世代間のチェーン

いつの時代にも、そしてどこにでも怖い親というのはいるものですね。その怖さというのは、勿論その親が怒っている時のことですが、まるで人格が変わってしまったかのような怒り方をするのです。

幼い子供は、ただでさえビクついているはずなのに、いつもは頼りになっていたはずの親が激変してしまうのですから、その恐怖感というのは筆舌に尽くしがたいはずなのです。

そういう親に限って、過去に自分が子供にしてきた虐待のことを、ほとんど覚えていないのが通例なのです。あれほどひどいことをしていながら、覚えていないなんて、そんな都合のいいことがあっていいのだろうかと思うほどです。

けれども、本人は本当に覚えていないのです。なぜなら、実際に人格が入れ替わるようなことが起きているからです。怒りのモードに入ったときには、その親のインナーチャイルドの怒りに乗っ取られている状態だからです。

勿論、子供はそういうひどい怒られ方を繰り返すうちに、親のことを信頼することができなくなってしまいます。それは当然のことですね。

ごく普通の穏やかな親の状態であっても、いつ激変するか分からないのですから、どこかでいつも気を配っていなければならなくなってしまいます。

そうすると、親の顔色をいつも注意深く見ている子供が出来上がってしまうのです。子供は、親といて安心させてもらえるはずなのに、常に不安な状態になってしまいます。

その不安感は、大人になっても本人の心の奥底にこびりついて、何の理由もないはずなのに、生きていることそれ自体が不安だというように感じてしまうようになるのです。

激しい恐怖は、子供が怒りをきちっと感じることを妨害してしまいます。結果として、怖い親に育てられた子供は、知らず知らずのうちに、大量の怒りを溜めてしまうことになるのです。

その怒りは、大人になってから身近な人へと向かうことになります。もしもそれが自分の子供であったなら、自分がされてきたことと全く同じことを、今度は自分が子供にすることになるのです。

そうやって、世代間チェーンが続いていくのです。勿論どんな場合でも、そうした世代間チェーンが起きてしまうということではありませんが、その可能性が高くなるということです。

誰かが勇気を持って、自らの癒しをすることでそのチェーンをぶった切ることができたなら、自分より下の世代は救われることになりますね。

もっともっと意識的になる

もしもあなたが、自分の心の中に何等かの不都合を抱えているとしたら、それはチャンスなのです。大切な何かに気づくチャンスがそこにあるのです。

私たちは、誰もが辛く苦しいことよりも、より楽でゆったりとした心の状態でいたいと望んでいますね。けれども、何も支障のない人生がもしもあったとしても、それは薄っぺら人生になってしまうはずです。

心理的な苦しみというのは、他の動物や赤ちゃんには存在しません。その苦しみを多く味わった人には、それなりの深みのようなものが備わるのです。

楽しくて幸せなばかりでは、何千年かかってもあなたの本質に気づくことはできないでしょう。でも、それでいいじゃないと思っている人もいるかもしれません。

赤ちゃんは苦労がなくて、羨ましいなあと思っている人もいるかもしれませんが、そういうあなたは本当に今の自分を捨てて、すぐにでも赤ちゃんになりたいかと問うといいと思います。

きっと赤ちゃんには戻りたくないと言うはずです。なぜなら、赤ちゃんは確かに苦しみを持っていません。しかし、苦しみがなくて、幸せだとしても、そのことに気づくことすらできないのです。

今の自分がとても苦しいから、その苦しみから逃れたい一心で赤ちゃんに戻りたいと一時的に思うことはあるかもしれませんが、ずっと赤ちゃんのままでいたいということはないのです。

あなたがどれほど苦痛の中にいようと、あなたは意識的な自分でいたいのです。意識的であるからこそ、苦しみを知ることになったわけですが、それでも意識的であり続けたいと思っているのです。

私たちの深い部分には、そうした願望があるのです。意識を奪われたくはないのです。でも、現状はどうなっているかと言えば、私たちのマインドの一割程度しか意識的ではありません。あとは、すべて無意識の領域なのです。

誰もがいずれは、マインドの全部に光が当たり、完全なる意識の状態へと遷移することになるはずなのですが、残念ながら多くの人たちは、大変な道草をくっているばかりで、何世にも渡って無意識を貪っているのです。

