「祈り」と「心配」

私たちの心の中には、自分が大切だと思っている人やモノを守りたいという根本的欲求がありますね。これは、動物的な本能と言ってもいいと思います。

カンガルーのお母さんが、我が子を自分のお腹についている袋の中にかくまって守るのもそうですし、幼い子を守るために外敵と命がけで戦う動物は沢山います。

けれども、人間である我々はそうした動物的な防衛本能だけではなく、心理的にも守ろうとします。どの親だろうと、我が子に幸せな人生を生きて欲しいと願うのはそのためです。

こうした気持ちは、「祈り」と呼んでもいいかもしれません。「祈り」には、否定的なエネルギーがありません。なぜなら、「祈り」の原動力は愛だからです。

ところが同じ守る気持ちであっても、「大切な人に苦しんで欲しくない」となると、実は「祈り」とはまったく違う心理状態となってしまうのです。

つまり、大切な人を守りたいという気持ちには二種類あるということです。愛による「祈り」と、恐怖による「心配」です。でも、往々にして私たちはこの二つを混同してしまうのです。

実際、この二つはいつも非常に紛らわしいので、気が付くと心配している気持ちを祈りによって払拭しようとしてしまうこともあるのです。。

たとえば、家族が病気にならないようにとか、子供が試験に落ちないようにと祈るなど。これは、まさしく祈りと心配をごちゃ混ぜにした結果なのです。

繰り返しますが、「祈り」には恐怖というネガティブなエネルギーが入る余地はありません。それは不安とか心配とは無縁のものです。

大切な人のことを心の中で想うときには、ただ「祈り」に意識を向ければいいのです。それが、純粋な愛なのですから。心配は、自分の心の中にある恐怖や不安を大切な人に投影した結果なのです。

祈りも心配も、そのまま大切な人へと必ず届きます。あなたはどちらを本当に届けたいですか?

心配よりも可能性に目を向ける

私は子供の頃、ちょっと考えられないくらい極端な偏食でした。固いものを噛んで食べるということ自体があまり好きではなかったのではないかと思えるくらいです。

食べられるものがほとんどなく、卵焼きとヨーグルトばかり食べていたのを覚えています。母親はきっととても心配していたことでしょうが、そんなことにはお構いなく、嫌いなものを口にしたことはなかったのです。

でもそれは私にとって、とても幸運でした。というのも、無理やり嫌いなものを食べさせられると、悪くするとその体験が一種のトラウマとなって、大人になってもずっと嫌いなままになってしまう可能性があるからです。

私は食べ物を強制されたことがなかったので、自然と大人になるにつれていろいろなものを食べられるようになりました。結局、人は成長するにつれて、ごく普通になっていけるのです。

食事にまつわることでは、もう一つあります。小学3年生くらいになって、ようやく少しづつ給食を食べられるようにはなっていったのですが、特別好きではなかったせいか、食べる速度がクラスで一番遅かったのです。

けれども、これも誰からもせかされたり、否定されたりすることがなかったので、そのことで辛い思いをすることはありませんでした。中学生になって、体力がついてきたころには人一倍早食いにもなったのです。

もしも、自分のペースを否定されていたら、きっと焦ってしまうクセがついてしまっただろうと思うのです。子供が独自に持っているその子のペースは、とても大切な個性として尊重してあげることが大切なのです。

小学生のころの別のひどいエピソードを思い出しました。2年生か3年生のころ、図工の授業で粘土を使って仮面を作るということがあったのですが、いつものようにペースが遅かったのです。

というよりも、授業が終わる5分前になっても私は何もできていませんでした。何を作ろうか考えている間に時間が経ってしまったのですね。

それを見かねた担任の先生が、こんなのはどう?といって、私の粘土で確か悪魔のような仮面を一分くらいでちゃちゃっと作ってしまったのです。

私はあっけにとられていたものの、それを完成品としてずうずうしくも提出したのでした。なんと、それは図工の先生によって、優秀作品として展示されたのです。

夏休みの自由研究の宿題を丸ごと友達のお兄さんに頼んで作ってもらったこともありました。こんないい加減な、ずるい子供だったのですが、誰にも否定されたことがありませんでした。

