瞑想でいやなエネルギーを炙り出す

昨日のことです。夜いつものように瞑想していたのですが、その時はちょっと違った方法をやってみようと思って、ただ見守るというよりも、より深く追求してみたのです。

つまり、心を見ている自分は何?さらに、それを見ている自分は?という具合に、実際にはそれほど深くまで行ってない感じはしていたのですが、ただそれを続けていたのです。

そうしたら、次第に自分の顔が熱くなって、腫れてくるような感じになったのです。充血して膨れるようなそんな感じですが、実際にそうなったのかどうかは分かりません。

面白いなと思ってそのままでいたところ、何やら怪しげなイメージがやってきました。それは、言葉にすると、いわゆる悪魔みたいな奴らの姿がいくつか出てきたのです。

ああ、自分の心の中にはまだまだこんな怪しげなエネルギーが沢山残っているんだなと思ったのです。実は、これに似た体験はずっと以前に毎晩のようにしていたことがありました。

それは、会社員を辞めて、仕事をせずにただ毎日何もせずに、ヒーリングを受けたりヒプノのスクールに行ったりしていた頃のことです。

夜寝るときに、毎晩のように決まって瞼の裏にそうした得体の知れない如何にも気持ち悪い奴らの姿が見えていたのです。別に怖くもなかったのでそのままにしていたのですが、それは数か月のうちに、自然と消えてしまいました。

きっと、20数年間の会社員時代の重苦しいエネルギーを解放している時だったのでしょうね。今でこそ分かるのですが、その時は不思議で仕方ありませんでした。

昨日の現象も、きっとそれと同じことが起きたのだろうと思うのです。人の心の中には、ガラクタが沢山詰まっているのです。光を当てればたちどころに消えてしまうのに、闇の中でそれは残存しているのですね。

あなたがこれまでに我慢をしてきた分だけ、辛いのに苦しいのにそれをひたすら耐えて、頑張ってしのいできた分だけ、そうしたおどろおどろしいエネルギーが蓄積されていくのです。

それが、自己犠牲というものですね。そのエネルギーは、それに似たエネルギーを持った現実を自分の人生へと引っ張り込む力を持っていますので、誰もが似たような都合の悪い体験をパターンとして繰り返すのです。

瞑想は、そういったものを炙り出して、消滅させてくれる力があるのですね。

自分が嫌い!を認める

自分のことがどうにも嫌いで仕方がないと感じてる人がいます。場合によっては、自分を憎んでいることだってあるかもしれません。どうしても、自分を肯定できずに悩んでいる人も沢山います。

でも実は、自分のことを否定的に捉えていない人の心の中にも、同じように自分を嫌っている部分が隠されているのです。要するに、表面に露出しているか、隠されているかの違いなのです。

で、自分のことを許すことができない人にとって、朗報なことがあるのですが、それは隠されていない分だけ、一生懸命捜さずに済むということです。

自分のことを好きと思っているのに、深いところに自己嫌悪が隠されている場合には、時間も労力もかけて、それを深いところまで見に行かなければならないのです。

自分のことが嫌いという人は、そんな無駄な労力を必要としないのですから、癒しにおいてはとても有利なのです。ただし、方法を間違えると面倒なことに巻き込まれてしまいます。

自分のことを認められずに、悩んだ末にどうにかして、自分のことを好きになる方法はないかと探す人がいます。どうしてなのか、そういう内容の本でも読んだからかもしれません。

けれども、自分のことを努力して好きになろうと思ったって、土台無理な話しです。あなたは、職場にいる大嫌いな上司を好きになろうと努力して、好きになれると本気で思いますか?

