未消化なエネルギーを解放する

夜になって辺りが暗くなると見えて来る夜空の星々、以前はよく天体望遠鏡で観てきれいだなあと思っていました。あの星たちは、実は昼間の青空にもあるって、知ってますよね?

太陽の光が邪魔をして、あの星たちのわずかな光が打ち消されてしまって、ただ見えないだけだということを。煙突の下から空を見上げたなら、ちょうど真上に星があれば、真昼でも見えるって知ってました?

眼に直接太陽光線が入ってこないために、暗い煙突の中で瞳孔が開くんですね。だから、わずかな星の光でも確認できるという原理です。

見えるか見えないかとは別に、空にはいつも星があるように、私たちが夜寝ている間に見る夢も、実は起きて活動している間もずっとあるのです。

夜寝てしまうと、表面意識(意識的マインドの部分)が落ちて、その下にある潜在意識の中で起きている夢が表面化するのです。だから、寝ている間にだけ夢を見ると思い込んでいるのです。

けれども、本当はいつだって意識下において夢はその活動を続けているというわけです。試しに、心を静かにして目を閉じてみて下さい。

ほら、思考がウヨウヨしていませんか?それが夢です。夢の中でも比較的すぐにでも表へ出かかっている夢ですが、夢には違いありません。

夢の正体は、日ごろ私たちが都合が悪いとして、意識下へと抑圧してしまった感情や思いなどが、そのエネルギーを消化しようとする活動なのです。

だからもしもあなたが日頃、思考が止まらないと感じているなら、未消化なものを沢山隠し持っていると思って間違いありません。

あなたが探し求めている究極の宝物は、その思考の奥底に隠されているのです。その宝物に出会いたいなら、思考を止めてその奥に分け入ることです。

それが瞑想ですね。けれども、思考が邪魔をしてとてもじゃないけど、その奥へと入っていけないのなら、癒しを進めて未消化なエネルギーを落とす必要があるのです。

一人ではちょっとと思っているなら、専門家の力を借りるのも悪くはないですよ。

この瞬間、望みは抱けない

osho の言葉です。

望みは過去から生まれる以外になく

かつ未来に託す以外にない

だが、両者とも実在しない

実在するのは現在だ

この瞬間こそ、唯一存在するもの

この瞬間に対して望みは抱けない

この瞬間にいて、それを楽しむことしかできない

以上

真の充足とは…

今日もシンプルに…

マインドは常に求める

ところが、残念ながら何を手に入れても

満足することはできない

なぜなら、マインドの不足感は内側のものだから

あなたが手に入れてきたすべては、外側のもの

だから、マインドは永遠に満たされない

逆にマインドが落ちたときのみ

あなたは真に充足することができる

以上

人生をシンプルにするには?

生まれたばかりの赤ちゃんにとって、大事なことは気持ちいいか悪いかだけです。大人の言葉を使えば、快不快が大きなウェイトを占めているということです。

これはすべての動物も同じです。つまり、動物としての本能のようなものですね。ところが、親から指南されることは、善悪だとか、正不正ばかり。

結局、幼い子供は快不快よりも善悪、正不正の方ばかりに気を取られることとなっていくのです。そして確実なことは、快=善(正)、あるいは不快=悪(不正)とはならないということ。

自分にとって心地いいことも悪と言われてしまえば、それを禁止しようとしてしまいます。そうやって、気づいたときには、善悪、正不正の方が快不快よりも圧倒的に大事なことになってしまうのです。

そうなると、快不快は都合が悪い情報として、意識下へと押しやれてしまい、自覚できなくされてしまうことになるのです。

そうやって、人は理性的な人間へと変貌を遂げていくわけです。その度合いが極端になれば、必ず身体や精神の異常となって表れてくるでしょうね。

あなたは、自分の人生の軸をどちらに置いていますか?善悪?それとも快不快?快不快だけでは、社会人として生きていけないと思ってませんか?

誰になんと言われても、やりたいことをやるのは、善悪とは無縁です。いやなことは、どう思われても「ノー」とはっきり言うのも、正不正ではなく、快不快の方ですね。

快不快を優先して生きれば、いたって人生はシンプルなものになっていくはずです。少々勇気が必要となるかもしれませんが…。

生を全的に生きるには

私たちの内面は、大なり小なり分裂しています。なぜなら、幼い頃からずっとお前のままではダメなんだと教えられて育ってきたからです。

本当はこうしたいけれど、それではいけないと言われ、幼い子は渋々従うしかないのです。それが、分裂を生むことになるというわけです。

その分裂した内面こそがマインドであり、それが人格を作っていくのです。もしもあなたの内側にまったく分裂がなければ、あなたという人格は存在しないはずです。

覚醒した存在とは、そうした分裂が消えてしまった状態を指すのです。つまり、分裂によって出来上がったマインド(エゴ)が落ちた状態です。

だからその存在には人格もありません。内側が全一になっているのです。表と裏がないということです。その時に、初めて全的に生を生きることができるのですね。

私たちの人格とは、そういう意味では常に生の一部だけを生きているということです。なんだか勿体ない話しですが…。

こんな童話はいかが?

こんな童話はいかがでしょうか?

