明日はない!

数か月前から、スマホでやるあるゲームに嵌っているのですが、そのゲームのいいところは勿論無料ということもありますが、ある回数分失敗すると一定の時間たたないとゲームができなくなるというシステムなのです。

これがとても自分にとって都合がいいのは、無制限にやれてしまうゲームであれば、自分の時間がたっぷるある私は、一日中やってしまうかもしれないので、うまい具合の制限がかかっていることになるのです。

簡単な面はすぐにクリアすることができるのですが、難しい面は何度挑戦してもダメなのです。そういう挑戦し甲斐のある面をクリアできたときには、とても爽快な気持ちになれるのです。

そして、次へ次へとどんどん進んでいくのですが、これってちょうど人生と同じような感じがするなあと思ったりもするのです。

なぜかというと、難しい面に挑戦して、やっとクリアできた喜びは大抵ものの3秒くらいで終わってしまい、またすぐに次の面へと気持ちが移ってしまうのです。

この面をクリアしたら、ここをクリアしたらどんなに嬉しいのに…。そう思って頑張ってやっとクリアできたと思ったそのすぐあとには、次の面へと進んで行くのです。

余韻も何もあったものではありません。結局人生も同じこと、これを達成できたらどれだけいいだろう、あれを手に入れられたらきっと幸せになるに違いない。

けれども、何をどう実現できたところで、結局はまた未来への期待が脈々と続くだけなのです。もうこうしたことをどれだけ繰り返してきたことでしょうか。

すべての面をクリアした途端に、手持無沙汰になってしまうのがオチなのです。それなら、一体未来に私たちは何を期待して生きているというのでしょう?

本当は、未来に何がやってこようがあなたの人生は何も変わらないのです。だから、今を大切に十分に生き切ることしかないのですね。

かつての坂本九の歌で、「明日がある♪」というのがありましたが、明日は決してありません!過去もありません。そうした錯覚を見抜いて、今しかないということに気づくことです。今がすべてです。

今をトータルに生きること、それこそが生の目的なのですから。

瞑想という実験

科学というのは、客観的なある対象に対して、様々な実験を何度も繰り返していきながら、期待する結果を得ることによって、打ち立てた理論を証明しようとする分野ですね。

あくまでも実験によって、理論を証明するということです。どんなに、すばらしい理論を打ち立てたとしても、それを誰もが実験によって確認することができなければ、何の価値もなくなってしまうからです。

真実を探求しようとすることは、そのことと似ているように思うのです。どれほどすばらしい経典を読んで理解しても、実験して検証していくことがなければ、1ミリも真実へは近づけないからです。

ただし、探求の場合は、科学とは根本的に違う点がいくつかあります。科学は、観察する主体と、観察される客体と、実験という三者が必要となるのです。

一方、自己探求の場合には、観察する主体と観察される客体が一つであり、心の内側における完全なる一人称での実験だからです。

そこには、どんな客観性も存在しないのですから、どうしたって手探りで進めていくしか方法がないのです。瞑想の専門家ではない私にとって、今瞑想とは一つの実験に違いないのです。

瞑想という実験を重ねながら、内面がどのように在るのかを観察しているのです。とても骨の折れるまどろっこしい実験のような面もあるし、これほど興味深い実験もありません。

先日、朝クルマを運転しているときに本当に久しぶりに腹痛がやってきて、ハンドルを握っている手が毒出しで痺れてどうしようもなくなったことがあったのです。

それがあまりにも苦しいので、自動的に自分を全面的にその苦痛へと向けるしか方法がありませんでした。ほかのことは、もう何も考えることもできないくらいになったからです。

すると、その日の夜から数日間というもの、あっという間に深い瞑想に入れるようになったのです。ベッドに横になっても、寝入る前にさえも深い意識状態へと入るようになったのです。