やり方を間違えないことです。もしもあなたが、自分のことを嫌っているのなら、その嫌いという気持ちをまず第一に受け止めてあげることです。

嫌いなものは、嫌いなのだからとことん嫌わせてあげることです。好きにならねばならないなどと、変な考えで無駄なエネルギーを費やす必要はありません。

つまり、嫌いだということをしっかり認めてあげるのです。嫌いでいいと自覚することです。変な自分への慈悲など必要ありません。大嫌い!でいいのです。

大嫌い!をとことん言わせてあげると、今度はようやくその下に隠れていた悲しみや惨めさが顔を出してきます。そうしたら、今度はそれをそのまま受け止めてあげるのです。

そして思い切り泣いてあげることです。そんなことをやってる間に、あなたはきっと何かがふと変化していることに気づくことになるはずです。

気分をコントロールする

何かとても嬉しいことがあったら、心はウキウキしてきます。目指していた目的が叶ったときには、晴々とした胸のすく様な気持ちになるものですね。

逆も然りです。ということは、私たちは自分の身にやってくる現実によって、悦びに溢れてみたり虚しく落ち込んだりしてしまうということです。

それなら、私たちは起きることの奴隷ではないでしょうか?つまり、永久に思い通りの気持ちで生きていくことなどできるはずもありません。

いやいや、だからこそできる限りの努力と頑張りで、願望を達成して悦びを勝ち取るようにするのだと言われるかもしれませんが、それは土台無理なことです。

というのも、人生は決して自分の思い通りに結果が出るとは限らないからです。私たちは、もうそろそろ自分の力ではどうにも人生をコントロール下に置くことなどできないと気づく必要があるのです。

それなら、諦めるのか?そうではありません。起きてくる物事をコントロールしようとする代わりに、自分の内側である自分の気持ちをコントロールすればいいのです。

つまり、もしもあなたが、今日一日を気持ちのいい日にしたいと願うのなら、あなたの気持ちを明るく楽しい気分にしてあげればいいのです。

ところが、不思議なことに、こうしたことはできるはずがないと一般に信じられているのです。何も喜ぶネタもないのに、どうやって楽しい気分になれるのか?と思っているのです。

でも、実践する前から理屈をこね回して否定ばかりするのではなくて、一度試してみる価値はありそうです。できれば、最初はなるべく、嬉しくもなく辛くもないフラットな状態で試すのがいいでしょうね。

私自身の体験によると、まず実践しようとする前に、ある抵抗が心の中にあることに気づきました。それは、こんなことを言っています。「そんなことはバカバカしいし、何もないのにいい気分になるなんて、損だ!」

で、何が損なのかと問い合わせたところ、「自分は辛い目に遭ってきたのだから、それを表現しなければならない、訴えなければならないのに、いい気分になってしまったら、誰からも分かってもらえなくなってしまう」と。

結局、いい気持ちで過ごしたいという思いがある反面、奥の方では不満を訴えている自分がいて、彼の立場では気分のいい自分など見せてはダメだということになるのです。

その主張が強いと、本当は嬉しいことがあったとしても、すぐにしかめっ面になってしまったり、深刻さをすぐに引き戻してしまうということも起きるのですね。

そして、そのことをよく理解してあげて、心から無条件で受け止めてあげると、抵抗は小さくなって、容易に自分の気持ちを明るくすることはできると分かりました。

心に余裕のあるときにでも、是非試してみて下さい。

溶けて境界がなくなる

気持ちのいい湯船にただのんびりと浸かって、ゆったりした夢心地を味わっていると、だれでも身体が溶けてしまいそうと感じるものです。

身体がお湯の中でふわっと広がって、身体の境界が曖昧になるというのか…。あるいは、何とも言えない眠気の中で、起きてるのか寝てるのかの境界をさまよっているような時にも、トロトロした感じになりますね。

あれも、身体がトロけるような感覚を味わっているのです。大好きな人に抱きしめられて、悦びや嬉しさの中で喘いでいるときには、身体だけでなく心さえも溶けていく感じがするものです。

つまり、私たちはあまりに気持ちがいい時や、悦びや嬉しさに溢れているときには、身も心も溶けて境界がなくなってしまうような感覚になるものだということです。

それは勿論一過性のものですが、もしもそれが永続的なものになったとしたら逆に困ってしまいますね。なぜなら、個としての自分の存在が曖昧になってしまうからです。

だからこそ、自我(エゴ)は自分の存続のために、私たちが苦しむ方向へと強制するのです。人生が苦しいものであると感じるのは、それが根本原因なのです。

苦悩すればするほど、恐怖から逃げようとすればするほど、自分の存在が疑いようのない明確なものとなることを、自我はわきまえているのです。

この社会はまさに自我が作り出したものだからこそ、あまりに自由気ままな人や本当に幸福そうな人は自我に敵対視され、場合によってはこの社会から抹殺されるかもしれないのです。

