真理は非論理的という理解

15年ほど前に、ある人のヒーリングの授業を受けていたことがあったのですが、その時の先生にこんなことをみんなの前で言われたことがありました。

それは、「あなたはアナライザー(分析屋)です。分析ばかりしていると、ヒーリングの効果が落ちるばかりか、ヒーリングそのものができなくなってしまいますよ!」と…。

その先生が伝えてくれる内容が、どうにも訳が分からなくて、質問ばかりしていたからなのでしょう。仕舞いには、私が手をあげて質問しようとするだけで、会場がざわつくというはめに。

けれども、自分としては逆に何の質問もせずに先生の言いなりになるほうが、不思議な感じがしていたのです。今にしてみれば、そういう人がいるということも理解できるのですが、当時はさっぱり分かりませんでした。

私は分析屋と呼ばれても、何も怯むことはありませんでした。自分がものごとを論理的に考えることは、決して悪いことではないと確信していたからです。

その点に関しては、今でも少しも変わってはいないのですが、ただし、真理は非論理的なものだということにも気づいたのです。

そして、真に論理的な考え方ができるなら、真理が非論理的であるということも、論理的に導き出せるはずだという思いがあります。

論理的に突き詰めていくことで、真理は論理の世界では到底把握することのできないものだということに、論理的に行きつくことができるからです。

逆説的ではあるけれど、充分に論理的であれば、その帰結として真理は非論理的だということの理解がやってくるということです。

人生にゴールはない

私たちは、どんなことがあっても、どの瞬間においても、本質的には決して満たされてはいません。不満と欠乏感に悩まされているのです。

そして、それはまだ自分がそのような地点に到達していないことが原因だと考えているのです。つまり、生には目的地(ゴール)があって、まだそこに至っていないのだと…。

それが苦悩の慰めになっているのですが、本当はそんなゴールなどどこにもないということに気づこうとはしないのです。それは、あんまりだからです。

不満と欠乏感はどうやったって、変わらずに常にここに在り続けることになってしまうからです。これは絶望するしかありません。

だから、ゴールがあると信じ続けるしかないのです。ところで、ゴールがあると思ってしまえば、そこにはゴールへの道があるはずです。

道があるなら、その道を踏み外してしまう可能性が出てきますね。それが恐れなのです。その道を真っ直ぐに進んでいる人は、善人、聖人、徳を重ねた人。

逆に道を踏み外した人は、悪人であり、罪人というわけです。このようにして、空想のゴールへの道が、善と悪、正不正を作り出してしまうのです。

ゴールがあれば、それに近い人の方が価値があり、ゴールから程遠ければ、それだけ価値がないという判断も当然されてしまうのです。

人類の苦しみを作り出しているのは、生にゴールという到達点があるという思考なのです。本当は、生そのものがゴールだと気づくことです。

生は手段であると同時にゴールなのです。どこへも行く場所はないし、誰かになる必要も、何かをする必要もないということです。

到達するとか達成するという観念はゴミです。それが、今この瞬間よりも未来を大切に感じさせてしまうからです。ゴールがなければ、未来に意味はなくなってしまいます。

意識を今に戻すことができたなら、ゴールがあると思い込む要因となっていた不満や欠乏感が、未来とともに消えてしまうはずです。

理解を深める大切さ

かつてあるクライアントさんがセッションにいらして言うには、「実は素晴らしい本に出会ったんですよ。その本にね、こんないいことが書いてあって、ホント目から鱗でした~」と…。

その時私は、目から鱗ではなく目がテンになってしまったのを憶えています。というのも、そのことは何度も繰り返しセッションでお伝えしていることだったからです。

悪意がないのは分かっていたので、本当のことをお伝えすると、しばし??となってしまったのです。長くこの仕事をやっていると、こういうことはごく当り前になってしまっています。

