すべての自分が嫌いな人に告ぐ

自分自身のことを嫌いと言って、はばからない人がいます。そんな人に、自分のどこか嫌いなのかと聞いてみると、大抵が返答に困ったりしています。

最後には、何が嫌いというのではなく、全部が嫌いだということになるのです。それを、分かりやすい言葉で表現すれば、自分の存在を嫌っているということなのです。

それは、本当は好き嫌いということではなく、存在否定をしているということなのですね。存在否定というと、何だか固い表現ですが、分かりやすく言えば自分が自分のままで、ここにいていいとは思っていないということです。

本来、存在というものは評価の対象にはなり得ません。したがって、存在を否定するということは不可能なことなのですが、そこを無理やりに否定することで最低の評価を与えているわけです。

初めて人が、自分の存在否定をするのは、100%幼いときです。そして、存在否定をしながら人生を続けていくのは到底耐えられません。そのために、存在否定していることを隠そうとします。

そして、自分という存在は価値があるのだということを証明しようと躍起になる人生がスタートするのです。それは、もう毎日が頑張って人からの高評価を得ようとする人生となるのです。

自分本来の好みや正直な自己主張などを隠しながら、周りの人の期待に応えられるようにと努力するのですから、自己犠牲を気づかぬうちに積み上げていくことになるのです。

その蓄積された自己犠牲は、必ずや怒りという感情へと変貌して心の中にたまり続けるのです。その怒りは、いつか解放されようとして本人が怒るチャンスを狙っているのです。

もしもあなたが、自分のことを嫌いと感じているのなら、それはあなたが自分自身に関心を持っている証拠です。自分に興味がなければ、嫌うことすらしないはずだからです。

嫌いは、反転させればあっという間に好きに変化することができます。だから、好きでも嫌いでもどちらでも同じことなのです。本当に大切なことは、どんな自分であろうとも、それを丸ごと否定せずに見続ける勇気を持つことです。

もしもそれができたなら、勇気などいらなかったということにも気づくことになります。あなたという人物は、本当のあなたではありません。かりそめの姿でしかないのですから。

ショックを癒す力を最大限引き出す方法

今乗っている小さなクルマの前の前のクルマは、IT関連のアメリカのベンチャー企業で働いていた頃、つまり超羽振りのいい頃に買った2シーターのスポーツ車だったのです。

ボクシングの選手がチャンピオンになって、あこがれのスーパーカーを買ってご満悦の図ってあるじゃないですか。多少レベルは違いますが、あんな感じを想像していただければ察しがつくと思います。

そのクルマをマンションの地下駐車場に停めようとして、不用意にセメントむき出しの壁にぶつけてしまったことがあったのです。

その瞬間、夢であって欲しいと咄嗟に思ったし、できることなら10秒でいいから時間を巻き戻したいと思ったのを覚えています。

やっちまったな、っていうあの感覚ですね。こういう体験というのは、できることならば体験したくないと思うのは当り前です。無駄な出費と大切にしているものに傷をつけてしまったという、何ともいやな感じが残るのですから。

けれども、今そのことをいくら詳細に思い出してみても、別にどうということはないのです。つまり、あの当時としてはいやな体験だったものが、今では何とも感じなくなっているのです。

時間が癒してくれると人はよく言いますが、まさにそれなのかもしれません。逆に、その体験をしたことで、その後別のクルマを傷つけてもあまり動じなくなったということがあるくらいです。

誰だって、経験したくないこと、体験しなくて済むものなら体験したくないと思うようなことはたくさんあります。大切な人を失うとか、会社が倒産して露頭に迷うとか、重篤な病気に罹るなどなど。

クルマをぶつけたことなど、吹っ飛んでしまうくらいのショックな体験というのは、人生にはいくらでもあるはずです。けれどもどんな体験をしようと、私たち人間の能力としてそのショックを癒す力を誰もが持っているように思うのです。

