驚きを持って生きる

毎年、大晦日の夜と正月だけは、普段一緒に食事をすることがあまりない両親と食事を共にするので、前もって簡単なカードマジックを練習しておいて、披露してみたのです。

すると、各人の反応がバラバラなのが面白い。父親は、「ああ、それ前にテレビで見たことがある。」と言い、家内は何とかしてマジックの種を暴こうとし、母親は純粋に驚くという反応でした。

どの反応も予想していたものですし、どれがいいとか悪いというものではありません。勿論、マジシャンを演じている私としては、とりあえずびっくりしてもらえたら、それが一番嬉しいわけです。

私自身の中にも、きっと様々な反応をする心の断片があるだろうことが分かります。それは見たことがあるという反応も、種を暴こうとする部分も、ただびっくりする心もあるのが分かります。

それ以外にも、マジックなんてつまらないという反応をする部分もあるのでしょうね。その状況によって、どのような反応が表面化することになるかが決まるはずです。

けれども、どのような反応をするかというのは、自己防衛の強さと関連があるのです。防衛が強ければ強いほど、驚いている自分を隠そうとします。なぜなら、驚くということは、相手にコントロールされるイメージがあり、危険だからです。

一方、単純に驚くというのは幼い子供のような反応ですが、それは無防備な心の状態であるということが言えますね。それが、最も愛に近い心の状態なのです。相手と競っている自分がいないからです。

どんな反応も当然間違いではありませんが、もしもあなたが親しい家族にマジックを披露されたら、どんな反応をするような気がするでしょうか?

家族との人間関係が愛に溢れていればいるほど、子供のように驚かされる自分を楽しむことができるでしょうね。それは、人生そのものについても言えることです。

人生から驚きが失われてしまえばしまうほど、味気ないものになってしまいます。愛は、いつもあらゆることを驚きを持って見ることができるはずだからです。

あなたは、生き慣れた毎日の人生の中で、どれだけ驚きを感じて過ごしているでしょうか?驚く心はいつも新鮮さを保っていますし、瞬間瞬間を楽しんでもいるのですね。

無邪気さと社会性の融合

最近、健康のために俗にいう青汁というものを飲むようになりました。私が利用しているものは、粉末状のもので、それを水かお湯に混ぜてゴクゴク飲むわけです。

健康にいいからという理由だけで、まずいものを我慢して飲むことができない私は、青汁の中でも決して不味くないものを選んでいるために、ごく普通に毎朝服用できています。

その青汁の粉末がお湯よりも比重が重いようで、スプーンで何度混ぜてもしばらく経つと粉末が下に沈んでしまうため、なるべく早めに飲んでしまわなければならないという不便さがあるのです。

比重を軽くして、あっという間に水に溶けてくれるように工夫してくれたら、もっと楽に飲めるのですけれど…。それでも、まずくて飲めないと思っていたのに飲めることが分かったので、とてもありがたいと思っています。

ところで、水と油という表現があるように、油を水の中に入れていくら溶かそうとしても油が水をはじくし、比重がかなり違うために、決して混じりあうことがありませんね。

そのため、その二つはコップの中で上下に真っ二つに分離した状態にすぐになってしまうのです。人の心の状態も、この水と油のようになってしまっている場合があるのです。

通常、私たちの心の中には、純粋で無邪気な心の部分と、理性的で社会に順応しようとする大人っぽい部分とがあり、バランスのとれた人はその二つがうまく混じりあっているのです。

つまり、お湯に上手に溶け込んだコーヒーや紅茶のようなものですね。時間が経っても分離することがほとんどない状態ということです。どちらか一方が、他方をそれほど、はじこうとはしないでいる状態とも言えます。

そういう人は、プライベートな場面と職場などの社会的な場面において、あまり違わない人格で過ごすことができます。無邪気さと社会性が上手に混じりあっているからです。これが、成熟した心の状態です。

一方、水と油のように心の中の両者が分離してしまっている人の場合は、プライベートでは無邪気さが前面に出る反面、職場などでは隙のないきちっとした人物となり、その違いが顕著になってしまうのです。