逆に、不幸を背負って辛く苦しい不遇の人生を生きてるような人には、世間からは同情が集まって、やさしく受け入れてもらえる可能性が高くなるのです。

こうした社会や世界の異常さに気づくことです。私たちは、根こそぎ自我の罠に毒されて、みんなで不幸合戦をして、ほんの少しの安心を得るために苦しんでいるのです。

自我はあなたのマインドを占領していますが、それは決してあなた自身ではありません。マインド(思考)を静かにさせてあげることです。

そして、あなたのオリジナルである、「自分の好きにさせて!」という声をハートで聞いてあげることです。これまで如何にこの叫び声を無視し続けてきたか、気づいてあげることです。

人生を苦しみで染めないためにも、心の奥の小さくて無邪気な声を聴いてあげることです。その声は、きっと自分への拘りなどに興味がなく、ただ全体へと溶けたがっているはずです。

真実の師

数年前にある本を読んでいて、突然泣き出したことがありました。その時には、自分でもびっくりしたのですが、それはある師と弟子のエピソードについて読んだ時でした。

その師が弟子に向かって、家族のもとへ戻りなさいとたしなめていて、弟子は師の元を決して去りたくないと訴えているシーンでした。

師は、弟子に向かって、「お前が家族のもとへ帰ったとしても、いつも私はお前と共にいる。」と言ったのです。その言葉で、弟子は師のもとを去る決心をするのでした。今でも、ちょっと泣きそうになります。

私はその弟子の方に感情移入したのでしょうね。自分の人生を預けるほどの師がそばにいてくれたら、どんなにすばらしいだろうという思いから、その弟子の方に羨望と嫉妬をしたのです。

その時初めて、自分は師を求めているのだと気づいたのです。自分は、そういうキャラクターではないし、誰のことも尊敬したこともないという自覚があったので、本当に驚きました。

そして、実は今でも心のどこかで命を放り出してもいいと思える師に出会いたいと熱望しているところがあるのですが、残念ながら今回の人生ではそのようなことにはなりそうもありません。

それで最近またふと、思い出したことがあるのですが、頭の理解のレベルでは、師が実在の人物である必要はない、本当の師は自分の奥に潜んでいるのだからとして、割り切っていたのです。

けれども、そのことが単なる理解ではなくて、急に腹の底に落ちた瞬間があったのです。ああそうだ、完璧な師、どこまでも信頼できる本当の師が待っていてくれる。

自分が自分の最奥へと進む冒険の旅を続けていけば、いつか必ずそこで待っていてくれる。勿論師と出会って対面するということは不可能なことです。

その時には、それまで冒険をしてきたこの自分は、師の中へと溶けていくはずだからです。生きながら死ぬということになるからです。

自分が永遠の眠りについたとき、もう決して邪魔されることのない真の寛ぎを手にしたときには、その師こそが真実の自己であったと気づくはずなのですね。

瞑想はスローペースを作り出す

会社員の頃、IT業界にいて金回りがよかったせいで、ちょっと高級な二人乗りのスポーツカーで通勤していたことがあります。元々後ろの座席なんていらない、という我が儘なクルマ好きだったからです。

それが、会社員を辞めて今の仕事になってから、しばらくしてそれまでとは真逆の大きな7人乗りのミニバンに乗り換えたのです。

それで気が付いたのですが、後ろのクルマから煽られることがなくなって、ゆったりとした気持ちで運転ができるようになったのです。スポーツカーの時とはずいぶんと精神状態が変わったのです。

そして、昨年の1月にまた違うクルマに乗り換えたのですが、今度は日本の軽自動車よりももっと小さな二人乗りのクルマになりました。経済的な圧迫もあって、お安いクルマにならざるを得なかったのです。

そうなると、今度は人生で初めてくらいに後ろのクルマに煽られるようになったのです。それと、マニュアルギア車ということも手伝ってか、かなり飛ばすようになってしまったのです。

自分が飛ばしていると、ノロノロしたクルマに前を塞がれると、とてもイライラしてしまうことが頻繁に起きてきました。当然の結果ですね。

どうしたものかと思って、思いついたのがやはり瞑想でした。運転しながらの瞑想を励行すると、明らかに速度が抑え気味になるのです。

その理由はいたって簡単、その瞬間瞬間を丁寧に感じきるようにすることで、前へ前へという意識が薄れてくるからですね。周囲に妨害されても、イライラは大分減ってしまいました。

運転中の瞑想なんて危険なんじゃないの?と思われるかもしれませんが、まったくそんなことはありません。瞑想とは、一点集中の真逆だからです。

あらゆる事柄にまんべんなく敏感に感じている状態だからです。 瞑想しながら歩くと、同じようにして歩く速度が遅くなり、過去にも未来にもエネルギーが移動しなくなるのです。