元々、セッションでお伝えすることは限られた内容なので、セッションの度ごとに角度を変えて、言葉を変えて同じことをお伝えしているのです。

それは、分かったつもりでいても、そのような理解をもっと深めて欲しいと思っているからなのです。それは、決してクライアントさんの理解力の問題ではありません。

クライアントさんの中にあるエゴは、私の伝えるような内容を本人に理解されては困るために、あの手この手を使って本人が忘れるように仕向けるからなのです。

だから繰り返しによって、少しずつ理解を深めていくということが必要になることが多いのです。こうしたことは、勿論私自身についても同様に言えることで、それについてはっきりとした体験を何度もしています。

今朝ほども、思っていた以上に深まったある理解があるのですが、それは人生にはどんな目的地(ゴール)もないということ。このことは、自分の中でははっきりとした理解にすでに到達していると思い込んでいました。

けれども、今朝ある本を読んでいて、びっくりするほどに自分の奥深くへと入ったのです。その瞬間、何かが変わったのを実感しました。

どんなゴールもないということは、どんな期待もあり得ないし、未来も落ちてしまうということです。この言葉では、実体験を伝えることは不可能ですね。

分かったつもりで終わりにするのではなく、大切なことは繰り返し意識の上に持って来て、何度も理解を深めていくようにすることで、気づきがやってくるのですね。

ハムスターの回し車

手軽に飼える可愛らしい動物として、みなさんもよくご存じのハムスターがいますね。例のあの回し車の中をグルグル高速で走っている姿が印象的です。

彼らが何であの回し車を走り続けるかと言うと、あの小さな身体で何キロも餌を求めて走り回る習性があるらしく、狭い檻の中であれが唯一走り続けられる場所だと理解するかららしいです。

本人としては、餌を求めてどこまでも遠くに遠征してる気分になれているのかもしれません。それが何とも愛おしい感じがしてしまいます。

けれども、あの姿をじっと見ていると、何だか私たち人間の姿とダブって見えてきます。私たちも、何かを求めて遠くへ旅行に行ったりしますね。

何処まで行ったところで、所詮地球の円周上を動き回っているだけなのですが…。また、昨日よりも今日、今日よりも明日はもっと進化した自分になろうと頑張っています。

どれほど頑張って、どんな結果を残すことができたとしても、すぐに人生は終わりを迎えることになるのですが、そうするとまた生まれ変わってもっと自分を改良しようとする。

そうやって、あまたの人生が無限に続くことになるのですが、結果としてどこへも行くこともないし、本人も少しも変わらずにいつまでも人間をやっている夢を見続けているのです。

人間としての進化は、常に水平方向であって、本質的などんな変化もないということに気づかないでいるのです。人間から抜け出すことこそ、その夢を見破ることこそが、回し車からの脱出を意味するのです。

水平方向から垂直方向へのジャンプです。その時、あなたは人間であるという一時の悪夢から醒めて、永遠である本当の自己に出会うことになるのです。

期待すれば束縛される

欲望と聞くと、何となくネガティブなイメージがあるのですが、希望とか期待というとどういうわけかポジティブで明るいイメージを持つと思います。

けれども、よくよく考えてみると、何かに期待するということは、こうあって欲しいと願うことであり、そうなってちょうだいという欲望なのですね。

希望もその同類です。未来に希望を持って、生きていくことはとてもいいことのように思われていますが、本当でしょうか?希望だってぶっちゃけ欲望なのです。

だって、こうなったらいいな、こうなって欲しい、こうなってちょうだい!これみんな同じなんですから。つまり、「ちょうだい」のエネルギーということです。

それは愛のエネルギーでないことは明白です。外側の事象に対して、要求しているのですから。それがいいとか悪いということではなく、それは愛ではないというシンプルな話し。

もしもあなたが、未来に対してどんな期待も持たないという状態になったとしたら、あらゆる心の重荷から解放されてしまうでしょう。

大切なパートナーに対して、親に対して、かわいい子供たちに対して、全く期待しないでいられるなら、あなたは完全に自由な状態でいられることになるはずです。

たとえば、あなたが大切な誰かに対して、きっといつか○○してくれるという期待を抱いているとするなら、それを求める度合いに比例して、あなたは強く束縛されることになるのです。

