バランスを取るためには…

今日もバランスの話しをします。勿論、バランスを欠くといろいろ厄介なことの多い人生になってしまうということです。この世界は二元性でできています。

右があれば左があり、上があれば下があるという具合です。片方だけということは絶対にありません。それが、この世界の鉄則です。

もしも、疑うのでしたらとことん例外がないか捜してみて下さい。決して見つからないはずです。で、話しを元に戻すと、その二元性の中で上手にバランスを取ることがとても大切なのです。

例えば、私たちの心の中には、純粋で正直な幼い子供のような部分と、理知的で分別のあるルールを重んじる大人のような部分とがあります。

これも一つ対のようにして存在しているものです。そのどちらか一方に偏った生活をしてしまえばどういうことになるか、はっきりしています。

前者ばかりを優先させれば、いつまでも野生児のような社会不適合者となってしまうでしょうし、後者ばかりを優先すれば、あまりにも生真面目でルールばかりを重んじるつまらない人になってしまうでしょう。

そして、特に後者の場合、前者の部分、つまりもっとも自分らしい素直な部分が犠牲を強いられてしまうために、病気になったりストレス過多になって、必ず具合が悪くなるはずです。

そうして、いつかは必ず自己犠牲のかたきをとるかのように、大爆発が起こり、それがひどい鬱状態を作り出したり、激しく感情が噴出するといったことになってしまうのです。

バランスを上手に取るためには、心の中にいつもバランスを見ている存在がいなければなりません。それは、放っておいてできるものではないため、意識的に作る必要があるのです。

その役割を担うのが、昨日もお話しした「見る」という立場です。自分の心の在り様をいつも見ること、心の声にいつも耳を傾けて聞いてあげること。

そして、それこそがあらゆるものを受け止めるということに繋がるのです。見る立場になるためには、思考から抜けている必要があることも付け加えておきます。

なぜなら、思考を使って見てしまえば、そこには必ず裁くという作業が発生してしまうからです。それでは、見られる側に逆戻りしてしまいます。

あなたの心の中をいつも見る(観照する)意識を作ってあげることです。今この瞬間も、つまりこのブログを読んでいる自分と何かしらの反応をしている自分を見ていることです。

現在を満喫する

私たちは、絶え間なく思考を活動させていることに普段あまり気づいていません。なぜなら、そのことに気づいた瞬間には、そこからは抜け出せているからです。

それを明示的に行うのが瞑想ということですね。瞑想を奨励する人が多いですが、それは思考の罠からなるべく抜け出すためなのです。

思考は、実は現在にはいることができません。というよりも、思考は過去と未来を作り出す張本人なのです。実は、過去も未来も現実にはありません。

「過去とは過ぎ去った現在であり、未来とはこれからくる現在のこと。」これは、osho(あるいは老子)の言葉ですが、非常に的を得た表現ですね。

つまり、私たちが現実の世界で生きているのは常に現在(今)でしか在り得ず、過ぎ去った現在やこれからくる現在を疑似的に体験させるのが思考なのです。

この思考が作る疑似体験の要素には、愛は入っていくことができないのです。なぜなら、愛は現実体験であって妄想の中にはないからです。

思考が作る疑似体験は、シンプルに表現してしまえば、恐怖がその原動力となっているのです。つまり、私たちが過去を追体験しているとき、その主な目的とは恐怖からの逃亡、自己防衛であるということです。

簡単に言えば、思考は恐怖と一体であり、無思考は愛であるということです。純粋な愛を感情と勘違いしていることが多いのですが、愛は私たちの本質の別名に過ぎません。

エゴが繰り出す思考に巻き込まれてしまっていると、現在(今)という唯一実体験できる大切なものを見失ってしまうことになるのです。

それでは十分に生を生きていることにはなりません。そうならないために、無防備に生を楽しむために、なるべく無理のない方法を実践することです。

その一つが、瞑想ということになるのですが、忙しいあなたのために、毎日一定の時間瞑想する気になれないあなたのために、より簡単でいつでもできる方法をお伝えします。

それは、思考を観察しようとする態度です。思考に巻き込まれてしまうと、過去と未来へと流れていってしまうので、その思考を見る立場にいるようにするのです。

そうすると、思考を止めようとせずとも、思考は自然と緩んできて現在を生きる邪魔をしなくなります。そうやって、思考に巻き込まれなければ、現在という生を十分に満喫することができるのです。