マインド優勢の毎日から、ハート優勢へと切り替えていくためにも、瞑想が最大の効果を発揮します。食べる速度をゆっくりにするために、今度は食事中に瞑想を試してみたいと思っています。

所有欲は苦しみを生む

赤ちゃんは、丸裸で手には何も持たずに生まれてきますね。だから、私たちはこの人生で必要となるものを、せっせと手に入れなければならないのです。

手に入れたいという欲望は、自分のものにしたい、つまり所有したいという所有欲という形に進化します。誰もが持っている所有欲は、なかなか立派なものです。

そして、幸運か、努力の賜物かは別として、一度所有できたものは今度は奪われたくないという欲望を作り出します。したがって、物持ちになればなるほど、奪われたくないという恐れは大きくなるのです。

所有欲は、単なるモノだけに留まらず、人や形のない名誉などにも及んできますね。私も人並の所有欲があるのですが、年齢を重ねるごとにそれはありがたいことに、小さくなってきているのが分かります。

若いときというのは、とにかく欲しいものが目白押しであるばかりか、それを手に入れるだけの経済力もなかったりして、結構大変でした。

それが徐々に薄れてきてくれたのは幸運です。それと、所有欲とは裏腹に、私たちは大抵何も持たないことの清々しさについても知っています。

手ぶらで生まれてきて、手ぶらで死んでいくことを思うと、一体人生で何を頑張って生きているんだろうと不思議に思いませんか?

人生を長く生きてくればそれだけ、所有物が増える傾向にあるのかもしれませんが、私は何も持たない気持ちよさを体感したくて、私物はとても少量です。

死んだあとに家族が処分するのに困るようなものは、何一つ持っていないというのが実情です。自分が生きていた痕跡もすべて消えてしまったほうが、気持ちよく成仏できると思うのです。

持っていないということは、失うものがないということですから、それは不安を掻き立てられる心配がないのですから、心が自由なままでいられますね。

仮に、あなたが今所有欲のど真ん中にいるとしても、大丈夫。そのうち、所有するというのは自我の単なる概念に過ぎないということに気づくときがきっとくるはずですから。

瞑想とは観照すること

クライアントさんとのセッションの中で、時々瞑想の話題が上がることがあります。それは、大抵が瞑想には興味があるのだけれど、やり方が分からなくて…、というものです。

私自身、専門家について実践したこともないし、我流で気ままにやる程度なので、あまりいいアドバイスをすることができないのですが。

一つだけこれから始めるという方にお伝えできることは、瞑想は形式にあまり拘らない方がいいということです。瞑想というと、すぐに誰もが思いつく姿がありますね。

坐して、静かに目をつぶって無念無想を目指す?といったようなイメージが浮かんでくるかもしれません。けれども、そうした形を一度忘れていただいたほうが却っていいと思います。

もっともっと気軽にできるものだからです。実際、瞑想とは自分をひたすら観照することなのです。ただただ見るということです。

それだけでは、何だか物足りない感じがするかもしれませんが、本当にそれだけです。思考を無理に止めようとする必要もありません。

逆に、やってくる思考を自由に遊ばせて、ただそれを見守ることです。その思考をキャッチしてしまうと、思考に巻き込まれてしまいます。

傍観していればいいのです。とはいうものの、人生の長きにわたって思考(マインド)が主人となってしまっているために、ただ見守るというのはなかなか現実的には難しいことです。

また、街を歩いているときであろうと、信号待ちをしている時であろうと、いつでもどこでも瞑想は可能です。ただその瞬間の自分を見守るだけだからです。

最初は、身体に意識を向けるのが簡単かもしれません。そのうちに、思考や感情、あるいは気分といったものまで見守るようになればいいのです。

クルマを運転しているときに観照していると、周囲の状況によって気分がいろいろに変化していくのを見ててあげることができて、なかなか興味深いこともあります。

瞑想という言葉に抵抗を感じるなら、ただ見守るということを意識すればいいのです。うまくできたときには、日ごろいかに自分がマインドに乗っ取られた生活を送っているのか、びっくりするはずです。

夢は意識下の叫び声

みなさんは、夜寝ているときに夢を見ますか?見るなら、どんな夢を見ることが多いでしょうか?ご存じだと思いますが、夢は自覚していない深層心理の中身が顕われてくるのです。

