人生は楽しむためにある

子供の頃に、家族全員でトランプをやることがあったのですが、それはもう楽しい時間でしたね。大抵は父親がどこかから仕入れてきたトランプゲームをするのですが、熱中したものです。

ところが、あれほどみんなで大いに盛り上がっていたのに、「そろそろ終わりにしよう」と誰かが言い、そうだねということであっさり終わってしまうのです。

自分が、「もう少しやろうよ」といくら言ったところでそこできっぱりと終ってしまうのでした。勿論、今考えれば親は明日朝早く起きなければとか、今日やり残した家事仕事などをやらねばと考えていたのだろうと分かるのです。

けれども、その時の自分にはなぜそれほどあっけなく辞めてしまえるのか、不思議でなりませんでした。どうして、これほど楽しいことをもっともっと続けようとしないのか、疑問だったのです。

大人になると、ゲーム以外にもいろいろな関心ごとや心配事があって、子供ほどの集中ができなくなるのでしょうね。でも、何だかそれってつまらない人生になってしまう気がしませんか?

学生のころに、曲を作って録音するという趣味があったのですが、あるとき音を何度も重ねて録音できる機材を手に入れたときに、夢中で録音をし続けたことがありました。

夕食を食べながらも作業を継続して、気が付いたときには夜が明けていたということがあったのです。それくらい、興味のあることには夢中になれるときがあったのですね。

それが社会人になると、明日の体調の心配をして、なるべく睡眠時間を取るようにと考えるようになって、規則正しい生活へと変化してしまいました。

勿論、それは責任ある社会人として心がけなければならないことではあるのですが、何かこう味気ないような気持ちにもなるのです。

節度を守った毎日を送ることは、健康面においても大切なことですが、それだけではなくて、人生はやっぱり楽しまなければつまらないと思うのです。

たまには、子供心を思い出して、自分がやりたいと思うことを時間を忘れて存分に楽しむことも大切ですね。人生を深刻なものととらえるのも、楽しむためのものととらえるのも、あなた次第ですね。

あなたの心を傷つけられるのは、あなたの心だけです

肉体が傷つくとしたら、それは勿論何らかの外的要因によってであることは明白です。身体がみずから、あるいは自然に傷つくなどということはありません。

それでは、心の場合はどうでしょうか?私たちは、心の場合も肉体と同様に外側からの何らかの刺激によって、傷つけられるのだと考えています。

例えば、誰かの心ない一言だとか、皮肉や、デリカシーのない言葉など、そういうのを言葉の暴力とも呼ぶわけですから、私たちはいくらでも他人によって心を傷つけられた経験があると信じています。

けれども、本当は違います。先に結論から言ってしまいますが、自分の心が自分以外の何かによって傷つけられるということは決してありません。

自分の心を傷つけるものは、自分の心以外にはないということです。このことを検証してみたいと思います。たとえば、ある言葉を100人の人に自分が言われた言葉として聞いてもらったとします。

結果は、深く傷ついたと感じる人もいれば、少しだけ傷ついたという人もいるでしょうし、あるいは何とも感じなかったと言う人だって出てくる可能性があるのです。

なぜこのように、受け取り手によって傷つくかどうかが決まるのかというと、その人の心の中にそれまでの過去がぎっしり詰まっていて、その過去と言葉を照らし合わせることで、傷つくかどうかをその人の心が判断しているからです。

心は、肉体のように外的要因から直接的に傷つくのではなく、外的要因をきっかけとして自らの過去の体験を基にして傷つくかどうかを自分が決めているということです。

そして、どんな心の人がより傷つきやすいかというと、それは自己防衛の程度に大きく比例するということです。つまり、より強く傷つきたくないと思っている人の心ほど、より深く傷つくことになるということです。

誰かの心を傷つけたくないとして、自己表現を抑えたり、気を使って疲れてしまうことが多いと感じているのなら、このことをしっかり思い出すことです。あなたが、直接誰かの心を傷つけることはできないのですから。

そして、あなた自身も誰かに心を傷つけられたと受け身で捉えようとしたときにも、この事実をはっきりと思い出すことです。あなたの心を傷つけられる誰かなど一人もいないのです。

