確信を放棄する

もしも、あなたが自分の感覚は、かなり正常だと思っていたり、自分は理性的でいつも正しいに違いないと確信しているのなら、それは危険信号なのです。

物事をどれだけ知っているかということが、その人の成熟度の高さだというように考えがちですが、本当のところはそうでもありません。

何かに確信しているということは、とても安心できるので 都合がいいのですが、そこにはほとんど大切な気づきを得るチャンスが残されていないと思うのです。

無知な人ほど、自分の知識を誇るものです。自分はこれだけのことを知っている、このことは完全に理解できているという確信は、それが強いほど無知であるという印なのです。

マインドを落とせば、自分は実際何も知らなかったということに気づくはずだからです。どんなことでも、ある道を究めたような人は、決して確信などしていないはずです。

本質的なこととは、限りがありません。どこまで言っても未成熟であり、不完全なままなのです。今、私たちに本当に必要なことは、これまで培ってきた知識や常識などを一旦脇に置くことです。

自分が生きるための拠り所としてきたものや、信念、信条などを一通り見て、それらの枠に捉われずに生きることができるなら、とてつもなく大きな気づきがやってくるはずです。

なぜなら、それらを私たちに植えつけたのは他でもない親やこの社会の影の存在であるエゴの力だったからです。エゴに洗脳された代償はとても大きいものです。

癒しを進めるにあたって、これだけは是非分かっていて欲しいのですが、それはあなたの確信が揺れ動き、心が混乱するならば、大きなチャンスがやってきているということです。

自信もいりません。私たちの自信は、確信からやってくるものですし、マインドが静まったときには、自信があるとかないということに、関心がなくなってしまいます。

あなたのマインドの中にある、自分は努力して欲しいものを勝ち取れば、必ず幸せになれるという確信を放棄してください。それを持ったままの癒しは形だけの癒しであって、エゴの思う壺になってしまうからです。

活動的な人と非活動的な人

世の中には、活動的な人がいるかと思えば、その逆の非活動的な人もいます。もしかすると、それで世界のバランスが取れているのかもしれません。

私は、どう考えても非活動的な気質を持って生まれてきたという自覚があります。子供のころから、じっとしていることが好きな部分があったし、あっちこっち出かけることにあまり興味がありませんでした。

ところが、社会人になってからというもの、静から動へと、強制的に活動的にならされたのです。全部で四つの会社を渡り歩いたのですが、最初の会社では日本中の放送局へ行きました。

技術者になれば、一つところでじっと作業をしていられると思ったのも束の間、北は北海道から南は九州まで全国へ出張させられていたのです。

二つ目以降は、すべてアメリカ企業だったこともあって、海外出張は当り前になったし、そこそこ長く滞在しなければならない状況にもなったのです。

サラリーマンを辞めた今は、また非活動的な毎日に戻ったのですが、私にとっては20数年間の活動的な日々は、自分の人生のバランスを取るためには、絶対必要なことだったと今になって思うのです。

一方、活動的な人を見ると、私はいまだにどこかで羨ましいと思っているのです。エネルギッシュだし、活き活きとしていて、時間の無駄がなく充実しているように見えるからです。

実際、この社会を牛耳っているのは、そうした常に何かを考えて、時間を惜しんで行動的でいる人たちなのですから、正直にすごいなと思えるのは当然かもしれません。

けれども、そうした活動的な人には、陥りやすい罠があるのです。それは、思考つまりマインドがハートを差し置いて優先されやすいということです。

忙しさとバイタリティによって、マインドがフル回転しているために、ハートで感じることが疎かになってしまいがちなのです。活動的な人もバランスを取ることがとても大切だと思うのです。

ハートを活性化させるためには、瞑想をすることが一番効果的ですが、活動的な人は大抵瞑想を苦手としているか、そもそも興味がない場合が多いのです。

もしもあなたが活動的な人であるならば、今この瞬間に耳を澄ますということを忘れているかもしれません。それでは、人生に深みが生まれないのです。

人生でどれほどの成果を作り出したとしても、深みがなければ本当に満ち足りるという実感を得ることができないのです。動の中に、少しの静を散りばめる練習をしてみることをお勧めします。

