この世界に順応できずにいることは大切なこと

世の中には、上手にこの世界に順応して快適に過ごしている人もいれば、なかなかうまく順応できずにもがき苦しんでいる人もいます。

全ての人をそのどちらかに真っ二つに分けるのは、勿論粗っぽ過ぎるのですが、一応そのどちらかに属すると考えてみると、あなたはどちらのグループに入ると自覚してますか?

私の場合は、確実に後者のグループに入るという自覚があります。そのことは、第三者が私のことをどのように見ているかということとは、全く関係ないことです。

なぜなら、この話し自体が100%自覚によっているからです。どう自覚しているかがすべてであることは、分かっていただけると思います。

後者の人たちは、みんながごく普通にやれていることを自分はうまくできないと感じていたり、それをするのにとてもエネルギーを使うので、心が疲弊してしまうというように思っているのです。

うまく人生を生きている人たちのことを、少なからず羨ましく見ているのです。前者の人たちは、はっきりとした目的を持っていて、自分が何をしたいかも分かっている。

なぜ自分はこの世界に生まれたのかとか、人生の本当の目的とは何なのだろう?などといった実質的には意味のない疑問が頭をもたげてくることもないのです。

なるべくなら、早くこの人生を終わりにして楽になりたい、などと考えることもない幸せな人なんだろうと、前者の人のことを見ているのです。

けれども、自分のことを後者の人間だと思っているあなたに、是非お伝えしたいことがあります。人生がうまく行っていないと感じることは、とても大切なことなのです。

なぜなら、それこそが自分の本質に気づく最大のチャンスをもたらすからです。順風満帆な人生がもしあるとしたら、その人は本当に大切なことを何も気づかずに死んでいくことになるはずです。

この世界など理解不能であって、自分はまったく何もかも分からない、そういう思いこそが真実への扉を開くきっかけを作ってくれるのです。

そしてもしも、本当にあなたが心から真実を知りたいと願うなら、それは必ずや叶うときがやってきます。真実はいつもあなたに語り掛けているのですが、そっぽを向いてきたのはあなたの方だと気づくことになるからです。

イベント嫌いの私

根っからのズボラのせいもあってか、最近ではもう年賀状を出すということもなくなってきてしまいました。自分のところに届いた年賀状には、とりあえず忘れない限りは遅ればせながら出すようにはしているのですが…。

少し前に知ったのですが、年賀はがきを購入して自分で印刷したりすることなしに、すべてパソコンやスマホ上からネット経由で本物の年賀状を届けるというサービスができたんですね。

何と便利なことか。これだったら、さすがの自分にもやれるんじゃないかと思うのですが、今度は実物を見ずに相手のところに送られてしまうのが、何となく不安な気持ちになってしまって。

まだ出しそびれている方々のところに、とりあえず意を決して試してみようと思っています。クリスマスとか、お正月とか、年賀状といったふつうの毎日の生活とは異なる、いわゆるイベントごとが好きな人とそうでない人がいますよね。

女性は大抵がイベント好きではないでしょうか。誕生日とか結婚記念日などを忘れられると、それだけで悲しくなったり怒ったりする人もいるでしょうから。

それに比べて、特にマメではない男性というのは、どうも日常が好きのようなのです。私は、そのタイプの筆頭のようなものなのです。

早く年末年始のお休みが終わって、正常な状態へと戻って欲しいと切に願ってしまっています。それにはそれなりの理由がちゃんとあるのです。

例えば、スポーツクラブがお休みになってしまう、毎日のリズムが崩れてしまう、朝からお酒を飲んだり、普段食べなれないおせちやお餅を食べ過ぎて体調を壊す、等々。

会社員の頃は、お休みが命の次に大事だったのですが、今は普段の生活が何といっても一番自分にとって快適なのですから、イベントは不要なのです。

みなさんは、まだ正月ぼけの状態でいるのでしょうけれど、私は今日からもう仕事も始めたし、ごく普通の生活に戻りましたよ。

毎日がそれなりにイベントだと思えば、活き活きした人生を生きられるかもしれませんね。本当は、時間の流れというものはなく、瞬間瞬間があるだけなのです。

だから今この瞬間というイベントを都度楽しめばいいのですね。

諸行無常を支えるものに気づく

毎年毎年、その年の初めになると、多かれ少なかれ「今年こそは…」という期待に胸を膨らませるのですが、結果としては期待通りのことがやってきたり、こなかったりしますね。

