徹底的に何も無さを見る

できるだけ正直になって自分に注意を向けるとき、そこには何も見つけることができないことに気づきます。これは、内省することとは全く異なるものです。

自分という人物を見つめることとは違うからです。人物とは、思考が作り出した架空の存在であって、それは本当の自分からはまだまだ距離があります。

もっともっと自分に対して近づいていけば、そこには大きさも、形も色も、全く何もないということに気づいてしまうはずなのです。

より徹底的に見れば、思考さえも残らなくなってしまいます。在るのは、何も無さだけであり、そのことに気づいている気づきだけがただ在るのです。

少しでも思考に逆戻りすれば、それは一体なぜ?なぜ?なぜ?が浮かんできますが、それを脇に置いて限りなく自己に向いていれば、それは自然にやってくるのです。

向けていた注意が、それ自身に気づいてしまうという感覚です。私たちは、いつも知覚にどっぷりと依存して生きているために、こうした究極の一人称の感覚に慣れていないのです。

もしも、知覚によって自分を認識していながら、この世界に自分しかいないと思ったら、とてつもない恐怖と孤独感に圧倒されてしまうことでしょうね。

けれども、一人称という真実においての誰もいないというのは、孤独とは無縁のものです。それがすべてだからですね。真実は、まったく気が遠くなるほど壮大です。

どれほど巨大であっても、思考でその大きさを表現できる宇宙に比べて、真実はまったくもって思考でははかり知ることのできないレベルです。

それこそが、私たちの本質なのです。もしも、私が感じている全体性と同じ全体性をあなたが感じているのなら、ここにはどんなコミュニケーションも不要となります。

互いに他者はいないということの気づきだからですね。

「今この瞬間」を直接体験する

「今」という言葉に対して、誰もが連想するのは「時間」についてのことだと思います。昨日、今日、明日のような言葉と同じように、時間に関連した意味合いがあると思っているのです。

それは勿論間違いではありませんが、このブログでいつも書いている「今」とか、「今この瞬間」といったときには、それは時間とは何の関係もないのです。

時間というものは、思考が作り出したものであって、決して真実ではありません。一方、「今」というのは、この世のものではありません。それは、知覚することができないものです。

知覚できないものを、思考で捉えることは不可能です。つまり、「今この瞬間」とは思考を越えたものだということです。「今」とは、この世界を世界たらしめているバックボーンのようなものです。

こうして改めて書いてみると、「今」とは本当に不思議なものですね。「今」に気づいている人は、この世界を観照することのできる人だと言えます。

「今」は、物語の中には決して出てこないのです。私たちの人生も一つの物語ですので、そこには、つまり物語を観る目には、「今」を見つけることができないのです。

物語は時間とお友達であり、時間と共に推移していくのです。だからこそ、私たちは時間の中で生きているように感じているのです。

けれども一方で、「今」という真実の中に、物語を含めたこの宇宙が丸ごとすっぽりと受容されてしまっています。「今この瞬間」とは、全体性のことです。

なるべくなら、「今この瞬間」に意識を向けていることです。意識を向けるとは、注意を向けている状態とも言えますね。その時に、注意を向けている誰かがいるわけではないということにも気づきます。

それは、「今この瞬間」を直接体験しているのです。ここに、思考の入ってくる余地はありません。だからこそ、とても深淵で清々しいのですね。

自分の人生を取り戻す

ある人のことを別に何とも思っていなかったのに、その人が自分に好意を持っているということを聞いた途端に、意識するようになってしまうということがあるものですね。

こうしたことは、誰にでも多かれ少なかれ経験があるのではないでしょうか?つまり、私たちは自動的に他人の思いというものに反応してしまう傾向を持っているということです。

それが、生まれたときからずっとなら尚更のこと。物心がついたころから、家族や親せきといった取り巻きから、この子はこういう子だと思われれば、そのように自動的に振る舞うようになるのです。