そしてこの場合、無邪気さだけが幼さの象徴ではなく、大人っぽい社会性のある面を作り出しているのも、実は幼い心の部分だということに気づく必要があります。

水と油のように分離した心を作ってしまったのは、大人ではなくて幼いときだからです。どちらも幼稚なのです。大人の仮面を被った子供が社会で生活していると言えば分かりやすいかもしれませんね。

外で頑張り過ぎるあまりに、家ではその反動として幼さが満載状態になるのです。そして、その反転が毎日繰り返されることになるのです。

どちらの自分も過去の自分の心であると理解して、今この瞬間の自分がそれらを一つひとつ受け止めてあげることです。そうすることで、過去に生きている両方の心に乗っ取られずに済むようになるのです。

物語は思考の中にしか在り得ない

私たちは、物語が大好きなのです。その証拠にお金を払ってでも映画を観に行ったり、DVDを借りてきて見たりするのですから。テレビが大好きという人も沢山いますね。

物語というのは、時間の流れと共にストーリーが展開されます。そこに、自分の人生という物語を重ねて見ることによって、より一層その物語に現実味が帯びてきて、釘付けにされたりするのです。

作り物の物語であっても、本当にあった物語であっても、それを疑似体験することで、普段の生活以上の感情が出てきて、深く感動したり悲しみの涙に濡れたりできるのです。

ところで、物語を物語たらしめているものは何でしょうか?それはあなたの心の中に発生する思考です。思考が物語を生み出し、思考が物語を展開させ、思考が物語を継続させるのです。

どんなにすばらしい物語であろうとも、ひどく悲惨でむごたらしい物語であろうとも、一たび思考を停止させてしまえば、そこには物語が在り続けることはできないのです。

つまり、どんな物語もあなたの思考の中でしか、生き延びることができないということです。このことは、何度繰り返してでも腹の底から分かって欲しいことなのです。

なぜなら、これこそが最大の救いだからです。もしも、あなたがこれまで生きてきた自分の人生を思い返して、こんな人生なんてろくでもない、と感じているのなら、それはあなたの思考の中でのことなのです。

思考の中身は事実ではありません。思考の勝手な解釈に基づく物語でしかないからです。あなたが、延々と続けてきた思考をほんの瞬間でも止めることができたら、きっとあなたは心から安堵の時間を感じることができるはずです。

人は大抵そういう経験をしているのです。辛いなあと感じている毎日の中で、あるときふと何だか気持ちが楽になっているという経験をしたことがあるはずです。それは、いつものお決まりの思考から抜けたときなのです。

私たちは、物語が大好き過ぎて、問題が発生すると物語の中でその問題を解決しようとばかり躍起になるのです。でも、いつも思ったように解決できるわけではありませんね。だから苦しむのです。

その習慣を一旦脇に置いて、困った問題が目の前に現れたときに、思考を鎮静化させてみるのです。そうすると、問題は解決されるのではなくて、問題が物語と共に消えてしまうのです。

これ以上の救いは他にはありません。そしてさらに、本当に物語とは思考なのだということに気づいていられると、自分の人生を物語の一つとして捉えることができるようになるため、何が起きても深刻になることがなくなるのです。

常に新しい自分を生き始めることができる

今年に入ってから、どうも一種の睡眠障害のような状態が続いています。何か心配ごとや気になることがあるというわけでもないのに、なぜか眠ってもすぐに目覚めてしまうのです。

記憶している限り、人生で初めての睡眠不足が続いていると言ってもいいくらいです。寝つきが悪いというのでもなく、ただすぐに起きてしまうのです。

眠れないなあと思って、もう寝るのをあきらめてしまい、いろいろな実験をやったりしているということもあって、余計に寝れなくなっているということもあるかもしれません。

どうでもいい睡眠不足の話しはこれくらいにしておいて、私たちは眠っている間以外は、ずっと人生を通して自分の意識が連続していると感じていますね。

夜寝てから明日の朝起きるまでの間、一応意識が休止はするものの、また明日は寝る前の意識の続きが始まるということを、人生を通してずっと重ねてきたと思っています。

だから、夜眠る前には一区切りとして、その日にあったことを思い返してみたりするわけです。そんなことは何もせずに寝てしまうという人も勿論いるでしょうけれど…。

けれども、本当の私たちの意識というのは、こうした時間の流れの中にあるのではないのです。その反対に、純粋な意識という土台の上に時間の流れが現象化しているのです。

私たちが意識だと思っているのは、実は思考であって、その思考は常に時間の流れと共にあるものなので、自分が時間という流れの中で生きる連続した存在だと思い込んでしまっているのです。