どちらにしても、物事は一瞬たりとも止まっていることができません。私たちは、常に変化の中に晒されているわけです。そのことを、諸行無常などと言いますね。

辞書によれば、『この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。』とあります。

これを違う言葉で、『時間』というのです。時間と変化は、一つものです。時間があるから、変化が起きるとも言えるし、変化がなければ時間は存在できないのです。

けれども、決して変化することのないものが在るのです。どれほどの壮大な時空をかけた物語の映画であったとしても、決して変化しないものが一つだけあります。

それが、その映画を映し出すスクリーンですね。スクリーンは映画の中には決して発見することができないのですが、常にその映画を支えているのです。

そこにどんな物語が繰り広げられようと、永遠にそれが存在することを許しているのがスクリーンなのです。それとまったく同じことが私たちのこの世界についても言えるのです。

時がどれほど経って、どんな変化が起きようと、それを永遠に可能にしてくれているもの、それが真実です。私たちの本質は、時空が起きるその前提なのです。

この世界を肉体の目で見ている限り、諸行無常しか見ることはできませんが、純粋な意識だけで全体性を見るとき、そこにこの世界のスクリーンである永遠性を見出すことができるのです。

あなたは、もうすでにずっと前から自分の本質に気づいているのですが、それを一瞬見ただけですぐにこの世界で起きつつあるもののほうへと意識を向けてしまうだけです。

集中せずに、肉体の目で一点をただ見ているうちに、自分が何をしているのか曖昧になると同時に、意識の目で全体性を見ていることに気づくはずです。スクリーンに気づくことです。

自分の不可能性に気づく

新年、明けましておめでとうございます!!

みなさん、さわやかなお正月を迎えておられることと思います。今年は、昨年にも増してたくさんの新しい出会いが待っていてくれると思うと、すごくワクワクしますね。

私が思うに、人は出会うべき人と出会うべき時に出会うことになるということです。ただ起きているという偶然性と、必ず起きるという必然性が同時に満たされているのです。

真理とはいつもそうした矛盾を持ってしか、捉えることができません。だから、私たちの思考では理解することが不可能なのですね。

あなたが、自分のことを自律的に生きている存在ではない、という真実を見破ったとき、つまりあなたには自由意志がないということを知ったとき、真の自由と出会うことになります。

言葉を変えれば、すべての不可能性を看破したときにこそ、完全なる自由をそこに見出すことができるのです。もしも、分かりづらければこう考えればいいのです。

例えば、私たちの誰もが未来を過去のように知ることはできませんね。その不可能性の中に私たちは生きていますが、だからこそあなたは未来に対して完全に自由でいられるのです。

もしも、あなたの自由な意思の力で未来を変えることができるとなったら、それこそ最大限の苦しみがやってくることになるかもしれません。

なぜなら、誰かが怪我をする未来を見て、その人を守ることができたとしても、それ以外の地球上の多くの人を助けてあげることができなかったと分かって、罪悪感に苛まれることになるからです。

自分の不可能性に気づくことができるなら、そこには落ち着いた静かで深い喜びがあることにも気づけるはずです。そしてさらに言えば、苦しみがなくなり、痛みの種類も変わってくるはずなのです。

今この瞬間を見る

今年もたくさんのクライアントさんとご一緒に、自分と対面し逃げることなく癒しの作業をしてきました。どなたも、正直に自らの感情と向き合い、たくさんの涙を流しました。

奇跡的な浄化の場面に立ち会うこともあったりして、人ってすばらしいなあと思わずにはいられません。癒す過程がとても愛しいのです。

誰も完璧ではないし、誰だって臆病なはずなのに、ある時神の恩寵がやってきてごく自然と素直になれるのですね。それはもう見ていていつも感動させられます。

こうした癒しも、突き詰めてみれば人生という物語の一つの側面ではあるのですが、辛くてもがき苦しんだからこその晴々とした気持ちになれるのです。

そして、誰もがどこかの時点で今この瞬間を見るということに気づくことになるのでしょう。その時、どんな物語であろうとすべてが消えて、彼方に在る自己に目覚めるのです。

それはどんな音もない静寂な世界。実はそこからあらゆる物語が紡ぎ出されて、騒がしくて魅力的なこの世界が出現しているのです。

そのことを思い出した時に、自分という真実がただ在ったと気づくことになるのです。それでも、いつものようにまた朝がやってきて、人生という物語の続きがやってくるのです。

けれども、昨日と同じ人生でありながらも微妙にニュアンスが異なってくるのです。来年は今年以上に、ただ在る自分を見ることを伝えていけたらいいなと本当に思っています。

みなさんにとって、来年もまたすばらしい気づきがやってきますように!!

