スケールの違いに着目する

俳優の竹中直人さんの昔懐かしい芸に、「笑いながら怒る」というのがありましたが、ご存じの方もいらっしゃるはずです。顔はニコニコ微笑んでいるのに、言葉では強い口調でふざけんなよ~的なことを言う、あれです。

大好きな芸なのですが、こうしたことは自然界ではきっとありえないことですね。このような真逆のことが同時に起こることは一般的には不可能なことです。

右折すると同時に左折するとか、登りながら降りる、あるいは三角形を描きながら円を描くなど…。ところが、この矛盾はスケールを変えることで簡単に実現できます。

例えば、小さな三角形を描きながら、しかもそれらを大きな円の弧になるように描いていけばいいわけです。つまり、三角形と円のスケールが違うことで、矛盾しなくなるわけです。

バスが右折するときに、そのバスに乗っている子供がおもちゃのミニカーを膝の上で左折させることは何の問題もなくできますね。スケールが違うからです。

それと同じことが私の中で起きています。勿論、あなたの中でも同じです。自分がただ在るという純粋な意識は、大きさという概念を超越した無限大であるのに、同時にちっぽけな個人でもあるということです。

個人として人生を生きていると同時に、ある意味神でもあるということ。これほどの矛盾はないはずなのですが、人がどう言おうが、私の中では全く問題なくその二つが同居しているのです。

そのことを言葉で説明するのに一体どうすればいいんだろうと考えていたのですが、気づいたのです。スケールが違うということなのですね。

意識は全体性なので、スケールの違いを越えてしまっていますが、その辺は大目に見て下さい。あなたが、自分の意識にただ注意を向けるとき、あなたに大きさはありません。

けれども、自分を肉体と同一視すれば、たちまちあなたは一人の人物へと縮小するでしょう。この二つを同時に生きるのです。どこにも矛盾はありませんよ。

自分に気づきのチャンスを与えてあげる

13年前に会社を辞めて、独り宙ぶらりんの状態になったときに、催眠療法のクラスに飛び込んで仲間ができたことはラッキーでした。孤独を回避できたからです。

同じような心の癒しを目指す仲間なので、目標を共有することで安心することができたのですね。その反動もあってか、クラスを卒業した後に淋しさがやってきました。

それは、クラスの仲間も同じように感じていたのでしょうね。よく連絡を取り合って、何かと理由をつけてはみんなで会って話しをしたりしていたことを覚えています。

どことなく、学生っぽいノリもあったかもしれません。癒しを題材にした話題で、お酒でも入れば互いにテンションが上がって、それは盛り上がるわけです。

けれども、いつしかそういうことも減ってきてしまいました。自分だけがそうなったのか、他のみんなも同じなのかは定かではありませんが、とにかくめっきり互いに連絡を取ることがなくなりました。

そのときに気づいたのですが、気の合う仲間とあって話し合ったり、お酒を飲んで楽しい時間を過ごすことには何の問題もないのですが、それはやはり単なる気晴らしに過ぎないと…。

気晴らしはたまには悪くはないのですが、やはり誠実に自分と向き合うことから逃げている時間でもあるのです。いつしか、そういう時間は自分にとって不要になっていったのです。

今でも、みんなでワイワイ盛り上がる時間は大好きですが、年に一回もあれば十分な気がします。安全で安心できる時間は悪くないのですが、そればかりでは気づくことができません。

安心できない場面に自分を引きづり出すということも必要なのですね。そうして、自分にさまざまなチャンスを与えてあげることです。ときには、苦い経験から多くのことを気づかせてもらえるのですから。

