安心を求めれば不安がやってくる

きっと誰にでもある経験ですが、寝ようと意気込めばそれだけ寝付けなくなるというのがありますね。寝ようとする努力が却って睡眠への導入を阻害するわけです。

一番いいのは、寝なければという思いを忘れてしまうこと。そんなことはどうでもいいという心理状態になることができれば、自然と睡眠はやってきてくれます。

こうした皮肉は沢山あります。セッションをしていて、日々感じるのは安心・安全を求めれば求めるほど、不安でい続けることになるということ。

多くの人は、自分を幸せにしたいと表では願っているものの、その実体はと言えば、ただ安心していたいのです。安心こそが最大の関心事なのです。

だから、一瞬の安心を得ることはできたとしても、すぐにまた不安がやってきて、それは果てしなく繰り返されてしまうということです。

ではどうしたらいいのか?それは、不安をそのままにしておくということに尽きます。この世界というのは、元々何が起こるか分からない危険だらけの場所なのです。

だから殊更安全安心を求めることを潔くやめて、当然あるはずの不安の中に敢えてそのままにいるようにするのです。ずっと不安の中にいて対処せずにいる人は、逆説的ですが安心することになるのです。

信じなくていいですから、興味があったら実践して確かめてみることです。勇気がいるでしょうけれど、体験できたときにやってきた心の安定に驚くはずです。

人は誰でも探究者

人は誰でも探究者なのです。一体何の探究をしているかって?それは、自覚があろうがなかろうが、自分は誰か?自分とは何か?という探究です。

まさか、自分はそんな愚にもつかないことにはまったく興味もないし、そもそも自分は自分だろうが…、って思っている人がほとんどかもしれません。

けれども、究極的には誰もが自分の存在証明をしたくて、飽くなき探究を続けているのです。勿論、その形は千差万別ですけれど。

存在証明というのは、自他共に認めるこれぞ自分!というお墨付きをもらうこと。自己証明、つまり確固としたアイデンティティを得ることですね。

ある人は、この社会の中で人よりもよりお金を儲けることで、またある人はより優れた能力を身につけることで、あるいは人格を磨くことで。

そして、恋愛も実は根っこにそれがあるのです。愛されるということは、自己証明になると感じるからですね。誰かに愛されて、自分の存在を安定した確実なものにしたいのです。

そして、こうした存在証明の探究は生きている限り、ずっと繰り返されるのです。なぜなら、それで証明しようとしているものが、真の自分ではないからです。

偽物というのは、ずっとサポートし続けなければならないのです。放っておけば、すぐにでも化けの皮が剥がれてしまうからです。

逆にあなたの真実の姿とは、どんな努力も必要なくずっとそれで在り続けるだけです。そこに一体どんな証明の必要があるというのでしょうか?

外側の何かを使って自己証明することのバカバカしさに気づいた人は、その努力を内側へと向きを変えることになるはずです。

そして、直接的な自己探求へと進むことになるのです。どこまでもどこまでも、内側を奥深く進んでいけば、自分の真の正体と出会うことになるのです。

「無為自然」に生きる その2

昨日のつづきです。

昨日のブログで、人間だけが自然に生きるか、不自然に生きるかの選択権があるということを書きました。で、昨日とまったく違うことを書きます。

別の見方をすれば、その選択権があるかのように見えること自体が、自然の中で起きていることだと捉えることだってできるのです。

自然の中で動物の進化があるレベルまで到達して、人間が発生して、奇跡的にも意識を持つようになったと同時に、自我をでっち上げたのです。

自我は、自分には独自の自由意志があり、物事を選択する能力があると感じるようになったのです。その自由意志も含めて、自然の中で起きていることだと捉えればいいのです。

そうなってくると、自由意志はあるようでいて、実はないということに気づきます。このことは、脳神経科学の結論とも一致することになったのです。

やっぱりあなたは自然の一部だということです。なによりも、自我は架空のものなので、つまり自分はいるという思い込みに過ぎないので、不自然というものは存在しないと分かります。

じゃあ、老子が言いたかった真意とは何だろうか?それは、自我も自我が作ったこの世界も幻想だと気づくこと、それすら自然の一部で起きていることには違いないのですけどね。

「無為自然」に生きる

この宇宙、この世界というのは自然そのものです。植物も、あらゆる動物も自然に生きています。というよりも、自然にしか生きることができません。

そんな中で、我々人間だけが自然でいるか、不自然でいるかを選択することができるのです。これは、とんでもない奇跡かもしれません。

動物はトイレを我慢することは普通しないしできませんが、人間はトイレを我慢することは日常的にしていますね。お腹がいっぱいなのに、まだ意地汚く食べてみたり、食欲があるのに断食してみたり。