どんな深淵な質問も源泉からやってくる

私はずっと子供の頃からいわゆる質問魔でした。勿論、聞いても分からないだろうと思われる人には、わざわざ聞かないのですが、知っていそうな人を見つけるとしつこく質問をしていました。

その傾向は大人になっても、あまり変わらずにいたのですが、ある時自分が本当に知りたいことを知っている人っていないんだろうなと気づいてしまったのです。

それからは、逆に質問をすることが減ってしまいました。それでも、心の中では自問自答をし続けていたのです。分からないことがあると、それを問い詰めるクセは依然として残っていたからです。

けれども、自己探求を始めたときから、質問の内容よりも質問をして答えを欲しがっている自分を見てあげるようになったのです。

誰にも答えられないような質問がやってきたとき、それを解明しようとするよりも、その質問はどこからくるのかということ、誰がその質問をしているのかを見るようになったのです。

そうすると、質問に答えるということにエネルギーを使う必要がないということが分かったのです。どんな質問も、それに対するどんな回答も、すべてが思考の中でのことだということを忘れなくなったのです。

真理にまつわる質問こそが、自分が知りたいと思っていたことであると同時に、そうだからこそその質問に対する答えはどこにもないということと、本当は質問している誰もいないということを知ったのです。

質問をしているのは、私でもあなたでもなく、その質問は源泉から思考の形でやってきて現象化しているものに過ぎません。答えが欲しいという欲求も源泉からやってくる現象なのです。

そこが科学の限界でもあるのです。科学は、私たちが宇宙について知りたいことを探求して、答えを導き出すということを引き受けてくれたのですが、それはやはり思考の産物だったということです。

あなたの本質は思考の中にあるのではなく、思考を生み出す源泉なのですから、質問をしている誰もいないというのは当然のことですね。

どうしても知りたいという真理にまつわる質問がやってきたら、すかさず思考から抜け出してただここに在るということに意識を向ければいいのです。それだけで、すべてが完璧になってしまいます。

真理こそあなたの本質

このブログで一番お伝えしたいこと、それはあなたの本質についてです。セッションの中で通常やっている心の癒しも大切ですが、真の癒しとはあなたの中であなたの本質がそれ自身について気づくことです。

それは、あまりにも単純であって、単純すぎるからこそ捉えどころがないのです。それは、決して私たちが慣れ親しんできた思考では理解することも解説することもできないのです。

自分の本質に気づくために、必要などんな能力もありません。何かの力を使うわけでもないし、何かの能力を開発するという必要もありません。

自分が自分自身に気づくために、何かを必要とするなどということがあるはずもありません。必要なことは、ただ一つだけ、それは何かをし続けることをやめて立ち止まることです。

立ち止まり、心理的などんな活動もせずにじっとして自分の意識に注意を向けるのです。その瞬間、自分が誰かであるということがウソであると気づくのです。

本当のあなたは誰でもありません。何かでもありません。あらゆる思考がやってきては過ぎ去っていくための土台のようなものです。

だからこそ、どんな言葉を使ってもそれを的確に表現することはできないのです。言葉は思考だからです。思考や記憶からやってくる知識をどれほど積み重ねたとしても、それは思考の範疇に過ぎません。

思考を否定する必要はありませんし、勿論どんなものも否定する必要はありません。否定こそが、思考の中での活動に過ぎないからです。勿論肯定も同じです。

私たちの本質は、ただ在るのであって、肯定も否定もどちらも無関係です。あなたが一度でも真理を見たなら、それは完全な真理を見たのです。中途半端に真理を見ることはできないからです。

真理を見ることができるのは、真理そのものだけです。何者かが真理に気づくことなどできません。だから安心して、人間業を淡々と続けていけばいいのです。

真理のことは真理に任せておいてください。真理こそが、あなたの本質なのですから。

必要な苦しみと不必要な苦しみ

今まで生きてきた自分の人生を振り返って苦しんだことがない人というのはいないはずですね。ところで、人生には必要な苦しみと、不必要な苦しみとがあるということをご存じですか?

自分が体験した苦しみというものを、よ~く見てあげていると、必要な苦しみとそうでないものとがあると気づくはずです。それは、たとえばこういうことです。

あの日本中の人を悲しみのどん底に突き落とした、3.11のことを思い出してみて下さい。暖かな心を持った人であれば、誰であれその体験を苦しむことになるはずです。

そして、そうしたことは決してこれからもきっとなくなることはないだろうと、私たちは知っています。生きている限り、誰かの苦しみを感じて、自分も苦しむのです。

それを避けて通ることなどできないという意味で、必要な苦しみと表現しました。私たちは、人の苦しみを自分の苦しみとして感じることのできるすばらしい能力を持ち合わせています。

