人生という物語を観照する

私は高校生になった当たりから、突如として洋画を沢山観るようになったのです。あの当時は、確かロードショーでも500円で観れた時代でした。

それほどこずかいをもらっていたわけではないので、毎月何本も観るということはできなかったのですが、それでも工夫して少し古い洋画を2本立てなどで安く観たりもしてたのです。

大人になってからは、わざわざ映画館に足を運ぶということが少なくなってしまい、仕事が超多忙ということもあってか、ほとんど洋画を観なくなってしまいました。

それが、最近ではネットでいくらでも観ることができる時代になったおかげで、夜になると今日は何を観ようかなと検索するのが楽しみになっていたりします。

自分の好みの映画に当たると、とても嬉しくて、その余韻を楽しみながら眠りに落ちるのですが、その逆の場合には一体どんな意図でこの映画を作ったのだろうと疑問を感じたりもするのです。

けれども、最近分かってきたことがあるのですが、それはどれほどの感動や驚きを与えてもらった映画であったとしても、それほどの影響を受けることがなくなってしまったのです。

心のひだに触れるような繊細な映画が好きですが、それでも本質的に影響を受けるということがなくなってしまいました。長く生きるということは、そういうことなのでしょうか?

どんな映画でも製作者の側からしたら、大変な苦労と時間をかけて作ったものだろうと思うのですが、観る側としては一年も経てば結構忘れてしまうものなのですね。

これから先、死ぬまでにどれだけの映画と出会うことができるのか分かりませんが、自分の人生も退屈ながら一つの物語であるという認識を持って、生きていけたらいいなと思うのです。

あなたの物語はどんなものですか?それを身近で観照し続けることができるといいですね。

人の心は大同小異

私のブログを読んで下さったクライアントさんから、あの内容は私のことを書いたのですか?という質問を受けることが時々あります。

実のところ、クライアントさんとのセッションを通して、気づかせていただいたことを書いているのは事実ですが、それは特定の誰かのことをイメージして書いているわけではありません。

つまり、ヒントをいただきながら、それをなるべく多くの人に当てはまるように一般化しています。だからこそ、ここで書いていることは数多くのみなさんの心の在りようにも該当するはずなのです。

実際、私自身を例にとっても同じことが言えます。私の中には全く存在しないという心の問題について書いたことがありません。どの内容であれ、何等かの形で私自身についても言えることなのです。

人の心というものは、千差万別ではあるのですが、逆に言えばそれほどの大差もないということです。そうでなければ、私はセラピストをやってこれなかったでしょう。

すべての人の心は、大同小異なのです。それでも、その小異の部分がとてもご本人にとっては大切なので、セラピーはとてもデリケートなものとなるのです。

私がセラピストになった頃は、自分はそこそこの癒しができていて、だからこそ病んだクライアントさんのセラピーができるのだと傲慢なことを考えていたと思います。

けれども、実際のセッションを経験すればするほど、どんなクライアントさんのご相談の内容であれ、心の問題であれ、私自身には全く見当たらないことだと思えたことは一度もありません。

このことも、私がこの13年間セラピーを続けてこれた大きな要因であると言えます。そして、本日もクライアントさんからたくさんのプレゼントをいただきました。

そうして気づかせていただいたことを抽象化することで、できるだけ多くの人が自分にも思い当たることがあると感じて、何かのヒントにしていただけたら、これほど嬉しいことはありませんね。

個が消滅すると空間もなくなる

あなたが夢の中で、怖いモノに追われて、どれほど早く走って逃げたとしても、その夢を見ている本当のあなたは1ミリも動いてはいませんね。

夢の中で仮に壮大な宇宙旅行をして戻ってきたとしても、本当のあなたはずっと暖かなベッドの中で眠りこけていただけです。あなたはどこへも出かけてはいませんでしたね。

それと同じように、この世界でたとえあなたが地球の裏側の密林へ行ったとしても、あなたの本質は1ミリも移動しないし、何の影響も受けることはないのです。

あなたという本質は、常にここにあり続け、どこへも行くことはできません。この宇宙の隅々、あるいはこの宇宙の外側までも、すべてがあなたの本質である純粋な意識そのものなのです。