一見すると、辛いことのように思えたとしても、潔くその期待をきっぱりと諦めるなら、その束縛から自由の身になるのは間違いありません。

それがどれほど心地いい楽なものか、体験してみないと分からないでしょう。もしもこのことに興味を抱いたのなら、これを信じることなく徹底的に実践してみることです。

期待のない爽快感を一度味わったなら、二度と忘れることはできなくなるはずです。

何事も信じてはいけない

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、何か新しい知識を獲得して、癒しの足しにしようと考えていらっしゃる場合があります。

勿論、それは間違いではなくて、そういう面も確かにあるのです。それは、人のマインドとはこういうからくりで出来上がっているとか、自己イメージはこのようにでっち上げられるとか。

それはそれで大切な理解を得るわけですが、それでもそれは癒しのメインではありません。癒しの本質とは、これまで培ってきた知識や考え方などを徹底的に捨てることなのです。

あなたがこれは正しいと信じて生きてきた、あらゆる考え方、ものごとの捉え方などは、概ね癒しにとってのブレーキにしかならないということです。

前向きに生きるとか、人に迷惑をかけないようにするとか、冷静を保つなど、この社会の中では善さげに思えることでも、一旦すべてを白紙に戻すことが大事なのです。

この社会を作ったエゴにとっては、そうした正しさを武器として私たちをいつまでも翻弄しつづけようとするのですから。どんなことも信じることをやめること。

何も信じずに、興味があることを実践することでそれが自分にとって真実かどうかを自ら調べればいいのです。逆に信じた瞬間に、そうした検証を怠るようになるからです。

また自信を持つ必要もさらさらありません。不安でもいいのです。正しいか間違っているかも脇に置き、そうしたいかどうかに意識を向けるのです。

できるかどうかも大切なことではありません。エゴはできることにのみ、価値があると思い込んでいますが、それも信じる必要はありません。

あらゆるイデオロギーは、エゴのものに過ぎません。信念や信条を持てばもつほど、エゴは威力を増すということも憶えておくといいと思います。

ここに書いたことも信じることなく、自分なりに実証していくことですね。

真理の探究への道

誰かに、「具合が悪そうだね」と言われただけで、そんなことはないと思っていたとしても、何となく嫌な感じがしだしてしまった経験はないですか?

たとえば、朝起きて家族に「具合が悪いの?」と聞かれ、職場に行っても何度か同じようなことを言われ、夜友人にもまた言われたら、相当に具合が悪く感じるようになってしまうのです。

私たちは、そのくらい周りの人たちの言葉や反応に影響されやすいということです。きっと、それが自我が発生する最大の要因なのだろうと思うのです。

つまり、生まれてからずっと家族や周りの人たちからの、「○○ちゃんがここにいる」というエネルギー(思考)の波を浴びながら生きてきたのです。

その影響のせいで、知らず知らずのうちに、自ら自分の身体のあたりに「○○ちゃんがいる」という思考を作り出すことになるのです。

それによって、最初「○○ちゃん、お腹が空いた」から始まって、次第に「私、お腹が空いた」になって、めでたく自我の発生となっていくわけです。

赤ちゃんのうちに山に捨てられて、奇跡的にオオカミに育てられた少年少女がかつて発見された話しは、このブログでも何度か取り上げたことがありました。

彼らは、発見されたときには、自我を持っていませんでした。それは、私たちのように自我を持っている親のエネルギー(あなたがここにいるという思考)を浴びることがなかったからです。

結局、自分が居ない状態から始まって、自分がいるという思考を作り出して自我を作ってしまうことは、誰にとっても避けることのできないことだったのですね。

自我を作ることができなければ、この社会で生きていくことは不可能なことですから、それはそれでよかったのですが、その代償はあまりにも大きな苦悩だったわけです。

それを真正面から逃げずに見ることができる人は、おのずと真理の探究へと進んで行くことになるかもしれません。気づいた人は、もがき苦しみながらもそのような人生を送ることになる可能性があるということです。