何であんな夢を見たんだろう?と思うことが時としてあるかもしれませんが、それは気づかぬうちに心の奥底でそのことに対する何等かの想いや感情、あるいはわだかまりなどが残っているからなのです。

自覚している意識の部分を表面意識とか顕在意識と呼びますし、自覚できない部分のことを潜在意識とか無意識と呼ぶというのは、みなさん聞いたことがあるはずですね。

その自覚できない部分、意識下の部分が寝ている間に表面化して顕われたものが夢ということです。隠された部分は、常に意識の上に浮かび上がって、自分に見て欲しがっているのです。

けれども、目覚めている時には何等かの理由で都合が悪かったりすると、その部分を無自覚に抑圧してしまっているのです。それが、抑圧が小さくなる睡眠中に表舞台に出てくるわけです。

もしもあなたが、現実味のない夢、例えば誰かに殺されるとか、怖い何かに追い回されるとか、そういった社会性の欠如しているような夢を頻繁に見るのでしたら、幼いころのエネルギーが強力に残っているということです。

大人になっても、両親や家族の夢を見るのも、同じように子供のころの意識がまだ強く残存している証拠です。それはまさに子供目線だからです。

子供のころの意識が強く影響した夢は、とにかく無秩序で混沌としてるのが特徴です。ここには、全くもって秩序というものがまだ芽生えていないのです。

一方、社会性のある夢、たとえば仕事上のトラブルだとか、職場の人が出てくる夢の場合は、大人になってからのエネルギーが反映されている夢と考えられます。

私の場合は、今の仕事をするようになって、大きな悩みや不安などはなくなってしまっているのですが、夢ではサラリーマンの頃のいやな感覚がよく出てきます。

それが、無自覚のままに残っているということですね。意識の中では、今この瞬間自分の本質に気づいたとしても、意識下ではまだまだ燻った思いや感情が残っているということです。

自分の夢が、どのくらいの年代の頃の意識が反映されたものなのか、検証してみることです。そして、もしもまだ非論理的で、非社会的な夢が多いなら、退行催眠による癒しをお勧めします。

人生は出たとこ勝負

たまたまスポーツクラブのサウナでいつもお会いする、ある人から講演の依頼がありました。何気ない毎日の雑談の中で、私がセラピストをしているということをお話ししたのがきっかけでした。

その方を中心とした、何だか賢そうな人たちのある研究グループの会合で、お話しをさせていただくことになったのですが、お受けしたのはいいのですが、いざとなったら何を話していいのやら…。

ある程度はお話しの内容を考えて、下準備的なことをしようとは思っているのですが、当日その会場に行って、どんな人たちがいらっしゃるのかを実際に見たときに、きっとどんな話しになるのかが決まるのです。

今までの経験上そのような予想がつくのです。話しの内容を事前にばっちり決めることができて、その通りに事が進んだことはあまりないのが実情だからです。

本当は、何も決めずに出向いて、その時に様々な質問をいただいて、それに答えていくというやり方だと準備する必要がまったくなくなるので、私としては都合がいいのです。

以前、ある大学のクラスで何度かお話しさせていただく機会があったのですが、その時には本当に何も決めずにいって、その場にいる学生さんたちと絡みながら、どんどん話しの調子が出てきたのを覚えています。

そういえば以前、同じスポーツクラブでやはりいつもお会いする方の中に、学生寮の社長さんがいらっしゃるのですが、そこの女子寮の学生さんたちと一緒に、癒しのセッションをやらせていただいたこともありました。

みなさん、不慣れで恥ずかしいのか、ずっと控えめでなかなか乗ってきてくれなかったのですが、セッションが終わったあとに、次々とこんな悩みが実はあるのですと、一人ひとり言いに来られたときはびっくりしました。

予定を立てるのは悪いことではないのですが、私は決められたスケジュール通りに行くはずがないと思っているところがあって、結局は出たとこ勝負となるのですが、人生はそれでいいのだと思うのです。

計画して、その通りに事が進んでいかなければ嫌だとなると、人生がうまく流れなくなる気がするのです。この世は常に動いていて、とまることがありません。

その波に逆らわずに、人為的な決めつけや計画にあまり頼ることなく、瞬間瞬間を大切にしていけばいいのだろうと思うのです。

人生は出たとこ勝負でいきましょう!