今日はお休みします

今日は参りました。どうしてもネットが繋がらなくて、こんなのは初めてです。で、仕方ないので、ケータイから書いてアップしようと思ったのですが、タイプするのがシンドイので、このブログお休みします。

こういう日がたまにはあってもいいのかなと…。

気が向いたら今日中に再度アップするかもしれませんので、チェックしてみてくださいね。

自分を不幸に導く信念、信条

もしもあなたが、自分の人生はいつも不自由で生きづらい、頑張っても結果が出ず、努力しても逆効果のように益々辛くなってしまうと感じているのでしたら、その原因は一つしかありません。

それは、あなたが正しいと思って信じている、あなたの信念や信条に根本的な原因が潜んでいるということです。一見すると、周りの環境や誰かのせいにしたくもなるものです。

あるいは、自分には運がない、天に見放された人生なのだとか、自分の性格が悪い、自分はもっと努力できるはずなのにそれをさぼってやらないから、苦しい結果になるのだと考えているかもしれません。

私たちは、恐怖や不安から身を守りたくて、独自の正しさで身を固めるのですが、その鎧こそが不幸の権化であることには決して気づこうとしないのです。

なぜなら、それを頼りに生き抜いてきたのですから、これからもそれを信じて生きていく以外方法がないと思い込んでいるのです。

本当は、薄々気づいてはいるのですが、もしもはっきりと気づいてしまうと大変な恐怖感と戦わなくてはならなくなってしまうことを知っているので、分からないふりをしているのです。

でも安心して下さい。恐怖はあるかもしれませんが、それは一時的なものに過ぎません。少しずつ実績を作っていくことで、それほど無理しなくても、それまで縛られていた不要な思い込みから解放されていくはずです。

実績とは、握りしめていた信念、信条、自分の正しさに違反した生活を送った際に、自分が想定していたような恐ろしい結果には決してならないことに気づいていくということです。

あなたの思い込みは、幼いころの実体験や、親からの刷り込みでしかありません。すべては過去からやってくる実態のないものにコントロールされているということです。

あなたが大事にしている、あるいは日ごろ意識している信念、信条をリストアップしてみるのです。そして、それがどうして自分の心の中にしっかり根付いているのかも、解明することです。

さらに、その考え方は本当に自分を満ち足りた人生へ誘ってくれるものなのかどうか、よくよく見極めることです。これは、それほど難しいことではありません。

時間はたっぷりありますので、ゆっくりと時間をかけて、一つひとつ検証してみることですね。もしも、独りではやりにくいということでしたら、セラピストの力を借りることも一つの選択だと思います。

一方の極端は他方の極端に移行する

この写真は、スポーツクラブから事務所に戻る途中に、車中から信号待ちをしている隙にシャッターを押したものです。違法とか、そういうのを度外視して危険でした。

走るたびに、左右に揺れるのを見ながらでしたので、車間距離を取って走ったのですが、歩道を歩いている人も驚いて過ぎ去るのを見送っていたくらいです。

きっと、解体業者が建物を解体した後に出るがれきを二度手間になるのを嫌がって、無理やり積んで一度で処理しようとした結果なんでしょうが、あまりに極端過ぎますね。

よく見ていただければある程度分かりますが、トラックの荷台の高さの三倍以上は積んでますね。何事も極端に走ると、いいことはありません。

物事は何であれ、一方の側へ極端に寄ってしまうと、必ずあっという間にもう一方の極端の側へと持っていかれてしまうのです。このトラックであれば、極端に積めばいつかは崩れてしまうことが起きるはずです。