この子はおとなしい子、大人の邪魔をしないいい子、自慢の子、一番を取れる子、駄々をこねたりしない育てやすい子、こんな評価を与えられたらたまったものではありません。

その子が自分らしく生きることができなくなってしまうのは、当然のことですね。子供は本来無邪気で自由に生きているはずです。そんな大人に都合のいいルールなどに興味はありません。

けれども、相手を落胆させたくないし、自分のことを否定的に見られたくないという恐れから、相手の期待に応えようとしてしまうのです。

また、親は自分が果たし得なかった願いを子供に託すという傾向があるものです。例えば、経済的に余裕がなくて、学業を諦めて働かざるを得なかった人が親になった場合、自分の子供にはどうしても大学に行って欲しいと願ったりするわけです。

こうしたことがすべて、子供にとっての重圧になってしまうのです。子供には子供の好みや志向があるのですから、それを尊重してあげる必要があるのです。

もしも、あなたが誰かの期待に応えようとして頑張ってきたという自覚があるのでしたら、どうか自分の人生を取り戻して欲しいのです。

まずは、誰のためでもなく、はっきりと自分のために毎日を生きていくことです。それができないうちは、誰かのために生きても、それはただの自己犠牲で終わってしまいます。

しっかりと自分を優先することができて、初めて人と対等に生きることができるようになるのです。あなたには、その権利があるのですから。

誰かのために生きるとしたら、自分のことを尊重することができた後です。その時には、本当に自分以外の誰かを尊重することができるのですから。

いつかは終わることを喜ぶ

40歳を越えてしばらく経ったころに、近くのものが見えづらくなって、気が付いたら老眼の始まりでした。あの時はびっくりしました。自分の身にも、老化が確実にやってくるんだなと驚いたのです。

そして、今となっては体力の低下や皮膚の老化、記憶力が落ちたり細かな作業が苦手になったりと、あらゆる分野において加齢からくる自分の変化に気づかされます。

アンチエージングという言葉があるように、誰にでも確実にやってくる老化について、私たちはあまり快く思っていないのです。女性は特にそうかもしれませんね。

けれども、どれほど抵抗したところでいずれは老いて、そして死んでいく運命にあるのです。健康を保つ努力をすることと、老化防止は似ているようで違いがあります。

加齢を止めようとするよりも、その年齢に見合った健康を維持しようとする方が、自然体でいられるような気がしますね。女性の場合であってもです。

例えば、顔のしわを目の敵にするよりも、しわを一つの味わいにしてしまえばいいのです。若々しさを維持しようとするあまりに、無機質な表情になってしまうのなら、それは人生と戦っていることになってしまいます。

今日、自分の身体や心に何が起きたとしても、それと戦おうとするのではなくて、それをそのままに受け入れることです。それが人生を友達につける唯一の方法なのです。

そして、もしもあなたが一度でも自分の本質に気づく体験をしたのなら、老いていくこととも戦わなくなっていくはずです。変化を容認するようになるということです。

なぜなら、あなたの本質は変化とは無縁だからです。この視点から見ることができるなら、人物としての自分が老いていくことは喜ばしいことでもあると気づくはずです。

いつまでも続く映画など、誰もお金を払って観に行ったりしないのと同じように、いつかは終わることを前提にすべてが推移しているのです。

私たちの肉体もそのルールの中にあるのですから、いつかは終わりを迎えることを心から喜んで受け入れることができたらいいですね。

人生を友達にする

毎朝プールで泳いでいるのに、その日によって何となく上手く泳げてないと感じるときがあります。そんな時、身体に水がまとわりついてきて、それに手こずっているような感覚があるのです。

言わば、水と戦っているということなのですね。ところが、不思議なもので、気持ちよくスイスイ泳げる日というのは、どこかで「水はお友達」という感覚になっているのです。

私たちは、自分の味方と一緒のときには居心地がよくて、敵といるときにはその逆の気持ちになるものですね。それは、敵といるときにはそれだけ防衛が強くなるので、当然のことなのです。

