幸せは手に入れられない

一般的に言えば、誰もがより多くの幸せを手に入れたいと願っているはずです。よほどのひねくれ者でもない限りは、自分の人生を満ち足りたものにしたいと望んでいます。

そのためには、欲しいと思っているものを着実に手に入れて、少しずつ不満を解消していけばいいのだと信じているのです。物質的な豊かさだけではなくて、精神的にも安定したいのです。

最愛の人に愛されて、快適な暮らしを手に入れて、穏やかな心で日々を満喫できたらいいなと思うのです。私たちの幸福感というものは、人によって違いはあるものの、大抵は○○だから幸せなのだと説明できるものです。

けれども、そうした幸せは長続きしないものです。なぜなら、この世界で起きていることはすべてが一過性のものだからです。幸福であるために、何かを必要とするなら、その幸せには永続性がないと言わざるを得ません。

これは、いい悪いの問題ではなくて、事実です。こうしたことは、人に言われるまでもなく、どこかではっきり気づいているはずなのですが、そこを直視するのが怖くて目を背けているのです。

直視してしまったら、一体どうすればいいのだろうと、途方に暮れてしまうことになるかもしれないからです。それまでの生き方に期待できなくなってしまうのですから。

こうなったら安心できる、これが手に入ったら幸せ、そうやって今足りないと感じているものを補充することで幸せを掴もうとしてきたことを否定することになるからです。

けれども、方法はあります。幸せは探すことができるという思い込みを放棄するのです。なぜなら、完全に満ち足りた状態にあるものが、それを探すなどということは不可能なことだからです。

この世界の背後に隠されている真実に目を向けること、空間や時間も含めてすべての現象が起きている土台に意識を向け続けるのです。

そうすると、何かを探すとか、手に入れるということが不可能だということに気づくはずです。自己の本質としての不可能性に気づくとき、ただ在るという静かな恍惚が顕われてくるのです。

透明人間になったら…

先日ネットで「インビジブル」という映画を観ました。題名からして、何か見えないもののお話しかと思ってみたら、人が透明になる、いわゆる透明人間の映画でした。

ちょっと面白いなと思ったのは、初めて透明になった主人公が、とにかく眩しいと言った言葉でした。本人によると、まぶたも透明なので、目をつぶっても明るいままだということでした。

さらに、気づいたのですが、目の中に入ってくる光の量を調整する瞳孔も透明なのですから、すべての光が目に入ってきてしまうわけで、それはもう眩しいのは当然のことですね。

それから例によって、自分が透明人間になれたらどうなんだろうと考えたのですが、女湯を覗くとかいう男子生徒的な欲望のことは一旦脇に置いて、それなりに真剣にイメージしてみたのです。

自分の身体が見えないということは、いつもの状態に比べてもっともっと自分は意識だということを感じることが、誰にでもできるのではないかと思ったのです。

普段、今日一日自分が何をしたかということを回想するときに、大抵自分を身体だと見て思い出しているのですが、そうしたことが減るのではないかと思うのです。

いつもどんなときにも、自分の近くに在り続ける身体が視界から消えたら、何者でもない自分の感覚を忘れなくなるのではないかということです。

自分の内側から自分の顔や頭を見たときに、そこが完全なる透明な領域であるというあの感覚が、いつも邪魔されずに在り続けてくれるのではないかということです。

身体が見えなくなれば、自分が移動しているといういつもの感覚も消えてくれるはずです。自分という意識が、大きさもなく、移動することもない、あの感覚が常にあることになるのでしょう。

誰もが当り前のように、自分の本質に気づくことになるはずですね。透明人間、侮れません。

精神的な栄養失調

毎日通っているスポーツクラブのサウナで、顔なじみになったオジサマの一人が突然、「オレ、栄養失調なんだよな~」と言ったのです。

周りにいる誰もが一瞬ポカンとしたのですが、それはご本人が胸板の厚い、見るからに体格のいい人だからです。「え、そんなこと言ったら、本当の栄養失調の人が怒りますよ…」と私。

