自我の消滅

osho の言葉に次のようなものがあります。

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あなたが長い間自分を見つめると、

いわゆる自我は消えてしまう。

それは惨めさからの本当の自由だろう。

愛は残るだろう-それは誰か他の人に向けたものでもなく、

自分に向けたものでもない。

愛は誰かに向けるものではない、

なぜならば、向ける対象はないからだ。

愛がそこにある時、何かに向けられていない時、大きな至福がある。

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瞑想するときに、単に無念無想になるのではなく、ひたすら自分を見つめてみるのです。そうすると、深いところで自我と触れ合う瞬間、とても居心地の悪い感じがします。

それは、自我が自分の正体がばれてしまうことを恐れるからです。自我の根っこをつかもうとすれば、それはするりと身をかわそうとします。

結局、自我の正体とは思考であるために、実体がないということに気づいてしまうということです。幻想を生かしておく唯一の方法とは、それをしっかり見ないでいるということに尽きるのです。

自我が消えるまでもなく、薄くなっていくだけで自我が抱え込んで決して見せようとしない自分の惨めさも、小さくなっていってしまうのです。

自我が消えてしまったとしても、愛はただそこに在り続けるのです。というより、雲が消え失せたときに自動的に青空が現れるのと同じように、自我が消えてしまえば瞬時に愛が顕われるということです。

その愛とは、対象物を持つこの世界の愛情のようなものではありません。愛は、一人称のことを言うのです。つまり、「不二」ということです。

それは、私たちが求めている幸福ではなく、永遠の至福のことでもあるのです。

退屈から逃げない その2

昨日のブログで、退屈は真実への大切な入口だということを書きました。けれども、私たちは一般的に退屈しているなんて勿体ない、もっと活動的に人生を生きるべし、と教えられて育ったのです。

誤解のないように、このことについてもう一度書こうと思います。何をするにも気だるくて、やる気が起きなくてじっとしていても、人は退屈してしまうはずです。

そんな怠惰な毎日を奨励しているわけでは決してありません。ここでの要点は、ただ退屈から逃げないという、その一点なのです。

自分の気持ちに正直に、日々を活動的に生きることはすばらしいことです。他人から見ると、とても忙しそうに見えたとしても、心が充実していればいいのです。

過去と未来へと思考により流されてしまう代わりに、今この瞬間にできるだけのエネルギーを向けていられるのなら、それは本当に満たされるはずです。

そこには、退屈という恐怖から逃れようとする要素はないはずです。人間のタイプによって、より動的な活動的な人と、その逆により静的な人がいるものです。

したがって、その人の人生がどのように他人の眼に映ろうが、大切なことは退屈から逃げようとすれば、真実への気づきは延期されるだろうということなのです。

何かに一生懸命取り組んでいるとき、私たちは防衛という思考からしばし離れることができるのですが、残念ながらそれは一過性のものに過ぎません。

何もすることがなくなって、手持無沙汰がやってきたときには、その退屈から逃れようとして誰かにメールをしたり、テレビを見たり、本を読んだり、出かけたりして時間を潰そうとするのです。

ときには、特別する必要があるわけでもないと思えたときに、何をするでもなくその退屈の中に自ら入って行ってみて下さい。何ともイライラしだすかもしれません。

その時にチャンスがやってきます。イライラするのは、思考の中にしか活躍の舞台のない自我が刺激を欲して右往左往している瞬間なのです。

退屈だ~と叫んでいる張本人を見つけてみようとすることです。そして、そこには本当は何者もいなかったということに気づくはずなのです。自我とは、所詮そういうものなのですから。

退屈から逃げない

以前から右足首をブラブラさせて、いわゆる貧乏ゆすりをするクセがあるのですが、どういう時にそれが起きるのかは、自分なりに分かっています。

理由は二つです。一つは、何かにイライラしている時です。二つ目は、退屈している時です。最近では、二つ目の理由が多いような気がしています。

独りでいて、じっとしているときとかに気が付くとよくやっていることなので、別にイライラしているわけではなくて、ただただ退屈しているのです。

みなさんは、毎日どれくらい退屈を感じながら過ごしているでしょうか?以前、会社員だった頃に、テンプスタッフとして働いていただいていたセクレタリーの方がよく愚痴っていました。