あなたの心を傷つけられるのは、あなたの心以外にはありません。あなたがどれだけ、傷つきたくないと思っているかを、一度総点検してみるといいかもしれませんね。

人生という物語を愛を込めて抱きしめる

本質の自己である全体性に意識が向いているとき、一人ひとりの人生がそれぞれに違った単なる物語である、ということがよく分かります。

物語を見る目はとても優しいのです。それは、無防備な目でその物語を見つめているからです。けれども、物語であると同時に何もないということでもあります。

何もないとは言わないまでも、ただ現象が起きているというだけです。そこには、物語はおろか何の原因も結果もありません。理解を越えたところで、ただ起きているのです。

無から現象がやってきて、その現象が距離ゼロの地点で起きているのです。無からやってきた神は、きっとそうしたことを驚愕しながら見ていることでしょうね!

一方、個人としての自分は、自分の人生を物語として見ることも勿論できますが、リアルタイムでその時々に物語としてとらえることはなかなか難しいかもしれません。

誰かにクルマをぶつけられて逃げられたときに、咄嗟にそれを物語として見るのは至難の業ですね。その時には、人生の中にどっぷりと浸かってしまうのです。

それが問題なのではなく、そこから物語だという視点に戻れなくなってしまうことが、唯一苦しみを継続させてしまう原因であるといえるのです。

自分の人生も、相手の人生も、同じように愛しい物語であるとして見ることができるとき、人はより無防備になって愛を与え合うことができるようになるのでしょう。

物語の内容がどんなものであれ、それはまったく問題ではありません。それがすばらしいラブストーリーであろうと、悲惨な戦争物語であろうと、世界滅亡のSFであろうとも、構いません。

あなたは、ご自身の人生という物語をやさしく抱きしめてあげることができますか?それは、誰かを愛しさを込めて抱きしめることと何の違いもないのです。

70億個の視点

ある日ある時、神の恩寵がやってきて、自分の本質である全体性に気づいたとしても、私たちは自分の視点からものを見ることをやめることはできません。

それが終わりを告げるのは、当り前のことですが肉体の死がやってきたときだけです。それまでは、今まで通りの人生が続き、ほかの誰かの視点を使って世界を見ることはできないのです。

けれども、本質の自己はあらゆる人々の視点からこの世界を見ているということもわかっています。ここにこそ、個別性という性質が持つ矛盾を見出すことができますね。

自分が個人だと思っている思考の中においては、自分以外を客観的にしか捉えることができないように仕組まれているわけです。その性質自体が個別性というものなのですから。

仮に、Aさんがもう一人いても私自身が矛盾することはありません。不思議な話しではあるけれど、私にとってそれが不可能ではないということです。

けれども、私がもう一人いるとしたら、それは不可能であると感じるのです。なぜなら、私と同じ人物が向う側にいたとしても、そのもう一人の視点から見ることが不可能である以上、それを私だと認めることができないからです。

しかしながら、私が何人いたところで、あなたにとっては矛盾することはないはずです。それくらい、個人としての私という認識には真実を欠く性質が与えられているということです。

個人としていながらにして、同時に全体性でもあるということは、私の中で少しも矛盾することではありません。これは本当に摩訶不思議なことだと常々驚いています。

まったくもって、うまくできているものだと感心せずにはいられません。一体誰がこんなことを考え付いたのか、この世界は本当に不思議に満ち溢れています。

もしも、今回のあなたの人生が「なんだかな~」と感じるようなものであったとしても、それはそれで何も問題ではありません。あなたとは、あなたの本質が一瞬だけあなたの肉体から世界を見ている体験を指しているのです。

また別の瞬間には、この私として私の人生を生きているのです。私についても、次の瞬間にはあなたの人生を生きていると感じているはずです。

互いに、時々視点を交換することができたら、このことが本当だったと理解できるのですけれどね。そういう映画やドラマもあるようですけれど。

繰り返しになりますが、本当のあなたは少なくともこの地球上で70億人分の視点を同時に経験しているのです。すべてがあなたの本質の中で起きている物語なのですから。

「キリがいい」ことに執着しない

インターネットが普及する以前には、あまり聞かなかった言葉で「キリ番」というのがありますね。(最近は、あまり使わない言葉になってしまったかもしれませんが…)