もしも、あなたが登山の途中で不運にも遭難して、寒さと空腹に苦しむことになったとしても、本質はそれをも貫いてただ在り続けています。

しかも、この世界のどこで何が起ころうと、本質との距離はゼロなのです。それは完全に本質と密着しています。本質には、距離という概念がありません。

どんなすばらしい景色のところに旅行に行こうと、それがどれほどすばらしい感動を与えようと、何も変わらずに在るもの、それこそがあなたの本質です。

私は、あまりにも壮大な景観を目の前にすると、まったく遠近感がおかしくなってしまうことがありました。みなさんにも似たような体験があるのではないでしょうか?

今思い出してみると、あの感覚はきっと個人としての自分が小さくなって消滅したかのようになったときだったのでしょう。自分との比較ができなくなったために、距離が消滅したのです。

あの体験は、小さな個人としての自分の外側に広がった世界を見ているのではなく、本質としての自己そのものを距離ゼロで見ていたのだと思います。

個人としての局所性が消えたとき、空間とはまやかしだったということを発見できます。あなたの本質である全体性にまた意識を向けて見て下さい。そのことに気づくかもしれません。

許可か禁止か

私たちは、知らず知らずのうちに、自分に対してさまざまな許可と禁止をしているのです。なぜ知らない間にかというと、そのほとんどが子供の頃のことだからです。

子供は自由の象徴、子供が自分を縛るような禁止を作ってなどいるものか、そういったことは大人になってからやるものだと思っている方もいらっしゃるでしょうね。

けれども、それは表面的なことであって、人生を生きる上での基本的な禁止事項を作ったのは、間違いなく子供の時なのです。それは、それを作った目的を調べてみれば明らかになります。

禁止とは、それをしてはいけないというルールです。そのルールに従うことによって、危険から自分を守ろうとすることが本当の目的なのです。つまりは、自己防衛が目的だったわけです。

たとえば、怒ってはいけないという禁止は、怒りを相手にぶつけることによって、相手に不快な思いをさせてしまえば、否定されたり嫌われたりして、最終的には見捨てられると子供の頃に考えたのです。

喜んだり、楽しんだりしてはいけないという禁止は、そんな子供じみたことをしたら自分が惨めになってしまう、自分は立派な大人になって自己価値を高めたいという気持ちから作ったルールだったかもしれません。

子供は自分に許可を与えるよりも、禁止を多くしてしまう傾向にあるものです。そしてそのことは、親からどれだけ許可をもらったか、どれだけ禁止を与えられたかにとても強く影響されているのです。

一人の人物を客観的に見て、その人が自分に対してたくさん許可を与えているのか、あるいは禁止を与えているのか、一体どちらがその人の人生を清々しい生き生きとしたものにできるでしょうか?

答えは明らかですね。あなたは、自分への許可と禁止がどちらがどれだけ多いと感じていますか?感じているだけでなく、一度じっくりとノートに書き出してみることをお勧めします。

もしも、許可よりも禁止の方が断然多いことが判明したら、それはいまだにインナーチャイルドの作った自己防衛に乗っ取られていると理解してください。

生きづらさを感じているのなら、それが原因なのです。禁止を作らざるを得なかった頃の自分の気持ちを受け止めて、しっかり感情を味わってあげることで、禁止から解放された人生を生きることができるようになるはずです。

「自分は意識だ」に注意を向け続ける

たちは、2歳くらいのときに、自分という存在がここにいるということを信じ込まされます。それは間違いなく洗脳されたのです。勿論、それを教え込んだのは、ずっと身近にいた親などの大人たちです。

その親も、2歳くらいのときに同じことを彼らの親から教え込まれて信じ込んでしまったため、洗脳は完璧だったわけです。本人が真実だと思い込んでいるのですから、その洗脳の仕方は完璧になるのもうなずけます。