その能力を最大限使うためには、何かを体験したときにやってくる心のあらゆる反応をできるだけ自分に直面させてあげることなのです。逃げずに、すべてを無防備に見てあげること。

そうすれば、癒しは最短でやってくることになるはずです。

あなたの人生をあなたの本質に捧げる

最近よく思うのですが、私の本質は私という人物を通して、あらゆることを貪欲に感じたいんだろうなということです。体験したくてうずうずしているのだろうと思うのです。

心に浮かんだあらゆる思い、想念、そしてすべての感情などを味わい尽くしたいのです。そのための出先機関として、自分という人物が使われているのです。

その体験の中には、味わうことから逃げて逃げて逃げまくる体験も勿論含まれているはずです。逃げるという体験は、すべての人の中で日夜行われている自己防衛のことです。

それはあらゆる感情を感じないようにして、何事もなかったかのように生きることで体験することができます。けれども、自己防衛の体験はたかが知れています。

それは体験を極端に制限することになってしまうため、結局は私の本質にとっては好ましいことではないはずです。逃げずにいることで、あらゆる体験を隅々まで経験することができるのですから。

そういう意味では、誰もがその人の本質にあらゆる体験をプレゼントできるようになるといいなと思うのです。それは、動物としての本能にすら逆らうことになるかもしれません。

たとえあなたの人生が、あなたの望んだものとは違うものであったとしても、あなたは本質のためにそれから逃げずにいてあげることで、それは十分にあなたの人生の体験を堪能することができるのです。

あなたがこの社会に貢献していないと感じていても、問題はありません。その体験をあなたの本質にさせてあげているのですから。生まれてきた理由はそこにあると気づけばいいのです。

あなたの本質は、あなたの人生を体験すると同時に、他の地球上の70億人分の人生も体験している欲張りものなのです。だから、ひとりとして同じ人生を体験することはないようにできているのです。

あなたは何もせずとも、ただ一息呼吸するだけでもあなたの本質は満足しているのです。あなたの人生をあなたの本質に捧げてあげられるといいですね。

究極の一人称という真理

私たちが普段頼りにしている知覚によっては、一人称を認識することができません。知覚の能力とは、分離の世界において自己とは分離した他(対象物)を認識するためだけに、使われるからです。

つまり、知覚によって真理を認識したり、それに気づいたりすることは不可能なことなのです。肉体の目を使って、何も無さを見ることはできません。

肉体の耳を使って、静寂そのものを聞くこともできないのはご存じのとおりです。残念ながら、私たちのイメージ能力も知覚がベースとなっているため、真理をイメージすることもできないということになります。

知覚もイメージ能力も使えないところ、それがつまり一人称なのです。それこそが、真理へと繋がる唯一の道だと言ってもいいかもしれません。

真理への道、それは一人称である自己を見ようとすることです。見る方向を日常とは真逆にして、自分の方向へとどこまでも見続けるのです。

そこにこそ、知覚を越えた何もなさが広がっています。それに気づくことができるでしょうか?もしも気づけないとしても構いません。それは能力の問題ではなくて、人間のあなたが気づきの邪魔をしているだけです。

逆にもしも、あなたがそれに気づいたとしても、奢ることはできません。なぜなら、その広大な何も無さに気づているのは、人物としてのあなたではないからです。

私たちは、たとえ自分がつまらない一人の人間だとしても、修行を積めば真理に気づけると思っています。けれども、真理に気づくのは決して私たち人間ではなく、真理そのものなのです。

