「ノー」を言うことの大切さ

私たち一人ひとりの人格形成というのは、生まれてすぐに開始されます。初めは泣くことによって、自分の欲求を表現するというものです。単純ですが、ここからスタートするのです。

そのうち、自分にとって心地いいものを欲しがり、いらないものには容赦なく「ノー」を突きつけるようになるのです。この、「ノー」という表現こそが最も大切な人格形成の基礎なのです。

なぜなら、「ノー」がその子の個性を守ることになるからです。親の好みや考え方、ルールが子供に与えられたときに、もしも「ノー」を言えなければ、その子の個性は闇の中に葬られることになるからです。

私たちは、幼いときに全方位に対して「ノー」を表現することで、自分の周りに「ノーの壁」を作り、大切な自分だけの個性を守ろうとするのです。

「ノーの壁」の内側が自分の個性であり、幼いうちにそこをしっかり守って誰からも侵略されないようにする必要があるのです。その内側が自分の人格を形成する大事な土台となるのです。

けれども、何らかの理由によって、十分に「ノー」を言えなかったり、言ったとしてもそれを受け止めてもらえないことが続くと、子供は「ノー」を言わないことで生き延びようとし始めるのです。

そうなると、大抵は親のエネルギーによって侵略されてしまうため、大人へと成長していく段階で、自分固有の好みや考え方が分からなくなってしまうのです。

最終的には、自分がやりたいこと、自分の気持ち、自分の感情、そうしたことまで分からなくなってしまうのです。自分とは誰なのか、しっくりこない人生が待っています。

幼いときに作った「ノー」を言わないで生き延びるルール、それをいまだに使って生活していることに気づき、できるところから「ノー」を表現するようにすることで、人生を変えていくことができます。

表現しないまでも、少なくとも心の中では十二分に「ノー」が言えるようにしていくことです。「ノーの壁」の内側に入り込んでしまった自分以外の誰かのエネルギーを徹底的に追い出してください。

そうすれば、あなたのオリジナルと少しずつ繋がっていけるはずです。その時こそ、自分が生きている、自分を楽しむことができる人生を手に入れることができるのです。

転移について

人と人が一緒にいて、ひどく拒絶し合わない限りは、それがどんな状況であっても、一つの人間関係であることは間違いありません。それが家族同士であっても、職場の仲間であっても、学校の友達でも。

クライアントさんとセラピストの関係というのも限定的ではあるけれど、人と人がある種の本音で繋がる経験をするのですから、それも立派な人間関係が構築されるわけです。

けれども、かなり特殊な関係性が出来上がってしまうのも事実です。なぜなら、クライアントさんは一方的に自分の心の内奥をさらけ出し、普段よりも無防備な状態になるからです。

人は防衛が減ると、あっという間にその分だけ恐怖が減少するので、恐怖に代わって愛が表面に現れるのです。つまり、心をオープンにした分、目の前にいるセラピストを信頼するのです。

そうしたことは、セラピストとしてはセッションを効果的にするためには願ってもないことです。けれども、その愛が、クライアントさんの依存心や大人の恋愛感情と重なると、厄介なことが起こってきます。

それがよく言われる、「転移」というものです。個人的にはあまり好きな言葉ではありませんが、転移は思っている以上に多発します。

クライアントさんは、自覚のないままにセラピストの全人格の一部を切り取って、自分の理想の相手として見るようにさえなることもあるのです。

純粋な愛のままでいるということは、ほとんどないに等しいでしょうね。そうなると、それは裏返ってセッションの邪魔をするようにもなってしまうのです。

なぜなら、クライアントさんは癒し目的だと思っていながら、気づかぬうちにセラピストに会うことが目的でセッションに来るようになるからです。

その場合には、セラピスト側からセッションをお断りすることもやむを得ないのです。転移の影響が去って、それでもまだセッションを受ける気持ちがあれば、その時はさらにすばらしい癒しのセッションができるのでしょうね。

あなたの人生を本質に譲る

日々、さまざまなクライアントさんとセッションを通してお話しさせていただくなかで、私たちの本質について気づいている、もしくは何となくわかっているという方が時々いらっしゃいます。

それは、簡単な検証をさせていただくことで分かるものです。たとえば、自分が肉体そのものだという根深い思いがある一方で、身体そのものではないということに気づいているということ。

そして、だとするともっとも近い表現を選ぶならば、自分は意識だということ。さらに、意識の境界を調べて見て、それが見つからないことも明らかであるということ。

それはつまり、意識には大きさというものがないということ。したがって、それは無かあるいは無限大であるということ。そこまでも分かっているということです。

そして、人によってはいつもこのブログで使っている全体性のことをしっかりと感じてもいるのです。それは明らかに、みずからの本質について知っているといってもいいのです。