私たちは、そこで自分は身体だと信じたわけです。いつも周囲から指さされた場所には、自分の身体が絶対的に存在していたからです。

そうして、肉体というある種の着ぐるみの中にいて、そこから外の世界を眺めていると信じることになってしまったのです。

けれども、自分に対して注意深くしていられる人たちは、自分は肉体だと思う一方で、自分は意識だということにも気づいているのです。

自分とはこの意識だということは、幼いときに教えてはもらっていないはずなのに、それは当然のこととして知っているのです。

そこで、自分は意識だと分かっている人が二手に分かれます。それは、自分は身体であり、また自分は意識であるということに矛盾を感じるかどうかです。

身体と意識はまるで別物のはずなのに、どういうわけかそのことに矛盾を感じない人もいるのです。結局、自分は身体という感覚は残るものの、やっぱり自分は意識だというところに意識を向けることができると、昨日、一昨日のダグラス・ハーディングの提示したことに納得がいくのです。

意識とは気づいているということです。自己が「在る」というこの感覚は、誰もがごくごく当たり前に持っているものですが、多くの人がその「在る」を自分が肉体としてここにいるに変換してしまっているのです。

意識は身体ではありません。意識には顔も頭もありません。なぜなら、意識だからです。肉体ではないからです。こんな当り前のことですが、認めたくない心には訴えることができません。

少しの間でも、自分は意識だというところに注意を向けていることをお勧めします。そうしたら、必ず意識という本当の自分の姿には、顔を頭もないということがはっきりするはずです。

それが、あなたの本当の姿なのですから。

自分の顔だけがこの空間にはない その2

昨日の続きです。

数年前に、クルマのレースゲームに嵌ったことがありました。自分の部屋でできるものですが、それはもうゲームセンターにあるものと比べても遜色のない、すばらしいシミュレーションゲームでした。事務所を移転するときに、売っちゃいましたけどね。

あまりにも画像がリアルで、シートもステアリングもアクセルもブレーキも本物みたいでカッコいいし、私はあまり使わなかったのですが、シフトレバーもふつうのものとパドルシフト仕様のものもついていました。

あまりに熱狂しまくって、老体にもかかわらず、時には徹夜で耐久レースをやったりして、無理したおかげで帯状疱疹を発病したくらいでした。笑えますね。

数種類のゲームをやったのですが、どれもドライバーの視点を変えることができる機能が付いていました。初心者向けにクルマの上部から見渡す視点や、ダッシュボードやハンドルが見える視点、そして外の景色だけが見える一番運転しづらい視点も選ぶことができました。

シミュレーションゲームの醍醐味は、何といっても実際に自分がクルマを運転しているような気にさせてくれることです。路面の変化などのタイヤからくるキックバックがハンドルを持つ手に直接伝わってくる仕掛けなどは、絶妙でした。

あたかも高速でサーキットを走っているあの感覚は凄すぎます。けれども、外の景色だけが見える視点を選んだときに、今度はそのゲームの中で自分が停止しているような錯覚を感じることもできました。

つまり、二重に騙されるということですね。ゲームをプレイしている自分は停止しており、それがクルマと共に走行しているように感じさせられ、さらに視点によっては停止していて外の景色だけが高速に動いているように感じることができたということです。

これは、自分と一緒に移動する何物かが視界の中にあるかどうかによって、感覚が変わることを示していますね。ちょうど、電車に乗って反対側の窓を見ている場合には電車と自分が動いていると感じるけれど、窓にぴったり目をくっつけて外を見ると、自分は停止していて外の景色の方が移動しているように感じるのと同じことです。

そこで、一つ実験してみて欲しいことがあります。いつも、見えている自分の二本の腕と脚、そして胴体などを見ないようにして外を移動してみて下さい。きっと、移動しているのは自分ではなくて外の景色だと気づくはずです。

あなたは、顔だけでなく身体も見えない状態になったとき、自分とは意識だったと本当に気づくはずです。意識は、大きさも色も形も位置さえもありません。だから、移動することもできないのです。