つまり、「水はお友達」という感じのときには、味方と一緒なので余分な力が身体に入っていない状態であって、リラックスして泳いでいるので、スムーズなのですね。

水泳に限らず、どんなことにもこのことは言えると思います。たとえば、カードマジックを練習している時、それを楽しんでいると次第にトランプが自分の手に馴染んでくる感覚があるのです。

それは、「カードはお友達」状態になることを意味します。一方、いくら練習してもうまくできないなあと気分が落ちているときには、カードに翻弄されている気持ちになるものです。

その時には、カードと戦っている気になってしまっているのです。だからよけいに上手くできなくなってしまうのです。そんな時には、一旦休憩をとって気持ちを新たにして、再度友達と楽しい時間を過ごすつもりになってみるのです。

さっきまで失敗ばかりしていたのに、なぜか上手にできるようになっていたりするものです。こうしたことは、人生そのものについても言えるのではないかと思います。

あなたは、自分の人生と戦っていますか?それとも、人生は友達だと感じているでしょうか?その差は、もう分かりますね。どちらを選ぶかは、すべてあなた次第です。

人生を友達につけた人は、きっと流れがスムーズになっていくはずですね。

放っておいてもいいことは起きる

今年に入って、突然のように睡眠時間が短くなったと同時に、早寝早起きになってしまいました。実は、年明け早々から、寝てもすぐに目が覚めてしまうということが続いていて、困っていたのです。

今それはなくなったのですが、それをきっかけにしてか、朝とても早い時間にどうしても目が覚めてしまうようになったのです。そして、気分がとてもすっきりしているので、もう寝る必要を感じないのです。

結局、朝非常に早くに目覚めてしまうため、夜はすぐに眠くなってしまって、早い時間から寝てしまうようになってしまったのです。結果として、期せずして早寝早起きになったというわけです。

人にこのことを話すと、間違いなく加齢のせいだろうと言うのです。自分ではどうも納得したくないのですが、でも他に思いつく理由もないので、仕方なくその説を採用することにしました。

で、何が言いたいかというと、実は長い間生きてきて、もっとも苦手なことの一つとして「朝起きる」というのがあったのですが、それが消えてしまったのです。

朝の寝起きがずっと悪くて、夜寝るときにもこのまま朝が来なければ楽なのにといつも思うくらいでした。特に、寒い冬の朝などは、オーバーかもしれませんが、拷問のような気さえしていたのです。

それが、綺麗さっぱりなくなってしまったのです。目覚めたときには、とても爽快で全く眠気が残ってないのです。異常なほど、早い時間に目覚めてしまうくせにです…。

長い間生きていると、こうしていいことも起きるのですね。それも、何の努力も必要とせずにです。それと、もう一ついいことが起きています。

それは、子供の頃から内臓が弱くて、時々ひどい腹痛になることがあったのですが、それもすっかり消えてしまったのです。ある時から、毎朝ヨーグルトを食べるようにしたからです。

それも結構な量を食べるようにしたのですが、その結果、便通がよくなり腹痛が起きなくなってしまったのです。自分にとって、とても嫌だった二つのことが消えた今、何だかとてもふわっとした幸福感に包まれています。

人生、捨てたもんじゃないですね!でも本当にこの人生に感謝するとしたら、それはやはり自分の本質に気づいたことです。

今では、この人生を生きていると同時に、そうした自覚を持つ自分を見ている側に回ってもいるのです。この感覚は、かけがえのないものですね。

そして、これは誰の身にも起きることです。なぜなら、それこそがこの宇宙の目的だからです。この宇宙には、私しかいないし、あなたしかいないのです!