人間にとって、不自然に生きるということは物凄く魅力的なことなのですね。不自然というのは、人為的と言い換えてもいいですが、それはマインドの働きによるものです。

マインドは、不自然な生き方を選択すると、自分がいるという証明になると思っているのかもしれません。その不自然を落とすことこそが、老子が言った「無為自然」ということ。

独自の信念、独自の発想、独自の正しさ、こういったものを頼りにして、闘えば闘うほどにマインド(エゴ)は力をつけていくのです。

そうやって様々なものを手に入れた大人のマインドの中は、もうゴミだらけになってしまって、あるがままを見ることなど不可能な状態になっています。

そのゴミをゴミだと見抜くことができれば、不自然さが次第に緩んでくるはず。なぜなら、ゴミを取っておこうと思う人は誰もいないからです。

手放すなどと思う前に、ゴミ箱に捨ててしまうでしょう。その時、マインドの中は空っぽの状態へと戻って、無為自然に生きることになるのでしょうね。

夢を夢と見抜くには?

みなさんは、ルシッド・ドリームという言葉を知っていますか?日本語にすると、明晰夢というらしいのですが、要するに夢の中でこれは夢だと気づく夢のことなのです。

一般的には、夢の中ではこれが夢だとはまったく気づかずに、その夢の中で何かに必死になっていたり、いやな思いをしていたりと、深刻な状態が続くわけです。

苦しい夢であれば、これが夢だと途中で気づくことができたら本当にいいのですが、いくらそう願ったとしても目が醒めるまでは夢を現実と見てしまうのですね。

これはもしかしたら私だけかもしれませんが、時々自分にとって都合のいい夢を見ることもあるのですが、そういうときに限って、これって夢だよなあとどこかで思ったりするのです。

で、夢だろうが何だろうが構わないので、夢の続きをずっと見ていたいものだと思うのです。悦んでいるような夢の時ほど、それを現実だと思いつづけられた方がいいはずなのに…。

それでふと考えることがあるのですが、この人生が物凄く都合のいい状態で推移しているのなら、この現実は夢なのだと気づくことができるのではないかと。

大して満たされていないからこそ、もっといいことが起きないかと願うからこそ、この現実という夢の中にい続けてしまうのではないかと。

いずれにしても、あなたが自分の人生というドラマの主役として生きていると感じているものは、間違いなく思考がでっちあげた夢だということです。

夢から醒める方法は、夢であることを見破る方法はあるのでしょうか?それは、あなたがいるという幻想を見抜くことかもしれません。

今と現在の違い

マインドが活動を続けている私たちの日常では、時間の中で生きているように感じています。時間は思考の産物だと言われても、なかなか理解できないものです。

時間を過去、現在、未来と言う具合に三つに分けて考えるのですが、今という感覚も時間の一部だと思ってしまいがちですが、実は今は時間の中にはありません。

そのことを、言葉を使って説明すればすべてが方便になってしまうのですが、こんなのはどうでしょうか?

今とは、映画館で映画を鑑賞しているその空間のこと。

現在とは、その時上映されている、まさにその瞬間の映画の内容のこと。

映画のストーリーの過去現在未来という時間の流れからすれば、館内の空間及び観客は今という名の永遠となる。

私たちは、人生というストーリーを思考なく見守る観客にならなければならないのです。そのときに、初めて今という永遠の中に在ることになるのです。

無目的な瞬間を生きる その2

昨日のブログを書いてから、無目的な瞬間を自分なりに作ろうと思い、言葉では表現しづらいのですが、しばらくじっとしてから床についたのです。

しばらくして、突然目がパッチリと開いたと思った瞬間に、身体全体が何とも不思議な感覚になっていました。相当に怪しいビックリするような感覚ですね。

ただ最近では、そうしたことにも驚くことがなくなったし、以前はあった期待感も消えて、要はそういうのはどうでもいいと思えるようになったので、エゴの誘惑には乗らずに済むのです。

ただ冷静にその体験がなぜ起きたのかを考えると、やはり何の目的もない時間を過ごすと、エゴは相当に困るし、思考が行き場を失ってマインドが停止状態になるのかもしれません。

