宇宙は全自動

みなさんは、「全自動」という言葉から何を連想するでしょうか?

たとえば、全自動洗濯機と言えば、洗濯に必要な手順を洗濯機が順番にやってくれたりするわけですね。人の手を介さずに乾燥までしてしまう。

全自動は確かに便利ではあるのですが、でも人の手による微妙なタッチの洗い方には、かなわない場合もあるかもしれませんね。

最先端のスーパーコンピューターを使って、何かの小説を書かせることは、きっともう可能な時代になっていると思います。これも、全自動と言えます。

けれども、シェークスピアが書いた小説のようなレベルのものを、全自動で書くことは今のところまだできないはずです。

ところが、本当のことを言えば、シェークスピアが小説を書いたのも実は全自動だったということです。私がない頭をひねって、このブログを書くのも全自動なのです。

なぜなら、シェークスピアという個人、「私」という個人はいないからです。あなたが自分の意志で街を歩くのは、風に吹かれて自動的に木の葉が散るのと、何の違いもないのです。

あらゆる一切合財は、全自動でただ起きているのです!それが真実です!だから、あなたの手柄だと思っていたものもないし、あなたの犯した罪なんてものも、ぜ~んぶありません。

どうですか、がっかりしましたか?それともラッキーと感じて気が楽になったでしょうか?どちらであっても、それも全自動でただ起きていることなのです。

言葉は伝わらない

私たちは、何かを相手に伝えるときには、普通言葉を使います。言葉以外でも、表情や態度などで伝えることもできるのですが、圧倒的に言葉の割合が大きいのです。

言葉とは思考であるともいえるので、思考の範囲を超えたもの、例えば知覚や感情、あるいは真理などを言葉で伝えようとすれば、そこには明らかに無理があるのです。

私の感覚では、大切なことほど言葉で伝えるのが難しくなるのです。仮に、伝えたいと感じていることの70%が言葉にできたとします。

その言葉を受け取った相手が、その中の70%を言葉以外の何かで理解したとしても、結局のところ 0.7×0.7=0.49、つまり半分しか伝達できないということです。

それでも、半分も伝わるならいい方なのかもしれません。これほど言っても、相手に全く伝わらないのは一体どういうことなんだろう?と疑問に感じた経験は誰にでもあるはずです。

それが、幼い頃に経験した自分の親に対しての感覚だったとしたら、本人は自分の意志を伝えることはとても難しいことなのだと思い込むことになるでしょうね。

そして、分かってもらえないのなら、敢えて言うことをやめよう!となって、自己表現をしなくなってしまうのです。そうなったら、受け止めてもらうチャンスはもうありません。

セッションでは、何度も繰り返して同じことをクライアントさんに伝えるのですが、どの程度伝わるかはその時のクライアントさんの精神状態、あるいは癒された程度に左右されてしまいます。

言葉とは非力なものですが、それでも言葉を紡いで伝えることがなくなることはありません。少しでも多くのことが伝わるようにと、言葉を節約せずに使い続けることですね。

何処にも向かう場所などない

今日もシンプルに…

「程度」というのは思考が作ったものであって

本当はそんなものはありません

私たちは、よりよい自分になろうと目的地に向かって

歩み続けているのですが

そんな目的地など、どこにもありません

あなたが一歩踏み出したなら

出発地から少し離れたことになる反面

一歩近づいたことにもなるのです

地球は丸いので、後ろから一歩近づいたのです

そう、私たちは輪の上を動いているだけで

何処にも向かっているわけではないのです

以上

沈黙してみる

今日もシンプルに…

誰かと一緒にいてずっと沈黙が続くと

何か不快な感じになるかもしれませんね

それでも、何も取り繕おうとせずに

ただその沈黙の中にいてみて下さい

すると、クセになっていた自己防衛に

気づくことができるはず

そこから逃げなければ

無防備さの中でくつろぐことができるのです

以上

この世界は謎で出来ている

今日もシンプルに…

この世界は謎に満ちていますね

何から何まで分からないことのオンパレード

分かっていることなど、実は一つもない

ここに気づくと、ひっくり返ってホットします!

謎と言えば、ずっとこのブログをフェイスブックに投稿

しているのに、以前書いた特定のブログばかりが

投稿されているように見える謎…

解決する目途がたたないので

フェイスブックへの投稿を一度やめてみます

以上

内側の広大無辺な空間を感じる

今日もシンプルに…

人は気持ちがよかったり、心地いい状態でいられると

意識が内側へと向くようですね。

すると、その広大無辺な空間を感じることができるのです。

逆に、苦痛に喘いでいれば

意識は外側へと向かうのです。

エゴは、後者を好むはず…。

なぜなら、前者の場合には自分という個人が希薄になって

今にも消えてしまいそうになるからです。

以上

惨めさからの逃亡をやめる

人が最も苦手なものは何だと思いますか?それは、自分の惨めさなのです。自分は何て惨めな存在なんだろう、という思いほど、自分を傷つけるものはありません。

だからこそ、誰もが惨めな想いからできるだけ離れようとして、頑張るのです。その頑張りから、やがてはあらゆる苦しみが起きて来ると言うわけです。

なぜなら、その頑張りこそが自己犠牲を生む結果となってしまうからです。もしもあなたが、何だか人生は辛い、この闘いはいつまで続くんだろう?と感じているのなら、惨めさからの逃亡が原因だと気づくことです。

つまり、自分は惨めな存在に違いないという思いを持って生きてきたことを思い出すことです。自分は惨めなんかじゃないと自分を偽ってきたことを思い出すのです。

そうやって、少しずつ惨めだと言う思い込みから逃げなくなれば、自己犠牲とはお別れすることができます。惨めだという事実はなかったのです。

ただの思い込み、それも真実だと疑わないくらいの徹底的な信じ込みを続けてきたということです。惨めさの中にどっぷりと浸かっていることです。

そうすると、惨めさは幻想だったと気づくはず。

悦びに水を差す親

子供が喜んでいたり、楽しんでいると、それに対してそれとなくチクリと水を差す親というものがいるものです。心当たりはありませんか?

せっかく子供が楽しそうにしているのに、そんなにいいことばかりは起きない、と言ったことをポロリと言ってみたり、本来なら一緒になって子供の嬉しそうな顔をみて喜ぶはずなのに…。

子供が好きなことに夢中になっていると、すかさずやってきて自分はそれほど好きじゃないといったことを言ったりして、楽しい気持ちを台無しにしたり。

大好きな彼女を家に連れてきたら、なんだかんだと邪魔をしてきたり、監視されているような気分にさせられたりと、とにかくそうやって幸せを壊されるのです。

ところが、当の親自身は自分がそのような妨害をしているという自覚はまったくありません。なぜなら、それは親の心の奥に潜むインナーチャイルドの仕業だからです。

そのインナーチャイルドは、本当は自分だってもっと楽しい時を過ごしたかったのに、それができずに不満だったために、子供の笑顔に嫉妬して邪魔をしようとするということです。

そのような妨害を幾度となくされてしまうと、その子供は自分は幸せになってはいけないのだと強く思い込むようになってしまいます。

そうなると、大人になっても自分が幸せになりそうになると、自らそれを破壊するようなことを繰り返すことになってしまうのですから、事は重大ですね。

幼い頃に繰り返された親からの妨害工作を見抜いて、その時のネガティブな感情を味わうことです。少なくとも、親に対する怒りに気づいて、それを感じることが根本的な癒しを起こすことになるはずです。