外界はあなたの心を映し出す映像

「街が色づく」という表現がありますね。今の季節にぴったりの言葉です。今年の紅葉はいつもよりも、ひときわ綺麗な気がするのは私だけでしょうか。

クルマでの朝の通勤時、あるいは駐車場から事務所までの徒歩の時間、毎日の見慣れた風景が本当に「色づいている」のが、嬉しいのです。

色彩というものが、私たちの感性にどれほど働きかけてくれるのか考えてみると、とても不思議な感じがしてきます。そして、その逆も言えるのです。

つまり、自分の心の在り様によって、それが外の景色に色濃く影響を与えるということです。それは、きっと誰もが一度ならずとも経験しているはずですね。

すごく落ち込んだときには、確かに街の色彩が濁ったように見えてくるものですし、悦びに溢れた心の状態のときにはキラキラして見えてくるものです。

絶望していれば、風景が灰色になるでしょうし、何かとてもいいことがあってウキウキしていると、ゴールドを帯びて見えてきたりするのです。

あれは、単なる気のせいではなくて、正真正銘の、気(エネルギー)のせいなのでしょう。心の中のエネルギーの状態によって、知覚が強く影響を受けるということです。

それほど、私たちの感性とは繊細で微妙なものなのです。あなたの知覚は、街の風景をどのように捉えていますか?よく観察してみて下さい。

あなたの外側には、あなたと関係のないものは一つもありません。すべてが、あなたの心を映し出す映像なのですから。

問題を解決しようとする戦いをやめる

ある問題が発生して、それを解決しようとするとき、一つの方法では解決しないと分かれば、考えられる限りのそれ以外の様々な方策を試してみると思います。

あるときには、どれかが成功するかもしれないし、場合によってはどれを試しても決してうまく行かないということだってあります。

もしもその問題が、人生レベルで起きた大きな問題だったとしたら、あらゆる努力をして何とか解決しようと努めるはずですね。けれども、それがすべて裏目に出たり、やればやるほど悪い状態へと進んでしまうということもあるのです。

本当に万策尽きたと感じたとき、あなたならどうするでしょうか?それはもう観念するしかありません。もう方法はないのですから。行き詰まり、進むべき道がなくなったのですから、そのままにしている以外ありません。

そしてそのときにこそ、今まで一度も思ったこともないような発想がやってきてくれるのです。そうか、もしかしたら何とかして解決しようと躍起になっていたこと自体が間違っていたのかもしれないと…。

本当に追い詰められたとき、神は確かに贈り物を与えて下さるのです。それは、今までの自分の正しさや考え方、常識、あるいは経験知からは想像もできないくらい、非常識なことかもしれません。

その答えが、自分にとって非常識で、まったくあり得ないという思いが強ければ強いほど、それは本当にあなたを救ってくれる可能性が大なのです。

あなたの人生に立ちはだかる多くの問題は、実はあなたの考え方で人生を生き抜いてきたその結果だったということに気づけばいいのです。決して、偶然に起きた問題ではないということです。

そこには、正確な因果関係があるのです。あなたが、自分にとって都合の悪いことから逃げようとしたり、戦って乗り越えようとしたり、無視しようとした結果だということです。

そうしたルールを一度脇へ置き、あらゆる出来事、あらゆる心の反応から逃げないでいることです。心理的に何もしないということができたとき、問題はおのずと問題ではなくなっていくのです。

それは、決して解決するという発想からはやってこない結末なのです。

無力さを真正面から受け止める

私たちにとって、最も都合の悪い自分の姿とは、無力な自分です。無力とは、自分で自分を守ることができないということを意味し、それは最大級の恐怖へとつながるからです。

したがって、その恐怖から逃れる唯一の方法といえば、それは自分は無力ではないということを自他ともに対して証明することになるのです。

私たちの生きる原動力のほとんどが、その証明をすることに向けられたとしても、何ら不思議なことではないということも理解できることですね。

それはつまり、恐怖から逃れて安心しようとすることが目的であって、理由のない幸福感や満ち足りた感覚を得ることとは根本的に異なるわけです。

恐怖心が強い人ほど自立心が旺盛だったり、他人に委ねるということが苦手なのはそういった理由を考えれば明らかとなります。

もしも、本当に満たされた心を手に入れようとするならば、まずこのことを理解する必要があります。そして、自分はもともと無力であるということを正面から見ることです。

無力であることを心の底から認めることができるなら、そこですべての戦いは終わりを告げるはずです。それは観念すること、無力な自分が白旗を揚げることだからです。

戦わなくなった心には、敵がいなくなります。それを無敵というのです。どうやったら、自分の無力さを真正面から受け止めることができるでしょうか?

それは、この世界の現象のすべてがあなたの本質である源泉からやってきたものであることに気づけばいいのです。この世界の現象はすべてが結果でしかないということを見抜くのです。

スクリーン上に映し出されたどんな映画の物語も、撮影した結果でしかないのと同じことです。あなたという人物に力があるわけではなく、あなたの本質がすべての現象の源なのです。

あなたの真の姿に身を任せるとき、あなたは真実と調和し出すはずです。そのときには、何の理由もないままに心は底なしの平安と一つになるのです。

本質とは多次元のスクリーン

映画館で映画を観ている時、私たちはスクリーン上に映し出された光の反射からなる映像を見ています。そのときにはスクリーンを凝視していることを忘れてしまっています。

たとえ、スクリーンを見ているということを思い出したとしても、スクリーンの白さを肉眼で確認することはできません。そのくせ、本当はスクリーンを見ているだけだということも知っていますね。

