真の明け渡し法

自分の存在価値に気づけずに大人になってしまうと、自己否定感が強く心の中に残ってしまうでしょうね。自分はダメなやつだと烙印を押してしまったのですから、それは心の底に強烈にこびりついてしまうのです。

それは本当につらいことですから、本人は何とかして自分のことを好きになることはできないかと奮闘するのですが、大抵はなかなかうまく行かないはずです。

存在価値に気づかせてもらうためには、成長過程において十分な自己表現と、それに付随した十分な受け止められ感が必須なのです。

そうした体験が十分でない分だけ、存在価値は怪しくなって、何となく自分はここにこうしてこのままいていいのかどうかが、分からずに不安が続くことになるのです。

さらに言えば、親の厳しいルールに問答無用で従わされたり、叱られる恐怖なども存在価値の気づきを抑制するはずです。

あまり知られていないかもしれませんが、親が高度の心配性だったりすると、心配させる自分はダメなやつという理屈が働いてしまい、理不尽にも自己否定が拭えなくなってしまうということも起きてきます。

自己否定感が悪循環を生み、もうどうしようもないところまで心理的に追い詰められたとき、つまりある種の極限を迎えると、そこには平安が待っていることがあります。

それは、自己否定という最強の自己防衛が自動的に停止するからです。本人の意思とは無関係に、観念する状態になるのです。ここまで落ちたならもうどうでもいいという気持ちです。

何とかして自分をもっと向上させねばという気持ちが消え失せたとき、人は清々しい場所に行くことができるのです。これは、明け渡した状態であるとも言えます。

言ってみれば、極端から極端に移動したようなものです。したがって、残念なことですがこの状態は長く続くことはなく、次第にまた慣れ親しんだ自己否定感がやってくることになるのです。

自動的にやってきた明け渡しは、これまた自動的に消えていってしまう運命にあるのです。これを自分の制御下に置くことはきっと不可能なことなのです。

けれども、完璧に自分の意思で明け渡しの状態を維持することができる方法があるのです。それが、今この瞬間どうなっているかに意識を向けるということです。

なぜなら明け渡すとは、物語から抜けるということだからです。そして、この方法に限っては、常に努力なしに実践することが可能ですし、再現性もある真の明け渡法しなのです。

純粋な愛と分離からくる恐怖について

もしもあなたが、特定の誰か一人を愛しいと感じ、その人を愛しているに違いないと思っているのでしたら、その人に執心しているなら、それは残念ながら純粋な愛ではありません。

というのは極論かもしれませんが、本当のことです。けれども、それが悪いということをいいたいのではないのです。そもそも純粋な愛について、私たちは頭で理解することはできてもそれを体験することは難しいのです。

この世界は、分離という現象をベースに出来上がっています。地球は太陽とも分離していますし、あなたはお父さんやお母さんからも分離していますね。

この分離しているという概念が純粋な愛を隠す張本人なのです。それは、太陽の光を遮る厚い雲のような役目をしており、光が届かない部分を恐怖と呼ぶのです。

つまり、分離による恐怖がこの世界を形作っているということです。いいとか悪いという話しではなく、そのような現象がこの世界を作っているということなのです。

逆に言えば、純粋な愛とは分離のない世界、それはもうすでに世界という言葉が通用するようなものではありません。敢えて言えば、このブログで何度も言っている全体性ということです。

全体性とは分割することのできないものです。全部は常に全部であって、部分をいくら集めても全体にはならないのです。

したがって、純粋な愛だけでは私たちが興味を抱くどんな物語も成立し得ないということです。分離からくる恐怖があっての物語なのです。

心の中で分離を信念としている自我にとって、物語は欠くことのできないものであり、物語とは自我のことだと言ってもいいくらいなのです。

だから、物語の中に没入することは自我に熱中することであり、物語を観る立場にあることこそが、自我を含めたあらゆるものを受け止めることになるのです。

最後に一つだけ、自我の悦びは興奮であって、全体性の悦びは静寂なのです。

子供はつらいよ

国民的人気映画だった寅さんシリーズを知らない人はまずいないと思いますが、あの映画がスタートする前にはテレビドラマだったということを知っている人はあまりいないのではないでしょうか?

