見切り発車の勧め その2

自分の心の中に、とにかくやりたいという純粋な情熱があるときには、迷うことなくやり出してしまえ!ということを昨日のブログで書きました。

迷うと、そこには必ず恐れのエネルギーが隙間に入り込んできてしまうので、失敗して後で後悔しないようにと慎重になってしまうのですね。

慎重になることは、決してそれ自体が悪いことではないのですが、恐れによる迷いが大切なチャンスを台無しにしてしまうことがあるということです。

そして、昨日伝えきれてなかったことがあるのですが、それは、もしも突き進んたそのあとで、それが失敗に終わったとしてもそれはそれでいいという潔さも必要です。

本当はもう失敗していると分かっているのに、そのことを認めたくなくていつまでもズルズルそこにしがみついているのは、得策ではありません。

それこそ、新しい自分の可能性をつぶしてしまうことにもなるからです。しかし、こうしたことを言葉にして書くのは簡単なことですが、それを実践するとなると難しいかもしれませんね。

なぜなら、私たちはみな強力な自己防衛システムによって、コントロールされている部分が多分にあるからです。誰もが、失敗したくないし、傷つきたくないと思っているからです。

失敗して傷つきたくないという思いも、失敗したことを認めたくないという心も、どちらもまったく同じ恐怖からやってくるものです。

自分の情熱を信頼して、迷うことなく見切り発車してください。けれども、同時に失敗したならそれを正直に認めて潔く撤退することです。

こうした生き方は、自分の本質に気づいている人とそうでない人とで、いずれ大きな違いが出てくるかもしれません。人生を物語として見ることができるかどうかにかかっているからですね。

見切り発車の勧め

楽器を習ったことのある人なら誰でも、基本をしっかり身に着けることが大事だということは知っていますね。これは、楽器に限らずスポーツにしても、どんなジャンルのものについても言えることです。

けれども、私が高校生の頃にギターを弾き出したとき、ドレミファの音階もろくには知らずに弾いていました。あのバンドのあの曲の中のあのフレーズを弾けるようになりたい、そういう一心だったと思います。

思い返すと、小6のときに初めてテレビで見た衝撃のバンド、一体彼らが何者なのかも分からないままに画面に釘付けになったのをはっきり覚えています。

数年後に知ったのですが、彼らが何を隠そう、レッド・ツェッペリンだったのです。といっても、何十年も前のバンドのことですから、このブログを読んで下さっている人の中の何人が知っているでしょうか?

小学生の自分が衝撃を受けたあの曲は、彼らのデビューアルバムの中に収められていた「コミュニケーション・ブレークダウン」という曲でした。

そして、高校生になったときに買った彼らの4枚目のアルバムに含まれていた、「天国への階段」という曲のリードギターのパートをどうしても弾きたくて、練習を始めたのでした。

本当にドレミファも知らないままに、ただただコピーしていたのです。ギターが好きな人だったら、似たような経験をしている人も多いのではないでしょうか?

ちょうどそのころ、高2だったかな、彼らは今は幻のコンサートと言われる、武道館でのコンサートをやってくれたのです。自家用ジェットでやってきて、演奏をして、あっという間にジェットで本国へ帰っていきました。

そのコンサートに行くために、初めてジーパンを買ったのを覚えています。今では考えられないことですね。そのジーパンを履いて出向いたコンサートでの一曲目は、確か大ヒットした「移民の歌」だったと思います。

ギターに話しを戻すと、上達するにつれて、いろいろな曲を弾けるようになりたくて、そこで壁にぶつかるのですね。そうなって初めて、基本を学んでみようと思い立つのです。それでいいのだと思うのです。

人生も同じかなと。堅苦しいと感じるルールも、とても役に立つときがありますので、全面否定する必要はありません。けれども、あなたがやってみたいと思うこととあなたの間には、何のルールも横たわってはいません。