この世界の本質、つまり真実についても同じようなことが言えるのです。自分の周りに広がるこの世界を見るとき、そこにはたとえて言えば3次元のスクリーンとしての本質が在るのです。

勿論、肉体の目にはこの空間のありとあらゆるところに満ちている3次元のスクリーンを見ることはできません。映画を鑑賞しているときのスクリーンを確認できないのと同じです。

ただし、そのことに気づいていることは可能なのです。ここを言葉で表現することはできませんが、確かにこの世界は3次元のスクリーン上に現象として顕われたものです。

映画館では、上映が終わり館内が明るくなったときには、スクリーンがその白い姿を表してくれますが、残念ながらこの世界を見ている肉眼では、決して3次元のスクリーンである本質を見ることはできません。

それは、肉眼で見るのではなくて、ただそれ自身であることに気づくことなのです。映画館の話しと、この世界との一番の違いもそこにあります。

そして、映画館では観客がいて初めて映画を上映するということが成立するのですが、この世界には観客はいません。なぜなら、私たち自身が本質であるスクリーンそのものだからです。

この宇宙という空間の中に、あらゆる現象が起きていると思われているのですが、実際には宇宙空間そのものも本質というスクリーン上に現象化しているのです。

最後に、あなたという個人は決して現象化してはいません。自分という個人がここにいるという思考だけが、現象化しているということを見抜くことです。

この世界には、自分を見つけられないと認めることです

私たちの誰もが、2歳前後のころに自分を身体と同一視するという途方もない思い込みをするのです。もっと正確には、親からの洗脳によってこの身体の近くに自分がいるという思考を作るのです。

幼いころの思い込みというのは、他の何よりも固いため、心の底から信じ込んでしまい、私たちは自分が身体であるということを真実であるとしてしまうのです。

けれども、多くのクライアントさんとお話ししていて、気づいたことがあります。それは、「私は身体だ」という人がほとんどいないということです。

その代わりに、「私の身体」とか、「私は身体を持っている」、あるいは「私は身体の中にいる」などのように表現される方がほとんどなのです。

つまりは、自分を身体そのものだとは感じていないということです。実際、身体はいつも自分の身近にあるのですが、それでもそれ自体ではないということに気づいているということです。

こうしたことが、日本人の標準なのかどうかは定かではありません。たまたま私のところにセッションを目的でいらっしゃる方々がそのような感覚をお持ちなのかどうか、本当に分かりません。

それでも、とにかく自分を身体そのものだとは感じていないのですから、それでは自分は何なのかということを探求するチャンスがあるということです。

身体でなければ、一般的には意識と表現するのが最もふつうかもしれません。肉体だけが物質として知覚の対象となり得るので、意識がどこにあるのかを見出すことは不可能です。

科学が進歩した現代でも、意識の正体を見つけることはできていません。脳科学者たちは、こぞって意識を解明しようと頑張っていますが、それは土台不可能というものです。

なぜなら、ここでいう意識とは思考とは異なる純粋な気づきのことであって、それを思考(知覚)をベースとした科学で理解することなどできないからです。科学とは、思考の範囲内での話しだからです。

そして気づくはずです。あなたは、自分という意識をこの世界のどこにも見つけることができないということを。それもそのはず、この世界のすべてがあなたという意識の元に現象化されたものだからです。

今この瞬間の意識には否定ができない

日々のセッションの中でクライアントさんにお伝えしていること、それは自分の心からやってくるどんな声でも、それらを丸ごと受け止めて下さいということです。

心の声というのは、そのほとんどが過去からやってくるものだということも理解していただく必要があります。私たちの反応には、動物的な反応と心理的な反応の二つがあり、後者はすべて過去にその原動力があります。

そういう意味からすれば、心の声がいかに過去からやってくるものかを理解していただけると思います。その過去の自分の訴え、気持ち、想い、そういった一切合財を一つひとつ丁寧に受け止めることです。

そうすると、悪いことをした自分、意地悪をしたり、裏切ったり、ウソをついたりした自分のことも受け止めるということですか?と聞かれることがあります。

私がお伝えしているのは、その時の自分の行為についてではありません。その行為をすることになった原因となる気持ちや想い、感情などについて受け止めて欲しいということです。

たとえば、誰かが思い余って人を殺してしまったとします。殺人という行為をそのまま認めるということではなく、そうした行為に及んだ原因を作ったその人の心の在りようを受け止めるということなのです。