その頃の自分の年齢はよく覚えていないのですが、確か日曜の夜に毎週一時間枠のドラマとして放映していたのを覚えています。すごく面白くて、終わってしまうのが本当に惜しいと思っていました。

きっと当時そう感じていた人が大勢いたのでしょうね、だからこその映画化が実現して、案の定大成功したためにシリーズ化されたのだと思います。

主人公である寅さんの『その日暮らし』っぷりが大好きで、彼の「そこが渡世人の辛いとこよ~」という決め台詞も大好きでした。それが、「男はつらいよ」という題名にも使われているのだと思います。

「男はつらいよ」というのは、男の身勝手な言葉であることは確かですが、「女だってつらいよ」と文句を言う女子を見たことがあまりありません。それだけ、女性の方が大人なのでしょう。

男性でも女性でも、辛い時はつらいというのが本当のところですが、私の本音を言わせてもらえば、「子供はつらいよ」というのが、一番しっくりくるのです。

とかく大人になると、「子供は仕事をしなくていいので楽だ」と安易に決めつけてしまいがちですが、それは違います。子供には子供の辛さがあるのです。

子供は、いつも知ったかぶりした大人たちから理不尽なコントロールを強いられる立場にあるのです。そのことを、どうも成長すると忘れてしまうのかもしれません。

私たちは今が辛いときに、子供の時の楽しかった頃を思い出して、あの頃は本当に無邪気でよかったなあ、あの頃に戻りたいなあ、と思う人もいるかもしれません。

けれども、それは都合のいい記憶ばかりを使っている可能性が高いのです。大人の辛さは、本人が八方塞がりだと思い込んでいるだけで、抜け出す方法はいろいろあるのです。

それに対して、子供の頃の辛さというのは、逃げ出すことがまったく不可能なのです。子供はその絶望感の中にいると思って間違いありません。だからこそ、私は子供の頃のどこの時期にも戻りたくはないとはっきり言えるのです。

もしも、あなたが今の自分の人生が辛いと感じているのでしたら、子供のころは確実にそれ以上辛かった時があったはずなのです。

その頃のことをしっかり思い出して、その頃の子供の自分を救い出してあげることしか、今の辛さから本当に解放される方法はないということに気づくことです。それが癒すということなのです。

すべての物語を越える

人の人生はそれぞれ違っていていいのですけれど、それでも何の目的もなくただ毎日を漫然と過ごすよりは、なんでもいいので大きな目標なり、目的のようなものがあった方がハリがあっていいと思うのです。

私自身がほとんど、人生に目標らしきものを持ったことが一度もなかったので、その生き方はつまらないということを身に染みてよく知っているのです。

ですから、特に若い方には目標を持ったほうがいいと思う、くらいのことは言うのです。実績のない自分の言葉なので、あまり説得力がないのは感じているのですが…。

またその一方で、今どうあるかに注意を向けて下さい、ともお伝えするのです。その両方を言われた人は、きっと矛盾を感じてしまうのかもしれませんね。

けれども、それは決して矛盾しないのです。目標を持つというのは、人物として人生という物語を生きる人に向けての言葉であり、今に注意を向けるのは、その物語から抜けて本質に気づくためだからです。

生きる目的はどんなものでも構いません。たくさんお金を稼ぐことであっても、活躍して有名な人になるということでも、はたまた神のお告げに従って人類を救うということでもいいのです。

10年以上前にセッションを受けに来てくれていた中学生の男の子がいたのですが、彼はヒプノの中で数億年前の地球における戦いを仕切っていた過去世を思い出して、罪悪感に呻いていました。

私もそのセッション中に彼と同じイメージを見せられて、壮絶な戦いに驚いたことがありました。どんなに壮大なスケールのことであっても、それも一つの物語に違いありません。