それは私たちの生まれ持った宝物なのですね。世界中のあらゆる人たちの苦しみから目を背けるべきではありません。何からも逃げずに、そのままを感じることです。

一方、不必要な苦しみというのは、あなた自身が作り上げる苦しみのことです。残念なことに、私たちはそのことに対する自覚ができないのが普通です。

なぜなら、その苦しみというのはあなたの「自分は傷つきたくない」という思いからやってくるからです。「自分の欲望を満たしたい」、「自分は人生をコントロールできるはず」などの思いも同じです。

こうした思いこそが、自分自身を傷つけてしまい、必要のない苦しみの中へと自分を突き落としてしまうのです。心理的に自分を守ろうとする気持ちが強ければ強いほど、苦しみも強くなるのです。

別の表現をするなら、必要な苦しみとは、愛の中で起きるものですし、不必要な苦しみとは恐怖(自己防衛)において起きてくるものなのです。

あなたが今苦しんでいるとすると、どちらの苦しみを体験しているのか、じっくりと見てみることです。必要な苦しみを感じている人は、苦しみながらも清々しい気持ちを持ち合わせているはずです。

来年から、セッション料金が変わります

新しい事務所に引越ししてから、もうすでに丸一年が経過しました。月日が経つのは本当に早いものですね。それとほぼ時期を同じくして、今年の始めよりセッション料金を5000円にしてスタートしました。

料金を低く抑えたことで、若い人や学生さん、あるいは経済的にそれほど余裕のない方でも、来て下さる方が増えたと感じています。

ですので、本当はこのままの料金でずっと続けていけたらいいなと思うのですが、残念ながら収支がマイナス続きで仕方なく来年から値上げさせていただくことにしました。

HP上ではすでに掲載していますが、料金一律7000円とさせていただくことになりました。是非、アベノミクスの効果を期待したいものです。

ところで、何の理由も見通しもないのですが、来年から少し経済的に余裕ができるのではないかという、不思議な予感があるのです。

それが、今やっている仕事がらみでのことなのか、全く予期しないあぶく銭が転がり込んでくるのかは分かりません。勿論、こんな予感は単なる期待感からくるでっち上げかもしれません。

いずれにしても、そういう感覚を楽しんでいられるのはありがたいことです。その一方で、自分のことを世界一することがない人間だと思っています。

そもそも何の予定もありません。ただ、毎日ご予約が入ったら、セッションをするだけのことです。あとは、このブログを書くことくらいしかありません。

あともう今年も数日となりましたね。すでに、冬休みに入られた人もたくさんいるはずです。年末年始、風邪などひかないように、お餅を食べ過ぎて太らないように、健康に注意して過ごして下さいね。

自分の本質を直接体験し続ける

これから先どれだけこの宇宙が続こうとも、また宇宙が誕生してから今日にいたる137億年の間においても、あなたとまったく同じ存在は二人といません。

仮にDNAがまったく同じであっても、何から何まですべて同じ経験をするなどということはあり得ないことですね。だからこそ、あなたという存在は貴重なのです。

SMAP の「世界に一つだけの花」という曲でも言われているように、あなたという存在は二度と現れない唯一の存在なのです。

だから、どんな自分であろうとも胸を張って生きようということ、私も賛成です。そのことは忘れずにいながらも、今日は違う話しをします。

それは、あなたという存在は、この宇宙という現象の中の一つの現象に過ぎないということ。あなたがどんな行動を取ろうとも、それは風が吹いて枯れ葉がヒラヒラと舞い落ちるのと、何ら違いがないということです。

私たちは、この宇宙という現象の一部に過ぎません。何も特別なものではないのです。その現象の一つに思考というものがあり、その思考の中で自分は自律的な存在だと思い込んでいるのです。

そうした思い込みというのも、単なる現象の一つに過ぎないのですが、私たちは普段そのことを忘れてしまっています。だから、自分が歩いている、自分が話している、という具合にただの現象とは捉えないのです。

思考は私たちの本質ではなく、あくまでも現象の一部に過ぎません。私たちの本質とは、あらゆる現象が起きるその土台のようなものです。それに気づいていないなどということは不可能なことです。

それは絵を描くための白いキャンパスのようなものです。どんな絵を描こうと、そこには必ずキャンパスが密着しています。キャンパスと離れて絵を描くことは不可能なことですね。

けれども、自分を身体と同一視する思考によってしか、自分を見ようとしなければ、本当の自分のことが分からなくなってしまうのは当然のことです。

思考を含めた現象をただ見ることを忘れずにいれば、いつどんな状況下においても、私たちの本質である純粋な意識という白いキャンパスのことを、直接体験することができるのです。