心を受容的にして待つ

私たちは、幼いころからずっと、自分のままでいてはいけないのだということを、いやっと言うほど強制的に教え込まれて育っていくのです。

私たちはそうした教えを次第に受け入れるようになり、自分のままでいることを封じ込めてしまうのです。そうやって、生き延びるために自我(エゴ)と取引をするようになるのです。

その自我の教育とは、戦って勝ち抜くために努力せよ!ということです。努力といっても、単に頑張るというよりもひどく我慢し続けるというニュアンスだと思って下さい。

そうした自我の洗脳に深くコントロールされてしまえば、それだけ人生が苦悩に満ちたものになってしまうのは、当然の結果なのですね。

けれども、私たちにとって真に大切なことは、実はほとんどが努力や我慢では成し得ることができないことだということに着目する必要があるのです。

あなたは寝る準備はできますが、あなたの意志や努力で寝入るということができないことを知っています。寝る準備が整ったら、後は睡眠がやってくるのをただひたすら待つのみです。

努力や頑張りで、誰かを愛することができないのも明白です。同様にして、意志の力で何かに感謝するということも不可能なことですね。

愛は勝手に起きるのですから。感謝もどこかからやってくるのです。私は、感謝が洪水のように降ってきたと感じる経験をしたことがあります。その時、自分の意志など、何の関係もありませんでした。

本当は癒しも同じなのです。クライアントさんには、このように実践してみて下さいとお伝えしますし、それは確かに効果があると思っているのですが、癒しそのものはやはりやって来るものなのです。

努力と意志の力で勝ち取ることはできません。そのことに気づくことは、とても大切なことなのです。そうでなければ、癒しそのものが自我の罠となってしまうからです。

真に大切なことは、努力や意志ではなくて、心を受容的にして待つことです。そして、それは起きるときには起きてくるのですから。

セラピストは意地悪

もしもあなたが、自分の今の人生はうまく行っているなあと思うのなら、それは自我(エゴ)が正常に機能している証拠だと思って間違いありません。

順風満帆のときは、自我の独り舞台だということです。その時には、幸せな気分でいられるかもしれませんが、大切なことへの気づきからは遠ざかっています。

けれども、どうも自分の人生には問題が発生していて、不自由な状態になってしまったと思っているのでしたら、幸せは遠のいたかもしれませんが、大切な気づきのチャンスが到来しつつあるということです。

そして、場合によっては自分独りでは解決できそうもないと分かって、セッションを受けににいらっしゃるクライアントさんもいるわけです。

そんなクライアントさんに対して、私は意地悪くも更なる追い討ちをかけるのです。つまり、もうすでに困ってしまって人生に手こずっているクライアントさんが、より困惑するように仕向けるのです。

それがセラピストの仕事だからです。セッションは、場合によっては痛みを伴うものなのです。それは、クライアントさんが無自覚に隠してきた都合の悪い自分に目を向けてもらう必要があるからです。

クライアントさんが混乱すればするほど、そこにチャンスがあるのがよく分かるのです。だからセラピストはある種、憎たらしい人種だと思って間違いありません。

その混乱の中で、少しずつ何かに気づいていく可能性が広がっていくのです。同じ日にセッションにいらした複数のクライアントさんたちは、不思議なことに互いに似たようなエネルギーの持ち主である場合が少なくありません。

ところが、セッションの結果は真反対になることもあるのです。一人は、心を頑なに閉ざして鉄壁のガードを堅持し、もうお一人はヨレヨレになるくらいに感情と向き合うというように…。