物語に嵌る自分に問題はないのですが、それが100%になってしまうと真実を見失ってしまうのです。それでは、生まれてきた甲斐がありません。

物語の中で活躍する自分を、たった今距離ゼロの内側から見つめることで、私たちの本質に気づくこと。それこそが、すべての物語を越えた本来の目的だと思うからです。

色合いの好み

幼稚園児の頃は、毎日絵を描くときに使っているクレヨンは、確か12色くらいのものだったと思うのですが、倉庫?のようなところの棚には、もっと様々な色のクレヨンが入っているセットがあったのです。

そこで、青と緑が混じったような何とも魅力的な色を発見したのを覚えています。赤と青が混じったような今でいうワインレッドのような色のクレヨンも発見。

この魅惑的な色のクレヨンを、こっそりと一人で見に行くということをやっていた記憶があります。今もそのような色合いがやはり好きかもしれません。

その時、色って不思議なものだなあと感心したのですが、残念なことにすぐにそんなことは忘れて行ってしまいました。それと、金と銀を逆に覚えてしまって、あとで修正するのに苦労しました。

そんな訳で、殊更に色彩には興味を持っていたわけではないのですが、昭和39年の東京オリンピックをカラーテレビで観ようという話しが家で持ち上がり、堂々とした貫禄のカラーテレビが我が家にやってきたのです。

あの頃カラーの威力は凄まじかったですね。それまで大して好きでもなかった番組を、ただカラー放送だからという理由だけで、随分と観てたことを思い出します。

まだまだ多くの番組が白黒放送だっただけに、カラー番組の魅力もいまだに身体の芯にその興奮が残っているようです。こんなことを細かく覚えている人は、もうほとんどいないでしょうね。

色彩の好みというのも、その人の代表的な趣向の一つと考えていいと思うのですが、残念なことにその生まれ持った色合いの好みを見失って成長してきた人もいらっしゃいます。

幼いときに自由な自己表現や感情表現を強く抑圧してしまった場合、自分のオリジナルな感性がどんなものか分からなくなってしまうのです。

そうすると、大人になっても自分の好みの色というものが分からずに、無難な色ばかりを身に着けてしまっていたりするのです。

実際、癒しを進めて行ったあとに、暗い色合いから華やかな感じの色の服を身に着けるようになったクライアントさんを何人も見ています。

あなたは、自分の色の好みというものを完全に把握していますか?何となく身に着けている服の色合いを再度見てあげて、それが本当に自分の好みの色なのかどうかを見つめてみてもいいかもしれませんね。

実践して検証あるのみ

このブログやセッションでお伝えしていることは、信じていただいたり納得していただくことが目的ではなく、ただただ各人が実践して検証して欲しいことなのです。

実践せずに情報を入手して満足してしまうことが、一番意味のないことですし、それくらいならはなから興味を持たずに終わってしまう方がまだましかもしれません。

というのも、理解して満足してしまうと、そこにはもう体験を通して検証するチャンスがなくなってしまうからです。それは、本当に残念なことですね。

私の周りにもときどきいらっしゃるのですが、知識が豊富で様々な人たちの多様な意見や考え方を知っていて、それを披露するのですが、ご本人の毎日の実生活には何の役にも立っていないということが透けて見えてしまうのです。

そういう人は、一見すると柔軟に他人の意見を取り入れる姿勢を見せるわりには、それが定着せずにあっちこっちの大勢の良さげな考えの中を右往左往しているだけなのです。

誰の言葉であれ、それを鵜呑みにしたり信じ込んだりしては「いけません」。誰かの言葉づらだけを暗記して、それを持って回っても、それは死んだ言葉になってしまうのがおちです。

信じるよりも疑ってかかるくらいでちょうどいいと思うのです。疑うからこそ実践せずにはいられなくなるのですから。頭から信じてしまうと、実践する必要性を感じられなくなってしまうのです。

