独り催眠療法

夕べのことです。ベッドに入ってしばらくしたときに、いきなりガーガーガーという非常に耳障りな音がしたと思ったら、目には見えないのですが何かの場面が…。

どうもそこには、自分を含めて3人がいるようで。でも何も見えない、見えないどころか目を開けても真っ暗な状態なのです。

そのうち、小さな男の子の声で、「お母さんが悪い!」と泣きながら訴えているのです。あれ、これはきっと幼いころの自分の声に違いない。

そうしたら、それに答える母親らしき女性の声も聞こえてきました。随分と若い女性の声で、自分の母親の声の質とは違うような印象でしたが、あれが当時の母親の声なのでしょう。

ああ、これって不思議なことに独り催眠療法のような状態になっている、そう理解できました。しばらくして、ようやく薄明るい部屋の景色が見えてきて、ほっと一安心。

6それにしても、未だに小さい頃の心の傷がそのままの状態で残っていたとは…。きっと、この年末年始の間に普段よりも沢山両親と話す時間があったので、古傷が蘇ってきたのでしょう。

潜在意識の中が、すっかりきれいになってしまうということはないようですね。真っ暗な状態が続いたりして、若干怖かったのですが、いやな体験ではありませんでした。

昔の忘れられてしまっていた自分の気持ちに出会えたようで、無料でお手軽に催眠療法を受けた感じとでも言えばいいのでしょうか…。

なかなかこんな体験が勝手にやってくることはないと思います。もしも、可愛らしい当時の幼い自分と出会いたい気持ちがあれば、催眠療法を試してみることをお勧めします。

現実という夢から醒める

私たちは、全員がそれぞれの夢の中にいます。現実という夢です。その夢の中で、あなたは一人の人間として生きているというわけです。

その夢はいつ始まったかというと、人にもよるのですが、大抵は2~3歳くらいの頃から始まりました。ある日突然始まる人もいるだろうし、徐々にやんわりとスタートした人もいるでしょうね。

その日を憶えている人さえいるくらいです。その場合には、大変なショックだろうことは想像に難くありません。

なぜなら、突然自分という個人が出現してしまうのですから。その環境が重苦しく、劣悪なものであればあるほど、いきなり地獄へ突き落とされたと感じるはずです。

ほんの数年前まで、お母さんのお腹の中でゆったりとした理想的な状態でいたものが、何の責任もなくただ最適な環境の中でたゆたっていたはずなのに…。

それなのに、急に自分というちっぽけな存在が現れて、毎日を戸惑いながら、どうすれば安心できるのかを考えながら、自分の居場所がないままに生きていかねばならなくなったのです。

人によっては、自分は大切に育てられたし、素晴らしい家族に恵まれて、これが夢であったならいい夢だと思っているかもしれませんね。

けれども、本当はどんな環境であれ、個人としての自分がいるということは大変な重荷であり、孤独から逃れる真の術はありません。

ただ一つの救いは、自分がいるというのはいかにもリアルっぽいのですが、それが単なる思い込みであり、真実とは程遠い夢だったと気づくことなのです。

それ以外には、どんな救いもありません。この夢の世界でどれだけ活躍しようと、どんなに自分は満たされていると慰めようと、それが悪夢であることには違いないのですから。

そろそろ夢から目覚めることにしませんか?え、いやだって?それが私たち夢の中の住人の本心なのです。なぜなら、夢から醒めたなら私たちは消滅してしまうからです。

でも、安心して下さい。あなたが夢から醒めたときに、消えたあなたの代わりに本当のあなたが、決して死ぬことのないあなたが顕われるだけですから。

禅からの便り

禅の中に、「何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」 というのがあります。この言葉を繰り返しハートで感じていると、何ともくつろいだ気分になれます。

