マインドは独創性がない

自分の中での勝手なイメージなのですが、過去が左側にあって、未来が右側にあるのです。そして、目の前の地点が現在というようになっています。

きっと、時間の流れが左側から右側へと進んで行くというイメージなのでしょうね。目を閉じたときに、これをよくイメージします。

左右に過去と未来が無限に広がっているのですが、最近ようやく未来が切り詰められてきた感じがします。つまり、左側に比べて右側がない感じ。

右側だけがスパンと切り取られてしまって、先が見えない、先が無い感覚。未来に意識を向けないというのは、比較的安易にできるのかもしれません。

それに対して、過去はとても難しいのです。その理由は、どんな小さな思考であろうとも、必ず過去のどれかの記憶にアクセスしているからです。

思考が働いていて、記憶を使わないということは不可能なことだからです。だから、瞑想して思考が緩んできたとき、まず先に未来が落ちて行きます。

そしてしばらくしてようやく過去も徐々に落ち始めて行くといった感じです。私たちのマインドというのは、過去の情報なくしては生きられないのです。

それくらい、ずっと連続して過去の記憶を使い続けているのです。だから、マインドが作り出すもので本当に新しいものというのはありません。

どれほど斬新に見えたとしても、所詮は過去のアレンジでしかないのです。思考は、独創的なものを生み出す能力が完全に欠落しているのです。

だから真の芸術はきっとハートが関係しているのでしょうね。

愛は何も必要としない

自分にとってかけがえのない大切な存在を失ったとしたら、人は途方もない喪失感に打ちひしがれてしまうでしょうね。

その事実を、そう簡単には受け容れることもできなくなってしまうかもしれません。けれども、その痛みから一歩も逃げずにただそこにいられるなら、新しい世界が開けてくるものです。

逆にいつまでも受け入れることができなければ、人生はそこで停滞してしまうことになりますね。自分にとっては絶対必要な人だということは、それが愛ではないことは明白です。

愛は何かを必要とはしないからです。愛はひとりで充足している状態が基本にあるからです。

「僕は君を必要としない。僕は君を愛しているから。」

変に聞こえるかもしれませんが、これが真実です!

目を開けて瞑想する

私の瞑想のやり方には、大きく二つの方法があって、それは目を閉じる従来からやってきた方法と、もう一つは目を開ける方法なのですが、後者がちょっと自分の中では流行りなのです。

目を開けて行う方法だと、イメージとして外側から見ればどこか遠くの虚空を見つめているように見えるかもしれません。

その方法のいいところは、意識が内向きになるのがはっきりと分かるし、更にもっと奥へ奥へと向けて行く感覚もより感じやすくなるのです。

欠点はどうしてもまばたきしてしまうので、開いたままでいられるようになったら、物凄く深く入っていけるような気がしています。目に悪いかもしれませんが…。

また、これは以前よりやってきたことですが、目を開いていても閉じたときと同じような感覚を作るのです。閉じたときの暗闇がバックグラウンドとして、いつも見えている状態です。

これまでのクセなのですが、瞑想している間に起こる身体のあらゆる変化を、どうしても期待してしまうのですね。それはいらないとはっきり分かっているのですが、なかなかやめられません。

身体の変化に意識を向けずに、どれだけ意識的になれているのかをチェックするようになるといいのですが、これにも練習が必要のようです。

瞑想は奥が深いです。死ぬまでにどのくらいの深みまで行けるのか、楽しみです!

思考は意識の静謐さを邪魔する

写真を撮る時によくあることですが、手ブレによってピントがぼけたような写真になってしまうということがありますね。誰でも経験があると思います。

我々の身体はいつも動いているため、完全に手ブレを起こさないようにするというのは、至難のワザです。緊張によって力が入って震えることもあるかもしれません。

あるいは、いくらリラックスしていたとしても呼吸もしていますし、あるいは心臓の鼓動だって、身体の動きを微妙ですが起こしてしまうからです。

それと同じようなことが瞑想中にも起きている気がします。瞑想して思考が小さくなってくると、微妙に今この瞬間に対して手ブレのようにズレがあることに気づきます。

そして、ものすごく繊細な感覚でそのズレを修正できるなら、今という永遠と一つになった感覚がやって来てくれます。実際に身体の微動も邪魔になります。

思考こそが、幻想ですが時間の流れというものを感じさせているということです。思考は、意識の静謐さを邪魔するものなんだとはっきり分かります。

そのくせ、私たちは日ごろからずっと思考まみれになっているんですけどね。

具合の悪さを見る

風邪をひいてしまい、明らかに具合が悪いのですが、そんなときにも内側に意識を向けることはできますね。これまでの記憶では、そこそこ健康な時にはできていたのですが、少し具合が悪くなるとできなかったのです。

ジ~ッとその具合の悪さを内側から見ていてあげると、明らかに見ている自己は具合が悪いということはないと分かります。具合の悪さがそこにあるという感じ。

せっかく具合が悪いので、それをとことん味わってみようと思います。本当の自分がその具合の悪さの中にはいないということが、もっとはっきり分かるまで。

とはいうものの、早く治って欲しい気持ちでいっぱいです!