「あるべきことに努力する代わりに、たった今どうなっているかに注意を向ける」という言葉を知ったなら、それをすぐにでも実践することです。

つまり、このブログを読んでいるたった今、それを読んでるのは誰なのか、誰がいるのか、あるいはじっと見ているとそこには空虚さだけがあるのか、それを検証するのです。

来る日も来る日も実践して検証することしかありません。この実践とは、何のエネルギーも労力も使わないで行うことができるものなのですから。

自分へ意識を向ける

よほどの人間嫌いでもない限りは、気の合う仲間とワイワイやったり、大好きな人との大切なひと時を過ごすことは、人生の中でも最高の喜びの一つに違いないですね。

私たちは、その瞬間のために頑張って仕事をしたり、一生懸命勉強したりするのですから。人は、どんな形であれ自分以外の誰かと繋がりがなければ、殺伐とした心になってしまいます。

けれども、それだけではバランスがとれないことも事実です。人と過ごす時間が大切であるのと同じ程度に、自分独りの時間を過ごすこともとても大切なことなのです。

勿論、引きこもりになれと言っているのではありません。一日のうちの何時間かは、働きかける誰かがいない状態を作ることです。

それは、対象が相手でもそれ以外の何かでも同じことです。たとえばテレビを見ている時間も、自分独りではないということです。なぜなら、自分以外の何かに意識を向けているからです。

要するに、独りになるとは、自分へ意識を向けている時間ということです。とはいうものの、自分の過去や未来に思いを巡らすということでもありません。

たった今、この瞬間の自分にのみ意識を向けるということです。ここで心の反省会を開いてはいけません。それでは、結局過去の自分という対象ができてしまうからです。勿論未来についても同じです。

今この瞬間に順応している自分を見るのです。それは、もう過去を生きて、そして未来に向かっていこうとしている人物としての自分ではなくなるはずです。

今とともにある自分は何者でもなく、姿も形も大きさも位置もなにもなく、純粋な意識としてただただ在るのです。改善すべき何もないことに気づけば、いずれは間接的に、そしてボディブローのように人物としての自分に少しずつ影響することになるはずです。

感情と無防備に向き合う

私たちにとって、怒りや悲しみ、恐怖や罪悪感といったいわゆるネガティブな感情というのは、できることなら感じたくはないものですね。

そのために、幼いころにはっきりとした自覚のないままに、そうした都合の悪い感情を見ないようにしてしまうということが起きるのです。

それは、その本人の繊細過ぎる気質や、生育環境があまり安心できるものではないなどの要因が強ければ強いほど、感情を抑圧する度合いも大きくなってしまいます。

一度感情を抑圧する回路が心の中に出来上がってしまえば、もう意識することなしにほとんど自動的に感情の抑圧が起きるので、本人としてはある意味楽になるのです。

けれども、人生におけるその代償は計り知れないものとなってしまいます。たとえば、悦びや感動といったポジティブな感情さえも、あまり感じることができなくなってしまうのです。

つまり、喜怒哀楽のない平坦な心を持つロボットのような人物になってしまう可能性すらあります。また、抑圧された感情は消えることなくそのすべてが心の奥に蓄積されてしまいます。

そうなると、巷で言うところの引き寄せの法則どおり、溜め込んだ感情のエネルギーに見合った現実を引き寄せてしまうことになるということです。

恐怖がたくさん溜まれば、怖がりながらの生活を余儀なくさせられてしまうし、実際に怖い体験をする可能性も高くなるのです。

怒りをたくさん溜め込んだ人は、その後の人生で理不尽な目に遭ったりしてやはり激怒せざるを得ない経験を呼び寄せてしまうことになります。

こうしたことは、この世界の法則なので努力で何とか克服できるようなものではありません。そこで、単純に自分の心にどんな感情がたまっているのかを見てあげる必要があるのです。それが癒しです。

自分が、どうあるべきかにエネルギーを使う代わりに、今この瞬間自分の心がどうなっているのかに意識を向けるのです。過去を探るのは、過去が大切だからではなく、今どんな感情があるかを見るためです。