勿論、私自身もその一人です。もっともっともっともっと意識的になることこそ、真の至福、永遠の至福こそが自己の本質だと気づいていく唯一の道なのですね。

重い荷物も険しい道も不要

セッションにおいて、クライアントさんは場合によっては、私から今までの生き方を全否定されたと感じることもあるかもしれませんね。

これは決して意地悪ではなくて、そのくらいオーバーに表現しないと、心底伝えたいことが伝わらないと感じているからです。当り前ですが、本当は何も否定などしていないのですが…。

クライアントさんは、これまでも自分のやり方で精一杯頑張ってきたんだし、それで充分にうまく行ったこともあったのだから、たまたま今うまく行かなくなったことが治ればいいのだと思っているのです。

けれども、クライアントさんがこうして今セッションにいらしているというのは、決して偶然やたまたまではないし、これまでの生き方からの当然の帰結だということを、理解してもらう必要があるのです。

問題を解決するということにばかりに意識が先走ってしまうと、その問題を作り上げている自分の生き方の方にこそ、最大の原因があるということを認めることができなくなってしまうのです。

問題をいくら眺めても、どれほどそれまでの自分の努力の仕方で頑張ったところで、何も変わることはないのです。何よりも守っていたい自分の正しさ、信念、信条、そういったものがすべての原因だと気づかねばならないのです。

このままではいけない、こんな自分のままではダメだ、もっと頑張ってこうならねばと、思えば思うほど都合の悪い方向へと益々進んでいってしまうのです。

あなたがやってきた方向とは、180度違う考え方を採用しなければならないこともあるのです。とても勇気がいることですが…。

本当に癒しというのは、皮肉なものですね。癒しにおいて、一番邪魔なのはこれまであなたが培ってきた常識や、考え方の正しさなのです。

そこに気づくことができた人は、あっという間に癒されていく可能性が高いのです。でもそれは、自我にとっては恐怖以外のなにものでもないのですから、そうそう易々とは受け入れることができなくて当然なのです。

それでも、いずれは誰もが自分が守ってきたもののくだらなさに気づく時がやってきます。そして、無駄に背負ってきた重い荷物や、自分が設定した険しい上り坂などを、お払い箱にすることになるのです。

その時は、なんとも言えない清々した気持ちになることでしょうね!

マインドとの同化

私たちは、誰もが何者でもない状態で生まれてきて、しばらくすると自分と身体を同化するようになっていくのです。つまり、自分はこの身体なのだと思い込むということです。

生まれてすぐに個人となるのではなく、この身体との同化を起点として、一人の人間として生きていくことが開始されるのです。

そうして、その次には気づかぬうちに自分のマインドとの同化が起きてきます。自分のマインドこそ、自分自身である、自分の中心なのだという同化です。

そして、意外かもしれませんが、どちらとの同化がより強力かと言えば、それは間違いなくマインドとの同化なのです。最近、それを身を持って経験しました。

いつものように瞑想していると、ふと鏡に中に映った自分の姿が自分の中心からかなり離れた場所に移動したように感じたのです。

その時、まだまだマインドは自分の中心に位置していたのですが、どういうわけか自分の身体をベースとした自己イメージ(自分の外見)が、自分の周辺の方へと遠ざかったのです。

これはちょっとした驚きでした。普段、あまり鏡に映った自分の姿を見ることがないので、自分の外見が意識に上ることも少なくなっているのですが、まさかこのような感覚になるとは思ってもみませんでした。

勿論、目を開けてしまえばすぐに元の状態へと戻るのですが、目をつぶってしばらくするとその感覚はやってきます。やはり、一番面倒なのはマインドなのですね。

マインドはクセモノです。それも相当な。マインドの中に「私」という存在がいるのかどうか、いくら探しても見つからないのに、それでも「私」はマインドの主のような位置にいるのです。

もしもマインドとの同化を見出して、身体と同様にそのマインドが自分の中心から周辺へと移動することが起きたなら、きっと本当の自己が、何とも同化することのない真実の自己が見つかるはずです。

そして、見つかる寸前に視点が変化して、それこそが自己の本質であると気づくのでしょうね。

親への絶対視は危険

純粋な師と弟子の関係とは、弟子が師に帰依するということ。弟子は師と運命を共にするだけではなく、弟子の身も心もすべてを師に捧げ、丸ごと委ねるということです。

これは、師に対して無防備になっている状態とも言えるので、それは恐怖がなくなり愛そのものになるということでもあるのです。その信頼関係は防衛で生き延びるエゴを消滅することになるはずです。