ただ、やり始めればいいだけです。やり出してから必要に応じてルールを使うなり、微調整していけばいいのですから。何事も堅苦しく考えずに、乗り出すことですね。

私が、セラピストとして始めたときも、本当に何にも考えていませんでした。完全なる見切り発車です。でも、もうそろそろ丸12年が経とうとしていますが、いまだにこうしてセッションを続けています。

何かをやりたいという純粋な気持ちの奥にあるエネルギーの強烈さを信頼して、とにかく突き進むことです。そのことが、道が開ける最善の方法なのだと思います。

真っ暗な中に輝く光を見る実験

今日は、何も思い浮かぶことが出てこないので、最近自分がやっていることの一つをお伝えしてみます。単にイメージの中でやっていることなので、誰でもできることです。

みなさんは、目をつぶると真っ暗になって、何も見えなくなるということをご存じですね。そのことを疑ってかかる人はあまりいないはずです。

何も見えなくなるということは置いておくとして、真っ暗になるというのは本当のことでしょうか?もしもそうだとしても、それをイメージで変えてみたらどうだろう、ということです。

何でもいいですから、眩しい光を見ているように想像してみるのです。それが、真っ白な光でもいいし、ゴールドに輝く光でもその辺は自由にやってみて下さい。

慣れてくると、真っ暗だと思っていた世界が光輝く明るい世界へと変貌します。はじめのうちは、うまくできないかもしれませんが、それでも何度もチャレンジしているうちに、それはやってきます。

そんなことをやっているうちに、光が自分の外側にあるのではなくて、自分自身が光だったということに気づくことができます。

だから、光源がなくても私たちはすべてを見ることができるということです。このお遊びは、完全に真っ暗にした部屋で目を開いたままでも同じようにやることができます。

自分の体調などによって、見える光の形や色が微妙に違ってくるのも面白いものです。いつだったか、仏像のようなものの後光をイメージしたら、驚くほどの光が見えたときがありました。

イメージとは、面白いものです。バカにできません。だって、この現実にしても究極的にはイメージに過ぎないということをどこかで感じることができますから、私たちが知っている実在とイメージは本当は同じものなのだと思うのです。

ただ、予め言っておきますが、この遊びにはこれといって何の意味もご利益もあるとは思っていませんので、そのつもりで楽しんで下さいね。

受け入れるということの難しさ

セッションでは、いつも「受け入れること」についてお話しをさせていただいています。それが、癒しの本質だからです。「癒し」という言葉の響きには、どことなく解毒のようなニュアンスが含まれていますね。

都合の悪いネガティブな感情を洗い流して、クリーンで清潔な心に戻す作業のような連想をされている方もいらっしゃるかもしれません。

確かに、心の奥に溜め込んだ感情を逃げずにしっかり味わって、感情を解放するということが癒しにはどうしても必要なことであるのは間違いありません。

こうしたことは、癒しの初期の段階では必須のことだと言えます。だからこそ、催眠療法のような技法を使って、年齢退行のセッションをするのです。

けれども、そのような心理療法をいつまでもやり続けるわけにはいきませんし、どこかの時点ですべてが解放されて、ピッカピカの心を取り戻せるわけでもないのです。

人の心は常に不完全であって、否定的な部分がなくなってしまうなどということなど、どこまで行ってもないのですから。だからこそ、「受け入れること」が癒しの神髄なのです。

「受け入れること」は、とてもシンプルなのに、なかなか実践できないものです。それは、私たちは無自覚のうちに頭の中に浮かんできた思考に巻き込まれて生活しているからです。

やってきた思考は、すべて過去から到来したものです。それも、目的はただ一つ、自己防衛を続けることなのです。それが、自我の全貌です。

「受け入れること」がなぜ癒しの本質なのかというと、それだけが過去からやってきた思考に乗っ取られずにいる唯一の状態だからです。

「受け入れること」だけが、今この瞬間にいることを可能にさせてくれるのです。だからこそ、自我の中心である自己防衛システムは、強烈な力であなたをそこから離そうとするのです。