徹底的に見ることにより、必要なことが自動的に起きるはずです。感情と無防備に向き合えば、次第に心の奥底に光が差し込み、癒しが自動的にやってくるのです。

真実の直接体験

あなたに光を当てれば、あなたによって光を遮られた場所は影になりますね。子供のころから、自分の影が自分にくっついてくることを知ってもいます。

影のことを誰もが知っていながらも、影は決して実在すると思っている人はいません。それは勿論、存在ではないからです。ではなんと表現すればいいのか?

それが現象ということです。影とは現象の一つなのです。たとえば、あなたの肉体はこの世界の中に実在としてあるのですが、影は単なる現象だというわけです。

それと同様の関係性が、真実とこの世界の間にも成り立つのです。この世界という実在は、本当は真実から見れば影のような単なる現象に過ぎないのです。

真実からみれば、実在するのは真実のみであって、その真実という源泉から現象化して顕われているこの宇宙、この世界、あなたの肉体や思考などのすべてが現象なのです。

この世界は実在ではなく幻想だといういい方がありますが、それの本当の意味はこういうことなのですね。幻想というと、ニュアンス的に強すぎるのですが、影のような現象と言えばもっと近い感じがします。

私たちのこの世界のあらゆる場所に雲隠れしている神は、実は隠れているのではなくて、私たちの思考がそれを隠してしまっているだけなのです。

神という真実、神という本質はいついかなる場所であっても、そこに厳然として在るということは、現象としてグルグル活動している思考から抜ければ、瞬時にそれに気づくことになるのです。

単なる現象に対して、あなたや私がこの世界で生きているという解釈を思考によって作り、その中で暮らしている限りは、神を直接体験することはできません。

思考を脇に置いて神を捉える時、あなたは自分こそが真実の神であるという直接体験をするのです。それは大それたことではなく、ごく普通の当り前の体験に違いありません。

誰もが名俳優

アルパチーノ主役の、「セントオブウーマン」という映画があるのですが、その中で彼は盲目の退役軍人の役柄を好演しています。大好きな映画で、つい最近もまた見てしまいました。

真偽のほどは定かではないのですが、彼はその役作りに没頭するあまりに、実際に目が見えなくなったという噂が立ったほどです。

役者さんは、演技中に自分が演技をしているということを忘れることは、常識で考えればないはずですが、すばらしい役者さんともなれば、ある程度は自分のことも騙すということかもしれません。

だから、その台本の中で本当に泣いたり怒ったり絶望したりもできるわけです。名演技の裏には、必ず自分のことも上手に騙すという能力が隠されているということです。

ところで、そういう役者さんと比べたら、私たち一人ひとりの人間というのは、最高の名演技者だと断言できますね。なぜなら、自分の人生というドラマに本当に没頭しているのですから。

自分を一人の人物であるというように自分を欺き、それを心から信じることで死ぬまで人生を演技し続けているのですから。その逆に、自分の本当の正体、自分の本質に気づいてしまったらどうなるでしょうか?

それは勿論、大根役者になるということです。なぜなら、大根役者は、役になりきれずに周りにいるスタッフや監督にどう見られているのかを気にして演技するわけですから、それと同じになるのです。

私たちが自分の本当の本当の正体、真実に気づいたならば、それ以降は一人の人物として人生を生きるという演技だけに100%集中することができなくなるのです。

自分を欺いている自我に気づいてしまうのですから、自我は真の自己ではないと気づけば、役柄を名演している自分をやさしく見守ることもできるようになりますね。

もうそろそろ目を覚ましましょう。あなたは、この世界であなたの人生を生きている一人の人物ではありません。そういうふりをして、演じているのです。

気づいても、人生という物語は台本通り進んでいくのですが、それでも人生でのスタンスが根本的に変わってしまうはずです。なによりも、深刻ぶっていたそれまでの自分を面白がることができるようになります。