内側にも光がある…

五感の中でも目(視覚)というのは、特に重要なものですね。聞いた情報ですが、視覚は全体の感覚の中の八割を占めているそうです。

つまり脳が処理する外からの情報の内、八割は目から入ってきたものだということです。だから、瞑想するときには目を閉じる人が多いということです。

目を閉じるだけで、八割の外側からの情報をシャットアウトすることができるのですから。だから、視力を失うということがどれほどのことか、想像もできないくらいです。

会社員の頃に、ストレスのために一時的に視力を失ったと言っていた人がいました。しばらくして回復したからよかったものの、先がどうなるか分からない状態では凄まじい恐怖だったでしょうね。

ところである有名な詩人が、あるとき失明してしまうのですが、彼はその後、それ以前とは比べられないくらいに素晴らしい詩を書いたそうです。

目を失ったことを受け容れるまでは大変だったのでしょうけれど、受け入れてからは内側がどんどん見えるようになって、決して内側は闇ではないことに気づいたのだとか…。

目を閉じて瞑想を続けても、すぐに眼を開いて外を見ることができてしまうので、瞑想の効果があっという間に消えて行ってしまうのかもしれません。

だからといって、光を失うのはやっぱり怖い、当り前ですね。

内側を見る練習

あなたがもしも日頃、何らかの問題を感じているなら、その問題はあなたの内側にあるのです。外側には実はどんな問題もありません。

ところが私達の知覚というのは、全て外側に対して使われるように出来ています。目でも耳でも、手も足も外側に向かって機能します。

だから外側の世界にばかり気を取られてしまうのです。したがって、問題のありかである内側を見るためには訓練が必要なのです。

内側に内側にと意識を向けていく事ができるなら、外の世界とは比較できないくらいに深くて広大な世界がそこに広がっている事に気づくはず。

そのことに気づいてしまったら、その時にはきっと当初の問題などは、どこかに消え失せてしまうはずです。

問題があったのではなく、外側に意識を向け続けるその生き方自体が問題だったということだからです。今日からでも訓練はできますよ。

時間をとって瞑想しなくとも、日ごろから外を見ている自分を見る練習をすればいいのです。その方が、現実に即しているし、それがそのまま意識的な人生へと変えて行くことになるのですね。

自立を超えた自消?

子供のうちは、何とか自立することで立派な大人になろうと思うものですね。ところが、この自立と言っても実は大きく二種類に分類されるのです。

男性が特に要求されるものとして、経済的自立というのがあります。自分の食いぶちは、自分で稼げというものですね。最近は女性にも要求されるようになってきたのかもしれませんが。

あとは、内面的なものである精神的自立というのもあります。自分の足でしっかり立って、誰かに依存せずにいられるようになること。

後者の精神的自立というのは、すごく奥が深いものだと思います。たとえば、社会の中で立派な業績を上げて、恥ずかしくない社会人として生きる。

あるいは、深く内側を見つめて行って、自分は「ひとり」であることを見ること。そして、それは決して孤独ではないことに気づいていること。

この辺りになってくると、自立という言葉よりも本当の意味での成長という言葉のほうが適切なのかもしれませんね。社会の中にいて、社会に染まらずに超然としていること。

いろいろな表現ができますが、世俗にまみれた自立よりも、超然とした自立の方が感じいいと思いませんか?きっと、自立の最終形は、自が消えていくことです。

だから、自立ならぬ自消なのかもしれません。

「自分に関わる記憶を使わない!」を唱えると…

 

初めて会った人に対して、自己紹介をして下さいと言われれば、それなりのことを言えるはずですね。けれども、その情報は一体どこからやってくるのでしょうか?

自分のことなんだから知っていて当然と思うかもしれませんが、実は記憶の中の情報を使って相手に説明しているに過ぎないのです。

でも、記憶を思い出そうとなどしていないつもりでも、自分のことを説明できるとしたら、それはなぜなのか?それは気づかぬうちに、つまり無意識のうちに記憶を取りに行っているマインドの部分があるということです。

本当に全く記憶を使っていないのであれば、自分の事とはいえ、何も言えなくなるはずです。残念ながら、私たちは記憶を使わずにいるなどという芸当はできないのです。

もしも仮に、どんな記憶も使わないでいられる瞬間があるとするなら、それは思考が完全に停止した状態になっているということです。

そんなことを考えていて、ちょっと面白い瞑想の方法を思いつきました。それは、以下のような言葉を唱えながら、ただそこに居るという方法です。

それは、「自分に関わる記憶を使わない!」という宣言を繰り返すのです。それを繰り返すと、素直な潜在意識は自分にまつわる記憶にアクセスしないようになるのです。

それだけで、あっという間に今この瞬間の中へと没入していく感覚がやってきます。それだけで、外側へと向いていた意識が内側へ向きを変えるのがはっきり分かります。

思ったように瞑想できないと感じているなら、試しに挑戦してみて下さい。思いのほか、何か不思議な感覚がやってくるかもしれませんよ。