「受け入れる」とは、自分や誰かの行為ではなくてその存在を見ることです。存在に対しては、努力なしにただ「受け入れること」しかできないのですから。

本質への気づきは体験ではない

人生は一度しかないのだとしたら、すばらしい体験をたくさんしたいものですね。感動することや、悦びで胸が張り裂けそうになる体験とか。

場合によっては、奇跡的な体験や精神的な超越体験などといったことも含まれるかもしれませんが、私の場合には残念ながら人が羨むようなすごい体験をしたことがありません。

生来の物ぐさのせいで、体験そのものが少ないということもあるかもしれません。どこにも行きたくないし、わざわざ危険を冒して山に登ったり、スリルを味わうためにバンジージャンプをしようという気もありません。

急に○○のラーメンが食べたくなって、飛行機で北海道まで行ったことがあるという話しを聞くと、自分には到底できないことだと思うのです。

そういう意味からすれば、刺激の少ないかなり平坦な人生だという自覚があります。特に、年齢を重ねるごとにその傾向は強くなってきた感じがしています。

そんな私ですから、自分の本質に気づいたなどと言っても、本当は別にどうということではないのです。それは、当然のことながら、私の個人的な努力の結果でもないし、自分の手柄は皆無です。

もっと言えば、本質への気づきとは実は上で述べたようなどのような体験とも異なるもので、それ自体を体験というのは間違っているという感覚もあります。

私という自我が、覚醒体験をすることはできません。自我ができるのは、あくまでも興奮するような体験なのです。それは、強烈であるがゆえに、一過性のものなのです。

本質への気づきは、本質そのものがそれ自体に気づくことであるので、私の自我が入り込む余地などないのですが、自我は巧みにそれを自分の体験と判断し、何とか自分の手柄のように考えようとするのです。

本質への気づきは、体験ではないので永続性があり、常に冷静なものです。一瞬感動したりするのは、自我が勝手にそれを体験として横取りするからです。

気づきが他のどんな体験とも異なるのは、そうしたことが原因なのですね。真実には、どんな手柄もそれを喜ぶ誰もいるわけではないのです。

何も得ることはできないし、何も失うこともできない

赤ちゃんは丸裸で何も持たずに生まれてきます。だから、しばらくの間は親や周りの環境によって、食べ物が与えられ、着るものが与えられ、安全に過ごせる場所も提供されます。

ところが、成長するにつれて、自分が欲するものを自分の力で手に入れようとし出します。与えられるだけでは満足できず、また周りも自分の力で手に入れられるようにと促すからです。

そうして、欲しいものは努力して手に入れるという人生が始まるのです。お金が欲しければ、働いて手に入れるし、名声が欲しければ、頑張って人一倍成果を出すために努力するのです。

そうやって、私たちは欲しいものを頑張って手に入れることで幸せになれると信じ込んでしまうのです。そのうちに、いくら努力をして何を手に入れようとも、満足していられるのは一時的なことだと気づいてしまいます。

さらに、どれほどのものを手に入れられたとしても、死ぬときには生まれた時と同様に、何も持っていくことができないことを知っています。

だからこそ、人によっては物質的なものを求める代わりに、精神的な満足を得ようと考え出すのです。それはつまり、物質を介さずに深い心の平安を手に入れようとするということです。

精神修養を積んだりして、悟りの境地に到達したいと望むようになるのです。けれども、どちらにせよ何かを求めるということでは一つも変わってはいないのです。

物質的な欲望が精神的なものへと目的が移っただけの話しです。あなたが本当に手に入れられるもの、それはあなた以外の何かに違いありませんね。

あなた自身を手に入れるということは不可能なことです。その上で、あなたの本質である全体性に意識を向けるなら、あなたは何も得ることはできないし、何も失うことができないと気づくはずです。