親への不満を正直に見る

子供というものは、必ず親に対して不満を持っているものです。それが、どれほどすばらしい親に育てられようとです。それは、全く別人格の人間どうしが密着して生活しているのですから。

親の考え方や価値観、あるいは信念、信条といった親のワールドと、子供のそれらとは同じであるほうが珍しいくらいです。これは、当然のことですね。

それなのに、クライアントさんによってはごく稀に、ご両親に対してまったく不満がないという認識を持って生活されている場合があるのです。

私は、セッションでそうしたお話しを聞いた瞬間に、何かがおかしいと感じてしまうのです。親がどんなに立派な人物であろうと、理論的にも現実的にも子供は必ず不満があるはずだからです。

そうした場合には、クライアントさんの心の奥に隠された本音の部分、つまり本当は親に対して訴えたい文句がある、ということに気づいてもらわねばなりません。

そして、不満があるという本音を隠さねばならなかった原因を、一生懸命探るのです。勿論、親を否定しようという気持ちは毛頭ありません。誰かを悪者にして、癒しが進むわけではないからです。

心理的な矛盾は必ず見つかるものです。その矛盾をクライアントさんご本人が理性で認められると、そこから気づきがやってきます。ほころびは、大抵あちこちに転がっているものです。

そうやって、ああこんなに自分は愛する両親に不満を抱いていたのだという事実に出会ったときに、本当に癒しがスタートするのです。

子供の頃に隠していた不満は、120%現在の人生へと受け継がれて、何かの形を持って本人の前に立ちはだかってくれるのです。それが、癒しのきっかけを与えてくれるのですから、ありがたいものです。

自分は親に不満を持ってもいいのだということを、腹の底から分かってあげる必要もあります。どれほど、不満があろうと親に対する奥深い愛が損なわれることはないからです。

安心して、心の中にしまっていた親への怒りを味わうことです。癒しが進めば、怒りはどうでもいいことになっていくはずです。その結果、人生に転がっている別の不満さえもが、どうでもいいものへと変貌していくことになるのです。

防衛と自由は反比例する

赤ちゃんは自由ですね。たとえば、おならを我慢したり、嫌いなものを食べたりするといったことは、皆無です。つまり、自分で自分を束縛するということがありません。

そういうルールを持っていないからです。そのルールとは、~べき、あるいは~ねばならないなどで表現されるものですが、ルールを課す目的は自分を守るためです。

赤ちゃんの心には、まだ自分という存在がいないために、つまり守るべき自分がいないのでそうしたルールを持たずに毎日すくすくと成長するのです。

けれども、ひとたび自我が発生して自分がいるという思いが出来上がってしまえば、自分の身は自分で守らねばならないということに気づいてしまうのです。

そうして、上述した様々なルールで身を固めて自分を守ろうとし出すのです。それを自己防衛システムと私は名付けています。防衛すればするほど、ルールがきつくなるために、その分だけ不自由になってしまうのです。

したがって、防衛と自由は互いに反比例の関係にあると思えばいいのです。もしも、あなたが自分の人生を不自由に感じたり、何だか生きづらいと思っているのでしたら、それは自己防衛が過度になっているという証拠です。

自由な人生を取り戻したいと望むのでしたら、まずは自分が日ごろどのように自己防衛をしているのかに気づく必要があります。気づかなければ、それを減らしていくことは不可能だからです。

自己防衛の方法はそれこそ多岐に渡りますが、たくさんのクライアントさんと接してきて、その主要なものを教えてもらったので、以下にそれを列挙してみます。

・自己表現、感情表現を抑える

・いい子、いい人、相手に都合のいい人物になろうとする

・プライドを高くし、人を見下す

・ネガティブな感情を見ない

・自閉して傷つかないようにする

・頑張りと努力で結果を出そうとする

等々

こうした生き方は、大なり小なり誰でも心当たりがあるかもしれませんが、問題はそれをどれだけ過度にやってしまっているかということです。

まずは、自己分析してみることですね。そして、自分独りではどうもうまくできないと感じられたら、セラピストの力を借りるという選択肢も検討してみてもいいのではないかと思います。