そうした違いは、クライアントさん自身のその時の心構えや時期などが微妙に影響するのでしょうね。それ以外の要因は、神のみぞ知るということかもしれません。

セラピストは誠実な意地悪だということを、覚えておいて下さいね。

180度視線を反転させる

通常私たちは、自分の身体の中に入っているという感覚を持って生活しています。この肉体をまとって、その中から外側の世界に視線を向けているという感覚ですね。

この肉体の内側が自分固有のエリアであり、肉体の外側に世界が広がっていると思い込んでいます。誰もが、そんなことは疑いようのない事実だと思っているのです。

けれども、外側に向けたその視線を、そのまま180度反転させて、今まで見ることのなかった自分側に向けてみると、それまで気づけなかった驚くような事実がそこに広がっているのです。

あなたは、自分自身と外側の世界とは、この肉体を使って互いに隔てられていると思い込んでいたのですが、そんなものはないということに気づくはずです。

あなたは外側の世界と直接つながっていて、隔てるようなどんなものもないということに気づいてしまいます。もしも、疑うのでしたら試してみて下さい。

私が初めて、この実験をやったときの印象は、自分が外の世界だと思っていた場所に直接転がり出てしまうんじゃないかという感覚になったのです。

自分と外の世界を隔てるものが消えてしまっているからです。そして、もう少し注意深く内向きに見続けていると、こちら側には何もないということに気づいたのです。

その何もなさの中に、実は外側にあると思っていたこの世界があったことを見ました。言葉で説明すると、何だか回りくどいのですが、これほどシンプルな事実は今まで見たことがないくらいです。

そして、ああ、外側も内側も同じものが見えていたのだと分かったのです。つまり、外側と内側という区別は本質的にはないのだということです。

このシンプルさが非常に気に入りました。この実験は、いつでもどんな場所でも、すぐに実践することができるのですから、即検証してみて下さい。

きっと何か素晴らしい気づきがあなたを待っているはずです!

「降参」の意味

曖昧な記憶なのですが、幼いときにいろいろな童話や昔話のようなものを、絵本で読んで聞かせてもらったりしたことがあったと思うのです。

そうした物語には、大抵正義の味方と悪者の対立があって、最後には悪は戦いに負けて降参して逃げて行くという筋書きがありました。

例えば、、桃太郎にやられて降参した鬼とかね。この「降参」という言葉は、幼いころに何度も聞かされた特徴的な響きを持った言葉だという印象を持っています。

ところが、大人になって降参という言葉はほとんど使わなくなってしまいました。それはきっと、降参するのは悪者であって、しかも弱くてカッコ悪い者の代名詞のような雰囲気があるからなのでしょうね。

子供とじゃれ合っているときに、「パパはもう降参だよ!」という具合にはもしかしたら使ったことがあったかもしれませんが、真剣な場面で降参という言葉は禁句なのでしょう。

それは、戦いに敗れた、しかも完敗を意味する言葉なので、人生は戦いだとばかりに急き立て続けねばならない自我としては、非常に都合の悪い言葉なのかもしれません。

けれども、この降参という言葉には、戦いに敗れて服従するという意味合いとは裏腹に、もっと清々しい精神状態になる種子のようなものを感じることもできるのです。

実際、降参という意味の英単語は、surrender ですが、この単語には明け渡すという意味もあるのですから。降参には、戦いをやめてすべてを受け入れるという意味合いがあるのですね。

そういう意味では、降参は、観念することでもあるし、明け渡すことでもあり、また委ねるという意味合いとしても使っていいのかもしれません。

幼い大切な時期に、敗れて服従するという意味での降参ばかりを教え込まれたことは、自我に乗っ取られた大人やこの社会が、無意識の悪意を持って洗脳しようとしていたことをうかがい知ることができます。

つまり、お前は降参したらもうお終いになるぞ!といったような恐怖の植えつけです。すべては自我(エゴ)の策略だったわけですね。

まずは、自分から戦いをやめて降参する人生へと変えていくことだと思っています。それこそが、自分と世界のすべての救いに繋がることだからです。

驚くことの素晴らしさ

みなさんは、今まで当り前のように思っていたことなのに、ある時何の前触れもなく突然にそれまでと違った感覚になったことはないでしょうか?