あなたが一晩寝ると、新しいあなたが再生するのです。もしも、あなたがそれをそのままにしているなら、時間の流れよりも今を意識した人生へと変えることができるはずです。

しかし、私自身も含めて多くの人々は、知らないうちに昨日までの事柄を引きずったままの状態で今日再生してしまうのです。それが、過去に生きていると言われる所以なのです。

本当は眠る必要もなく、毎瞬ごとに私たちは再生し続けているといってもいいのです。だから、いつどんな状況であろうとも、まったく新しい自分を生き始めることが常に可能なのです。

それは本当にすばらしいことですね。

今この瞬間にあるために何の努力もいらない

今日は珍しく、身近にパソコンがない状況なので、仕方なくスマホで文字を打っているせいで、時間がかかっています。超面倒臭い。

若い人が物凄いスピードでケータイのキー入力しているのを見ると、自分には絶対に無理と思うと同時に、世代の違いを感じてしまいますね。

かつては、IT業界に身を置いていたこともあって、少しはパソコンのことも分かっていたのですが、今ではトラブルがないことを祈りながらパソコンを使っているのが正直なところです。

こうした傾向は、今後ますます様々な分野にも広がって行くのだろうなと思うのです。

とにかく、細かいことにエネルギーを向け続けることがドンドンと億劫に感じられるようになってきたのです。

根気が続かないというのか、飽きっぽくなってしまったようで、適当なところでOKを出してしまうのです。

たった一つだけ、例外があるとすると、今この瞬間に意識を向けるということです。

これは、集中力もいらないし、エネルギーも努力も何もいらないからですね。つまりは、何もしないということなのです。

何もせずに、一日中心の中でじっとしているというのは、幼い頃からの私の得意技なのです。

変なクセでも、いつかは役に立つこともあるのですね。

欲望にいいも悪いもない

クライアントさんも含めて、私の知人にはいわゆる「スピリチュアル」が好きという人が大勢います。といっても、この「スピリチュアル」というのをどう定義すればいいか、イマイチ曖昧なんですが…。

何か精神的なもの、あるいは本屋さんなどでは「精神世界」などという言葉で関連する書物が陳列されていたりしますね。何となくニュアンスは伝わります。

ところで、この世界でお金儲けや名声、地位などを求めて生きるよりも、精神性の高さを求める方がレベルが高い、あるいはより進化した人間の姿だと思い込んでいる人がたくさんいるようです。

この世界の教えに従って、一生懸命努力して立派な人物になろうとしたものの、いつまでたっても心が満たされないということに気づいて、今度は「スピリチュアル」へと求めるものを変えるのです。

けれども、これって求める対象が変化しただけで、根っこにあるものは同じ。つまり、今のままの自分ではダメなので、何とかして理想とするところまで自分を高めたいという気持ちなのです。

お金持ちになりたいのと、高い精神性を身に着けたいというのとは、本当は何も違いがないのです。後者は一見無欲な感じがするかもしれませんが、欲望を満たそうとしていることに変わりはないのです。

欲望は決して悪いものではありません。ただし、自我を無くして、欲望を取り去りたいなどという願いほど、エゴエゴしい欲望はありません。

物質的な価値観も精神的なそれも、単なる好みの問題であって、殊更「スピリチュアル」などという括りで特別視する必要もないということです。

無欲に生きるということが、崇高なわけでもありません。ただし、心を愛が満たしている時には、自動的にそのような状態になるかもしれませんが、目指すものではないのです。

欲望の中で私が一番好きなもの、それは真実を知りたいという欲求です。この欲求にしたがって、何か練習したりするのは結構楽しいのです。

けれども、忘れてはならないのは、その欲求は小さな子供が飴玉を欲しいと願う気持ちとそれほど違いはないということです。

人はいつまでも欲望を捨て去ることはできませんし、そんなことをする必要もないのです。ただ、その気持ちを今この瞬間の自分が、丸ごと受け止めていればいいのです。

我が家の非常識

子供は、好むと好まざるとにかかわらず、生まれた家庭の影響を色濃く受けて成長していきます。自分の家のルールや家族関係などがその子にとっての標準となるのです。

私が小学生のときに、友達の家で初めてカレーライスを食べたときに、他の家ではソースをかける習慣があるということを知って、本当に驚いたのも当然なのです。それまで、我が家では何の迷いもなくカレーには醤油をかけると決まっていたからです。