上記の言葉は、あらゆる探究という探究を落としたときに、真理は向うからやってきてくれるということを伝えてくれています。

禅にはどんな教義もありません。この世界で唯一、仏陀のメッセージを見事に花咲かせた宗教を超えた真の宗教と言ってもいいでしょうね。

禅やその大元である仏教は、神を持ち出すこともしません。それを早とちりして、神を否定する宗教だと思ってる人もいるかもしれません。

禅は無神論者とは全く異なります。実は神について何かを言えば、人は神を勝手に信じてしまい、それがエゴの餌になることを避ける目的で、仏陀は神に触れなかったのです。

自分の存在の外側に神がいると信じて、それにしがみついてしまうと、真理は遠ざかってしまいます。禅や仏教は、そのために神を持ち出さずにいるのです。

人とどうかかわるべきかといった道徳や倫理を教えるものからは、何としても遠ざかることです。それがいわゆる宗教であれ何であれ…。

人格を向上させるとか、徳を積むなどの一見良さげに思えることも、それがどれほどエゴの好むものかに気づけば、巻き込まれずに済むはずです。

外側への探究をやめて、内側にいる探究者を探究すること。そして、いずれはその探究も消えたとき、春が来て、草はひとりでに生えるのですね。

知識は人を堕落させる

昨日のブログは、ちょっと過激でしたね。きっとついてこれないでしょう。書いている私自身の中でも、そんなのダメだろうという奴がいますから。

でもせっかく年が明けたので、過激シリーズ第二弾を書こうと思います。いろいろなことを知ってる人、つまり物知りな人がいますね。私たちは、知らない人よりも知っている人の方を尊敬しがちです。

知識とは一体何でしょう?学校で習ったことや、人に聞いたことや本で読んだ情報、仕事で学んだことなども含まれるでしょうね。

そういった情報から得た知識というのは、実は本当には知ってるわけではありません。外から来たものだからです。

私たちはそれをあたかも知っていることとして取り扱うクセがついてしまっているのですが、それはただ信じているだけなのです。

知らないからこそ信じることができるのです。本当に知っていることを信じることはできません。だから知識が豊富な人は、それだけ信じている情報が多いということ。

たとえば、あなたの友人が一度も恋愛をした経験がなくて、何千冊も恋愛の本を読んで恋愛についての豊富な知識を持っていたとしても、恋愛を知っているとは判断しないはずです。

逆に一度でも恋愛の経験をすれば、少しは恋愛の何たるかを知ったことになるということです。神についての神聖な本をどれだけ読んで暗記しても、神を知ったことにならないのは当然です。

有神論者も無心論者もまったく同じこと。神は存在すると信じているのか、神は存在しないと信じているのかであって、両者とも単に信じているに過ぎません。

大切なことは、知識というのは単に信じている情報だと気づき、一度信じるのをやめてみるということです。何を信じたとしても、あなたが豊かになるわけではないからです。

逆に、エゴに餌を与えているようなものです。何もせずに、心静かにしていると自分は何も知らないということに気づかされます。

そうすると、その先には自分がいるということもただ信じていることだったという気づきがやってきます。あなたがいないと気づくと、人は最大限の個性が開花し出します。

なぜなら、あなたというエゴがほかの多くのエゴと共通の似たり寄ったりの生を生きているからです。覚醒して人格を落とした人たちの何と個性的なことか。

元旦にする夢のない話し

一年の計は元旦にありというけれど、そういう時には何か夢のある話しでもすればいいのにと思うのですが、やっぱり夢のない話しをすることになってしまうようです。

夢や希望がないということは、未来に対してどんな期待もすることができなくなるということで、それは未来そのものがなくなってしまうのと同じことです。

未来がなくなってしまうと、目的地(ゴール)とか、目標といったものも設定することができなくなりますね。なぜならゴールとは未来にのみあり得るからです。

つまり、未来がなくなるとどこへも進んで行く場所がなくなってしまうということ。行き場がなくなるとどうなるのかというと、それまで外にばかり向けていた注意を内側に向けるようになるということ。

内側をただひたすら見るということは、できることといったらただそのままの、あるがままの自分を見るということになるのです。

仮にどれほど価値がないように見えたとしても、それを何とか改善して価値ある自分にするための未来がないのですから、それをそのまま受け容れることしかできなくなるのです。

あれ、そうなったら今まで求めても求めても到達せずにいた理想の自分などは、そもそも不要だったと気付いちゃうことになるのです。

なぜなら、受け容れるということは不足がないということだからです。なんだ、未来があるからこれから先何とかなると思って、希望を持って頑張っていたことがすべて逆効果だっただなんて…。