こうしたことは、私たちの生き方にも当てはまるものです。たとえば、根を上げずに頑張って、それが極端までいけば、いつか必ずその反対に身体が動かなくさせられてしまいます。それが、鬱症状ですね。

人に嫌われないようにと極端に頑張ると、どこかで本当の気持ちが爆発してしまうことだってあるでしょう。それはまるで、手の長~いやじろうべいが、左右に大きく揺れてしまうことに似ています。

ただし、極端な生き方でたった一つだけプラスになることがあるのです。それは、真反対の極地へと持っていかれたときに、大切なことへの気づきがやってきてくれるのです。

それでも、その気づきを得るための痛手は相当なものになるでしょうから、お勧めは決していたしません。セッションでの癒しは、そういう野蛮なことをせずに気づきを得るためのものですので、勿論そちらをお勧めします。

傷つくことの大切さ

誰でも傷つけられるのはイヤなものですね。身体的に傷つくのもイヤですが、それにも増して心が傷つけられるのは本当に御免こうむりたいものです。

まだ自我が確立していないような幼い子供の時分は、無邪気に正面から接してきますが、その分だけ心が傷つけられてしまう場合が多いのです。

その体験に懲りて、次第に無邪気な振る舞いをしないようになっていくのです。つまり、無防備であった毎日から少しずつ自己防衛の毎日へと変化していってしまうのです。

心を開いていた分だけ気持ちは清々しかったはずですが、それだけ傷つけられやすくもあったので、傷つかないようにと準備を始めてしまうのです。

こうしたことは、誰もが通る共通の道なのです。自己防衛の具体的な作戦は、人によってそれぞれ違うのですが、概ねは二種類に分類されます。

一つは、人と接する機会を減らして、なるべく独りでいるようにするという作戦です。そもそも自分を傷つける誰かと一緒にいなければ、安心していられると思うからです。

もう一つは、人と接しながらもそこでなるべく傷つかないようにといろいろな防衛法を身に着けるのです。それこそ、プライドを高くしたり、勝負で勝ちにこだわったり、常に見下すネタを探してみたり、自分の正しさや能力で心の鎧を着るのです。

無邪気な幼少期を第一段階とすれば、こうした自己防衛ど真ん中で生きるようになるのが第二段階と言えます。このままでは、人生は味気ないつまらないものとなってしまう傾向が強くなります。

そして、第三段階がくるのです。それは、傷つくことを恐れても、その恐れを正面から感じることで、逃げなくしていくということです。防衛半分、無邪気さ半分くらいの割合でバランスをとるのです。

何事につけてもバランスが大切です。傷つくことを好きになる必要はまったくありませんが、傷つくことがなければ人はそれだけ大切なことに気づかずに終わってしまうことも事実と認めることです。

朝布団から出る前に、「今日一日くらい、少し位傷ついてもいいや!」と自分に言ってあげてから起きるのです。傷ついたらチャンスをもらったと思って、そこから逃げずにしっかりとその傷口を見てあげるのです。

それまで見えなかった何かが見えてくるはずです。確実に恐れは小さくなっていくことでしょう。

義務化する罠

つい最近のことなのですが、どうも左の肩の当たりに鈍い痛みがあって、朝の水泳のときに支障が出てきたのです。以前やった五十肩のように腕が上がらなくなるといった症状とは違うのですが…。

それでも、毎日決まったことなのでルーチンワークのように泳いでいたのですが、さすがに右手だけで水をかくことを繰り返している間に、泳ぐのがいやになってしまいました。

それで、この数日間はスポーツクラブに行ってすぐに、お風呂に直行という生活をしています。それで気づいたのですが、誰もいない広々とした湯船に一人浸かって、久しぶりの温泉気分を味わうことができました。