彼女いわく、「やることがないのが一番つらいのよね~」。つまり、暇で退屈しているのが何より辛いということなのですね。退屈がいかに嫌な状態なのかは、みなさんもよく分かっていることと思います。

動物は退屈するということがありません。退屈は、人間だけが感じるものです。なぜなら、退屈を感じているのは自我だからです。人間だけが持つ自我は、退屈が大嫌いなのです。

もしも、あなたが日ごろほとんど退屈を感じることがないとしたら、それは幸運なことでしょうか?実は退屈などしないという自覚がある人は、自分で退屈しないように仕向けているのです。

退屈が自我にとって拷問に近いようなことだからです。気が付くと、いつも忙しく動き回っている人、常に何か考え事をしている人がいますが、そうやって退屈から無意識的に逃れようとしているのです。

それに反して、わざわざ退屈の中に入っていこうとする人たちもいます。それは、瞑想しようとする人たちです。瞑想とは、徹底的に退屈から逃げない一つの方法なのです。

私自身、自分に意識を向けているときには、決して貧乏ゆすりをすることはないのです。理由は簡単、貧乏ゆすりは何とか退屈から逃れようとする行為であり、意識的になっているときには退屈をそのまま感じているからです。

退屈は自我が存続するための作戦であり、退屈という苦痛から逃れようとして何かをし出すことで真実から目を背けさそうとしているのです。

退屈は本当につらいのですが、裏を返せば、そこにこそ真実への気づきが隠されているのです。退屈を十分に受け止めましょう。

退屈の苦痛が消えていくとき、自我としての自分の姿も怪しくなって次第に薄れていくのです。その先に、いわゆる至福が待っていてくれるのですね。

極端は極端を生む

人の心というものは、決して一枚岩ではありません。大抵は、相反する主張があって互いに対立していたりするものです。右がいいというものがいれば、左だと主張するのです。

好きという思いがあれば、その影で嫌いという気持ちがあるのです。ただし、一方は心の奥に隠されてしまって片方だけしか自覚していないということが多いのも事実です。

だからこそ、気づいていただこうとしてこんなブログを書いているわけですが、そんなことは分かっていると思いつつも、実はすぐにこうしたことは忘れてしまいがちなのです。

そうして、都合のいい自分の側ばかりを優先して使おうとするのです。人に好かれる性格の部分を全面に出して、逆の部分は抑圧されてしまうということがあるのはそのためです。

元々物静かで大人しい子供であっても、その奥にはその反対に活発な部分だってあるのです。そして、人が人生を清々しく生きるためには、適度に相反する両方の自分を使ってあげる必要があるのです。

仕事に行って頑張りたいという気持ちがあれば、必ずその逆の行きたくないという思いも持っているのですから、たまには仕事を休んであげるということでバランスが取れるのです。

ところが、私たちは幼いころからすでに、そうしたバランスを欠いた生き方をするように仕向けられてしまうのです。なぜなら、親の期待に応えようとするからです。

親や社会が自分に望むような自分になろうとして、心のバランスを失ってしまうことが多いのです。敏感で素直な子供ほど、そうした傾向が強くなってしまいます。

そうして、あまりにも極端に走ってしまえば、もう片方が極端に抑圧されることになってしまうのです。それが限界を迎えると、一瞬にしてもう片方の極端へと移行してしまいます。

それが、鬱症状であり、場合によっては極端な形の問題行動として起きてきます。鬱症状になれば、人は身体が動かなくなり、心は無気力状態となり、すぐにそれと自覚できるはずです。頑張るの反対は頑張らないだからです。

反対に自覚できないのが問題行動です。問題行動は、鬱症状のようには明確ではありません。特に身体の症状として表面化させるものについては、単なる身体の不調、あるいは病気という判断をしてしまいがちです。