そう気づくことになるのです。夢や希望のない話しは、実はものすごく本質をついているってことですね。そして、エゴはいたたまれなくなって、自然と落ちることになるでしょう。

お腹が空いたら食べる、眠くなったら寝る。このシンプルさには、エゴは到底もたないでしょう。私の中で、何かがシンプルはいいけど、現実にはまだ無理と叫んでいるのがいるようです。

まだって、じゃあいつならいいの?と聞くと、う~んと黙ってしまって話題を変えたいようです。

瞑想をしない瞑想方法

もう大晦日になってしまいましたね。今年は、自分の中ではかなり瞑想の方法とか感触とかに、変化があった一年でした。

それまでは、ただ真面目にできる限り深く深くということを意識しながらの瞑想だったのです。身体の姿勢とかにも若干気を使ったりしながら。

ところが、一月に自分がいなくなる経験をしてからというもの、その真面目さが少し緩んでしまって、目を開けていることが多くなりました。

なぜなら、それまでの方法は結局自分のワールド全開でやっていたということが分かってしまったからです。それからは、なるべく瞑想すらしていないという瞑想へと変わっていったのです。

そして、つい先日体験したあの不思議な恐怖感。あれが本当にずっと続いていたとしたら、かなり深刻な精神状態になったのではと感じるのです。

自分のエゴがそれこそ根こそぎにされる感覚。あれから、ただ心静かにじっと座って何もしないでいるだけで、以前よりも静寂の中にいることが分かるようになったのです。

知覚が一気に広がっていき、時間のない瞬間のひだの中へと入っていくような感じがします。けれども、いたって普通の精神状態なのです。

これを書いているこの瞬間にも、それはやってきてくれています。瞑想への期待がとても小さくなったこともあるかもしれません。

そして来年に向けて、ちょっとばかり困ったことも出てきました。それは、以前からあったことなのですが、これまでずっと続けてきたごく普通の心理療法に、興味が薄れてきてしまったかなと。

クライアントさんが、手っ取り早くこの静寂の中に入っていく方法があるのではないかと。これまでも時々そう考えていたことがあったのですが、その度に無理だと思い知らされたのでした。

それがまた再燃し出したということです。思考が落ちる体験を一度でもしてしまえば、癒しへの態度が一変するだろうことが分かるからです。

来年は、ちょっと本気でそのことを考えてみようと思っています。勿論、それにはクライアントさんの協力、あるいは意識の状態が鍵となるのでしょうね。

今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします!

孤独から逃げずに内側を見る

人は例外なく本当は孤独なのです。孤独でない人はいないのです。なぜなら、個人として生きているつもりになっているからです。

生まれて2~3年すると、個としての自分がいると思うようになり、身体の外側は自分とは別の世界が広がっていると感じるのですから、孤独でないわけがありません。

ただし、優しい親に大切に育てられたり、仲良しの友達がいることで、何とかその孤独を感じずにいることもできる人もいます。

逆に、周りの愛情を感じることができなかったりすれば、それこそ額面通りの孤独感を常に持ったまま生きなければならなくなった人もいます。

ただどちらにしても、孤独は常に付きまとうものなのです。その結果、どれだけその孤独を感じずに生きることができるかということが、大問題となるのです。

そのために、人は恋愛をしたり、仕事に打ち込んだりするわけです。恋愛は人に打ち込むことだし、仕事や趣味に打ち込むのと少しも違いはありません。

宗教に打ち込む人もいるだろうし、仲間を増やして共に生きるを実践することで、孤独を紛らわそうとする人たちもいますね。

残念ながら、こうしたあらゆる対処は真に効果があるわけではないのです。つまりそうしたことをいくら頑張ったところで孤独が消えることはないということ。

孤独をなくす唯一の方法は、外側に目を向けることをそろそろやめて、内側をどこまでも見続けること。その深みを見ることができたなら、その時は孤独は自動的に消滅してしまうでしょう。