時間感覚はエゴのもの

人によって感覚は違うかもしれませんが、私は子供の頃は一週間を物凄く長く感じていたのを憶えています。たとえば、大好きなテレビ番組を待つ時間がやたらと長い。

その番組を観終わった直後に、ここから丸々一週間も待たなければならないと思うと、気が遠くなるくらいに感じたものでした。

それなのに、当時父親が一週間があっという間に過ぎてしまう、と度々言っていたのを聞いて、大人はそんなもんなのかなあと思っていました。

それが今この歳になって、本当に一週間が矢のように過ぎていくのを実感しています。年齢によって、時間の感覚はこれほどまでに変化するものなのですね。

けれども、時間感覚はこれ以外にも大きく影響する要素があります。それは、快不快です。あるいは、苦悩と悦びと言ってもいいかもしれません。

苦悩が大きければそれだけ、時間は長く感じてしまい、延々と苦しまなければならないようになるし、逆に悦びの中にいるときには、時間はあっという間に過ぎていくように感じるものですね。

苦悩の中にいるとエゴが強くなるし、悦びの中では逆にエゴは希薄になることを考えると、時間感覚というのは、どうもエゴのもののようです。

それもそのはず、時間は思考の中にしか存在しないからです。思考が落ちて、純粋な意識だけになったとき、時間は消えて、永遠だけが残るのですから。

期待をなくすと身体が軽くなる

私はきっと変わり者なので、こいつは一体何をやってるんだろう?と思われても仕方のないようなことを、独りで時々実践しています。

先日も、未来に対して持っているあらゆる期待をなくすという、自分なりに考案したワークをやっていたときに、ふと初めての経験をしました。

それは、突然自分の身体が軽くなって、まるで浮いているような感覚になったのです。勿論、それは一過性のものであったし、それ自体はどうってことない経験でした。

けれども、それによって気づいたことがあるのですが、それは、私たちは知らず知らずのうちに、未来に対して期待をしていて、それが自分に対して大きな重荷を負わせているということ。

期待と重荷というものが、連動するようには一般的には想像できないのですが、経験上それが判明したのです。あの軽さは、完全なる自由の感覚からきたものだろうと思うのです。

如何に気づかぬうちに、不自由という重荷を背負って生きているかということですね。なぜ未来に期待すると自由が奪われてしまうのか?

期待があると、その期待が裏切られたときに、苦悩がやってくることを知っていて、もしかしたらそれが重荷になっているのかもしれません。

きっと覚醒するとあんな感じで身体の感覚自体も変化してしまうのかもしれないと思ったのです。あの軽さから戻ってきたときに、地球の重力は半端ないと感じましたね。

あなたは全体性そのもの!

いつもいつも、できる限りどんな時でも、全体性に意識を向けておくことが、とても大切なのです。その時、思考は止まり、エゴは活動できなくなるからです。

なぜそうなるかというと、思考には本来、無限というものを理解することができないからです。全体性とは、大きさが無限の「ひとつもの」のことだから、それは即思考停止を促すのです。

小学生の時に、分数と少数というものを習いますね。たとえば、1÷3を分数で表せば、1/3となり、少数で表せば、0.33333…と3が無限に続くわけです。

ここで、(1/3)×3=1という計算は成り立つのですが、0.33333…×3という計算は成り立ちません。なぜなら、0.33333…は無限に続くものだからです。

もしも、0.33333…×3=0.99999… のようにしてしまうと、1=0.999999…が成り立ってしまうことになり、計算結果に矛盾を生じます。

つまり、計算という思考の領域においては、無限というものを取り扱うことができないということです。今日言いたかったことが、ここでようやく言えるのですが。

無限である全体性を分割することはできないということ。割り算は全体性に対しては不適当だということです。決して全体性をいくつかの部分に分けるということはできません。

無限とはそのような性質を持っているのです。私たちの本質である全体性とは、そのようにしてただ、「ひとつあること」なのです。それは分離できないもの。

あなたは全体性の一部とも言えるけれど、全体性から分離した一部という意味ではないということ。なぜなら、全体性は分離不可能だからです。

あなたは、全体性そのものだということ!