さらに私が、「もしかしたら、奥様や医者に忠告されて、食べたいものを食べたいだけ食べられないから、そんなことを言うんじゃないの?」と言ったのです。

そうしたら本人が、「ここでも、家と同じことを言われちゃう」とぼやきながら、わざと可哀想な自分を装いつつサウナを出ていきました。そこにいたみんなが、おおいに受けたのは間違いありません。

本当は、健康のことなど構わずに好きな食べ物を思う存分食べたいという切実な思いが、心を栄養失調にしてしまっているということを言いたかったのだと思うのです。

そういう満たされない気持ちというのは、誰の心の中にもあるものです。私たちが本当に満たされていないのは、食事のせいではなくて、自分の本質を忘れてしまっているからなのです。

植物を抜き取って、根っこの部分を大地から離してしまえば、その植物は大地から受け取ってきた栄養が来なくなってしまうために、いずれは枯れ果ててしまいます。つまり、死因は栄養失調なのです。

私たちにも同じことが言えるのです。自分のことを一人の個人だと思い込んでしまったために、本質からやってくる栄養が届かない状態にあると感じるのです。

それは、激しい欠乏感をもたらすことになるのです。それを何とか埋めようとして、欲しいと願っているものを手に入れることで満足したことにするのです。

けれども、当然のことですが、本当に足りないのは本質との繋がりなのですから、どんなものを物理的に獲得できても、満たされないわけです。

あなたの心の奥にドシッと鎮座している、精神的な栄養失調を逃げずにしっかりと見据えることです。そして、安心することです。

なぜなら、私たちの誰であれ、一度として引っこ抜かれた植物のようになったことなどないのですから。今までも、そしてこれからもずっと本質そのものであることに気づけばいいのです。

防衛システムが怒りを抑えるケース

このブログでも何度か書いたことがあったと思うのですが、ストックホルム・シンドロームについてまた書いてみたいと思います。

今から数十年前にストックホルムで起きた銀行強盗事件において、犯人は一週間にもわたって人質をとって立てこもるということがあったのです。

その事件の間に、犯人の若い男性と人質の中の女性との間で結婚の約束をするという奇妙な事態があったのです。警察が武装して踏み込もうとしたときも、人質が警察を敵対視するということまであったそうです。

簡単に言ってしまえば、生きるか死ぬかの究極の精神状態においては、犯人を嫌っていては自分が生き残るためには非常に都合が悪いと、人質の女性の潜在意識の中にある自己防衛システムが判断したのです。

そのために、その女性は自分の防衛システムにコントロールされていることに気づかぬままに、犯人に対して愛情を感じるようになってしまったということです。

こうしたことは、シンドローム(症候群)と呼ばれるまでもなく、極限状態において私たちの心理的防衛システムがとる作戦としては十分に理解できることなのです。

このような極端な自己防衛が、一般家庭の中においても当然のごとく起きうることと言えます。幼い子供が不安の中で生き抜くということを考えた場合、親への絶対服従は死活問題なのです。

親に逆らうことが自分を危険へと落としめると思い込めば、子供は親を絶対視するでしょうし、自分の心に発生した親への怒りを必至に隠そうとするのです。

そうなれば、親への怒りはすべて気づかぬうちに心の奥底へと隠してしまいます。それが短い間であれば問題はないのですが、長い間には溜めこまれた怒りや不満が問題行動となって表面化することになるのです。

そうしなければ、心のバランスが崩れて大変なことになってしまうからです。私たちの自己防衛システムは非常に巧みに自分を安心させようとするのですが、それが仇となって長い間には様々な苦しみを生むことに繋がるのです。

成長段階において、親に対して怒りを感じたことがないという場合には、こうしたことを疑ってみる必要があります。もしも思い当たるという場合には、是非一度じっくりと過去をおさらいしてみることですね。