私たちにできることは、所詮自分を少しでも向上させようとすることか、あるいはそれこそが真理から遠ざかる最大の要因だと気づくことくらいなのです。

私の身体が朽ち果てて、みなさんの知覚によって私が死んだことになったとしても、私という究極の一人称においては、今あるがままの真理が永遠に続くだけなのです。

潔い亡くなり方

2~3週間前のことですが、いつもスポーツクラブで朝お見かけするお爺さんが亡くなったのです。そのつい2日前にも、何気ない会話をしたばっかりだったのに。

朝一の常連の方々は、みなさんそれなりにびっくりしたのは勿論ですが、それでもどこかさっぱりしているというのか、とりたてて悲しむということもないのです。

私自身も、その人がサウナを利用されない方だったので、それほどお話しすることもなかったのですが、ほぼ毎日お顔を拝見していたので、ああもうお会いできないのだなという気持ちにはなりました。

大動脈瘤破裂だということを聞いて、あっという間に亡くなったのだと分かって、かえって潔い亡くなり方だなとも感じたのです。

ご本人は、以前にも一度同じ病気をされたことがあったそうで、検査のときに大きな病院で精密検査を受けるように再三言われていたのを、面倒だといって放っておいたとも聞いています。

実際、やはり朝毎日のようにお会いする老齢の紳士が、「大往生だあ!」と何度も繰り返していたのが印象的です。私も同じ気持ちでしたので。

勿論、ご家族の方々の気持ちと単なる顔見知りの私たちの感覚には、当然のことながら違いがあるのでしょうけれども、それでも何か本当に潔い感じがするのです。

私も死ぬときには、そのような死に方がいいなと密かに思っています。死んでいなくなって、悲しいと思われるよりも、周りの人たちの心が清々しい方がいいと思うのです。

プールの受付のやさしそうな女性に、「○○さん亡くなったの知ってる?」と伝えたら、びっくりして涙ぐんでいたようですが、それでも次の日からは何も変わらないいつものプールの風景が戻っていました。

そんなのがいいですね。自分が死んだ後も、誰かの心の中に強く記憶として残っているとかいうの、あまり好ましいとは思いません。

どちらといえば、完全に存在を忘れ去れたほうがいいようにさえ思います。いなくなったものは、いないのですからそれが一番いいのです。

この自分が完全に消滅したときには、間違いなく真実の自己の姿が現れるはずです。それもまた、楽しみでもありますね。

年齢とは身体に対してだけのもの

私の毎日というのは、そのほとんどが自宅とスポーツクラブとオフィスの間を行ったり来たりのイヤになるほどのワンパターンなのです。

滅多に外出することはありません。先日本当に久しぶりにちょっと遠方まで出張セッションに行きましたが、それが今年電車に乗った最初で最後になるかもしれません。

そんな私の退屈過ぎる毎日ですが、今日は珍しく奥さんの実家に来ています。慣れない事をしたせいなのか、加齢による身体の衰えを見事に感じてしまいました。

自宅から200km強の殆んどの距離が高速道路を走るのですが、たまたま集中工事と重なったこともあって、疲労困憊してしまいました。

クルマの運転は大好きなはずだったのが、もういけません。首は凝るは、腰はだるくなるはで、もう運転は向いてないとまで感じたほどでした。

さらに普段は決してやらない柿の実をもぐ荒技を、足場の悪い場所で奮闘したせいで、今全身の疲労感と戦っています。

おまけに力技を少々。太い木をノコギリで切ったり、廊下に手すりを新しくつけるため、木ネジを受け付けないくらい硬い柱と電動ドライバー片手に戦ったり。

人間、身体の老いには勝てないのですね。残念ですが、これが現実です。けれども、心は老いるということがありません。

老いるどころか、以前よりもより人生を気軽に楽しむことさえ出来るようになるのですから、確かに生きることは面倒くさいことですが、歳を重ねる意味はあるかもしれません。

さらに、何歳になろうとも、自分の本質である全体性に意識を向けていれば、それが不変であることにも気づいていられます。

みなさんに知られている私の年齢は、ただ身体にとってのものであり、心の年齢は恥ずかしながら青年のままであって、また本質は年齢など超越した実在なのですから、何という幸運なのでしょう!