残念ながら、そのような状態は、数日で消えて行ってしまったのですが、もしかすると全面的に何かに意識が向かった状態を経験したことが原因なのかもしれないと思うのです。

苦しいのはいやですが、何であれ全面的にというところがミソなのかもしれません。これからも実験は続くはずです。

生を信頼する

私たちが深刻な気持ちになってしまうときは、必ず生に対する信頼を喪失しているはずなのです。何を信じればいいのか、途方に暮れてしまうことだってあるかもしれません。

その時には、この世には神も仏もあったもんじゃないという気持ちにもなるはずです。身に降りかかってきたことを、重く受け止めて、出口が見つからないところでグルグルしてしまうのです。

誰だって、そういうときには深刻になってしまうのも当然なのです。でも、そうした暗くどんよりした状態も、いずれは好転するはずです。生は流動し続けているからです。

もしもあなたが、どんな状態であろうと、そこから逃げずにいれば、必ず流転していくものなのです。そのことを、思い出して生を信頼し直すことです。

生を信頼するためには、生をしっかり見ることから始めなくてはなりません。私たちは、生きているようでいて、本当は半分くらい死んでいるのです。

なぜなら、生の中に流れてくる一切合財を引き受ける心構えができていないからです。都合のいいことばかりを期待して、いやなことからは逃げようとする限り、生はあなたから背を向けてしまうのです。

思考によって、常に自己防衛を続ければ続けるほど、生は逃げていきます。その時、あなたは十分に生を満喫することができなくなってしまうのです。

そうすると、その不十分な想いが、いつまでも未来のあなたに訴えてくるのです。自分を十分に生きてないぞ!と。生をもっと堪能させてくれと。

そうした過去からの叫び声にしっかりと気づいてあげることです。そのためには、防衛のためにやってくる思考をキャッチしないようにして、なるべく意識的な時間を増やすことです。

自分の本質に意識が向くようになると、生は決して敵ではないということが分かります。私たちの人生は、生という舞台の上で演じられている劇みたいなものです。

生を信頼すればするほど、それを十分に満喫する人生を送ることができるようになるはずです。苦しみは必ず来ますし、悦びも同じだけくるのです。

生がプレゼントしてくれるあらゆるものを、そのままに味わい尽くすことですね。

人を三つのタイプに分類する

私たちのマインド(思考)は、何かを分類するのが上手というか、大好きなのですね。たとえば、血液型で人の性格を判断するなどというのは、その典型かもしれません。

分類して違いを明確にするというのは、何かを詳細に把握するためにはとても大切な手法です。整理整頓するにしても、そうした分類は絶対必要なものです。

これはある本からの受け売りなのですが、人を次の三つのタイプに分類するということについて書いてみたいと思います。

一つ目は、「知る」ことを優先して生きている人。彼らは、物事を調査して知るに至ったときに初めて行動を起こすというタイプらしいのです。

したがって、対象が人であれば一目ぼれをするということがないのだそうです。慎重に相手を見て、十分すぎるくらいに観察して、知ることができたときに、好きになるということだそうです。

彼らは、研究者や哲学者などが適しているということで、数パーセントしかいないそうです。二つ目のタイプは、「感じる」ことを優先して生きているひと。

相手のことをよく知る前に、好きになってしまうタイプ。自分の感性によって、きっとこの人は正直者に違いないと決めてしまい、後づけでそれが正しかったと証明しようとするのです。

そして、三つ目のタイプは、「行動」を優先して生きている人。何よりも、真っ先に行動してしまうのです。知ろうとする前に、感じる前に、決断が先ばしるということです。

ここまでは、なるほどねという程度なのですが、ここから先が意外にも大切な気づきをもらったのですが、それぞれのタイプの人たちは、その真逆の状態にたやすくなれるということです。

「知る」の人は、簡単に思考を止めることができる人だし、「感じる」の人は、無感情になることができる人であり、「行動」の人はあっという間にリラックスすることができる人なのだそうです。

時計の振子のように、左右の両極の間を行ったり来たりするということなのでしょうね。勿論、誰もがこの三つのタイプのすべてを併せ持っているのであって、一つだけという極端な人はいないのです。

要するに、どのタイプが自分の中で一番優位なのかということであって、それを見極めることができると、無駄なエネルギーを使うことなく、人生がスムーズになるとのことです。