自分の心や体に関して、不自由さがつきまとうなら、それは問題行動です。それは、何等かの理由であなたが一方の極端を続けてきた結果だと理解することです。

「惨めさ」を正面から見る

セッションでもこのブログでも、今までに何度も繰り返しお伝えしてきていることですが、癒しにおけるキーワードは自分の「惨めさ」です。

それは、誰もが惨めな自分を心の奥に密かに隠し持っているからです。それと同時に、それは最も見たくない自分、決して認めたくない自分の姿でもあるのです。

だからこそ、その惨めな思いをひた隠しにしておいて、自分は決して惨めな奴なんかじゃないということを証明しようとして躍起になっているのが人生なのです。

その思いが強ければ強いほど、その努力と頑張りは涙ぐましいものになるのです。そして、残念なことにその目論見はいつか必ず失敗してしまいます。

なぜなら、心の奥に隠したものは何であろうと、現実の体験として遭遇することになるからです。つまり、自分の惨めさを思い知らされる事態が起きてくるということです。

そもそもなぜ誰もが惨めだという思いを持ってしまうのか?それは、自我の発生と共に自分がこの世界から分離したちっぽけな無力な存在だという思い込みが起きるからです。

そしてその時、誰よりも自分を守ってくれると信じていたい両親からも、残念ながら自分を守らねばならないということに気づいてしまうからです。

それがどれだけショックで、どれほど惨めなことか。私たちの大多数はそのことをすっかり忘れてしまっています。両親の想いと、子供の意志とはいつも異なるのです。

子供は、自分の思う通りに生きることが次第にできなくなっていき、そのことも自分の惨めさを更に積み重ねる結果となってしまうのです。

自分は惨めではないということの証明をしようとすれば、必ず過去と未来へと意識が向くようになってしまいます。それこそが、不幸の根源であることは昨日のブログでも書きました。

ずっと隠してきた「自分は惨めなやつ」という悲惨な思いと感情を正面から受け止めることです。逃げずに見ることができれば、それだけ投影されて現実となることも少なくなるのです。

「惨めさ」、それはただの思い込みであり、その大元となるこの世界からの分離というもう一つの思い込みと共に、それらが真実ではないということを理解する必要があるのです。

「不幸」のありかに気づくこと

私たちの「不幸」はどこからやってくるのでしょうか?それは、とてもシンプルです。自分の願いが叶わなければ、自分の欲求が満たされなければ、私たちは不幸を感じるのです。

また、たまたま自分の思い通りのことが起きたとしても、その時は喜べるのですが、次は思い通りにはならないだろうことを知っています。

だから、せっかく願いが叶ったと思っていても、心のどこかでは未来に満たされない事態がやってくることを想定してしまっているので、100%の心で喜ぶことなどできないのです。

何から何まで、いつも願望が叶う人生など決してあり得ないということを、誰もが熟知しているのです。ということは、私たちの不幸は確定しているようなものです。

つまり、願望や欲求があればあるほど、不幸はそれだけ大きく自分にのしかかってくるということです。私は、癒しても癒しても、不幸がなくならないことを身を持って体験しました。

セッションでやっている心理療法というのは、何か特定の問題が生じているときに、その原因を過去に探って、苦しみをできるだけ緩和することが目的です。

そして、目の前の不具合が解消されていけばいくほど、今度は逆に「不幸」である自分の心に気づいていってしまうというジレンマがあるのです。

なぜなら、私たちは心を癒して行ったところで、自分が持っている願望や欲求を手放すことなど、到底できないからです。

この一見どうしようもない「不幸」から脱出するためには、たった一つの方法しかありません。それは、願望や欲求が生き延びる過去と未来に意識を向けないということ。

私たちは、過去に体験した快楽を未来に失いたくないという欲求を持っているし、未来に対しては今よりも苦しみたくないという願望を持っているのです。

こうした思考に乗っ取られたら最後、必ず不幸がやってきます。けれども、過去でも未来でもないたった今、この瞬間に意識を向けていられるなら、どこにも不幸はありません。

不幸のありかである過去と未来は、現実ではありません。現実にたった今起きていることをただ見ているとき、そこには決して不幸が入る隙間はないのです。

「しなやか」であること

人生には、いろいろな事が起きますね。自分が能動的に動こうとして起きてくる様々なこともありますが、自分は殊更何もしようとしなくても、起きることがやはり起きてしまいます。