友達の家で遊んでいるときに、友達のお母さんがあまりにもやさしいので、びっくりしたという話しは今までに何度もセッションで聞いたことがあります。

それくらい、自分の家の様子が子供にとってはふつうになっているということです。勿論、年齢とともに次第に外の家がどうなっているかということに気づいていくため、社会の標準というものを知るようになっていくのです。

そうなって初めて、自分の家が特別だったのだということに驚かされるわけです。けれども、子供が家の中でとても大きな恐怖を親との関係に感じていると、自分の家を客観視することが遅れてしまうのです。

なぜなら、外の世界をありのままに知ってしまうと、自分の親を否定するような心が芽生えてしまうため、それは本人にとって生きていくのに都合が悪いからです。

だからこそ、自覚のないままに自分をだまして、外の常識を見ないようにして、自分の家や親が普通なのだと思い続けようとするのです。

そうした自分騙しは、思いの外強力であって、大人になってもそうした洗脳は残っていることが多々あるのです。セッションなどでするどく指摘されて初めて、自分の生まれ育った家を正直に見ることができるようになるのです。

そして、ようやくそこから癒しを進めていくチャンスが生まれるのです。癒しとは、ある意味偏向した見方をしてきたことに気づき、どんな色眼鏡も少しずつはずしていって、あるがままを受け止められるようになることだとも言えます。

この世界を司っている「舞台」とは

沢山のクライアントさんの中には、たまに舞台俳優をされている方がいらっしゃいます。舞台の上に立ち、大勢の観客の前で劇を演じるのは、とても魅力的なことでしょうね。

私は小学校を卒業するときに、謝恩会というのがあって、そこで友達と二人で自作の西部劇ふうコントをやったのですが、とても楽しかったのを覚えています。

ところで、私たちは役者さんたちが演じる役柄に、自分たちの人生を重ねてみることで感情移入するのですね。そうやって、物語の中に入り込んで、ひと時を楽しむことができるのです。

つまり、役者さんが演じる人生は、私たち自身の人生であり、その劇の舞台装置というのは、私たちの人生を取り囲むこの世界だとも言えるわけです。

そしてそこには、役者さんと舞台装置をいつどんなときにも支えてくれる「舞台」があることを忘れてはなりません。ただし、演劇を見ている観客は、舞台そのものを意識することは通常ありません。

劇に夢中になればなるほど、舞台そのものは全く意識から外れてしまいます。逆に、舞台そのものを思い出すようでは、すぐれた劇とは言えないでしょうね。

私たちのこの生身の人生においても同じことが言えるのです。私たちのこの人生において、「舞台」に対応するものとはいったい何でしょうか?

残念ながら、人生という物語の中に100%組み込まれている限りは、それに気づくことができません。それは、肉体の眼で見つけることができないからです。

でもそれは、確かに在るのです。思考に巻き込まれていることに気づいて、そこから静かに今この瞬間を感じることができるとき、それこそが真実という「舞台」なのだと分かるのです。

この宇宙に遍在して、この宇宙を宇宙たらしめてくれている「舞台」、それこそが私たちの本質である真実なのです。あなたには、それが見えますか?今見えなくても構いません。

いずれは、見る(直接体験する)ことになるのですから。なぜなら、それはあなた自身だからです。

毒出し体験のご報告

みなさんは寝つきがいい方ですか、それとも悪いほうでしょうか?どこでもすぐに寝れる人と、神経質で枕が変わっただけで眠れなくなるという人もいますね。

私は、大抵はすぐに寝付ける方なのですが、夕べはずっと眠れずにとうとう朝7時くらいになってしまいました。貫徹状態で午後からの仕事をするのはイヤだったので、そこから10時半までは寝れたのでよかったです。