惨めだという思いから逃げない

自分の性格を客観視してみて分かるのは、結構な短気者だということです。簡単に言えば、怒りっぽいということですね。すぐに怒るけど、その代りに怒りを溜めないという利点もあります。

クルマを運転しているときなどは、年がら年中イラッときています。前のクルマがノロノロしていたり、マナーの悪いドライバーに出くわしたり、自転車の右側通行を発見したとき、自分は絶対にひかれないと信じている歩行者を見たとき等々。

そういう自分が嫌いでもないので、怒らないようにしようという抑圧的な気持ちもあまりありません。どちらかというと、クルマの中で一人、怒りながらそんな自分を楽しんでいるのです。

このような小さな怒りはともかく、たまには大きな怒りがやってくることもあります。これまでの人生のあらゆる場面で、どんな時に自分は怒るのかということを見てみると、一つの共通点があるのです。

それは、その時の自分のことを惨めだと思っているということです。ただし、この惨めさの感覚というのは、実は怒ってしまうとほとんど気づけなくなってしまいます。

なぜなら、そもそもが惨めな自分という思いを払拭するための怒りだったからです。怒ることで、惨めな自分から脱却しようとしているということです。

怒りとはそのような使い道があったということですね。誰かに否定的なことを言われたとき、怒りのすぐ下にはそんなことを言われた自分は惨めだという思いがあるのです。

固く結んだ結び目を解こうとして、必至になっても結局できなかったとき、針に糸を通そうとして何度やってもダメだったとき、クソっと思うことありませんか?

あれは、本当に小さな怒りですが、その怒りのすぐ下には、一生懸命やったのにそれが報われずにいる自分を惨めだと感じているということです。

そしてその時に、怒る代わりに、惨めな自分をやさしく抱きしめてあげることをすると、怒りは抑圧されることなく消失してしまうのです。なぜなら、怒りを使う目的がなくなってしまったからです。

惨めだという思いから一歩も逃げないこと、目を背けることなくその中に入っていくのです。惨めだという思いを受容すると、惨めさが自分を傷つけることはないと気づきます。

自分を傷つけた上に、怒りが発生する本当の理由は、惨めだという思いを認めないことにあったのです。自分を惨めだと思っている張本人、それはインナーチャイルドなのです。

だから、自分は惨めで情けないという、その子の思いを常に受け止めてあげることができると、怒りも心の傷も小さくなってしまうということです。ぜひ、試してみて下さい。

真実はやってきてくれる

日々、たくさんのクライアントさんと接していて、心の闇があまりにも大きすぎて、簡単には太刀打ちできそうもないと感じることが多々あります。

いくら理屈を展開しても、1mmの役にも立たないなという思い、クライアントさんの心の中に、何か巨大なブラックホールのようなものでもあるのかと…。

そんなものがあるのなら、とてもじゃないけれどそこへは近づくことすらできないと思うこともあります。勿論、お手上げ状態になるわけです。

けれども、そんなことは私ごときの単なる独りよがりに過ぎないということを発見させてもらえることもあるのです。それは、私にとっては一種の奇跡のような感じさえするのです。

え、どうして?なぜそんなに急に多くのことを理解して、深い気づきを得ることができるのだろうか?今までできなかったことが、それほど短期間に癒されるのか?

でも本当は奇跡でも何でもなくて、起きるべきことがちょうどそのタイミングで起きているだけなのですね。源泉からやってきた現象が、その都度起きているのです。

真に大切なことは、向うからやってくるということです。私自身も含めて、私たちに何かの力があるわけではなくて、それはやってきてくれるのです。

やってきてくれる、それは素晴らしいことです。完璧なことです。この世界の何かに力があると思い込めば、必ずや苦しみが襲ってくるのです。

真実はこの世界の中にあるのではなく、この世界を紡ぎつつある源泉にあるのです。それへの信頼を決して忘れないことですね。

それは、誰のもとにもやってきてくれる、必ずやってきてくれます。そのタイミングがそれぞれに違うだけなのです。もうすでに、やってきてくれた人のところにもまたやってきてくれます。