誰でも自分に都合のいいことがたくさん起きて欲しいと願っていますが、それも必ずどこかの時点で期待は裏切られたりするものです。

予期せぬ出来事に揉まれながら人生が続いていくのです。それは、たとえば海面に浮かんでいる瓦礫のようなものかもしれません。

瓦礫は、潮の流れに乗って水平方向へと流されながらも、同時に絶えず波に弄ばされながら上下運動を繰り返しています。

けれども、瓦礫と私たちが根本的に異なるのは、私たちは常に一喜一憂しながら毎日を送っているということです。時には、潮の流れに逆らって一か所に留まろうとしたりします。

自分に都合のいい波がやってくると悦び、いやな波に襲われれば逃げようとして苦しむのです。都合のいい波が沢山やってくる人生を幸福な人生だと思い込んでもいるのです。

だからこそ、いずれはやってくるいやな波によって、不満を感じるのです。一つひとつの波の好き嫌いは当然あっていいのですが、人生を全体として見てそれを信頼することができたら、波を見る目は俄然変わってきます。

トータルで見ると、真に都合の悪い波などというものがなくなってしまうからです。大いなる意志に誘われている自分の人生に信頼を寄せることです。

激しく波にもまれているときには、なかなかそうは思えないものですが、それも人智を超えた何かに揺られていると感じることができれば、どの波も必要なものだったと分かるのです。

あなたの心を頑なにしているものは、生きることの恐怖です。絶対的な信頼の欠如なのです。自分の身は自分で守らねばという涙ぐましい努力をやめられないのは、そのためなのですね。

どこに流されていこうが、どんな波にもみくちゃにされようが、人生をトータルで見渡すことができたら、根っこの微動だにしないでいる、自分の本質が見えてくるものです。

硬直化せずに、抵抗せずにいればいるほど、それを直接体験することができるはずです。しなやかで柔軟な心でいることで、どんな波もお友達にしてしまえばいいのです。

この世界に遍在する全体性

普段私たちは、あまりにも当然のこととして気にもしていないことがあるのですが、それは自分は一体全体どこにいるのか?ということです。

そのことを一度でも追及したことがある人なら分かるはずですが、本当はそのことを知らないのです。誰も、自分がどこにいるのかを特定できないのです。

逆に言えば、そのことに気づきたくないので、知っているふりをして生活しているのです。自分がどこにいるか分からないということが、それほど都合が悪いことなのですね。

何となくぼんやりと、自分とはこの身体に違いないと感じているために、もうそのことには一切触れないようにして生きているのですが、でも自分は身体そのものだとは思っていない人も沢山いるはず。

それなら、自分はこの身体の中に入っているのか、それとも身体の外にいるのか、あるいは身体から離れたどこかの場所にいるのか、それくらいは見つめてみてもいいはずです。

そうすると誰もが自分の正体を肉眼では見ることができないという、あまりにも不自然とも言える事実にすぐに直面してしまいます。

どれほど不自然だとしても、それ以上追及しないのが普通です。ここの当たりに、もうすでに真実がその姿を露呈しているのですが、多くの人はここを見過ごしてしまうのです。

けれども、ただ逃げないでいるだけで、自分をどこにも見つけることができないという事実に気づいてしまいます。気づきとは、これほど単純でシンプルなことなのです。

あなたが、この世界のどこにも自分を見つけることができないということは、例えていえばあなたが寝ている間に夢を見ているとして、その夢の中に自分が登場するはずですね。

その夢の中の登場人物である自分が、ふとしたきっかけで「これは夢だ」と気づいてしまったとしましょう。その時、その夢を眠りの中で創り出している本当の自分を見出すことができないはずです。

それと全く同じなのです。結局、本当の本当のあなたの正体とは、この世界を包含する実存なのです。この世界のどこにも遍在する全体性であるということです。

問題行動は心の叫び

私の知り合いの男性で、実家で家族と暮らしている間は、無類の劣等生だった人がいるのですが、彼は高校を卒業すると同時に上京して一人暮らしをしながら、予備校生として勉強し出したのです。