私たちが真に求めてきたもの、それは決して手に入れることのできない私たちの本質だったのです。これほどの冗談もないでしょうし、これほどの幸運はほかにはありません。

大切な宝物は常に身近にある

都会に暮らす人々にとって、隣人との人間関係は田舎のそれよりも稀薄なものになっているというのは、よく聞かれる話しですが、事実かもしれませんね。

マンションのお隣さんとは話しをしたこともない、などということが稀なことでもないからです。実際、私も事務所に使っていたマンションのお隣さんの中で、最後まで顔も知らない方がいましたから。

避けているわけではないのですが、お話しをする機会さえないのですから、ある程度は仕方のないことです。一軒家であれば、庭先などで自然とお話しができたりするのですが…。

そして場合によっては、騒音問題なので隣人との間でいがみ合うということだって起きたりしますので、隣人同士が本当の意味で仲良くなるというのは難しいようです。

それは、個人の場合に限らず、国同士の場合にも言えることです。とかく隣国というのは、利害が直接ぶつかり合うことが多いのがその原因だと思うのです。

北朝鮮は言うに及ばず、中国や韓国などの隣国は、それ以外のすべてののアジアの諸国が日本に対して好ましく思ってくれているのに比べて、特別日本とうまく行ってないと言わざるを得ません。

お隣さんなんだから、仲良くしなければならないというのは、表面的な考えに過ぎません。隣だからこその様々な問題が起きてしまうのです。

私たちにとって、最も身近な存在と言えば、それは間違いなく家族です。家族に対しても、同じようなことが言えるのではないでしょうか?

つまり、家族とは親しい関係であるがゆえに、より込み入った人生レベルでの問題が起きるのは当然のことです。家族との問題がクリアされれば、ほとんどの心の問題は癒されてしまう理由もここにあるのです。

家族の誰かとうまく行っていないという自覚が過去にあるのでしたら、あなたが日々抱える現在の問題は、それ自体をいくら改善しようとしても思うようにはならないはずです。

現在の問題を生み出す本当の原因はあなたの心の中にしまわれている、家族との関わりにおける様々なわだかまりや感情にあるからです。

あなたのもっとも身近なところにこそ、あなたが目を逸らしている大切な見るべき宝物が隠されているのです。隠しているのは、勿論あなた自身なのですけれど…。

「見る」ということのもう一つの体験

私たちは普段、自分の周りにあるものを見るときに、そこに光が介在しているということを忘れてしまい、見える通りにそこに見ているものがあるのだと思い込んでいます。

けれども、実際にはそこにあるものを見ているのではなくて、それに光が当たって反射して返ってきた反射光をただ見ているに過ぎません。

私たちが見ているのは、どんな場合にせよ光なのです。光以外のものを見るということは不可能なことです。それは、まぶたを閉じてしまえば何も見えなくなるので明らかです。

肉体の目に入った光を脳が感知して、その光を「見える」というように認識しているのですね。これが、主体と客体による観察をベースとして成り立っている科学による論理的な説明です。

こうした科学の説明は、確かに正しいのですが、それはあくまでも2人称、3人称の世界での話しです。本当は、それとはまったく異なる真実もあるのです。

真実は、常に1人称の世界です。肉体の目でそれ自身を見ることはできないということでも、知覚の限界、つまり科学の限界を簡単に知ることができます。

あくまでも1人称で自己を深く見ていくと、自分が透明な大きな目であるということが分かります。その目は、外の世界を見ているのではなく、自分自身を直接見ているのです。

直接という意味は、へだたりがないということ。自分自身との隔たりなどあるはずがありません。それは不可能なことです。直接見るためには、光など必要ありません。

私がいつも「見る」と言っているとき、この直接的な体験のことを意味しています。つまり、「見る」とは自己に気づいていることなのです。

あなたが何かを見ている時、それは肉体の目で知覚しているのと同時に、あなたの本質がそれ自体を体験しているのだということに気づいていることです。

神に近づくことはできない

私は子供のときには、どんな難しい質問をしても明快に答えてくれる存在がいたらどんなにいいだろう、それだけで救われるのにと思っていました。

例えば、なぜ宇宙はこのような形をしているのかとか、なぜ人間がいて自分はその一人としてこの人生を生きているのだろうとか、一般的には、このような質問にも答えられる存在を神というのかもしれません。