今もずるいところは沢山あるかもしれませんが、かといって社会性がない大人になったとは思っていないのです。子供のときに、ちゃんとした大人になれるのかと親が心配してしまうことはよくあることですね。

けれども、否定さえしないであげることができたら、その子は間違いなく足りないところを自ら補正していくことができるのです。

心配するよりも、子供の可能性のほうに目を向けてあげることができると、その子供の未来には大きく羽ばたくチャンスが広がるはずですね。

お金の功罪

ほとんどの人は、お金をたくさん欲しいと願っているはずです。お金さえあれば、欲しいものは手に入れることができるし、生活の心配をする必要もないからですね。

お金さえあれば、嫌いな上司のもとで、我慢しながらいやな職場で仕事をする必要もなくなります。もっとお金に余裕があればと思うのは、無理もないことです。

私自身も、どこかに当たった宝くじでも落ちてないかなあ、などと都合のいいことを考えていたりします。お金で幸せが買えるとは思ってないにせよ、金持ちにもなってみたいと思わない人はいないでしょう。

けれども、お金が有り余っていると、都合の悪いことから目をそらしたまま生きていく傾向が強くなるのです。なぜなら、お金を使ってレジャーや気晴らしで人生を費やし続けることができてしまうからです。

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、裕福な方も確かにいらっしゃいます。でも、その割合は少ないかもしれません。

一生困らないだけの財産をお持ちのクライアントさんもいらしたことがありましたが、それはとても稀なことです。その場合には、ご本人が大きな不自由を抱えていらしたという事情がありました。

一般的に考えて、金銭的に何の不自由もない人は、心の癒しに前向きとは言えません。わざわざ面倒なことをしなくても、面白おかしく生きていけるような気がするからです。

明日のパンを買うお金がないようでは、今度は癒しどころではなくなってしまいますが、ちょうど適度というのか、お金がもっとあったらセッションにもっと通えるのに、というくらいがちょうどいいのです。

一度のセッションが貴重に感じられるでしょうし、そうなるとセッションに向ける気持ちが強くなるからです。さらには、お金が欠乏することへの恐怖から逃げずにいることで癒しは進んでいくのです。

そういう意味で、私はこの仕事を通して、お金は心の癒しととても深い関連を持っていることを知りました。お金は生きていけるだけあればいいのです。

そしてさらに、癒しが進むとよりお金を手に入れるようになったとしても、もう大丈夫。そのことで、自己防衛がまた強く復活することはなくなるからです。

自分の本質は微動だにしない

今こうしてパソコンに向かってブログを書いているとき、思考は緩やかに流れています。周囲が静かであるということも手伝ってか、静寂という本質と繋がっているという明らかな感覚があります。

静寂さには、前後左右上下、そして位置も大きさも何もありません。その何も無さが変化するということは不可能なことですね。そのことを、思い出すたびに検証することが癖になっています。

たとえば、最近では毎朝のようにプールで泳いでいるのですが、その時は自分の身体がうつ伏せの状態のまま、水の滑らかさの中を移動していることに気づいています。

けれども、それと同時に今この瞬間の静寂さと全く同じものを感じています。それは、全く同じということではなくて一つものなのです。

パソコンの前にすわって、静かに思考を見ているこの瞬間と、両手両足を使ってクロールしている瞬間の両者の静寂さが、一つものであるということです。

静寂さは動くことすらできません。本質とは、すべてが不可能であるということでもあるのです。不可能性とは神の属性と同じものですね。

神は考えることもできないし、意志を持つことも、痛みから逃れることすらできません。不可能とは、万能ということと何の違いもありません。

話しを元に戻すと、スポーツクラブで水泳をし終わった後、サウナに入るのが日課となっていますが、あの100℃の温度の中にいて、暑さと争わないようにしているときにも、やっぱり今と同じ静寂があることに気づきます。