それなのに、日々の生活の中に横たわる苦しみの中にいて、それに翻弄され続けている方々がいます。自分の本質に気づいているはずなのに、そのことが人生の問題を解決してくれないのです。

それはなぜなのかと不思議に思いませんか?実はそれは当り前のことで、本質に気づいたからといってそのことが直接的に問題を解決してくれるものではないからです。

気づきの効果は、間接的にやってくるのです。本質に気づいているのは、あなたではなくて本質そのものだからです。私たちのエゴは、それを自分の手柄のように横取りして、あたかも自分が気づいたようにでっちあげるのです。

あなたの本質が、あなたが望むように、あなたの人生に手を入れることはありません。あなたに特別な力を与えて問題を乗り越えられるようにしてくれるわけでもないのです。

あなたが、あなたの人生の行方をあなたの本質に譲ることです。そうした要素が増えてくればくるほど、あなたは問題を解決しようとしなくなり、その結果問題は問題ではなくなるのです。

「面倒くさい」は大チャンス

以前テレビで、矢沢永吉さんのライブツアーの様子をドキュメントタッチで放送している番組を見たのですが、彼は納得いくまでリハーサルをし、ステージでの曲順などの段取りを厳密に決めたうえでツアーを開始するのです。

けれども、ツアー中にもかかわらず、毎日終わった後反省会を開いて、何か気に入らないことがあるととことん拘って、ダイナミックに曲順をかえたり、曲の中での演奏内容を変えたりさえするのです。

本人いわく、面倒くさいかと聞かれたら面倒くさいに決まってるけど、今やらなければいつやるんだ、と明言していました。その変更の影響は、一緒にツアーに参加しているミュージシャンたちに多大な労力を要求することにもなるのです。

先日引退することを発表した宮崎駿さんの、最後の作品となるだろう「風立ちぬ」の製作現場に密着取材した番組を観ました。彼は、大抵がひどく不機嫌で扱いづらい人のように見えました。

彼の口癖が、「面倒くさい!」でした。面倒くさいを何度も何度も連発しながら、どうにかこうにか創作を続ける苦闘の毎日を送っていたんだなということがよくわかりました。

さらに彼は、「大抵、大切なことは面倒くさいものだ!」とも言っていました。彼によると、「風立ちぬ」は今までの彼の作品の中でも際立って面倒くさいものだとも言っていました。

実は、面倒くさいという心の奥には恐れが潜んでいます。立ち向かうことを恐れていると、そのことを隠そうとして面倒くさいという感覚になったりするのです。

面倒くさいからやらないかと言えば、やらずにはいられないのです。それが、彼の中の好奇心だったり、純粋な愛の部分なのでしょうね。

あなたの人生にも面倒くさいは、度々やってきているはずです。その時には、恐怖から身を守ろうとする防衛を少しでも緩めて、できるだけ無防備になるチャンスがやってきたと思うことです。

日々の「面倒くさい」を点検してみることですね。そして、面倒くさいという感覚を十二分に感じながらも、逃げずに行動することです。

そういえば、最近面倒くさいセミナーをやってないなあ…。

「和を以て貴しとなす」の本当の意味

「和を以て貴しとなす」という昔からの言葉がありますね。ネットで調べてみると、以下のようなことが書いてありました。

『人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教え。
聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉。
「和」の精神とは、体裁だけ取り繕ったものではなく、自分にも人にも正直に、不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質ではなかろうか。』

上の文章の最後の一文がとても大切なように感じます。つまり、「和」というのは単に仲良くあればいいというような安直な表面上のことを指しているのではないということですね。

自分の気持ちや言いたいことを抑えて、相手に迎合したり、相手の気持ちを尊重するあまりに本音をごまかしてみたり、そうしたことの上の平和は本当の「和」ではないということです。

それは、見せかけの「和」であり、目的は自己防衛に他なりません。自分の正しさを守ろうとしたり、相手を打ち負かすために自己表現するのではなく、あくまでも理解し合うために自己主張するということです。

争い事が嫌いというだけで、自己表現や感情表現を抑えてしまうと、いつまでたっても誰とも心からのコミュニケーションができないままになってしまうはずです。

敏感気質で産まれると、幼いころから傷つくのが怖くて、気が付くと人との関係を丸く収めようとする癖がついてしまうことが多いのです。

その結果、あまりにも自分に不正直に生きるようになってしまうために、反動として極端な感情表現をすることが起きてみたり、鬱症状に苦しむことになったりするのです。

「和」の本当の意味を再認識してみて、もしも自分は真正面から相手と向き合うことが苦手だという感覚があるのでしたら、自分がやっている自己防衛がどういうものが、点検してみることですね。

人と人は真に対等なものです。誰かに媚びへつらう必要もなければ、見下す必要もありません。ありのままの自分を丸ごとオープンにすることで、相手のこともオープンに受け入れることができるようになるのです。