その全能の神に少しでも近づきたい、より神聖な精神の持ち主になりたいと思う人と、所詮自分は未完成な人間として生まれたのだから、それはそれでいいと思う人がいるはずです。

前者の人たちは、神という存在を自分の外にあるものと見ていて、修行を積んだり、帰依したりして神のご加護を受けられるようになりたいということなのかもしれません。

こうした人たちは、敬虔な信者になることが多いのかもしれません。私の周りにもこのような人がいますが、大抵はとてもいい人たちです。

一方、私は後者の考え方でずっと生きてきました。自分がどれほどの努力をしたところで、神に近づくことなど到底できるはずがないという考えです。

だからこそ、生まれながらに自分は無宗教だという自覚があったのです。今にして思えば、このことは私にとってはとても好都合だったのです。

なぜなら、神という存在を自分の外側にイメージすることがなかったからです。そのおかげで、自分の本質に気づかされたときに、何の躊躇もなく自分の本質こそが神なのだという感覚が、ス~っと入ってきたのです。

一度でも神という概念を作ってしまうと、そしてそれが自分の外側にあるという想いが信念として固定されてしまうと、それ自体が大切な気づきの邪魔をしてしまうのです。

神はあなたから離れて、遠いどこかに存在するのではありません。あなたの全体性、その本質自体が神なのです。あなたという純粋な意識、内側も外側もなくただ在るもの、元々がそれなのですから近づくことなどできないのです。

傍若無人な人への怒り

傍若無人という言葉がありますね。辞書によると、「人前をはばからず、勝手に振る舞うさま。他人を無視して、勝手で無遠慮な言動をする様子。」とあります。

「傍らに人無きが若(ごと)し」と訓読みするそうです。生まれたばかりの赤ちゃんや幼児のことをそう呼ぶ人は誰もいませんが、幼稚園や小学校に行くくらいの年齢になっても言動や態度が変わらなければ、そう呼ばれるようになるかもしれません。

傍若無人とは、ある意味何のルールも課せられていない状態であるとも言えますね。通常私たちは、年齢を重ねるごとに最初は家庭(親)のルールを与えられ、そしていずれは社会のルールに取り込まれていくのです。

そうしたルールに従って生きている限りは、傍若無人などとは言われないで済むわけです。なぜ、傍若無人な人がいるのかというのは、一旦脇に置いておくとして、傍若無人な人がそばにいるときに、腹が立ったりしたことがあるはずです。

何らかの実害がある場合は、怒りが出るのは当然のことですが、これといった実害がないにもかかわらず、腹が立つという経験をしたことはないですか?

もしもあるのなら、その理由を考えてみて下さい。一体自分の心は何に反応しているのだろうかと。内面を見てあげることはより深く自分を知るチャンスになります。

実は、私たちはルールに従って生きることで、ある一定の安心を与えられるのですが、その裏では必ず自己犠牲が発生しています。

なぜなら、ルールを守ることで自分の好みや欲求とは正反対の言動をしなければならないことが多々あるからです。もしも、より強いルールに縛られていれば、その分だけ我慢や自己犠牲は大きなものになってしまいます。

そうなれば、必ずやノールールで生きている傍若無人な人を見るだけで、怒りが出てきてしまうのです。本当は、自分だってルールに縛られない自由な生き方をしたいのに、という想いがあるからです。

その怒りの向かう先は、自分にきついルールを与えた両親だったり、社会なのかもしれません。あるいは、ルールを易々と受け取ってしまった自分自身に向くという場合だってあるのです。

ルールの緩い人に対して殊更に怒りを感じるという自覚がある場合には、相手の言動を直させようとするだけではなくて、こうした自分自身の心の状態に気づいてあげることが肝要ですね。