「今」を見て、「今」に気づく

もう12時を過ぎてしまったので、昨日のことになってしまいますが、久しぶりに昨日のお昼頃は暖かな陽気になりましたね。どこかで、春の匂いを感じている自分がいました。

それだけで、どうしようもないくらいの幸福感に包まれてしまうときがあります。もうすべてがOKというのか、心が爽やかで軽々とした感じになります。

ところが、最後のセッションが終わって家路に着くとき、夜9時半ごろでしたが、気温2~3℃くらいになっていて、あり得ないくらいに冷たい風が強く吹いていて、本当に参りました。体感温度は、きっと-5℃くらいだったと思います。

一日の温度差が20℃くらいあるなんて、ひどいもんですね。もうそうなると、お昼の幸福感などまったくどこかへ行ってしまって、心が縮こまったようになってしまいました。

一刻も早く家に帰って、身体を温めたいということしか考えられなくなってしまいました。これほどまでに、心の状態というのは気候に左右されてしまうのですね。

ところが、よ~く注意して心の奥底を見てあげると、そこには何物にも左右されない場所があると気づくことができます。春の陽気に浮かれた気持ちになることもなく、凍りそうな寒さにも全く動じないのです。

それに気づくと、それはどんな経験をしている時にも、なくなったことがなかったと分かるのです。自分と密接に存在している、というよりもそれこそが自分の本質なのだと分かるのです。

そのことに気づくために努力は不要ですが、ちょっとしたコツはあるかもしれません。なにせ、あまりにも自分過ぎて見過ごしてしまいがちだからです。

外の世界に気を取られてばかりでは、決して気づくことができません。あくまでも、「見る」ことです。何を見るのでしょうか?それは、「今」を見るのです。

「今」という舞台の上に、この世界のすべての物語(現象)が起きているからです。「今」を知れば、それが永久不滅であるということに気づくはずです。

永久不滅とは、変化しないということを意味しています。それが、あなたの本質なのです。

万能感と絶望感

赤ちゃんは生まれる前も生まれてからも、しばらくの間は至れり尽くせりの毎日を生きています。よほど、特別の事情でもない限りは、宝物のように扱われるのです。

その時の感覚は、万能感とか全能感とか呼ばれるのですが、当然かもしれませんね。なにしろ、人泣きしただけで空腹は満たされるし、退屈したらあやしてもらえるのですから。

オーバーに言えば、望むことは何でも叶えられるわけですから、万能感が出来上がるのも無理はありません。けれども、当然のことながらいつまでもそうした夢のような日々が続くわけではありません。

そうしたある意味女王様(王子様)のような生活は、早晩終わりを遂げることになるわけです。その待遇の落差に、多大に傷つけられてしまう赤ちゃんもいます。

それは、とても敏感で聡明な子の場合です。人一倍感性がするどくて、早熟で万能感の中にいるときに、それを冷静に体験してしまう場合です。

そうした赤ちゃんは、落差の大きさについていけなくて、ひどく惨めな思いをすることになるのです。惨めさとは、それまで当然のこととして期待していた待遇との現実の落差の大きさからやってくるのです。

敏感で聡明な赤ちゃんは、その痛手をいつまでも握りしめてしまいます。その惨めな自分を何ともしてあげることができなくて、自分の無力さにも絶望してしまうのです。

そのやり場のない不満は、大人になってもずっと心の奥に残ってしまっているために、本人はいつまでも理由のない満たされない感覚と戦わなくてはならなくなってしまいます。

こうした心のからくりは、自分独りでは解明することはなかなか難しいのです。自分の中にどんな不満があろうと、それから目を逸らさずに、しっかりと見てあげることです。

そして、不満の中でもがいている過去の自分を丸ごと受け止めてあげるのです。誰かを悪者にしても、決して救われないからです。