一方で、これと類似はしているものの、似て非なるものもあるのです。それは、自分を守るために相手に仕えるというものです。

例えば、幼い子供にとって親は生き延びるためには、絶対的に必要な存在ですね。その親の関心が、どうやら自分に向いていないと察知したなら、それはとても危険な状態なわけです。

自分以外の別の誰か、あるいは別の何かに親の関心を奪われていると感じたなら、単に悲しい想いをするにとどまらずに、それは生きる上での最大の危機なのです。

そうなると、その子供は親の関心を自分に向けようとあらゆる努力をするようになるのです。その一つは、自分の本心を騙して親を絶対視するというものです。

一たび親を絶対視してしまえば、親の主張することに対して、それがどんなことであってもそれを信じ込むことができるようになるのです。

無理やり自分を抑圧しつつ、親のいいなりになる必要がなくなるのです。自覚の上では、親を愛して、親を敬い、親がすばらしい存在だと思い続けることもできるのです。

弟子が師を絶対視することとの唯一の違いは、その子供の絶対視の原動力が、自己防衛という恐怖であるということです。

したがって、親を絶対視していた子供は、成長するにつれてその親のことを否定的に見るようになるのです。絶対視という洗脳が溶けた分だけ、否定が強くなるはずなのです。

なぜなら、絶対視していた間に起きた自己犠牲が疼いてくるからです。自分を騙してきたツケがいつかはやってくることになるからです。

もしもあなたが、幼いころに親に対して不満や疑問などを抱いたことがないとしたら、絶対視していたことを疑ってもいいかもしれません。

そして勇気をもって、隠されてしまっている当時の本音を見てあげることです。そこには、きっと親への怒りや孤独感などがあなたに探してもらうことを期待して待っているはずです。

本当の救い

今の自分のことを、どうしても認めることができないという人が大勢います。どうやったって、このままでOKなどとは思うことができないということですね。

大嫌いな自分のことなど、到底愛することなどできないと感じているわけです。そんな時に、それでもなんとかして、自分を好きになってくださいと助言するセラピストがいたとしたら、それは明らかに間違いです。

誰かのことを許すことができなくて、苦しんでいるという方もいます。許せない頑なな自分のことも否定してしまうのです。そんなときに、何とか許せないものかと努力するのも、同じような間違いです。

こうした衝動が心の中にあるのは、当然のことだと思いますが、力を使って自分を矯正しようとすることは、かえって苦しさを増大することになるばかりで、そこからは何も得るものがないのです。

自分を認められないのなら、そのことをまずはしっかり認めることです。認められない自分というものを、まずは認めてあげることです。

自分自身が嫌いだということ自体を認めるのです。誰かを憎んでいて、許すことができない心の状態そのものをまずは認めてあげることです。

それができるなら、自分を矯正しようとするエネルギーが一歩退いていくはずです。自分を力でねじ伏せていいなりにさせようとすると、北風と太陽の話しのように、自分との関係が悪化してしまいます。

北風のようなやり方は、後々に怨恨を残すことにもなりかねません。こんな自分なんか、いなくなってしまえばいいのにと思うことを無理にやめようとする代わりに、そうやって苦しんでいる自分を抱きしめてあげるのです。

あなたの内面に、桁違いに広大で途方もなく愛に溢れた心の部分があると想定するのです。そして、その部分から今の自分を丸ごと受け止めてあげることです。

もうすでに、あなたは何度も何度も苦しみぬいてきたのですから。もう疲れ果ててどうすることもできなくなって、うずくまっている自分に、やさしい太陽の光を投げかけてあげることです。

そうしたイメージを少しずつ繰り返していくことで、何であれ受け止める心の部分が育っていくはずです。そして、いずれはそれはあなたの心の内にあるのではないと気づくことになります。