あるとき、大海原のある場所に、小さな可愛らしい波がいくつかできました。その波たちは、勿論数秒のうちには消えて行ってしまったのですが、その間に起きた出来事です。

ある小さな波が言いました。「なんでも僕たちを作ってくれた無限に大きな海と言う存在がいるらしいよ。祈れば、どんな願い事でも叶えてくれるらしい!」

隣にいたこれまた小さな波が応えて、「え、そうなの?その海って一体どこにいったら会えるの?是非とも、もっと立派な波になれるようにお願いしたいな。」

また別の波が言いました。「どこにいるかは分からないけれど、遥か遠くなんだろうね、きっと。もし会えたら、長生きできるようにして欲しいもんだ。」

それを聞いていた更に別の波も口を開きました。「私はそんな海の存在なんてぜ~んぜん信じてないわ!だって、私は無神論者なんだから。」


 

これが私たちの現実だと気づけばいいのです。波というのは、そもそも海面の上下運動から出来るものであって、海そのものだと。

海(神)はどこか遠くにいるのではなくて、あなたの本質こそが海(神)だということを。人間も波と同じように、あっという間に生まれては消えて行く運命にあります。

けれども、やはり波と同様に、消えるのは表面化した現象としての顕われであって、消えれば誰もがただ海そのものだったと気づくだけなのですね。

そして肉体が消える前に、自分の本質に気づくことができたら、何て素敵なことなんでしょう!

「今」の中へ分け入る

最近午前中の時間帯は、独りで過ごすことができるようになったせいか、少しだけ意識の深さが違ってきたような自覚があります。やっぱり、環境って大きいですね。

誰かと会話をしたり、他人の存在を気にしていると、知らず知らずのうちにどうしても内側に意識を向けることが難しくなるのでしょう。少なくとも私の場合は…。

わざわざ瞑想の時間を作らなくても、ただただ「今」に注意を向け続けているだけで、自ずと思考から解放される感じがはっきり分かるようになりました。

そして大切なことは、普段の生活の中でその感覚をなるべく継続させておくということです。それができると、面白い現象が起きることも分かりました。

興味深いのは、外側からやってくる刺激に対して、比較的無頓着になるということです。やはり思考が起きなければ、感情的な反応も起きなくなるということですね。

それはとても楽です。運転中にそれを実践し続けていると、いつもと比較してイラッとくることが激減するのです。反応しないというよりも、反応する自分をただ見ているというか…。

内側へ内側へと意識の向きを固定することで、外側への注意が小さくなってしまうのでしょう。何とも快適です。人との会話中にもそれができるなら、とても素晴らしいのですが、まだまだです。

「今」というのは、本当に奥深い!

瞑想は心地いい

普段クルマを運転している時には、充分に慣れた人なら、クルマがまるで自分の手足のように感じるでしょうね。それはとても気持ちのいいものです。

ところが、ある一定の速度を超えて、更にそれを上回るような相当なスピードを出して行くと、クルマの態度が一変してしまうことに気づくはずです。

普段の従順なクルマとは打って変わって、もうお前の指図通りにはならないよと主張してきます。これは、経験したことがなければ分からないかもしれません(経験しない方がいい!)。

瞑想中にもそれと同じような感覚がやってくることがあります。普段は、自分の采配で人生を歩んでいる感覚があるはずなのに、それがどうにもならないという感覚がやってくるのです。

自分はとても小さくて無力である反面、生はとてつもなく巨大でとてもその力には対抗できないという感覚。自分はこの生のほんの一部でしかなかったと…。

エゴにとっては少々屈辱的なのですが、一方ではこれ以上の安らぎもないのです。生に対して、すべてを委ねてしまうしかないのですから。

だから瞑想は心地いいのですね。ただし、その心地よさも実はしっかりとエゴのものなのです。瞑想している限り、エゴは健在なのですから。

溜めずに生きる

死への恐れというのは、それまで溜め込んだものを奪われてしまうということにあるのです。溜め込んだものへの執着が強ければ、それだけ死の恐怖は強大なものとなってしまいます。

その反対に、何も溜めずにいて、何も所有するものがない状態であれば、失うものがないために死への恐れは非常に小さくなるはずです。

私たちがまず初めに溜め込み出したのは、自己イメージです。それは周りの人が投げてきたその人の印象でしかなかったのですが、それをそのまま受け取り続けて、溜め込んできたのです。

その自己イメージが否定的なものであればあるほど、肯定的なものへと変えようとして、足りないところを外側から手に入れることで補おうとするのです。

そうやって、あらゆるものを溜め込む人生がスタートします。不安が強ければ強いほど、人はモノやお金、あるいは実績や誰かの評価を溜め込むのです。

過去の経験も全部溜め込んで自分の財産にしてしまうのです。それは重くて身動きが取れずに、不自由な人生を作り続けていることになるのに、一過性の安心のために溜め続けてしまうのです。

あなたが何かを所有しているという幻想を見抜くことです。何かを所有するということ自体が不可能なことだと。それが深く理解できれば、溜め込む人生からおさらばできます。

何も溜めずに、常に手ぶらでいること。どんな過去もゴミとして捨ててしまうのです。そうして何者でもない自分、ただ在る自己としていれば、死への恐れもどこかへ行ってしまうでしょう。

あなたの本質は円の中心 その2

昨日のつづきです

あなたというエゴは

その円周上をグルグル動きつづけてさえいれば

決して中心に落ちることはない

けれども、その動きを完全に止めてしまえば

あなたは中心へと落下することになる

それはまるで、地球の周りを回っている人工衛星のよう

ただし、あなたが落ちるとき

隕石のように燃え尽きて

あなたは決して中心に到達することはない

以上