眼球を固定すると意識は内向きになる

私たちの視覚というのは、一瞬にして物の形状や大きさなどを把握することができますね。実際に試してみてもらったら、すぐに分かるのですが、目の前にある何か、卓上時計でもパソコンでも何でもいいのです。

あまりに大きすぎて、目をぐるりと回さなければ見えないくらい大きいものはともかく、その物体を見たと同時くらいにそれがどんな大きさでどのような形をしているかを見極めることができるのです。

これは、ようく観察するとすごいことだと分かります。それは、私たちの視覚が眼球を瞬時に動かして、対象物の外周をぐるりと一周見てしまうのです。

それは見事なまでのやり方で、自覚する暇もないくらいのスピードで眼球が動くということですね。そのおかげで、私たちは目の前の物質の全体像を瞬時に把握することができるのです。

逆にいえば、眼球は放っておけばいつでも振動しているということです。一か所をじっと見続けるということに慣れていないということです。

放っておけばずっと動き続けている眼球を、意識的に一点に据えて、動かないように固定してしまうこともできるはずですね。そうなると動くことでその機能を果たしている眼球は困ってしまうのです。

するとどうなるかというと、実は動くことができない眼球は、見る方向を変えてしまうのです。つまり、外側へと向かっていた視線が、急に180度反転して見ている自分に向くようになるということです。

このことは実際に試していただければすぐに分かることですが、見るとはなしに一点に視点を固定してしまうと、面白いように視線が内向きになってしまうことに気づくはずです。

これは自分の意識に意識を向けるということには好都合です。そのために、瞑想の時には目を閉じるという方法と同時に、伏し目の状態にして一点に視点を据えるという方法もあるのです。

どちらが、より自分の意識へと注意を保ちやすいかは、実際に試してみるといいと思います。どんなことでも、読んでなるほどと納得して終わりにせずに、すぐに実践してみることですね。

それには、興味があるかどうか、そして何かに困っているという状況のどちらかが役に立つのだろうと思います。

女性性への期待

セラピストの仕事を始めてから、もうすでに7000回になろうとする数のセッションをやってきました。その中で、まったく変わらないことがあります。

それは、女性のクライアントさんが男性のクライアントさんに比べて、圧倒的に多いということですね。正確な数値は調べてないですが、きっと全体の7~8割は女性だと思います。

まさか、男性にくらべて女性の方がいろいろ辛い人が多いのだというわけではないでしょう。まったくそうは思えません。ではどこに違いがあるのでしょう?

それはきっと、女性の方が自分自身のことに気づいているということだと思うのです。男性は、意識が外側へと向かってしまう傾向が強いのです。

男性というよりは、男性性と言ったほうがいいのですが、性別に限らず、男性性が優位である人は、間違いなく外へ外へと意識が向くのです。

彼らは何かを成し遂げなくてはならないからです。親からも社会からもそのように教え込まれたという事実も加担しているはずです。

けれども、本質的な部分で男性性とは攻撃性なのです。外へ向かってエネルギーを放出して、どこかへ到達しようとするのです。何かにならなければならないのです。だから、時間がないのです。

一方、女性性は意識が内側へと向く傾向にあるのです。だからこそ、自分の現状を男性よりも深く把握しているはずなのです。だから、セラピーにも来やすいのでしょう。

女性性は男性性のような目的を持ちません。だから、話しにオチがなくても一向に構わないのです。話すことそれ自体が目的のような、要は無目的での会話を楽しめるのです。

目的がなければ、どこかへ到達することもないし、何かを成し遂げる必要もあるはずがありません。急がないのであれば、時間感覚が乏しくなって当然です。

この世界を見渡す限り、男性性が支配している社会がずっと続いてきたのですね。だからこそ、頑張って成果を出して、何かを成し遂げなさいという教育を受けてきたのです。

だからこの世界は生きづらくなってしまったのです。受容する能力の高い女性性がメインとなる世界が早く来ればいいのにと思うのは、私だけでしょうか?