受け止めることは、無思考だからです。そうなったら、もう自分を改善するために矯正しなければという気持ちが消えてしまうでしょう。

人はそうやって救われるのですね。

垂直方向への進化

自然の中で生きているものには、文句というものがありません。不平、不満を感じる何ものもないからです。ただひたすら、自然の法則の中で生を営んでいるだけです。

その生の営みの中で、すべてが人間へと進化しようとしているのです。無生物はまず植物へと進化し、植物は動物へと進化の道をひたすら突き進んできたのです。

そして最終的には、自然界の進化の到達点は私たち人間だったのです。人間にも当初は自我がありませんでしたから、他のあらゆる動物と同様にして、自然の一部としてただあったのです。

ここまでの進化においては、まったくもって自由というものがありませんでした。すべてが自然の法則のもとにあるからです。自然のなすがままに生き、なすがままに進化を遂げただけで、完全なる奴隷状態だったのです。

自然は美しいですね、ただ在るがままに在るからです。けれども、これっぽっちの自由もそこにはありません。だから、恐怖というものがないのです。

人間の身体はもうすでに進化を終えてしまったと言えるかもしれません。あったとしても、微々たるものでしかないはずです。自然の力での肉体的進化は終了したのです。自然ができることは、もうなくなってしまったのです。

その後、人間は自我を持つように進化しました。つまり、自由意志があるという自覚を持つように進化したわけです。自由であるということは、一寸先に何が起きるか分からないという大いなる不安を作り出したのです。

自由とは恐怖なのですから。それまでの人間にはなかった、心理的恐怖、不安というものを持つようになってしまったのです。そこで、当然の結果として誰もが不安を安心に変えようと努力するようになったのです。

それが、自己防衛なのです。誰もが自由を求めていると言いながら、実は自由と引き換えに安心を得ようと奮闘しているのです。それが、現在の私たちの姿です。

自由とは責任も発生するのです。自由とは大変な重荷であることは間違いありません。自然が与えてくれた進化の道は、もう終わってしまっているのです。水平方向への進化は人間で打ち止めなのです。

これからは、私たちの自由さを徹底的に使って、つまり意識的に生きることで自然の進化の法則から垂直に飛び立つことが、私たちに与えられた自由の唯一の使い道なのです。

自然という無意識状態から、未熟ですが意識的な存在となったのですから、すべての無意識を意識的な状態へと変えていくことこそが、これからの本当の進化、まさに垂直方向への進化なのです。

全的な意識状態

以前にも何度かお話ししたことがあったと思うのですが、私は幼いころに三輪車で遊んでいるときに、家の脇を流れていたそれなりに大きい川(石神井川)に落ちたことがありました。

近所の友達と一緒に三輪車に跨っていたところ、突然正面に見える景色が遠ざかり出したのです。川に背を向けていたところ、そこが斜面だったせいで気づかぬうちに後ろ向きに川へ向かって滑り出したのです。

私は、景色が遠ざかるさまが面白かったので、少し笑っていたのを覚えています。その直後に、突然景色の角度が変わって、川の中へと真っ逆さまに落ちていったのです。

その時、すべてがスローモーションのような動きをしていたように感じたのをはっきりと覚えています。きっと、絶対的な危機的状況に瀕して、私の意識が全的に反応したのでしょうね。

どんな余分なことを考える暇もないくらいに、意識の全部を総動員してその危機に立ち向かおうとしていたのだろうと考えられます。そのために、知覚にまで変化が起きたのだと思うのです。

もしもあなたがライオンに近距離から襲われそうになったとしたら、きっと同じようなことが起きるはずです。あなたの意識は間違いなく全的になって、一丸となって事態をとらえようとするでしょう。

その時には、思考を使うことができなくなり、完全なる意識の統一が図られることになると思うのです。研ぎ澄まされた感覚においては、やはりスローモーションのように感じるのかもしれません。

そういった全的な意識であるときというのは、まさしくそれこそが無思考の状態であり、エゴが消え去って、意識下にある潜在意識や無意識なども総動員されることになるはずです。

それはある意味目覚めている状態、覚醒した状態に近いのかもしれません。葛藤や抑圧といったような意識の曖昧さなどは微塵もなくなり、統一された純粋な意識に近づくのでしょうね。

あの透明性のある意識状態を維持することこそが、光明を得るということなのも知れません。

珍しく怖い夢

私の心の中に、瞑想を楽しんでいる部分もあれば、うっすらですが瞑想を恐れている部分もあるのを感じています。そこに意識を向けてみると、何だかとても構えているような雰囲気がするのです。