「キリ番」とは、つまりキリのいい番号という意味で、たとえばホームページやブログなどのアクセスカウンターの番号が、100000 になったりした場合に言われるわけです。

私たちは、何となくですが、この「キリのいい」ことが好きなのですね。それは、逆を言えば中途半端が好みではないということかもしれません。

テストで99点を取るよりも、間違いなく100点のほうが気持ちがいいですし、大晦日と元旦を祝日として特別視するのだって、その年の終わりが切れ目としてキリがいいからです。

キリがいいことを好むことがいいとか悪いということはありませんが、それ以外の自分の心の声を無視してキリがいい方を選んでしまうと、問題が発生してしまう可能性が高くなるのです。

食事などで、身体はもう満腹していてこれ以上食べたくないと訴えているのに、ほんの一口だけ残すのはいかにもキリが悪いと感じて、食べてしまうということはないでしょうか?

この場合は、勿論もったいないという感覚も手伝っているかもしれませんが、冷静に考えたら身体からの訴えを優先した方が健康にいいことは明らかです。

仕事を終えて帰ろうとするときにも、キリのいいところまでやってしまおうとして、ついちょっとだけ残業をしてしまうと、別の仕事を頼まれたり、受ける必要のない電話の応対をやらされたりして、帰ればよかったと後悔するのです。

自分の中にある、キリのいい方を選ぼうとする気持ちと、キリが悪くても○○したいという気持ちの両者を、いつも天稟にかけて冷静に選択することができたら、余計な問題を背負い込むことが少なくなるはずです。

お皿に盛られた食べ物を、キリよく全部を平らげて、不健康になったり肥満になってしまったとしたら、それこそ不利益を被ることになってしまいますね。

そして、ここが一番大切なところですが、キリのいいところで人生を終えたいという思いが、輪廻転生を生み出していると私は感じています。

キリよく何かを終えるということは本質的には不可能なのです。何かをすれば、必ず別の何かが途中になってしまうからです。それが、物語を継続させる原動力なのです。

思考を未来に飛ばすことなく、しっかり今に意識を向けることでいつでも物語を終えることができるのです。それが執着のない、潔い生き方なのだと思うのです。

新人類の幕開け

先ほどあるテレビ番組で見たのですが、宇宙が誕生してから現在までの時間はざっと137億年だそうですね。それを地球上での一年に換算した結果は…。

なんと、人類が誕生したのは、12月31日(大晦日)の午後8時~9時くらいだそうです。キリストが誕生したとされる2000年余り前は、大晦日の午後11時59分50秒くらいだそうです。

いや~、なんて人類の歴史の浅いことか。でもですね、人類はこんな短期間にそれ以外のあらゆる動物と決定的に異なる進化を遂げたといってもいいのです。

それは、それまで外側の世界にばかり気を取られた毎日を送っていたものが、内側へも意識を向けられるようになったということです。

そして、自分という概念を見出したのです。自分の外側にいる人から自分がどう見えるのかということについて、常に考えるようになったのです。

つまり、一人称を意識できるようになったということです。自分という観念を持っているのは人間だけです。この飛躍的な変化は決定的でしたね。

勿論、その代償は半端ではなかったという事実も付随してしまったわけですが。要するに、人間だけが心理的な苦悩をするのは、まさにそのことが根本的な原因なのです。

けれども、これほどの代償を支払ったとはいえ、その見返りは途方もないものになる予定です。それは、私たちの本質に気づいていくことになるということです。

もうすでにその兆候が色濃く出だしていると感じます。これまで自己の本質に気づけるのはごく一部の特別な人に限られた稀なこととされていたのですが、それと同じことが一般人の間で起こりつつあるからです。

何百万年も前に発見した、個人としての自分を観るという地点から、さらにそれを突き抜けて無限の内奥へと意識を向けることによって、自分の本質に気づくことができるのです。

人類が向かうことになっているこの変化は、もう実際にそこまで来ていると思って間違いないでしょう。人類レベルでのこの変化を、歴史の生き証人としてご一緒に楽しむことにしませんか?