心の空間について

10年間オフィスとして使っていたマンションを引き払い、今のオフィスに引っ越してきてセッションを開始したのが、昨年末の12月20日でしたから、今日でちょうど10ヶ月経ったことになります。

以前のオフィスと比べてとても狭いので、部屋の中にずっといると飽きてしまうという欠点がある反面、仕事場として割り切って使えるという利点もあります。

部屋代は1/3以下になりましたし、事務所仕様なのでシャワーすらついていないシンプルさも気に入ったのですが、長くいるとやっぱり不便は不便ですね。特に今年の夏は暑かったですから。

けれども、一番感じていることは、人は必要なだけのスペースが確保できればいいというものではないということです。今の部屋の広さは、セッションをするには手狭ではあっても特別問題はないのです。

ところが、何というのか広さに遊びがないのです。無駄な空間というのは、人間の感性にとっては必要なものなのかもしれませんね。

こんな部屋なのですが、それでもここが心地いいと言って下さったクライアントさんもいらっしゃいました。きっと、それはご自身が心をオープンにして私と会話することができたことで、清々しい気持ちになることができたからだと思います。

確かに環境は大切です。快適で居心地のいい空間は大好きです。けれども、本当に大切なのは、目には決して見えない心の空間の方かもしれませんね。

あなたの心の空間には、快適な広がりがありますか?狭くなってはいませんか?何か不愉快なものに占領されたりしてはいませんか?

いつもご自分の心の空間に意識を向けていてください。そして、どんなものがあろうと、それから目を背けずに見てあげることです。あなたの大切な場所なのですから。

神経質な人たちとガサツな人たち

あるバラエティー番組で、極度に神経質な人たちと、それとは対照的にガサツな人たちとをそれぞれチームに分けて、互いの言い分をぶつけ合うという内容のものをやっていました。

公平に見ていて、どちらの言い分にも「確かにそうだ」と頷けるところがあって、とても興味深かったのです。私自身は、どちらかというと神経質チームの方に入るのですが、それでも勿論ガサツな一面も持ち合わせています。

誰だって、そんなに簡単にどちらかに分類されるわけではないでしょうけれど、それでもどちらかが優勢なはずです。自分の立場を分かって両者の主張を聞いているのは、本当に面白いものですね。

神経質チームの言い分のほとんどは、ガサツチームへの否定的な態度として現れるのですが、ガサツチームは何を言われてもそれほど堪えた様子もなく、面白がっているだけで、ちょっと大人の風情さえ感じさせます。

したがって、文句が多いのは明らかに神経質チームであり、彼らのほうがより子供っぽいという印象を受けますね。ガサツチームは、それほど強い主張はしないものの、神経質チームの生き方では不自由だろうという真っ当な意見を持っているのです。

どちらの生き方がより楽かといえば、間違いなくガサツチームに軍配が上がるのでしょうけれど、それだけで話しを終えたくはないのです。

神経質チームは、ガサツチームに比べて、基本的に情報量が多いのです。つまり、知覚が敏感であるためにより強い反応を起こしてしまうため、生きるのが厄介なのです。

私が思うに、神経質チームの人たちが心の癒しを進めていったときには、きっとガサツチームの人たちのような自由さ、あるいは無防備さを体得することは可能なはずです。

そして、そこに留まらずに、もっともっと無防備な人生を生きるようになれるはずなのです。その時には、かつての敏感さゆえの苦しみから解放されるだけでなく、繊細さを持ち合わせた愛で人のために生きる人生へと向かうこともできるのではないかと思うのです。

認識が事実をでっち上げる

目の前に一冊の本があると仮定します。その本は、あなたのお気に入りの本の中の一つです。ハードカバーで、持った感じはそこそこの重量感があるかもしれません。

表面は光沢があって、清潔感溢れる色合いです。大好きな本なので何度も読んだせいか、新品というほどにはきれいな状態ではないものの、どの角度から見ても魅力的な体裁なのです。