そうしたうえで、初めて「和」を体験することができるということですね。

事実と思考

一般的に私たちは、自分という存在とは別個に事実というものがあると考えています。自分が生まれる前から地球があって、死んだあとも世界は続くというわけです。

そうしたことは、事実であって自分がいてもいなくても変わることはない。宇宙の歴史から見れば、自分が生まれてから死ぬまでの時間などは、ほんの一瞬だというわけです。

科学的な解釈としては確かにその通りです。そうした解釈を否定しようとしているのではありません。それが、あくまでも解釈であるということに気づいているかどうかということを言っているのです。

自分の人生を物語として見る視点を養うためには、こうしたことにはっきり気づく必要があるのです。そのためには、以下のようなことを日々実践することが有効です。

例えば、「○○は○○だ」と言う代わりに、「○○は○○だ、という思いがある」と言うようにするのです。つまり、前者は事実についての言葉であり、後者は自分の思考についての表現であり、両者はまったく違うものです。

「事実はある」という代わりに、「事実はある、という思いがある」と言えばいいのです。突き詰めていけば、私たちは純粋な客観性というものを持つことはできないのです。

客観的に見るとしても、客観的に見ているという主観がそこにあるだけなのです。何もかもが主観的であり、あなた自身の思考によってしか物事をとらえることはできないのです。

「私は女性だ」ということは、客観的事実に違いないとあなたがいくら言い張ったとしても、それはあなたがそれを客観的事実だとする思いを持っているに過ぎません。

このことを本当に理解しなければ、「自分がここにいる」ということが事実である、という視点から抜け出すことは不可能です。これも言い直す必要があります。

「自分がここにいる、という思いがある」とするのです。あなたの口から出たあらゆる言葉は、事実ではなくてあなたの思考の中身でしかないということです。

それが私たちの思考にできる最上級の思いなのです。

私たちの本質について

今日は、言葉にするのがとても難しい私たちの本質について書いてみます。「それ」は、言葉にしようとしなければ、何の努力も必要とせずに体感することができます。

でも本当は体感ではありません、。体感とは、何かを体感する自分がいるということが前提となってしまうので、そうではありません。敢えて言えば、体感そのものになるということ。

そして、あらゆるものが「それ」であって、「それ」ではないということでもあるのです。「それ」は、この宇宙に満ち満ちているとも言えるし、この宇宙を包含しているとも言えます。

本当に在るのは、「それ」だけなのですが、私たちは「それ」の上に表出するものを「存在」と感じるようにできているのです。だから、存在とは単なる表出に違いありません。

心静かにして目を閉じるだけで、「それ」そのものになることができます。でも本当は、心静かにする必要もないし、目を閉じる必要すらありません。なぜなら、いつどんなときも、「それ」そのものだからです。

私たちは、「それ」ではなかった試しがありません。ほんの一瞬たりとも、「それ」から離れたこともありません。「それ」は表出したすべての存在と密着していながら、存在自体ではないのです。

ヒックス粒子の仮説が証明されたそう?ですが、ビッグバンの直後に光の速度で動き回っていた粒子が、そのヒックス粒子とぶつかることで、質量が生まれたらしいですね。

存在する粒子に質量がなかったならば、勿論私たち人間は存在していません。すごい発見ですが、そうしたことのすべてが「それ」の上で起きたことです。

私たちの本質は、勿論粒子でもなければ時空でもありません。宇宙の物語が起きる舞台です。なんてことを、ヒックス教授にお話ししても仕方のないことかもしれませんね。

精一杯自我を抱きしめる

私たち人間は、一人ひとり立派な自我(エゴ)を持っていますね。人間以外の動物の場合でも、特に高等動物であれば、ものすごく未熟な自我はあるかもしれません。

でも話しを簡単にすれば、人類だけが、自我(エゴ)という心の仕組みを作ることになったのですが、その自我のおかげで私たちは人生という物語を深刻に受け止めてしまうのです。

なぜなら、自我の目的とは心理的に自分を何とかして守ろうとすることだからです。自分のことを、世界から独立・分離した個人という存在と思い込むのですから、その危険度は半端ではありません。

だからこそ、自我のほとんどの働きというのは、自分を守るということに注がれるのです。そのためには、恐怖や不安といった都合の悪い感情を安心に変えようとするのです。

けれども、それを恒久的に実現することは不可能であるために、自我は常に私たちを不安や不満に苛まれる状態へと陥れることになってしまうのです。

自我それ自体が自分なのだと思い込んでいる人もいるかもしれませんが、そうではありません。自我の力の及ばない自分の部分もあるからです。

その部分は、言ってみれば赤ちゃんの頃の純粋で無防備な心の部分だと思えばいいのです。どんな人であれ、その部分なしに生まれてくることはありません。

けれども、自我の発達とともに、場合によってはその純粋な部分をほとんど使わずに成長してしまうこともあるのです。そうなると、人生を楽しもうとする意欲すらなくなってしまうかもしれません。