実は私たち一人ひとりが宇宙の中心です。この宇宙を支えている静寂さこそが、あなたの本質なのです。あなたの肉体が消滅しても、本質は今この瞬間の静寂さのままに在るだけです。

だから、あなたはどこかへ行くわけではなくて、どこへも行けないのです。あなたの静寂さという本質はまったく微動だにすることはないのですから。

「我(われ)が儘」の勧め

「我が儘」な人というのはどこにでもいるものです。私の心の中にも、たぶんに「我が儘」な要素が含まれていることは、幼いころからよく知っています。

「我が儘」というのは、自分勝手で人の気持ちを無視したり、自分の気持ちだけを押し通そうとするという意味がありますね。嫌われるタイプの典型だと言えるでしょう。

けれども、「我が儘」の中身をよく見て見ると、大きく二つの要素から成り立っていることに気づきます。一つ目は、「我(われ)がまま」ということ。つまり、自分のままであるという意味。

自分そのものであって、それを修飾したり隠したりしないということ。自分のあるがままの状態と言ってもいいかもしれません。自分以外のものに迎合したり、無理に合わせたりしない素直な自分の姿です。

誰でもそんな風に生きることができるなら、きっとストレスから解放された清々しい人生を手にすることができるはずです。それを邪魔するのは、唯一幼いときに作った自己防衛システムなのです。

そして、「我が儘」のもう一つの要素は、人の気持ちを受け入れないということです。自分を守るために、自分の正しさにしがみつき、他人の不正を攻撃するわけです。

そうした恐れによって動かされている心は、誰かを受け入れようとは決してしません。頑なに心を閉ざして、自分の意見と異なる他人の思いや気持ちを否定してしまうのです。

この二つ目の要素ばかりが目立ってしまうために、「我が儘」というものがネガティブなイメージに固定されてしまったわけです。

けれども、一つ目の要素である、「我(われ)がまま」の部分と、人の気持ちを受け入れるということを両立させることは、決して不可能なことではありません。

人が恐れを受け入れて、無防備さが全面に出てきたときには、自分の在るがままでいられると同時に、相手の気持ちを尊重するようになるからです。

「我(われ)がまま」でいることは、本来無防備さの証でもあります。防衛をしない心は、必然的に自分のあるがままを受け止めて、自然体でいられるからですね。

無力感と戦わない

幼い頃に私たち誰もが心の底で感じていること、それは無力感です。それは、あまりにも当然のことなのです。なぜなら、ほんの2歳くらいのときに自意識ができてしまうからです。

つまり、満足に話すこともできず、思うように自分の身体を使うこともできないような時に、自分がここにいるという自覚がやってきてしまうわけです。

周りにいる大人たちと自分を比べたら、どうしようもないでくの坊に自分を見てしまうのも当然と言えますね。自分には、できることよりもできないことのほうが圧倒的に多いのですから。

そして、自分にはできないというその無力感が最大に発揮される領域は、自分以外の誰かのことを助けてあげることができないというところです。

幼い子供は大好きな人が笑顔でいて欲しいと本能的に感じています。小さな子はみんな、お父さんやお母さんの穏やかな表情に自分自身の安らぎを感じるからです。

勿論、残念ながらいつもいつも両親の心が平安であるというわけにはいきません。二人がいがみ合ったり、両親が元々抱えていた不安を露出したりするときがあるはずです。

子供は、その否定的なエネルギーそのものにも傷ついてしまいますが、それと同時にそれを何とかして助けてあげようとして、それができないと分かって自分の無力感に気が付いてしまうのです。

無力感は、罪悪感や自分への存在否定、あるいは悲しみなどの感情として心の中に蓄積していってしまいます。その結果、自分の力で自分は無力ではないということを証明しようと必至になるのです。

結局、大人になってふと自分の頑張りの原動力を深く見つめてみると、自分はダメではない、無力ではないということをこの社会で証明することだったと気づくことになるのです。