それが、あなたの本当の姿なのです。この世界にあなたという個人はいないだけでなく、あなたはこの宇宙全部だったということです。その全体性という感覚に意識を向けていることです。

ダグラス・ハーディングさんが伝えてくれたのは、そのことだったのです。

自分の顔だけがこの空間にはない

この時代に一緒に生きている日本人ならだれでも、あの「3.11」の生々しい記憶は決して忘れ得ぬものとして、心に深く刻まれていると思います。

私の個人的な記憶の中にはもう一つ、ちょうど3.11と同じころに体験した忘れられないことがあります。それは、ある本との出会いを通じて起こった、それまでの人生の中でも特別な体験があるのです。

ダグラス・ハーディングというイギリスの神秘家の本です。このブログでも何度も触れたことがありました。あの当時は、翻訳されているたった3冊しかない彼の本を、何度も何度も繰り返して読んだものでした。

彼は、いろいろな実験を提示しながらも、自分の顔や頭は自分がイメージしているようには存在しない、という事実を明快に説明したのです。

初めは驚き、少し躊躇があり、その次に衝撃が走り、また疑念がやってきて、という具合に心が揺り動かされながらも、結局それまで自分が事実だとしていたことが、実は完全なる思い込みに過ぎなかったことに気づかされたのです。

それは本当に笑ってしまうくらいにあっけない事実でした。当り前過ぎることに、自分が気づいていなかったことが判明すると、ある種笑いが込み上げてくるのです。少々の涙も混じっていたと思いますが…。

そして静かに記憶を遡っていくと、どうやらその感覚(自分の顔だけが見当たらない)は小学生くらいの時に感づいていたことだったと分かったのです。

子供のとき、自分の顔だけは特別だという思いがありました。なぜなら、友達の全員の顔はいつでも見つけられたのに、自分の顔だけが教室にも校庭でも見つけられないのですから。

それを不思議と思うよりも、特別なのだと思っていたのです。けれども、大人になるにつれて、そんなことはすっかり忘れ去ってしまっていたのです。

それがハーディングの実験によって、大人になった今、自分の顔だけが自分が過ごしているどの空間にも欠けていることを認めざるをえなくなりました。

自分の本当の顔は、自分の外側に広がっているこの世界だったと知ることは、格別のものがありました。その興奮は消えてしまいましたが、その感覚は今も残っています。

不完全さを受け入れる

私たち人類は、その歴史を見れば明らかなように、常に争いに明け暮れてきたのです。戦争は良くないと知りつつも、問題を解決するためにも戦いは必要悪だとする根深い思いを持っているのです。

侵略されたら侵略し返す。正義の元では、戦いもやむを得ないことだと正当化してきました。そして、いずれはすべての戦いに終止符が打たれるはずだと信じているのです。

その先には、いわゆるユートピア、つまり理想郷が待っていると信じたいのですね。誰もが他人を憎まず、互いが助け合い、理解しあって平和に生きていくことができるはずと願っているのです。

けれども、本当のところはどうでしょうか?人類が進化したのは確かですが、それは文明の発展や科学の発達などによって、近代化が進んだだけで、個人としての私たちに大きな変化はないような気がします。

私たちの理性には、理想を求める能力が備わっていますが、個人としての私たちそのものが理想を実現することができるわけではありません。

個人という自覚、つまり自我は必ず自己防衛せずにはいられないのです。それは、自分と外界の世界との対立を発生させることになるのです。

そういう意味では、自我は決して真の平和を望んではいません。自分に都合のいい平和だけを望んでいるのですから、それは結果として戦いへと繋がっていくことになるのです。

私たちは、理想を追い求める一方で、常に不完全な個人として生きているということを忘れてはなりません。そして、大切なことはその不完全さを受容することです。

不完全を完全へと改善しようとすることをいくら続けていったところで、自我が完全になどなることは不可能なことなのですから。

不完全であることを心の底から受け入れるとき、その瞬間にだけ完全であるという奥深い気づきがやってくるのです。その気づきこそが、本当の救いなのです。

自分を解放するのではなく、自分から解放されること

多くのセラピストが、私も含めて「自分を解放することです!」とクライアントさんに伝えてきたのでしょうね。抑圧された心を解放して、もっと素直で楽な人生があることに気づきましょうということです。