いつもは、泳いだ後サウナと水風呂に交互に入って、短時間にどれだけ汗をかけるかという勝負でもしているかのようだったのですね。気楽なようでいて、結構勝負をしていたと気づいたのです。

気持ちがいいからと思って、ただ毎日していることが、自分の気づかぬうちにある意味義務化していたということなのでしょうね。

どんなことでも義務化してしまうと、自由な清々しい気持ちがどこかへ行ってしまうはずです。そのことに気づかなかったのは、自分でも驚きでした。

久しぶりのリゾート気分を味わうことができたのも、怪我の功名なのかもしれません。私は、自分の未来がまったく分からない状態で生活しているので、未来に対する義務感はゼロなのです。

けれども、一日のスケジュールくらいは決まっている方がいいとして、知らず知らずのうちに午前中の水泳&サウナをこなすことに、義務感が芽生えていたということですね。

人は計画を立てて、それに従って行動することで安心を得ようとする傾向があるのですが、それと同じことをしていたのかもしれません。この経験のおかげで、たとえ毎朝のことであっても、決めないで出かけてみようと思ったのです。

決めたことをやらねばならないというのは、安心を得ようとしてかえって義務感を生み出し、自分を縛ってしまう結果になるということですね。

あらためて、自分はどんな場合でも、いついかなるときも自由でいられるのだということを再認識することができました。

進歩せずに生きる

外出があまり得意ではない私は、どういうわけかサラリーマン時代にはたくさんの出張をさせられていた経験があります。全部で4つの会社を渡り歩いたのですが、その全てで出張が多かったのです。

何かの嫌がらせなのか、偶然なのかは未だに分かりませんが。まだ営業職であれば分からなくもないのですが、ずっと技術職だっただけに納得がいかないのです。

その当時、いろいろなところに会社のお金で行けていいね、と羨ましがる輩もいましたが、旅行すらあまり好きではない私にとっては、出張は苦痛でしかありませんでした。

だから今の仕事になってから、出張というものがほとんど皆無となったことは、私にとっては幸運の極みなのです。本当にごく稀にクライアントさんのお宅まで出向いて、セッションをすることもなくはないのですが…。

ただし、今後もずっと今のままでやっていけるという保証などどこにもないので、また出張の日々が再燃してしまうことになるかもしれません。

なぜ出張や旅行が苦手かというと、きっと二つの主な理由が考えられるのです。その一つは、大変な臆病者だということです。つまり、怖がりなので身の周りで予期せぬ出来事が起きる可能性が高くなるだけで、気が重くなるのです。

勿論出張先や旅行先で、考えもしなかったことに出くわしたりすることは、確かに面白いこともあるし、自分の中にも多少はある冒険心が刺激されて興奮もするのですが、それよりも恐怖が大きいのでしょう。

出張や旅行というよりも、冒頭書いたように、単に外出することが億劫というのもそこから来ているのだろうと思います。外的刺激に敏感過ぎるということです。

そして、もう一つの理由ですが、それはどこに行っても何を経験しても、過ぎてしまえば同じというのが根っこにあるようです。どれほどすばらしい景色に感動しても、すぐにそれは消えてしまうのです。

そのために、外的刺激を様々に変化させていろいろな体験をしたいという欲求がないのです。どんな体験をしても、いつもそのど真ん中には変わらぬ自己が在るだけです。

その自己は本当に変わらない。今だに精神年齢は10代かもしれませんし、進歩も改善もありません。きっと死ぬ間際にも同じことを言っているはずです。

こういう人間がいてもいいのでしょう。何の役に立つかはほとんど不明ですが…。

全体性の中に溶ける

私たち人間の身体が、約60兆個の細胞から出来ていることは周知の事実です。それが、どのようにしてだかは不明ですが、それぞれに固有の役割を担いつつ、互いに協調して働きながら生を営んでいるのです。