表現が上手にできないので伝わらないかもしれませんが、きっとそうした体験をされたことがあるはずです。今朝、クルマを運転している最中に、それがやってきました。

といっても、5秒くらいのとても短い時間だったのですが…。それは、一口で言うと、見ている景色に驚いている状態になったということなのです。

何を驚いているのかというと、見えるものすべてに対してなのです。すごく驚いていて、これは奇跡だと小さな声でつぶやいたように記憶しています。

今この瞬間、こうして生きていて、この世界がこのようにあって、それを体験していることの不思議さ、そのことについて驚いているということです。

以前にも、ごくごくたまに似たようなことはあったのですが、それがまたやってきたということです。この体験は、過ぎてしまうと実は何だかもうはっきりとした実感が残っていないのです。

けれども、とにかく不思議さに驚いていたという事実だけは記憶に残っています。そして、それは単なる興奮というよりも、活き活きとした素晴らしい体験をしているという感覚があるのです。

書いていて、今また少し思い出したのですが、その瞬間、すべてがスローになるというか、極端に言えば止まっているような感じもしていたかもしれません。

毎日のように顔を合わせている相手のことを、どういうわけか短い時間ですが極端に愛しいと感じる瞬間を経験したことはないですか?それととても近いものがあるのです。

あの感覚が、ずっと続いてくれたら、あらゆる問題、どんな苦悩すらも消えてしまうかもしれません。正確に言えば、消えるのではなくて苦しみも包含して完璧だという感覚ですかね。

私たちは、きっと子供のころはもっともっと驚いていたはずです。その驚きがまた呼び戻されるなら、こんな悦びはないかもしれませんね。

理想の自分像を取り下げる

もしも、あなたが理想の自分像というものを掲げているとしたら、そしてそれを強く欲しているとしたら、その分だけあなたは激しい自己否定に苛まれているはずです。

なぜなら、その理想像というのは自分が本当にそうなりたいと願っているものではなくて、それは誰からも否定されずにいられる自分になることで安心しようとしているだけだからです。

あなたは自分をトレードに出しているようなものなのです。頑張って、我慢して自分の自由を抑圧した見返りとして、理想の人物像を実現して安心しようとしているからです。

けれども、残念ながら誰からも否定されないような人物というのは、この世には存在しないのです。その目標に到達することは不可能なことなのですから、そこに救いはないのです。

あなたが作った理想の自分像とは、実のところ親や社会から押し付けられたものに過ぎません。あなたのオリジナリティは何も発揮されていないのです。

人間とは未熟で不完全な存在なので、もっとこういう自分に成長したいと願うのはごく自然なことなのですが、その思いが強くなり過ぎてしまうと、自己嫌悪の中でもがき苦しむことになるのです。

理想とのギャップを突きつけられて、現実の自分を呪うような気持ちになるかもしれませんが、その影で「自分の自由にさせろ!」と訴えている自分もいることを忘れてはなりません。

理想を目指す部分をマインドだとすれば、自由になりたいと訴えているのはハートだと表現できます。ハートは感じる部分であると昨日のブログで書きましたが、ハートは正直です。

一方、マインドは自己防衛の塊りなので、恐怖がその根底にあることを見抜いて下さい。あなたが掲げている自分の理想像をもう一度チェックしてみて下さい。

そして、それを一旦脇に置き、心の底から願っている本当の気持ちに気づいてあげることです。あなたは、毎日をただ自由に楽しみたいだけなのではないですか?

無防備な子供のように、でたらめ語の歌を歌い、ただの自分自身である無目的な今を生きたいと願っているのではないでしょうか?

マインドが求める目的や価値や意義といったものをすべて脇に置いて、子供のようにハートですべてを感じる瞬間を夢見ているのではないでしょうか?

素直になって、感じてみることですね。

今を感じてみる

毎日何かと忙しくしているあなたに、一つ質問をしたいと思います。あなたは、一日のうちにどのくらい、何もしないでいる時間を持っているでしょうか?