今更何を怯えているのかなと思っていたのですが、夕べそれを現わす象徴的な夢を見ました。記憶のある限りですが、ほとんど怖い夢というものを見たことがないので、びっくりしたのです。

その夢は、自分がどこかを一人で歩いているのですが、ある時から急に完全なる闇の中を歩いているようになってしまうのです。周り中を見回しても、一切何も見えない漆黒の闇です。

この状態、夢でないとしたらまずい、夢であって欲しいと願うのですが、一向に目が覚める気配がないので、徐々に本当に恐ろしくなってくるのです。

自分がどこにいるのかも分からず、何も見えずにただそこを歩いている自分がいる。その時には、自分が何者かも分からない状態でした。

怖くて怖くてこのままだと本当にやばい精神状態になってしまうと思ったときに、ふと目が覚めて夢でよかったと思ったのです。その時、周りは実際闇の中でしたが…。

目覚めたベッドの闇の中で、その時分かったのです。ああ、自分が瞑想に対して持っている恐怖とはこれだったのだと。私たちは、誰でも自分の知覚が遮断されることを心底恐れているのです。

なぜなら、自我(エゴ)は知覚からの情報を餌にして、思考を働かせて生き延びようとしているからです。知覚が遮断されると、自分が何者かということすら分からなくなってしまい、自我はもっとも危険な状態になるからです。

私は、瞑想の中で前後不覚になるのを楽しんでいたつもりだったのですが、一方ではそれを死ぬほど怖がっている自我の部分があったということですね。

夢でそれを教えてもらえたのは、とてもよかったと思っています。恐怖は、あることは分かっていても、なかなか表面化してこないものだからです。

思考が静まっていくと、間違いなく心の中が空虚な感じになるのですが、それは本当に空虚なのではなくて、自我が活動していた残骸を感じているだけなのです。

その空虚さを恐れているのなら、まだまだ自我は健在ということです。真に空虚であれば、それを空虚だと感じる何者もなくなるのですから。

より意識的に生きる

動物というのは無意識です。生まれてから死ぬまでずっと無意識状態で生きているのです。だから、彼らは自分が幸せなのか不幸なのかという想いを持ったことがありません。

彼らにあるのは、快不快だけです。私たち人間が持つような精神的な苦しみというものはありません。だからある意味羨ましいことなのですが、彼らにはその自覚がないのです。

一方、人間には自覚というものがあるのです。それを一般的には表面意識とか顕在意識と呼んでいますが、残念なことにそれは全体の意識の10%以下とも言われています。

ということは、残りの90%の部分については意識することができないでいるのです。こうしたことは、今では多くの人が知識としては持っているのですが、それが原因で苦悩するのだということを理解はできてないかもしれません。

人間とは何と中途半端な状態、宙ぶらりんな状態に置かれているのでしょうか?幼い子供も、ちょうど動物のようにほとんどが無意識の状態です。

だから彼らもやはり動物のように無邪気でいられるのです。幼児にも快不快しかありません。お腹が空いたら泣き、満腹になって満足したら寝るだけです。

そして成長するにつれて、少しずつ表面意識が増えて行き、10歳くらいになってようやく大人と同じ意識構造へと発達するのです。

でも残念なことに、意識的な部分はたったの10%程度で抑えられてしまうのです。それ以外のすべてが意識することができないままなのです。

そのたった10%の自覚の中で、「自分」という中心を持っていると錯覚しているのです。それは決して中心ではなく、周辺と言った方が当たっているのです。このニセの中心こそが、自我(エゴ)なのです。

けれども、もしもあなたが自分に意識を向け続けることによって、もっともっと意識的になることができるなら、いずれは無意識の部分がなくなり、全体を意識することができるようになるはずです。

その時こそ、本当の自己の中心を見出すことになるのですね。その時こそ、本当のあなたの本質として、あなたは在ることができるのです。

それは、人間だけが抱えていた苦悩がなくなるだけではなく、幸不幸さえも消えてなくなってしまうでしょう。そして、自己の本質である永遠の至福そのものとなるのです。

無意識状態から目を覚ますために、外を見た分だけ、外を見ている自分を見ることです。美しいバラの花に見とれた分だけ、見とれている自分に意識を向ける練習をして下さい!