あなたの心の奥にずっと昔からある無力感を、正面ど真ん中から見てあげることです。それを否定も肯定もせずにただそのままを受け入れることです。

そうやって、かつて必然的に作ってしまった無力感と戦わなくなれたとき、あなたの人生の目的が自然と変わり始めます。あなたは、どんなことも証明する必要など、最初からなかったのですから。

困ったときこそ大チャンス

幼いときに、不運にも親の精神状態が非常に悪くて、甘えることも信頼することもできずに過ごしてしまうと、当然ですがとても強力な自己防衛システムが、自覚のないままに作られてしまいます。

そんな状態では、幼い子供は周りの環境が気に入らないと文句ばかりを言っている場合ではなくなります。そんなことをしても、自分を救うことができないと理解するからです。

誰かに頼ろうとしても、それが叶わないことだと悟れば、自分の力で何とか生き延びる術を探り当てて、必至になって自分を守ろうとするようになるのです。

その自己防衛の方法は様々ですが、泣き言を言わずにすべてを自分の内部で処理してしまおうとするなら、自己否定感を用いるのが最適なのです。

自分がダメだからとか、自分が周りの期待に応えられていないとか、自分が弱いので誰かに迷惑をかけてしまっているなどといった根も葉もないウソで自分を責めるのです。

それを力いっぱい続けていけば、自分の中の怒りや不満に翻弄されることがなくなるのですから。いつも誰かに気を使って、相手の気持ちを優先して場を丸く収めるようにしたり。

そして当然のことながら、自己否定感は大切な自己表現や感情表現を抑えることにもつながります。一体、自分の本当の気持ちは何なのかも分からなくなってくるでしょう。

自己否定にばかり重きを置くことで、自分の正直な気持ちや感情を抑圧してしまうからですね。こうなると、あるとき急にそれまで頑張れていたことができなくなってしまいます。

やる気がなくなり、身体が思うように動かなくなってしまいます。それが鬱症状の典型的な状態です。それまでのあまりの自己犠牲に対して、防衛本能が今までの生き方に強制ストップをかけたわけです。

そのときこそがチャンスです。自分の心がどのような経緯で出来上がってきたのか、なぜ自分はゆったりと穏やかに生活ができないのか、落ち着いてその原因を突き止めることです。

一人でできない場合には、プロのセラピストに協力してもらうことも必要かもしれません。いずれにしても、困ったときが大チャンスですね!

「ありがたみ」に意識を向ける

以前に、熱帯雨林の中で戦い続けている兵隊さんたちが、一番欲しいものは雨をしのげる屋根だと言っていたというのを聞いたことがあります。

一日中雨に濡れようと、敵に打たれて死ぬよりはいいと思うのが普通ですが、来る日も来る日も土砂降りの中で仮眠することを考えれば、どれだけ屋根が欲しくなるかも分かるというものです。

私たちは、屋根がなければ困るということは勿論理性で十分に理解して生活してますが、屋根のことを喉から手が出るくらいに欲しい、屋根が本当にありがたいと実感したことはあまりないかもしれませんね。

昨年末にオフィスの引越しをして、新しいマンションには駐車場がなくて、近隣を探してもあまりにも高額過ぎて手が出せず、仕方なくバスで通勤している時期がありました。

それまでは、マンションの地下に駐車場があったので、雨にも濡れずに出かけることができたのですが、ちょうど真冬の時期のバス通いはなかなか辛かったです。

しばらくして、そこそこの価格の駐車場が偶然?にも見つかったおかげで、クルマ通勤ができるようになったときには、本当に駐車場の有難さを痛感したものでした。

いつも不自由なく使えているものが、突然なくなったときに気づくありがたいという思い、これはとても貴重な体験ですね。

普段から、何気なく使っている身の周りにあるもの、あるいはいつもそばにいてくれる親しい人たちのことを、当り前のように思ってしまう傾向があります。

いつも通っているスポーツクラブの困った点を指摘しあって、みんなで愚痴ってるうちが花で、そこが倒産してしまったら困るのは自分たちなのだと、常連のみなさんと時々話し合ったりしています。