問題行動を疑ってみる

私たちのオリジナルは、無邪気な心を持った愛の塊りのような存在です。誰でも、幼児の頃にはそうやって生きていたのですね。その頃は、屈託がなく自由で、ある意味我が儘でいられる大切な時期だったのです。

けれども、早晩そんな自由は許されないよという強力なメッセージを、毎日浴びるようになってしまうのです。そうして、気が付いたときにはすっかり社会や親からのルールが、本人の潜在意識へとしまわれるのです。

山奥に一人で暮らしているわけではないので、人としての常識的なルールを教えてもらうのは当然のことなのですが、それが行き過ぎてしまうと、その子供の心は強力な自我に乗っ取られてしまうことになるのです。

親からの激しい強制があるとするなら、そこにどんな子がうまれたとしても、必ず自我は肥大化してしまうことになるはずです。それは避けられないことです。

幼い子どもは無防備であり、弱い立場の中で親に100%依存しなければ生きてはいけないのですから、親からの力いっぱいの強制に順応しようと必死になるのです。

そうなると、オリジナルな部分は完全に心の奥深くへとしまわねばならなくなるのは言うまでもありません。そこに強い恐怖があれば、親からの洗脳は完全なものになってしまうでしょう。

すると、オリジナルな部分は深い部分から反撃を開始するようになるのです。それが問題行動です。問題行動とは、オリジナル部分の不満が、本人の自覚をすり抜けて表へ出てくるものなのです。

自由が奪われているという鬱憤を、あの手この手を使って親に知らしめようとするということです。ただし、潜在意識がその役を担っているので、本人にはその自覚がありません。

幼いころからの抑圧があまりに激しすぎると、そうした問題行動は多岐に渡るようになり、最終的には本人の人生を犠牲にしてまでも続けようとするようになります。

つまり、人生の悦びや幸せを台無しにすることで、その苦しむ自分の姿を親に見せつけることで、自分の鬱憤を訴えようとするということです。

問題行動は、そのようにして人生を破壊するかもしれません。問題行動を、意志の力で止めることはほとんどできないと言っても言い過ぎではありません。

仮にできたとしても、元となる原動力がそのままであるなら、また別の問題行動を引き起こすことになるだけで、人生は益々苦しいものになるはずです。

もしも、あなたが自分のやっていることは問題行動かもしれないと感じるなら、なるべく早くセラピーを受けることをお勧めします。

自然を超越する可能性

誰もが素晴らしい大自然の姿を目の前にすれば、感動したり、心を打たれてしばし言葉を失うような経験をするはずです。それは、取りも直さず私たち自身がその大自然の一部だからなのでしょう。

地球上に存在するあらゆる無生物も生物も、勿論大自然の一部です。どんな植物であっても、その大自然の法則の元に、淡々と生きているのです。

動物にしてもそうですね。動物の場合は、本能と呼ばれる自然のメカニズムを使って、その法則の元に生きているわけです。勿論、人間にも他の動物同様に、それなりの本能があるのは誰もが知っています。

ところが、実は人間だけが大自然の一部でありながらも、その大自然から逸脱することができるのです。そこが人間という存在の面白いところなのですが…。

私たちの身体は自然の一部ですし、私たちのマインドも自然の一部です。そのマインドの中には凄まじい思考が渦まいているのですが、その思考もこの自然界の一部なのです。

けれども、その思考の中で自分がいるという想いが作られてしまったのです。その想いは自然界の一部ですが、その内容を単なるイメージではなくて、事実であるかのように信じ込んでしまったのです。

つまりそれがマインドの中心を占めている自我(エゴ)なのです。自我はイメージなので、実在するものではないのですが、それが働くことで大自然よりも低レベルに成り下がることも、それを超越する可能性もあるのです。

他の動物にはない高度な言葉を発明することで、複雑で込み入った思考を駆使することができるようになった人間は、目的や、価値、意義、善悪、そういったものを作り出したのです。

それは自然界にはないものですね。そのために、自然界の法則からはかけ離れた殺し合いをするようになったり、他の動物にはない深刻さや苦しみといったものを生み出してしまったのです。

これはどう考えても、自然界にはない地獄の中にいるようなものです。その一方で、人間だけが自分の本能に逆らって、恐怖から逃げないという選択をすることもできるのです。

そして、その結果いずれはすべての人が、この大自然、この宇宙が自己の内側にあるということに気づくのです。この神羅万象が立ち上がってくる源としての自己の本質に気づくことになるのでしょうね。