一度見た真実に深さはありません。それは、完璧にしか見ることができないのですから。

損得は思考の中にしかない

株に投資している人は沢山いますね。私も、会社員のときには、持ち株制度というのがあって、地道に会社の株を買っていたことがありました。

それは、投資という感覚よりもある種の貯金のような感じでした。毎月、細々と給料から一定の額を天引きされるという方式でしたから。

株式というのは、当然のことながら誰かが儲ければ、その分だけ誰かが損をすることは分かっています。それでも、自分だけは何とかうまく儲けられたらという気持ちで、株式投資をするわけです。

一般のギャンブルだって、誰かが儲けて誰かが損をして、それでつじつまが合うのです。それは、単純な足し算引き算の世界ですね。

誰かに貸したお金を返してもらえなければ、自分は損をし、相手はその分得をし、プラスマイナスはゼロになることは明白です。

これは宇宙の法則と言ってもいいかもしれません。けれども、実はこの宇宙の実態というものは本当は曖昧なもので、そこに法則を作り出しているのは思考なのです。

つまり、あなたの思考がこの世界、そしてこの世界の足し算引き算の法則も作り出しているのです。残念ながら、私たちは自分という個人も実態があると確信していますが、それも同じように思考の産物に過ぎません。

こうして、あまりにも思考の世界にどっぷり浸かってしまっているために、それが真実だとしか感じられなくなってしまっているのです。だとしたら、思考を越えた真実はどうなのでしょうか?

まさかと思われるかもしれませんが、誰かがを得すればその分だけ誰かが損をするなどという法則は、真実にはありません。足し算引き算の法則は真実には通用しないのです。

真実は、あなたが誰かに与えた分だけ、それはあなたにも、そして相手にも同時に増えるのです。真実においては、あなたは決して損をするということがありません。

私たちの本質においては、奪われるということが不可能だからです。そのことに信頼をおくことができるなら、私たちの誰もが一瞬にして愛の人になってしまうでしょうね。

死後の世界はある?

先日、テレビで「死後の世界」についての番組をやっていて、なかなか興味深く見ることができました。ある有名な脳神経外科?の医師の体験に基づいて、それを検証するという番組でした。

彼は、仕事上多くの臨死体験をした患者からの報告を受けていたものの、一切そうした内容を本当の体験とはせずに脳による幻想と判断していたらしいのです。

けれども、彼自身がリアルな体験をしてしまってからは、自分が昏睡状態にあったときの脳の状態を詳細に調べた結果、どう考えても死後の世界の存在を認めるしかないという立場になったようなのです。

脳死の状態で出会った見ず知らずの女性が、のちに一度も会ったことのないすでに死んでいた妹だったということが判明したり、奇跡的に意識が戻る何時間も前にお見舞いに来てくれていた病室の中の人々を見ていたり、あり得ないような経験をたくさんしたのです。

大脳皮質が完全に機能停止した状態でも、知覚があったり記憶が機能していたりということがあって、これまでの科学では説明できないことがあることは、どうも間違いなさそうです。

私は死後の世界があってもなくても一向に構わないのですが、仮にあったとしてもそれを特別視するよりもこの世界と同列に扱えるような気がしています。

というのも、どんな摩訶不思議な世界があろうとも、そこに個別性がある限りは真実とは思えないからです。そこに何等かの現象が起きている限り、それは真実ではないのです。

真実とはいかなる世界でもありませんし、世界を現象化させる源泉としてただ在るものです。それこそが全体性であって、現象化した世界には必ず個別性があると思えるのです。

でも、死後の世界を想像すると、なんだか楽しそうな気がしてしまいます。きれいなお姉さんがにこにこ微笑んでくれていたり、おいしいご馳走を沢山食べられたりと…。

ただし、千年も天国にいて自由気ままな生活をしていたら、きっと飽きちゃうでしょうね。そうしたら、またこの面倒くさい世界に戻ってきたくなったりもするのかもしれません。