お金を浪費する本当の理由

お金の浪費家というのは、意外に多くいらっしゃるものですね。ご本人は自分がなぜそうするのか、本当の理由には気づいていないことがほとんどだと思います。

お金を浪費してしまう心の根底には、お金に対する怒りがあるのです。お金がいらないと思っているとか、お金を必要としていないということではありません。

お金を憎んでいるのです。その理由は様々かもしれませんが、幼いころのいろいろないきさつがあるにせよ、お金に対する復讐をし続けていると思って間違いありません。

それは例えば、生計を立てるために働いている父親が、忙してくなかなか自分の方を見てくれないとか、仕事(お金を稼ぐための)で遠くへ出張したり単身赴任などで、会うことができなかったりした場合です。

だれも何も教えなくても、父親はお金のために自分をないがしろにしていると子供は感じてしまうのです。本当は、お金なんかよりも、そばにいて温かいぬくもりをもらいたいのです。

家族みんながいつも仲良く一家団欒、楽しく過ごせれば一番いいのにお金のためにみんながあくせくして、大変そうなことを嫌っているのです。

お金なんかのために、という気持ちが強くなると、お金(お札)を心の中で破ってどぶへ捨ててやる!ということになり、それは物理的には浪費という形となって現れるのです。

場合によっては、お金に対する怒りだけでなく、お金のために自分をないがしろにした父親に対する復讐心も作られることがあります。その場合には、お金を浪費した結果、父親にお金をねだる生活が続くこともあり得ます。

金銭的に困った人生を親に見せつけることで、本人の中にいる幼い子供は仕返しをしているつもりになっているのです。本人には自覚がないだけに、なかなか解決のめどは立ちません。

何か自分は大人げない行動をしてしまうなと感じたなら、それは間違いなくインナーチャイルドに乗っ取られているからです。そのことに気づいて、そこに目を向けてあげない限り、状況は変わりません。

もしも、自分ひとりでは難しいと感じるなら、セラピストの力を借りることを一度考えてもいいかもしれませんね。

疑いの心を挟まずに祈る

今から13年ほど前のことですが、会社を辞めて、心の癒しについて深くのめり込んでいったころのことです。やれ、催眠療法だとか、ヒーリングだとか、うまくできるようになるのかどうかとか、未熟なことを考えていたころです。

同じクラスの仲間の一人と親しくなったのですが、その人が身体の病気のことでかなり苦しんでいたのです。なんとか良くなって欲しいという気持ちをいつも感じていたのです。

ある晩のこと、床について寝る直前に、「私利私欲はまったくないので、その病気についてどうしたら一番いいのか、どうか教えて欲しい」と見えない何物かに祈ったことがあったのです。

無我夢中で祈ったのかもしれません。そうしたら、自分としては幻聴かもしれないと思うのですが、ものすごい早口で、「離婚が済んでからね」という言葉がはっきり聞こえたのです。

勿論、一体何のことを意味しているのかさっぱり分からなかったのですが、そのことを本人に伝えてみたところ、離婚しようと思っているということを初めて聞かされたのです。

今思うと、その言葉どおりに、友人はその後離婚したのですが、それから少しずつ病気は快復に向かっていきました。数年後に再会したときには、驚くほど病気がよくなっていました。

私の祈りは、別に何の役にも立ってはいないのですが、熱心に祈ることで私みたいな何の特別な能力も持っていないものでも、そうした情報をもらうことができるということですね。

その後、何度かは誰かのために祈ったことがあったのですが、あの早口の声が聞こえたことは一度もありませんし、自分でも分かるのですがあの時ほどの無心にはなっていなかったと思うのです。

「この人生、祈ったところでどうもならないよ」という疑念のようなものが少しでも心にやってくると、その祈りは中途半端なものになってしまうのかもしれません。

どんな疑いの心も挟むことなく、ただただ祈ることができたなら、それは真理がやってくる場所を提供したことになるのだろうと思うのです。

その時こそは、真理の特性である絶対的な善が姿を現してくれるのだろうと思うのです。みなさんは、どう思われますか?純粋な祈りとは、神のことだと思うのです。

自分のペースがつかめてきた

わけあって、スポーツクラブに通うのを数年の間中断していたのですが、今年の2月からまた新たに再開したのですが、不思議なことに年齢は増しているのに以前よりも楽に泳げるようになったのです。

