何も無さが充満している

自分が肉体的にも精神的にも活躍しているときには、はっきりとこの自分がいるということを意識することができますね。

特に、ネガティブな感情に溺れそうになっていたり、苦痛に耐えていたりするときには、明確にここに自分がいると分かるのです。

けれども、一方ではできるだけ身体を動かさないようにして、精神も静止するようにしているだけで、自分というものの輪郭がぼやけてきます。

こうだ、と思っていた自分という存在が何かとても脆くて、危ない感じがしてきます。以前はそれが恐怖と共にやってきたのですが、最近は悦びを感じるようになったのです。

だって、自分がいないと感じるくらい気楽なことはありませんから。でも気楽と感じているくらいですから、まだまだ自分はいるのです。

本当に自分が消えてしまうと、気楽さも何もかもなくなって、それに気づいている状態がただ在るだけになるのです。

それは楽しくもないし、これと言った特別な感慨も何もありません。ただ在るとはそんなものです。何も無さで充満しているのです。

「ただ在る」という気づき

今日もシンプルに…

本当のところ、人生には意味も価値も目的もない、と言うとき

その真意は、意味があるとかないとか、

価値があるとかないとか、目的があるとかないとか

そのような範疇ではないということです

何かに意味や価値や目的を見い出そうとするのは

単に思考の習性なのです

思考から抜けたとき

「ただ在る」だけが残るのです!

以上

この世界は一枚の絵

今日もシンプルに…

以前、この世界は一つの絵だと感じたことがあります

それは、ここには個別に存在するものは一つもなく

一枚の絵のようにつながっているということ

あなたが一つの輪郭をもって

あたかも存在しているように見えるけれど

この絵という一枚(全体)の一部として

繋がっているということ

これ以上シンプルなことはありません!

以上

人類の進化とは?

地球上で意識的である存在は、私たち人間だけです。それ以外のあらゆる動植物、その他のすべての存在は全く持って無意識的な存在なのですね。

ただし、人間も他の動物と同じように、意識の内の9割の部分は、やっぱり無意識であって、たった1割だけが意識的であるということです。

もしも、あなたが瞬間瞬間の自覚を持たずにただ漫然と時間を過ごしているなら、それはほとんど動物と同じ無意識的な人生を生きているということです。

したがって、もしもこの先人類が進化していく道があるとするなら、それは少しでも意識的である部分を増やして行って、無意識部分が減少することなのです。

ちなみに、光明を得た人の場合には、無意識の層に光を当てることで、マインドの無意識部分が完全に意識的になったというわけです。

つまり、常に全的に生きることができるのです。自分が右へ行こうとするなら、トータルに右へ行こうとすることになるということです。

我々みたいに、何を考えているのか分からないといった無意識の部分が消滅してしまったわけですから。あなたのマインドから無意識層が消えるなら、あなたは自分がいないことにおのずと気づくことになるでしょうね。

DIY? 誰もいないのにね!

今日もシンプルに…

DIYがめちゃくちゃ苦手なのに

ちょっと頑張ったおかげで

体中が痛い!

おまけに達成感もなく

ホント向かない

けれども、それもただ起きているだけ

以上

「誰かの…」をやめてみる

今日もシンプルに…

自分がいないということは起きる可能性があるけれど

それを体験することはできません

なぜなら、体験するナニモノもいないからです

ただそれについての気づきがあるだけです

なぜこのことが理解しづらいかというと

私たちは常に、「誰かの…」を意識するからです

ならば、「誰かの…」をやめてみませんか?

きっと、物凄くすべてがシンプルになるはずです

以上

徒労に終わる話し

子供の頃、近所に駄菓子屋さんがあって、そこでクジを買って、ものすごく大きな風船を当てようと頑張っていたことがありました。

外れると、ごく平凡な小さな風船がもらえるんですけどね。でもいつか、その大きな風船を当てることができるんじゃないかと夢見て、少ないこずかいを握りしめて通ったわけです。

そんなある時、友達のお兄さんが目の前で残りのクジ全部を買ってしまったのですから、目当ての風船は手に入れたも同然となったのです。

ところが、すべてのクジを引いたところ、その大きな風船には当たりクジがなかったことが判明して、子供心に大人はずるいと思ったものです。

結局、お店のおじさんもバツが悪かったからか、その目当ての風船をくれたんですけどね。決して当てることができないクジを買いに、足繁く通っていたのは何という徒労だったことか…。

けれども、それよりももっともっと大きな徒労に終わる話しがあるのです。セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、物凄く人生と闘ってる人がいるのです。

それは、結局自分を守るため、自分が安心したいがために人生を闘いに費やしているわけなのですが、本当は自分など初めからいなかったと気付いたら…。

それほどの徒労に終わる話など、他にはないでしょうね。でも大丈夫なのです。自分がいないと気づいたなら、徒労に終わったことに落胆する誰もその時にはいないのですからね。

「全体の一部」という意識

私たちのあらゆる心理的な欲望は、自分は全体から分離した一人の存在である、という間違った思い込みから来ているのです。

その分離感によって、自分と全体とがあたかも互いに対立しているかのような錯覚を作り出してしまったのです。だから、「何かが足りない」と常に感じているのです。

全体とは全く完全に満たされた状態であるのに対して、分離した個である自分は、足りないものを外側の世界から入手しなければならないと感じるのです。

そうやって、人生において次から次へと欲しいものを手に入れていくのですが、残念なことにどこまで行っても、何を手に入れたとしても、「何かが足りない」が消えることはないのです。

救いはたった一つ、自分は全体の一部だということに気づくこと。全体というのは、分割することができないものです。それはあくまでも一つもの。

本当は分離して存在するものなどないのです。それは、素粒子のレベルにまでスケールを小さくするか、宇宙サイズまで大きくすれば明らかなことですね。

何から何までが全体なのです!

時間も物語も思考の中にある

私たちは、時間経過の感覚というものが相対的なものであるということを、経験的に知っています。

例えば、思い切り何かに没頭しているときには、数時間があっという間に経ってしまうし、逆に何かを我慢して苦しんでいるときには、一分が途方もなく長く感じるのです。

こうしたことから言えることは、時間の感覚は思考が作り出しているのだということです。思考と時間とは密接な関係にあるということです。

その証拠に、自分がいない状態においては、全く時間というもの自体がないということが明確に分かるのです。思考が落ちたその瞬間、時間は存在しないのです。

驚くべきことですが、時間は思考の中にあったということです!

あなたが生きていると信じているあなたの人生さえも、あなたの思考の中にしか存在しません。

この世界には、元々どんな物語もないからです。

ただ現象だけが淡々と起きているのです。