どんな世界でそのような体験をしていようと、自分が個として存在しているなら、そこには全体性という真実への気づきがやってくるはずですね。

ただ在るということへの感謝

昔からよく言われることに、病気になって初めて分かる健康のありがたさ、というのがありますね。何にせよ、ごく普通になってしまっていることは、それを無くしたときに初めてその大切さに気づくということです。

勿論、賢明な方であれば、奪われることなしに大事なものへの感謝を忘れずにいられるのでしょうけれど、私のような凡人にはなかなか難しいことなのです。

だから、お腹の具合が悪くなってお酒も飲めなくなったときに、初めて健康でいて食べ物が美味しいということの幸せに気づいたりしているのです。

大好きな食べ物をお腹いっぱい満足するまで食べられたらいいのに、食べ過ぎは健康に悪い。あるいは高額でなかなか食べられないようなものを毎日食べたいけど、経済的に無理。

こう思っている自分は、惨めだなあと思ったりするかもしれませんが、本当は不健康になると何かを食べたいという欲望すら消え失せてしまうのですから、食べたいという気持ちがあることだけでも感謝なのです。

大切なクルマに傷をつけてしまった直後は、無傷でピカピカなクルマをさっきまで何気なく運転していた自分を羨ましく思えたりもするのです。

このように、凡人とはなかなかどうして愚かなものですね。都合の悪いことや困ったことが起きて、初めて感謝の念を感じることができるのですから。

どうせなら、いついかなるときでも、何はなくても感謝していられるようになりたいものです。それには、一つだけ方法があります。それは、自分の純粋な意識に意識を向けることです。

そうすると、まったく何の理由もないはずなのに、ただただ表現できない安堵や感謝のようなものに包まれることになるのです。

それは決して感動や興奮のようなものではないのですが、冷静で静寂でありながら何とも奥深い完璧な悦びと一つになることへの感謝がやってきます。

私たちの本質は、何かを奪われることも失うこともありません。ただ在るということ以上の感謝はないのですね。

絶対的な真理に身をゆだねる

この世界には絶対的な正しさなどというものはないと、誰もが理解していると思うのですが、私は子供のころからそのことを楯にとって、物知り顔の大人たちに反抗的に生きてきました。

こうあるべきという正しさを説く誰のことも信用することはありませんでした。そして、今思えば安易にという以外ないないのですが、絶対的な真実などというものもないのだと決めつけていたのです。

「絶対」という言葉の響きがもう嫌いになっていて、この世の中はすべて「相対」的にできていて、それこそが「絶対」的な事実だと矛盾しながらも信じてきました。

何か、「絶対」的なものには恐れを伴う感覚が自分の中にはあるな、ということも何となくわかっていました。だからだと思うのですが、真理とは絶対的なものだと分かったとき、自分の理性が腑に落ちないと言っているのに気づいていたのです。

理性のどこかで文句を言っていたのです。絶対的なものって、何か傲慢でえらそうで、他を寄せ付けないようなところがあると感じていたからでしょうね。

けれども、それは単に恐れに突き動かされて自分を守ろうとすることからやってくるものだと気づいたのです。絶対的な真理に徹底的に自分を委ねるとき、本当の安堵がそこにはあるのです。

初めから何も疑わないよりは、すべてを疑ってかかるほうがいいのです。なぜなら、自我とは本来そういうものだからです。疑う心を正直に表面化することは大切なことなのです。

そうして、すべてを疑ったその後で、真の信頼がやってきてくれるのです。自分を守ろうとせずに、無防備に絶対的な真理を信頼することができるなら、無限の平安に包まれることになります。

もちろん、その無限の平安こそが、あなたの本質そのものなのです。