本には、それぞれに独特の香りというものがありますね。それはきっと紙質からやってくるものもあるでしょうし、印刷の匂いもあるのでしょう。大好きな本なら、その香りはあなたにとってきっと香しいもののはずです。

その本の中には、あなたを心の底から感動させるすばらしい物語が閉じ込められていて、ひとたびあなたがページをめくれば、あの感動が蘇ってくることをあなたは知っています。

その本に対してあなたがこのような印象を持っていたとしても、それが事実あるいは真実ではないことは明白です。なぜなら、上記したことのすべてが、あなたという存在から発せられたものだからです。

たとえ他のたくさんの人たちも、あなたと同じような印象をその本に持っていたとしても、それは人数が増えただけであって、それを事実と呼ぶことはできないのです。

目を閉じただけで、本の体裁や光沢などあらゆる外観は消滅してしまいます。触れることがなければ、本の質感すらなくなってしまうはずです。

勿論、その本の中にはどんな物語もあるはずもありません。ただ印刷された文字とおぼしきものが詰まっているだけです。そして、最終的にはそこに本があるということさえ不明であり、事実でも真実でもないのです。

このようにして、私たちは何かを認識することができるとしても、その何かを直接知ることはできません。つまりは、あなたは本当は何も知らないし、事実というものがあるということさえ事実ではないのです。

つまり、あなたが知っているこの世界というのは、あなたの認識によって作られたものに過ぎないということです。あなたが、この世界を美しいと感じようが、醜いと思おうが自由ですが、それはあなたの心そのものだということです。

そして、私たちの本当の姿はこの世界の中にあるのではなく、認識を遥かに超えたところにこそ在るのです。

○○恐怖症の原因

ライオンに追いかけられたら、誰だって怖いですし、ビルの屋上の縁を歩けと言われても、怖がるのは当然のことですね。なぜなら、物理的に命の危険を察知するからです。

一方、ライオンの写真を見ただけで怖がる必要はありませんし、高層ビルディングの写真を見ても怖いと感じることはないはずです。命に別状はないと分かっているからです。

けれども、本当は危険ではないと理性では分かっていながらも、実際に恐怖心を感じてしまうことがあるのです。そういう症状のことを○○恐怖症と呼んだりしますね。

誰もがそれほどには怖がることもないことに、異常とも思えるくらいの恐怖心を感じてしまうのですから、本人としてもわけが分からないし、場合によっては何とも不自由な生活を強いられることになってしまうのです。

そうした、○○恐怖症という症状を癒すためには、その恐怖が一体どこからやってくるのかということを突き止める必要があります。

たとえば、閉所恐怖症というものがありますね。エレベーターなどの密閉された空間に自由を奪われて入っているような場合に、死ぬほどの恐怖がやってくるわけです。

その恐怖はその瞬間に感じているのですが、実際にはその恐怖は過去からやってきているということに気づくことです。感じているのは今でも、その感情の出処は今にはないのです。

また、今感じているひどい恐怖感が、実はまったく縁もゆかりもない過去のある事象に関連した恐怖だったということもありますし、このケースのほうがむしろ一般的かもしれません。

つまり、○○恐怖症の人がそれを恐れている本当の理由は、それとは無関係な過去の何かからやってくるということです。その場合、荒療治によってその恐怖症を克服したとしても、元が残っているわけですからまた別のネタを使った恐怖症を作り出す可能性もあるのです。

○○恐怖症は、あなたが過去に感じたはずの耐え難い恐怖を抑圧した結果起きるのです。あなたがその恐怖から(自覚のある無しにかかわらず)逃げれば逃げるほど、過去の恐怖があなたを追ってやってきた結果なのです。

そのことに気づき、表面化している恐怖症を克服しようとする代わりに、逃げ続けてきた闇に焦点を当てる作業を始めることです。もしも、今はそれが無理だとしても、きっといつかは逃げずに見ることになるので大丈夫です。