何かが足りないという欠乏感に意識を向ける代わりに、時々は当り前と思っているあらゆるものに「ありがたみ」を感じて感謝の念を抱くのもいいかもしれませんね。

他人の評価はあてにならない

私たち人間とそれ以外の動物との一番大きな違いは、人間だけが他人の視点から見た自分の姿をイメージすることができるということです。

勿論実際に、他人の視点に立つことはできませんので、あくまでも想像することができるということですが、それこそが自我の始まりなのです。

自我はいつもそうやって、自分は他人からどう見られているのかということを気にして生きています。なぜなら、それだけが自分像というものの根拠になるからです。

他人の視点を想像することなしには、自分像をこしらえることもできないのですから。けれども、ここで忘れてはならないことは、イメージは事実ではないということです。

自分とはこういう人物だというイメージは、実際に他人が評価する自分という人物とは違うかもしれません。だからこそ、時々あなたって○○な人だよね、と言われて自分が抱えていた自分像との違いにびっくりすることもあるのです。

残念ながら、どれほど努力をしても、私たちは誰もが他人が自分をどう見ているのかということを、正確に知ることは不可能なことなのです。

さらに付け加えると、ある人があなたという人物をどう評価しているかというのは、実はあなたの実態というよりも、その人の心の中身によって投影されたものであるということに気づくことです。

だから、あなたを好きになってくれる人がいれば、好ましく思ってない人だっていて当然なのです。誰も、本当のあなたを真に知ることはできないのですから。

それならば、もう他人の目を気にするのはいい加減にやめようではないですか!あなたがどんな人であれ、どういう生き方をしようと、他人は自分に都合のいいようにしか評価をしないのです。

他人からの評価を心の支えにするなど、もっての他としか言いようがありませんね。あなたは、いつだってあなたらしくしていればいいのです。それが無防備、つまり愛への道なのです。

頑張るための原動力

私たちは概ね、努力すること、弱音を吐かずに頑張ることが、この世界ではすばらしいことだと教え込まれてきましたね。表面ではそんなことないと否定していても、誰もの心の奥ではそれを肯定しているのです。

自己防衛がまだしっかりできていない幼いころに教え込まれたことは、いい悪いを別にして心の中に知らず知らずのうちに入り込んでしまうのです。

けれども、本当のところ、努力したり頑張ることを支えている原動力には、大きく二種類があることを知る必要があるのです。表面的には同じでも、どちらの原動力を使っているかで、両者は決定的に異なるからです。

一つは、愛が原動力の場合です。たとえば、ピアノであの曲を弾けるようになりたいという純粋な探求心で努力してピアノの練習に励むのであれば、それは愛が原動力なのです。

その場合には、身体がいくらしんどくても、なかなか思うように上達しないとしても、練習すること自体が悦びとなるために、継続して努力できるし、心が疲れるということはありません。

一方、あの曲が弾けるようになったら、さぞカッコいいだろうなとか、弾けるようになった自分をみんなに披露したいという思いが強いのであれば、それは恐れ(自己防衛)が原動力なのです。

つまり、私たちの行動の原動力は、愛か恐怖しかありません。愛は、純粋な興味や好奇心、あるいは探求心などと表現されることが多いかもしれません。

恐怖は、自分の存在意義を高めようとする気持ち、つまり不安を安心に変えようとする自己防衛がその素顔であるということに気づけばいいのです。

もしもあなたが、自分は飽きっぽくて、努力が続かないので困っているというのであれば、それは恐怖が原動力で努力しようとしているからだと理解してください。

また、自分がいつも頑張っているのに、何だか心が満たされたことがないというのであれば、それもやはり恐怖が原動力であるからなのです。

愛が原動力である場合に限り、本人の自覚がなくても頑張り続けることができるのです。それは、もしかしたら努力という言葉とは違うイメージに感じるかもしれませんね。