勿論、ある面ではこうしたことは間違ってはいません。あまりにも、不自由な生き方をしてこられたクライアントさんには、そのようにして理不尽な自己否定や無理な重荷から解放されるようにと促します。

けれども、こうした癒しは敢えて表現すれば、初期の癒しのことを言っているのです。もっと本質的な癒しというのは、自己を解放するということではありません。

なぜなら、私たちが自己だと認識しているものは自我であり、自我を解放するなどということは原理的に不可能なことだからです。

自我は、本来自己を抑圧するようにできているのですから。真の癒しとは、自我の解放ではなく、自我から解放されることなのです。

自我から解放されるということは、自我を敵対視して自我を叩きのめすことによって、それから解放されるということでもありません。

相手が何であれ、それを敵対視するのは、自我の専売特許です。自我から解放されるためには、方法はたった一つしかありません。

それは、自我が真実ではないということを見抜くことです。ところが自我には、凄まじいほどのリアリティがありますね。自分という個人はここにいるということを、なかなか疑うことは難しいのです。

自我の包囲網をかいくぐり、真実へと近づくためには、どこまでも自分に正直になることしかありません。そのためには、自分にとって事実だと思ってきたことをすべて疑ってみることです。

そうすると、事実だとしていたあらゆることが、すべて信じていたことだと気づきます。結局、自我とは決して敵なのではなく、単なる思考だったと気づくことになるのです。

自我も含めて、この世界のすべてを思考だと見破るとき、自我を否定することなくおのずと自我から解放された視点に戻ることができるのです。

そうやって、自分(自我)から解放された自己の本質が、それ自体に気づくことになるのです。それこそが、究極の癒しであり、本当の救いなのです。

「気づき」そのものがそれ自体に気づく

子供の頃から、ちょっと変なことをそこそこ真剣に考えるようなところがあったのですが、今になってみるとそうした生まれながらの習性がとても役に立っています。

例えば、自分の目で自分の瞳を直接見ることは不可能なんだなあと考えていたことがありました。その時には、ただそれだけだったのです。

どう逆立ちしたところで、瞳がそれ自体を見ることができないということが、どういうわけか心に引っかかっていたのです。こんなことを考えるのは子供だからと思われるかもしれませんね。

けれども、実は年齢を重ねた今でもやはりそんなことを時々考えているのです。そして、今では原理的に見ることが不可能だというところに、真実が何気なくその姿を露呈しているということに気づいたのです。

私たちが暮らしているこの世界は、いわば分離の世界と言えます。あらゆるものが、それ以外から分離して存在しているからです。

その分離がベースとなって、主体と他者があり、その間で見ることや聞くことといった知覚が機能するわけです。いつものように、真実とは全体性であるということからすると、知覚は機能しません。

つまり、自分の目でそれ自体を見ることが不可能であるというところに、真実が口を開いていてくれるのだと分かるのです。真実とは究極の一人称だということは以前のブログでも書きました。

私たちは周囲の音を、鼓膜の振動によって聞くことができるのですが、その鼓膜の音自体を聞くことはやはりできません。なぜなら、そこに本質があるからです。

あなたの手の人差指の先を使って、絨毯や畳の上をなぞってみて下さい。絨毯の毛足の柔らかさや、畳の質感が指先に伝わってきますね。

けれども、どうやっても指先そのものの手触りを、その指先そのもので感じることはできませんね。そうやって、知覚が不可能な一人称こそが、真実の入り口なのです。

真実は、この分離の世界においてもごく普通に私たちにその姿をちゃんと見せてくれているということです。私たちが「気づき」とか、「覚醒」などと言っていることも、本質的には気づく何者かがいるわけではありません。

「気づき」そのものが、それ自体に気づくということです。