが本当に大切なことです。意識を持ったといっても、それほど誇れるような状態にはまだなっていません。

というのも、私たちの意識的部分というのは全体の一割くらいだと言われているからです。残りの九割は、無意識のままだということです。

それが残念ながら私たちの内面の実状なのです。もしもこのままたった一割の意識のまま死んで行くなら、自我を生み出して苦しんだだけ、苦しみ損になってしまいます。

生きている間に、意識の割合をできるだけ大きくしていくこと。最終目標は、無意識をすべてなくして、意識だけにすることです。これが光明を得る、覚醒するということです。

あなたが自分の人生の目標はこれこれだ!と思うのはご自由ですが、人類に与えられた真の目的は無意識を失くして意識だけにすることだと気づくことです。

その時、自我はまるで光が当たった影のように、消え失せていくはずです。

~については誰にも負けない

もう何十年も前のことですが、ある有名なギタリストが「誰が世界中のギタリストの中で一番うまいと思うか?」というインタヴューを受けたときの事です。

彼は次のように答えたのです。「この人が一番うまいと思っても、すぐにもっと上手な人が表れる。だから誰が一番かということに意味はない。」

更に次のように言ったのです。「その代わり、ギターを愛しているということについては、俺は誰にも負けない!」これって、すごく真理をついていると思うのです。

つまり、ギターのテクニックを比べるというのなら、仮に何等かの条件を設定して競争させて、その結果でだれが一番かを決めることはできるかもしれません。(勿論意味はないですが…)

けれども、誰がギターを一番愛しているかということになると、これはどんなことをしても決めることは不可能なことです。なぜなら、愛しているということは主観的なことだからです。

人の内面を外側から比べることは不可能なことですね。このように、他人から客観的に評価できることを競うよりも、主観的(内面的)な部分でだれにも負けないという自負を持つことが素晴らしいことだと思うのです。

あなたの存在あるいは存在価値を他人は評価することができません。その存在価値については、誰にも負けないという自負を持つことです。

それができるなら、無駄な自己防衛がなくなり、安心や安全を求める人生が、より楽しむための人生へと転換していくことになるでしょうね。