人生を楽しむ代わりに、安心しようとするばかりになってしまうのです。自我そのものが悪いということはありません。自我がなければ、私たちは動物と変わらない一生を送ることになるのですから。

問題は、自分の内面のほとんどを自我に乗っ取られてしまうことなのです。無邪気さとのバランスが崩れてしまうからこそ、楽しむ代わりに深刻に物事を見るようになるのです。

自我を敵対視しないことです。もしも敵対視したなら、それこそが自我に乗っ取られた状態なのですから。自我をいつも見てあげて、全面的に受け止めてあげることです。

そうすれば、自我は自然と力を弱めていくはずです。なくなることはありませんので、安心して精一杯自我を抱きしめてあげて下さいね。

料金値下げの功罪

今年に入ってから、セッションの料金を大幅に値下げした状態のまま、今に至っているのですが、それによる功罪というものが明確になってきましたね。

いい点としては、当然ですが通常料金に比較すれば、ある程度は気軽に来ていただけるということです。そのおかげか、全盛期とまではとてもいきませんが、クライアントさんの数が昨年までのような低迷状態ではなくなりました。

数だけではなくて、来ていただく方々の幅というか、より若年層が増えたように感じています。いらっしゃる目的も、よりバラエティに富んだものが多くなったように感じています。

そういう面においては、興味津々でクライアントさんのお話しを聞くケースが増えたのかもしれません。人の心というのは、本当に多面的で飽きないものですね。

一方、悪い点と言っていいのか、つまり功罪の罪のほうについてですが、以前にもブログで書いたように気軽にご予約をされるためか、キャンセルが増えたということがあげられます。

それと、ホームページの内容をほとんど読まずにいらっしゃる人が増えた感じがします。たとえば、催眠療法についてほとんど知らずにやってくる方もいらっしゃるのです。

ご本人にとって、それは決してお得なことにはなりません。ただ、知らないというよりも、自分の都合のいいように勝手なイメージを作ってくるわけですが、多くの場合セッションが無駄になってしまいますね。

セッションの効果を最大限引き出すためには、ご本人の本気度を目一杯にして来ていただくのが一番です。そういう方は、料金が高額でもきっといらっしゃる方なのですね。

そういうわけで、とりあえず今年中は、今のままの料金設定でやっていこうと思っていますが、来年からは以前の状態に戻すかも知れません。

どちらにしても、お会いできる方というのは本当にご縁がある方なのでしょうね。単なる言葉だけでなく、本当のご縁というもののありがたさを最近つくづく感じるのです。

自己犠牲がインナーチャイルドを誘発する

どうも自分が思ったように生きられないとか、何だか不自由に感じているといったことがあるとしたら、それはすべての原因が過去にあると思って間違いありません。

いつも理性的な自分でいることができるなら、こうした悩みは起きないはずなのに、どういうわけか心の中の何かが自分の邪魔をするという場合、それはインナーチャイルドに巻き込まれているのです。

インナーチャイルドとは、過去に満たされずにいたときの幼かったあの自分の感情や気持ちの塊のことです。私たちの心というものは、大なり小なりそのインナーチャイルドのエネルギーで満たされているのです。

そして、ここぞというときに、インナーチャイルドが暴れ出して、理性的なあなたを乗っ取ってしまうのです。そうなったら、もう決して理性が勝つことはありません。

一体どういうときに、インナーチャイルドは暴れだすのかご存じでしょうか?もしもそのことを知っていたなら、インナーチャイルドの暴動を回避することができるはずですね。

実は、インナーチャイルドが暴れるのは、大人のあなたが自分自身に自己犠牲を強いているときなのです。たとえば、やりたくない仕事をやらねばならないとして頑張ってやっているとき。

仲良くしたくない人、嫌いな人、苦手な人と長い時間一緒にいなければならないとき。あなたが作った様々なルール、「~すべき」とか、「~ねばならない」を守りたくて、頑張っているときなど。

もうお分かりだと思いますが、自分の気の進まないような何かをするときです。さらに、本当はそれがいやなのだということを自分自身にも隠してそれを続けてしまうと、より激しくインナーチャイルドは暴れまくることになるのです。

そうなると、あなたはきっと大人気(おとなげ)ない状態になってしまうはずです。大人の気ではない、つまり大人のエネルギーではないということ、それがインナーチャイルドのエネルギーに乗っ取られているという意味です。

その逆に、あなたがただそうしたいからそれをしているという場合には、インナーチャイルドはまるでいないのと同じくらいにまったく静かにしていてくれるのです。

そういう意味からすると、あなたがあなたらしく活き活きと生きているかどうかを知らせてくれているのが、インナーチャイルドだとも言えますね。