すると、あれよあれよという間に成績がトップになって、結局東大医学部と慶応医学部に合格してしまったのです。勿論、それはたまたま運が良かったということではなく、予備校の講師からこの成績ならどこの大学でも受かると太鼓判を押されていたということです。

彼は変わった人で、せっかく合格した大学を中退して独自の民間療法を立ち上げて、それを生業としている人でした。彼は、実家で暮らしているときにわざと勉強しなかったわけではありませんでした。

親兄弟や親せきなども全員が東大卒という頭のいい一族だったのですが、彼だけはいくら叱咤激励されても一向に成績がよくなることはなかったそうです。

その理由は、彼の話しを聞いてすぐに理解することができました。それはつまり、成績が悪いのは問題行動だったのです。成績が悪い子供の彼を周囲は否定し続けたのですね。

自分は勉強したくないという本音をあまり表現することなく、悶々としながらも表面的には一生懸命勉強していたのです。それが悪い結果を導いてしまったのです。

つまり、勉強は嫌いだからということを徹底的に表現することができていたら、きっと彼はたとえ勉強せずともかなり好成績を取ることも可能だったはずなのです。

けれども、自分を騙して勉強したために、自分の本当の気持ちを激しく抑圧してしまったために、影なる反抗勢力となって問題行動が起きてしまったということです。

上京して一人になったおかげで、彼にプレッシャーを与える家族がいなくなったおかげで、素の自分に戻れたのでしょう。だからこそ、彼本来の能力を思う存分出し切ることができたのです。

問題行動は、本人の自覚なく起きてしまうので、一番困ってしまうのは本人自身なのです。問題行動は、あらゆることに見受けられますが、基本的には親への訴えですので、反社会的であったり、それを知ったら親が心配したり悲しんだりするようなことでなければならないのです。

もしも、あなたがそうした類のことをやめられずにいるとしたら、間違いなく問題行動であると思っていいのです。問題行動は、自分の人生を棒に振らせることにもなりかねませんので、その原因となる親への不満、訴えたい気持ちをよく思い出して、それを全面的に味わって、受け入れていくことです。

そうやって、心の癒しが進んでいくことで、少しずつ問題行動は緩和されていくはずです。

バランスを取るためには… その2

昨日のブログでは、バランスを取ることの大切さとその方法について書きましたが、今日もそのことについて、別の事例を使って書いてみたいと思います。

スピリチュアルという言葉が流行って、もう随分と時が経ちますね。私たちは、誰が何と言おうとこの身体と共にこの生を生きているはずなのに、そのことを軽んじてスピリチュアルな生に傾く傾向があるようです。

本当は、フィジカルとスピリチュアルがともにバランスよく意識されていることが自然であり、最も生を満喫できる最善の方法なのですが、どうも片方に偏重ぎみなのです。

高度成長期には、たくさん働いてたくさんお金を稼いで、欲しいものを買って、夢のマイホームを建てて…、その先に幸せが待っているという期待で生きていたかもしれません。

そうしたある種の物欲合理主義が行き詰った末に、今度は精神的な面にこそ価値があるとして、スピリチュアルな人間がより高貴なのだとばかりに、変わってしまったのだと思うのです。

けれども、それは片方に挫折したので、もう片方へとターゲットが移っただけで、結局はバランスが取れていない状態は何も変わってはいないのです。

このブログで繰り返し書いている、私たちの本質に気づくことは、けっしてスピリチュアルなことではありません。本当の私たちの姿とは、心のことでも精神のことでもないからです。

物質的なものと精神的なものは、この世界での現象に過ぎません。したがってどちらかに重きを置くのではなくて、その両方をバランスよく生きることこそが、生を満喫することに繋がるのです。

そのバランスを取る最前の方法こそが、自分の本質に気づくことなのです。それは、決してスピリチュアルなことではありません。勘違いしないことです。

物質的なものと精神的なものの双方を丸ごと受容している自分の本質に気づくことは、何にも代えがたい本当の人生の目的なのだと思います。