実は5月くらいまでは、いくら泳いでも何だか苦しい状態が続いていて、もう以前のようにはスイスイ泳ぐことができなくなってしまったのではないかと、人知れず悲しくなっていたのです。

人間、年齢にはかなわないのかなと。ところが、その後急にどういうわけか苦しさがなくなって、気持ちよく泳げるようになったのです。それだけではありません。

中断する前の自分よりも、より楽に泳げるようにさえなったのですから自分でも驚きです。年齢を重ねてくると、数年の年齢差というのは意外に大きいものです。

身体のあちこちが、自分のイメージ通りではなくなってきているので、水泳もそういうことで体力の劣化とともに泳ぐのが大変になったのだとばかり思っていたのです。

けれども、理由は分かりませんが、とにかく泳ぎが楽になってしまいました。そして、さらにごく最近ではわざとゆっくりと泳いでいるのに、身体が沈むこともなくまったく疲れないという状態にまでなりました。

こうなると、1000m どころか、歩くのと同じ感じでいくらでも泳げるような気さえしてきます。自分自身の体力に見合った泳ぎのペースというものをつかむことができたのではないかと思うのです。

周りで泳いでいる人たちのペースにも影響されずに泳ぐことができるようになったことも手伝っているかもしれません。ペースというのは、人それぞれ違うものですね。

それは、水泳に限らず食べる速度、歩く速度、仕事を処理する速度、あらゆることに言えます。子供のころは、親に言われたペースでやらなければと、無理に急がされたりすることもあるでしょう。

でも、自分のペースを知り、それをなるべく守るということに意識を向けて見ることはとても大切なことなのですね。毎日の生活の自分のリズムが整ってきます。

みなさんは、ご自身のペースを大切にしていますか?誰かに合わせたり、人の期待に応えようと頑張ったりしていませんか?大切なあなたのペースを守ってあげて下さいね。

赤ちゃんのままでは気づけない

いつもセッションでお話ししていることですが、人間の赤ちゃんはほかの動物と同じように、自我(という思考)がない状態で産まれてきます。

人間以外のどの動物も、自我が育たないままにその一生を終えるのですが、どういうわけか人間だけが2~3歳ころまでには、自我が芽生えてくるのです。

自我というのは、ひとりでに出来上がるものではなく、周りにいる大人たちから何度も何度も教えてもらううちに、気が付いたときには自分がここにいるという自覚ができるのです。

だからこそ、赤ちゃんのうちに山に捨てられて、偶然にオオカミに育てられた子は、人間の大人からの教えを受けないために、自我は育ちません。

幸か不幸かわかりませんが、とにかく人間だけが幼いうちに自我が発生し、それが原因となって様々な苦しみの中に放り込まれることになるのです。

そして、本人も自我も成長して大人になったあかつきには、いつか本質の自己に気づくときがやってきます。それがいつになるのかは、誰も知りませんが…。

そのときに、自分という自覚、つまり自我とは、単なる思考であって本当は人物としての自分などいないのだと気づくことになるのです。つまり、自我のなかった赤ちゃんのころに戻るのです。

だったら、なぜ赤ちゃんのままでずっといられなかったのか、赤ちゃんのまま自我が現れなければ、他の動物のように一生無邪気でいられたはずなのに、と思いませんか?

けれども、一度自我が生まれて、それからそれは本物ではないと気づくことがどうしても必要なのです。私たちは赤ちゃんのままでは気づくことができないのです。

赤ちゃんは確かに無防備ですが、本質の自己への気づきがありません。それはあまりにも曖昧な意識であり、他の動物や植物などと同じように、そのままでは気づけないのです。

自我を経由してはじめて、私たちは自分の本質への目覚めを経験することができるのです。自我が発生したことによる苦痛の代償はあまりにも大きいですが、代わりに気づきという目的を果たすことができるということですね。