なぜなら、孤独とは個としての自分の存在を信じてしまったことから来る錯覚だからです。自己の最奥には何も無いことに気づく時、孤独はもう保てなくなるのです。

「自分のままでは価値がない」という信念

幼いうちに環境によってでっち上げられた自己イメージの中でも、「自分のままでは価値がない」という信念、決めつけが最もたちが悪いのです。

その信じ込みはまるで石のように固くて、ちょっとやそっとでは解すことはできません。このような間違った信念というのは、親の極端な条件付けが原因なのです。

残念なことに、幼い頃というのは親からの一方的な決めつけに対して、それを評価するどんな基準も持っていないために、ただただ信じることしかできなかったのです。

その結果として、「自分のままでは価値がない」という信念とペアのように持ってしまうものに、「親は絶対」という思い込みがあるのです。

多くの場合、この二つの信念は互いにお友達のようにして一緒に作られてしまうのです。この二つの力を利用して、親は子供をまるでモノのようにコントロールすることができるのです。

そうした親は、勿論本人自身がその親から似たようなコントロールを受けて育ってきているので、その方法を充分に熟知しているのです。

「親は絶対」という信念の方は、ある程度の年齢になれば自然と緩んできて、そんなはずはないという理性の方が上回るようになるのです。

けれども、「自分のままでは価値がない」の方は、癒しを進めていかない限りは、何歳になってもしぶとく居座り続けてしまうので、本人の人生をズタズタにしてしまいます。

ひどい自己犠牲の繰り返しと、その裏返しとして起きて来る鬱症状や問題行動がやってきて、どうにもならない状態へと持っていかれることになるのです。

もしもあなたが、「自分のままでは価値がない」という感覚を持っているという自覚があるのなら、それをそのまま放置しておいてはいけません。

その間違ったとんでもない勘違いを、間違いだと思えるようになるまで、継続して癒しを進めていく必要があるのです。独りでは難しい場合には、専門家の力を借りることも考えるべきですね。

ブラックホールに吸い込まれる?

ジ~ッとして、時間の流れのほんのすき間の中へと入っていく感じでいて、何もかもがまるでブラックホールへと吸い込まれて無に帰するようなのを一瞬感じて、驚いて戻って来てしまいました。

いつもの瞑想のあの心地よさとは、似ても似つかぬほんの瞬間的な体験なのですが、何かを怖いと感じている自分さえも消えてなくなる恐怖とでもいうのか…。

例えて言えば、血も涙もないという表現が近いのかもしれませんが、自分がよく知っている深みに入るあの瞑想とはまるで違っていました。

こんなのもあるんですねえ。私のエゴが足元をすくわれるような恐怖を本当に感じたのか、はたまたこれもエゴの作戦なのか、判断がつきません。

まあいいかぁ。今年もあとわずかとなりましたね。来年もエゴトリップに気をつけながら、瞑想を続けていくことになるのかな。

現実という名の夢

私たちは、夢と現実というのをいつも対比して見ていますね。夢は作り物であって、本物ではないと思っている一方で、現実というのは正真正銘の事実であって、動かし難いものだと。

けれども、夢が作られる成分と現実の成分は同じものなのです。その成分というのは、誰もが知っている思考です。どちらも思考によってでっち上げられたものです。

なぜ現実が思考の産物なのか?それは、私たちが知っているこの現実というのは、知覚によってのみ認識することができるからです。

そして、その知覚というのは外側からの情報と、それについての解釈によって成り立っているからです。その解釈の部分を司っているのが思考なのです。

解釈抜きに、現実を見ることはほとんど不可能なことです。目の前に、バラの花が一輪あるとします。これは現実としか思えませんが、そうではありません。

バラの花というのは、あなたの思考による解釈抜きには存在できないからです。このことをあなたが認識しているこの世界のすべてに当てはめてみればいいのです。

そうすると、あなたが実在すると信じているあなたの人生だって、思考によって創作されたものに過ぎないということを認めざるを得なくなります。

思考がないところには、どんな物語も存在することができないのですから。あなたが現実だと思っているこの世界の在りようは、すべてが夢と同じだということ。

この世界は夢だというのは、そういうことなのです。あなたは、その現実という名の夢の中でどんな生活をしている気になっているのでしょうか?

どうせ夢なら、気負わずに、戦わずに、自然体でただ楽しむことができるといいですね!