マインドが停止すると、気づかぬうちにあった身体への負担が一気に減少するのでしょう。それがこれまで経験したことのない感覚としてやってくるのだと思えたのです。

とても興味深い体験ですが、体験しているのは間違いなくエゴなので、そのレべルのものだということで、それ以上でもそれ以下でもありません。

ちなみに、仕事の合間に一人でいるときにも無目的の状態でいるようにしてみると、自分の本質が実存としてただ在るという感覚がゆっくりと浸透してくる感じ。

興味があるなら、是非工夫して実践してみるといいと思います。

無目的な瞬間を生きる

私たちの行動や行為、言動などは必ず何等かの目的を持っています。学校に行くのは、そう決められているからだし、大人になって仕事をするのは、お金を稼ぐため。

友人とお酒を飲むのは、憂さ晴らしかもしれませんし、テニスに興じるのは身体を動かして楽しむため。何であろうと、なぜそれをやってるか?と聞かれたら、○○のためと答えられるのです。

なんなんですかね、これって?たまには、聞かれてもまったく説明がつかないようなことをしてもいいのではないかと思いませんか?

説明できないこととは何でしょう?それは目的のないことです。どんな目的もないことを、誰かに説明することは不可能なことですから。

あなたの一日のうちの、ほんの数分でもいいから全く目的のない状態でいることができるなら、これは画期的なことになってしまいます。

最もシンプルな理由は、「そうしたいから…」だと思うのですが、それですら立派な目的があるわけです。無目的とはこれほど難しいのです。

私たちの周りに広がっている自然は、どんな目的も持ってはいません。バラの花は、目的を持って咲くわけではありません。植物だけでなく、あらゆる動物も目的を持たずに生きています。

人間だけが、目的を持たずに生きることができない。つまり自然に生きることができないのです。それは、不自然に生きているということ。

不自然は何と魅力的なことか。自然のままに生きようとすれば、つまり目的を失って生きるということになるのですが、それは自我(エゴ)にとっては致命的なことなのです。

だから、もしも自分のエゴと少し距離をとりたいのなら、無目的な時間を過ごすこと。不自然(人為的)な世界から抜けて、自然と調和する瞬間にこそ、永遠の至福が待っているのでしょうね。

今日の風に吹かれる

自分には、座右の銘などというものは全くないのですが、自分に合っていて気に入っている言葉が一つあるのですが、それは『明日は明日の風が吹く』なのです。

驚くことに、それが小学生の頃から少しも変わっていないのです。小学生の卒業アルバム?か何かの寄せ書きにもそれを書いた記憶があります。

ただし、その時は何を書いたらいいのか皆目分からずに、ふと思い浮かんだのがその言葉だったので、それをただ書いたという面もあります。

けれども、未だにその言葉が気に入っているということは、自分にとっての理想的な生き方をイメージすれば、それが一番近いという感覚があったのでしょう。

明日というのは、未来のことを意味していますね。まだ来ていない未来を心配したり、深刻に考えたりすることは何とも馬鹿ばかしい限りです。

それは重々分かってはいるものの、気が付くとこうなったら困る、ああなったらどうしようとあれこそ未来を予想して思考が止まらなくなったことは何度もあります。

未来のことは、そのときに生きている未来の自分に任せておいて、今を生きている自分は大切なこの瞬間を意識的に生きようと思うのです。

決してそれが正しいことだとか、高貴なことだとか、立派だということではありません。ただ、できるだけ身軽になって爽快な気分で今を過ごしたいだけです。

明日という未来のために生きるのをやめる。なぜなら、明日が今日になってみないと分からないことが沢山あるはずだからです。分からないことは潔く分からないことにしておくということ。

あなたが全身で感じられる気持ちのいいそよ風は、明日の風ではなくて今吹いている風だけだからですね。

真理は非論理的という理解 その2

昨日のつづきです。

昨日書いたヒーリングの授業ですが、実は生徒の8割以上が女性だったと記憶しています。女性は論理的な男性と違って、元々が非論理的な部分が多いのです。

だから、彼女らからすれば、先生の説明することに対して、私が抱いたような疑問も質問もなくても当然なのですね。そのことを理解していなかったのです。

女性の内面が男性に比べて非論理的ということは、男性よりも女性の方が真理により近いところで生きていると言っても過言ではありません。

私はずっと、何かを教わって質問がないということは、しっかり理解していないことの証しなのだろうと思っていたのですが、理解せずに進めて行かれる学びもあるということですね。

今となっては、はっきりと分かるのですが、真理に対するどんな質問も的を射てないということです。質問自体がどれほど頑張っても思考の内側に過ぎないからです。

それでも、思考(マインド)は理解したいのです。理解できないと、不安になってしまうからです。知らないということは、怖いのです。

真理を理解することは不可能なこと。深々と観念する以外ありません。こんなことは、女性にとっては当り前のことなのかもしれませんが、男性にとっては勇気がいることなのです。

女性の域に追いつくのに、男性は10年かかると思って間違いありません!