本当のところは分かりませんが、その一つひとつの細胞自体が固有の意志や欲求を持っているとは思えませんし、私たちのような自我があるとも思えません。

つまり、細胞一つひとつには思考というものがないということです。それはきっと、人間一人の身体全体を司る何かに明け渡している状態ということです。

私たち一人ひとりが細胞のようになれというのではありません。なぜなら、細胞には気づくチャンスがないからです。でも、自我を作ってしまった人間には、幸運にもそのチャンスがあるのです。

地球上の人間の数は60兆からは遥かに及ばず、たったの70億程度ですが、それぞれが固有の意志や欲求を持って、自律的に活動しているように見えますね。

それぞれにある程度の関連を持ってはいるものの、所詮は個別性の中で人生を生きていると思い込んでいます。つまり、バラバラな存在なんだという強い思い込みがあるのです。

けれども、全体性に気づいた人はそうは思わないのです。細胞一つひとつと同じようにして、70億の人々は遥かなる源泉からの力によって、完璧に仕組まれた生を生きているのです。

私たちが明示的に明け渡すかどうかに関係なく、本質的には細胞と同じように最初から明け渡しているのです。それ以外の状態になったことは一度もありません。

今この瞬間、このブログを打っている私の指先の動きの一つひとつも、明け渡し以外の何物でもありません。全体性に注意を向ければ、そのことが自明となるのです。

思考の中で暮らす自我には、全体性を見ることができません。なぜなら、思考そのものが分裂を意味するからです。思考とは、分離なのですから。

全体性とは、あらゆるものを包含した「無」です。あなたの心の中についても、そのように見ることです。どこか一部分だけを切り取って、これはすばらしいとか、ここはダメな部分などとやらないことです。

あなたの心の中に、愛以外のいかなるものがあろうと、それは全体性の中に溶けてすばらしい働きをしているのですから。

病気の功名

会社員の時ですが、大澤杯ボーリング大会というのを職場でやっていたことがあります。男性が多い職場だったので、いろいろな部署のセクレタリーの女性を毎回誘っての楽しい大会でした。

勿論ボーリングが終わったら、ふつうの飲み会へと流れるシステムでした。優勝者は、名前を書いてもらったトロフィーを次の大会まで、机の上に置いて誇れるという特典もあったので、そこそこみんな本気?でやっていたのです。

あるとき、たまたま大会の日に腰痛がかなりあって、でも立ち場上欠席というわけにもいかないので、とりあえずダメ元で参加したことがあったのです。

ところが、気負いが抜けたのか、力が抜けてリラックスできたせいなのか、いつもよりもコントロールがよくて結果として優勝してしまったことがありました。

怪我の功名というのか、自分でも驚いてしまい、腰が痛いのはウソだったのではないかと疑われたほどでした。アスリートの人の話しでも、あまりに調子が良すぎると意外に期待した結果が出ないというのを聞いたことがあります。

思えば、45歳で大腸がんになったときも、それがきっかけの一つとなって会社員を辞めて、今の仕事に就くことになったわけで、やはりこれも怪我ならず病気の功名と言えるかもしれません。

やはり人は幸せだったり、調子のいい時よりも具合が悪かったり、何かに困って追い詰められている時の方が、圧倒的に大切な気づきがやってくると言えるようですね。

癒しについてもまったく同じことが言えます。セッションにこられるときは、順風満帆では決してないわけで、だからこそ癒しのチャンスがやってくることになるのです。

逆風が吹いたり、試練のようなものに立ち向かうというのは、確かに逃げない姿勢ということではすばらしいのですが、そこには戦いの要素があり、自分の力で人生を何とかしようとする自我が真ん中に居座っています。

勇ましい姿というのは、いつの世にも人の心を感動させるものですが、できれば惨めに負けを認めて打ちひしがれた心になれた方が、はるかに癒しが進むのも事実です。

それは無防備な心に近づくことであり、結果として大いなる意志と繋がる大チャンスがやってくるからです。