どんな心の状態であれ、そこに悦びがあっても、あるいは殺意があったとしても、もしもあなたが今この瞬間に意識があるのなら、それを否定することはできません。

受け止めるとはそういうことです。否定したい気持ちを抑えて、肯定的に捉えようとするということではありません。もしも、否定的な気持ちを抑えようとするなら、その思いは過去からのものだということを知る必要があります。

自分の心の状態を恣意的に何とかしようとするなら、それも過去の自分がやっていることです。過去の心は、そのほとんどが否定で成り立っています。

今この瞬間の意識には、否定はおろか肯定すらありません。どちらも不可能なのです。もしも、あなたが何かを肯定できる、否定できると思っているなら、その時には思考の中にいて過去に生きているということです。

その背後に無限に広がる純粋な意識というあなたの本質が在ることに気づけばいいのです。何かを否定しながらも、否定が不可能な本質に気づいていることができるのです。

思考を観る立場になる

人生をスムーズにうまく生きていける人もいれば、どうやってもどう努力してもどうしてもうまくいかずに、いつも苦労してしまう人もいますね。

苦しんでいる人からすれば、楽ちんそうに人生をたのしむことのできる人が羨ましいと思うのは当然です。そして、そんな羨ましい人と自分を比べて、自分はダメなのだと思い込むのです。

うまく行っているように見える人の典型は、人生に疑問を持たないことです。物事を深く考えることをせずに、辛くても仕方ないとして切り抜けようとするのです。

それは、確かに物事が大事にならずに済ます傾向にあるため、楽な生き方ではあるかもしれませんが、実は人生の深みを知ることもできないのです。

何かに疑問を持つこと、そして探求しようとすることがあって、初めて人生を正面からとらえる準備ができるのです。悩むこと、苦しむことを通して私たちは真理に近づくことができるのです。

立ち止まり、自分とは何なのか?あるいは、自分はいつもこうしてしまうが、その理由は何だろう?などを真剣に見つめる姿勢がとても大切なのです。

そうして向き合うことを続けていくうちに、それをやっている自分とは何だろうという視点が浮かんでくるのです。その視点に立った時に、思考の限界を知ることになります。

思考に飲み込まれている間は、思考の限界に気づくことができません。それは、自分という存在が思考により出来上がっているということに気づかないからです。

けれども、ひとたび自分というのは思考の産物だと分かれば、思考の中には真実はないと分かるのです。そうすると、一生懸命考えていたことが却って、考えないことに目覚めさせることになるのです。

思考から脱出することは、思考を止めなくてもできるということにも気づけます。思考は決して敵ではありません。思考に飲み込まれてしまうことだけが、真実を観る目を曇らせることになるだけです。

あなたという人物像は思考の塊で出来ています。その思考を観る立場になることです。そうすれば、あなたは全体性という本質であるということに気づくはずです。

瞑想的に生きる

私たちは、毎日を流されるがままに生きていると、自分の周りで起きていることにその都度対処することだけに、エネルギーを使うようになってしまいます。

それでは、決して意識的に生きることができません。意識的に生きるとは、今こうしてある自分をいつも見ている習慣をつけて過ごすことです。

勿論、仕事中はそれに集中するということも大切なことですね。いつもあちこちに気持ちが散ってしまうのは、大切な時間を無駄していることになってしまいますから。

けれども、それとは別に今自分が考えていること、していること、思っていること、感じていること、そうした自分にリアルタイムでその都度、意識を向けてあげることがとても重要なのです。

起きていることに反応している自分とは、実は過去に生きているのです。反応しているのは今だから、今にいるのではないかと思ってしまうかもしれません。

しかし、どう反応するのかということはあなたの過去が決めているのです。これまでの体験を通して、自分をどう守ればいいのかということに照らし合わせてそのときの態度が決まるのです。

したがって、それだけでは過去に生きていることになってしまうのです。そのことが悪いということではなく、そうした反応をしている今この瞬間の自分を見るのです。

そこに自分の注意を向けてあげることができるなら、それこそは今この瞬間に意識があることになるのですから。それが、意識的に生きるということ。

言葉を変えて言えば、それこそが瞑想的に生きるということでもあるのです。静かな時間を作って瞑想するということもとても大切なことです。

これは私の持論ですが、それ以上に大切なことは瞑想的に日々の時間を過ごすということなのです。それが習慣づいて来れば、個人としての自分と全体性としての自己に同時に気づいていられるようになるからです。