人間として生まれてきてよかったです。

無限に広がる意識

私たちがどれほど努力をして、自分の人生を満ち足りたものにしようと頑張っても、あなたが個人として生きているという思いに圧倒されている限りは、どうにもならないのです。

大切なことは全体性なのです。あなたが全体性に気づくとき、あなたこそが全体性そのものであるという本当の理解がやってくることによってのみ、生が根本的な変容を迎えることになります。

それなしには、何も変わらないということです。自分は全体から分離したある部分だという認識は、必ず不満や苦しみに襲われる現実を作ることになるのです。

途切れることなく活動し続けている喧しい思考が緩んでくると、あなたが普段既知だと思い込んでいた事柄が、軒並みそうではなく、何も知らなかったと気づかされることになります。

自分は何も知らなかったという深い気づき、そうして自分の名前や性別、所有物あるいはこれまでのすべての記憶に至るまでが、剥がれ落ちていくのです。

そうして自分の形はおろか、自分と関連していたあらゆるものも、本当は何もなかったと分かるときが来ます。あなたは、上下、左右、前後、全く不覚になるのです。

この恐怖から逃げずにじっと見ていれば、その中心にいたと思しき自分はいなかったと気づくことになるのです。それはある種、あらゆる面倒から解放された清々しさを伴うかもしれません。

本当のあなたがいないのではなくて、これまで自分とはこういう人物だとイメージしていた自分がいなかったと気づくことになるのです。

あなたはどこにもいませんでした。それは、言葉を変えるとすべてだということ、それが全体性なのです。目を閉じてしばらくじっとしていてみて下さい。

そうすると、あなたは自分の身体とマインド(思考)がすぐ身近にあり続けることを感じるはずですが、そのことはそのままあなたとは、身体でもマインドでもないということを見せてくれているのです。

無限に広がる意識を、そのうえで戯れている自分の思考と区別することです。意識とは、あなたの身体や思考、そしてこの宇宙全体を起こしている土台なのです。

激しい感情放出は身体が痺れる

今やデトックスという言葉が、ごく普通に使われるようになっていますが、いわゆる毒出しのことですね。温泉に浸かってのんびりするだけでも、身体は毒出しを始めてくれます。

身体が自動的にやってくれる毒出しには、身体そのものに溜まった毒の排出だけでなく、精神的な毒についても同様にして、身体はデトックスしてくれることをご存じですか?

催眠療法のセッション中に、一度に大量の感情エネルギーを放出すると、体質や場合にもよるのですが、身体がそれに反応してデトックスを手伝ってくれるのです。

それを経験した人は、誰もが一様に手足が痺れてきて、感覚がおかしくなってしまったと表現します。心が激しくデトックスするさいに、身体が健気にもその毒出し作業の一部を手伝ってくれるのです。

そのときには、身体の末端である手足の痺れを感じるのです。症状がひどくなると、セッション用のリクライニングチェアから立てなくなることも珍しくありません。

そういう場合には、とりあえずトイレに歩いていけるかどうかを見させてもらっています。ご本人は大丈夫というのが常なのですが、少しも大丈夫ではない場合が多いからです。

トイレにも行けない状態で、歩いて帰ることができるわけないですからね。手足は言うに及ばず、歩けない場合にはその痺れが全身にわたっているはずなのです。

私は、あるセミナーで瞑想中に全身が痺れてしまって、どうしようもなくなった経験があります。その時には、手足から始まった痺れが、頬に来て、お腹などの胴体の部分にまで及んでいました。

勿論、単に瞑想状態が理由でそうなったのではなくて、結果として潜在意識と繋がることによる感情の放出があったからなのです。

身体は痺れるだけではなくて、ようく観察してあげてると、微妙に振動している場合があることに気づきます。その振動はとても心地よいものです。

あなたの身体とは、何と素晴らしい機能を持っているのでしょうね。身体が痺れて、振動して毒出しをしてくれたなら、心から身体にありがとうの気持ちを伝えてあげて下さいね。