ちょうど気持ちよく寝入るときに、騒音などで起こされてしまうと、どうもそのあとの寝つきが悪くなるという面倒なクセがあるのですが、夕べのは全く違うことが原因でした。

ちょっと不思議な体験をしたので、書いてみます。きっと、ウトウトし出した頃なのでしょうね。階段を下りている夢を見たのです。暗闇の中を慎重におりていき、階段の終わりを足で確認したのを覚えています。

そして、平な空間を歩きだしたのですが、そこは完全なる真っ暗な場所で、これは困ったなと感じた瞬間に、見えない自分の身体が拡張しだしたのです。

言葉で表現するのは難しいのですが、全方向に一斉に身体が広がっていく感覚です。身体がなくなっていく感覚というよりも、とにかく半端ないくらいに膨張していくのです。

それと同時に、真っ暗な眼前に光の模様のようなものが見えました。恐怖感はまったくありませんでした。何だろうと思っているうちに、次第に身体の拡張感が小さくなっていき、そのまま目覚めたのです。

目覚めたあとも、拡張感がはっきりと残っていたのですが、それは時間と共に薄れていき、最後には消えてしまいました。何だか、身体が熱くて寝苦しいと思いながら、朝まで寝付けなかったというわけです。

横になりながらも、その体験について考えていたのですが、どうやらある種の毒出しだったのではないかと思えるのです。今までに、私にはいろいろな毒出し体験があるのですが、共通するものがあったからです。

一つは、光が見えるということ、そして身体の感覚に異変が起きるということです。夕べのものは、それほど激しいものではなかったですが、これまでに体験した中には相当にびっくりするようなものも実はありました。

何でストレスもないのに毒出しなの?とも思うのですが、自覚のないところで身体は酷使されているかもしれません。特に寒い時期には、解毒力が下がっていますので自動的に身体が自らを癒したかったのかもしれません。

眠れなくなるのは困ったことですが、またあれがやってきてくれたら嬉しいのにと思いながら、今日もベッドに着くことにします。

思考の上手な使い方

私たちの精神活動のほとんどすべてが、思考によって成り立っているということはご存じだと思います。記憶を思い返したり、未来を予想したり、パズルを解いたり、誰かを否定したり…。

多くの人にとって、思考が止まる時などないのだろうと判断してもいいくらいです。勿論、そうした判断も思考によってなされているわけですね。

思考は何も人間だけの専売特許ではありません。犬や猫などの動物であっても、思考を働かせていることは伺い知ることができます。

けれども、動物の思考と私たち人間の思考にはとても大きな差異があるのです。それは、動物の思考はただ周りの状況に反応するために思考が使われるということです。

私たちもそのような思考の使い方はするのですが、それ以外の思考がほとんどだからです。それは、自我によって毎瞬ごとに生み出される思考なのです。

思考ほど、強力なツールは他にありませんが、それは自分が能動的にツールとして思考を利用しているときに限られるのです。逆に思考に操られてしまうと、人生が台無しになってしまうかもしれません。

私たちが思考の主人でいる場合、たとえば将棋のプロが一心不乱に集中して将棋の試合に臨んでいる時、最大限思考を有効活用していると言えます。

けれども、自我が「この試合に勝ったら、自分の名声が高くなる。」という思考を送り込んできて、一たびそれに巻き込まれてしまったなら、試合への集中が途切れて結果に悪影響を与えることになるのです。

最も悪いケースは、悩み事をグルグル考え続けてしまい、こんなことをしていても何も解決しないのにと自覚しながらも、そこなら抜け出せずにいるような時です。

こうしたことは、誰にでも一度や二度経験があるはずです。そんなときにはすかさず、「今自分の頭の中にどんな思考がある?」と質問し、思考を見る立場になることです。

そうすると、一瞬にしてグルグル回転していた思考は力を緩めて静かになってくれます。そんなに簡単に思考から抜け出せるはずがないと思うなら、試してみて下さい。きっとうまくいくはずです。

あなたは、思考の主人でいることが多いですか?それとも、やってくる思考に巻き込まれてしまうことが多いでしょうか?そこのところをよく、見つめて自覚することが必要です。

上手な思考の使い手になれたら、あらゆる思考を貫いてずっとそこにある自分の本質にも気づくことができるかもしれませんよ。