忙しいのだから、何もしないなどという時間を持つことなどできないと信じているのでしたら、それはもうあなたの自我の作戦に乗せられていると思って間違いありません。

私たちは、何もしないでいる時間は、貴重な時間を無駄に過ごしたことになると固く信じ込んでいます。何もしないのですから、何の成果も結果も期待できないわけですから当然かもしれません。

本でも読めば少しは知識が増えるでしょうし、テレビでも見て楽しめばストレス発散の効果もあるでしょうね。それに比べて何もしないでいるなんて、怠け者でもない限りはできない相談だと思っているのです。

けれども、実は何もしないでいることは、自我にとっては脅威なのです。自我は、常にあなたを戦いへと駆り立てていなければならないからです。

だから、あなたはじっとして何もしないということができないのです。たとえ一分でもいいのです。何もせずに静かにしていることが、如何に大切な事なのかを是非分かって欲しいのです。

自我がマインドだとすると、よりあなたの本質に近いところはハートと呼べるかもしれません。マインドは思考であり、ハートは感じることです。

私たちは、無邪気で自由な幼いころに、親や社会からコントロールされ、方向づけられて、その度ごとにマインドを鍛えてきてしまったのです。そのために、感じるというハートの機能をおろそかにしてきたのです。

思考が目まぐるしく活動していると、感じることがおろそかになるのです。もっともっと、感じて欲しいのです。何を感じればいいのでしょうか?

それは、あなた自身に対してだったり、あなたが今まさにこの瞬間にいるということに、鋭敏になって欲しいのです。そのためには、短い時間でもいいので精神活動をしないでいるようにすることです。

街角で立ち止まって空気感を感じたり、ほんの短い時間であってもいいのでもっとハートを使ってあげることです。気が進まない中、敢えて長い時間瞑想をしなくても構いません。

そういうことを繰り返していくうちに、あなたは自分が毎日自分自身のペースで生きていないということに気づくかもしれません。

今を感じることができたら、あなたの毎日の質は間違いなく変わっていくことでしょうね。

瞑想的に生きる

この一か月くらいは、左肩を痛めてしまったせいで、水泳を控えているのですが、そのために朝一で誰もいないスポーツクラブのお風呂にゆっくりと浸かれる生活が続いています。

サウナでも、独り静かにほとんど瞑想するような状態になることができるのです。それまでは、騒がしくも楽しいオジサマ連中とバカ話ばかりをしていたのですが…。

そして気づいたのですが、瞑想的になっているときの方が、100℃の暑さの中でそれまでよりも数分長く入っていられるということです。

暑さに変化はないのですが、暑さの質が変わった感じが確かにするのです。自分なりに考えてみた結論はいたって簡単、それは思考が緩むからなのです。

瞑想的な状態になると、当然いつもよりも思考が緩むのですが、そうなると思考をツールとして自分に自己防衛を強いてきた自我がパワーダウンするのです。

そうなると、戦うモードが一気に減ってしまうということです。普段は、気づかぬうちに暑さと戦っていたのでしょうね。戦えば、それだけ暑さは苦しみとなるのです。

一方で、暑さと戦わなくなればなるほど、暑さと共にいられるようになるということです。暑さを敵対視する思考が消えてしまうからですね。

子供は少しぐらい熱を出しても、大人のように具合が悪くはならないものですね。40℃近くなってはじめて、急激に元気がなくなってバタッといくのを何度も目にしたことがあります。

大人の場合は、熱が上がったということを知ると、思考によってその熱から自分を守ろうとするために、心理的ダメージが先にやってくるのです。

それに比べて、子供は好きな遊びを続ける限りは、思考上位になることがないために、熱を敵対視しないでいるわけです。そのために、熱出しによる心理的ダメージがないのでしょう。

だから、身体がもう無理となるまでは元気に遊び続けることができるのですね。思考優先で生きるということは、それだけ防衛的になって、苦悩が増えるということなのです。

出来る限り、日々瞑想的に生活できるようにしたいものですね。